バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

8月のコーディネート  ピンクストライプの夏牛首で、薄物終い

2020.08 25

山梨の特産品として知られているのは、何と言っても果樹。中でも、桃・葡萄・すももの生産量は、全国第1位であり、他にも、梅とキウイフルーツが7位、柿は10位である。その一方で、水稲は43位と振るわず、いかに果樹栽培が県内農業の中心となっているかが判る。

現在、新型コロナウイルスの蔓延が、最大の社会問題になっているが、果樹にも厄介な疫病が幾つかあり、その蔓延が、毎年のように農家を悩ましている。そして、長雨や日照不足と疫病の流行が輻輳すると、収穫には多大な影響を及ぼしてしまう。

 

桃には、葉や実に茶褐色の斑点が出て、ひどくなると穴が開いてしまう「ももせん孔細菌病」や、新葉が縮れてしまう「縮葉病」、花が腐って褐色になる「灰星病」があり、いずれも病に侵された木からは、収穫が得られ難くなる。

また葡萄には、枝や巻ひげの組織の中に細菌が潜在したまま冬を越し、それが雨季になって雨とともに葡萄の各部位に浸潤し、感染を引き起こす「晩腐(おそぐされ)病」があり、この蔓延を農家は最も恐れる。昨年は、この病が流行したことで、ここ10年で最も収穫が少なくなってしまった。巨峰やピオーネ、それに高級品種として知られたシャインマスカットも例外ではなく、病を食い止めることが、作り手にとって毎年重要な課題になっている。

天候や疫病に左右される果樹農家では、なかなか収入が安定せず、それは、作り手の高齢化や後継者不足の問題とも重なって、山梨農業の未来に大きく影を落としている。もとより、農業収入だけで生活を成り立たせることは難しく、それは年々、専業農家が減少して兼業農家が増えるといった傾向に、如実に表れている。

 

このように、「作り手が本業だけでは食べていけない」というのは、染織品を生み出す伝統産業でも同じことだ。そしてそれは、多くの職人の技術を必要とする、いわゆる「手を尽くしたもの」ほど顕著になる。何故ならば、分業であるがゆえに携わる職人が多く、そこでは仕事に見合う十分な工賃を払ってもらえない。もとより、需要は少なくなる一方で、生産数にも限りがある。従って、自分が身に付けた技だけでは、飯を喰うことが出来ないのだ。

これは職人に限らず、メーカーでも同じ構図が見られる。例えば、高級帯の製造で知られる龍村美術織物も、航空機のカーペットや新幹線、地下鉄の座席シートなど、帯部門以外でかなりの利益を得ている。おそらく、そこで得た資金が基にあるからこそ、高価な帯作りを継続出来ると思われる。

また、川島織物のように、大きい企業の傘の中に入って、製造を続ける会社もある。元々川島は、単独で一部上場していた老舗企業だったが、業績の低迷から住宅機器メーカーのLIXIL傘下に入った。単独では経営が難しいが、子会社化されて、そのグループの利益を基に製造を続けることも、心苦しいけれども、伝統産業が事業を継続する一つの方策かと思う。

 

今日は、希少な「夏牛首紬」を使って、夏の終わり・薄物終いのコーディネートをご覧頂くが、実はこの牛首紬を織り続けている会社も、本業は全く別の仕事をしている。その辺りのことも含めて、品物をご紹介していくことにしたい。

 

(ピンクストライプ 夏牛首紬  白地 唐花模様 紗九寸染帯)

牛首紬は、大島や結城、塩沢などと並ぶ伝統織物として、キモノ愛好家の間ではよく知られているものの、その生産量は年間2000反に満たず、製織しているメーカーは、僅か二社に過ぎない。流通量も少ない上に、高価なことから、消費者が袖を通しにくい織物の一つである。今日取り上げる薄物・夏牛首は、中でも生産数が少なく、特に希少品と言えよう。

 

牛首紬の故郷・白峰村は、石川県の最南部に位置し、名前の通り霊峰・白山(標高2702m)の麓。福井県の大野市・勝山市、岐阜県の荘川村・白川村が隣接する山深い村で、冬は3m近い雪に閉ざされる豪雪地帯。平坦な土地が少ない上に、寒冷地で農作物の生産が難しく、古くから養蚕を主産業としたことが、この織物を生み出した大きな要因である。

牛首紬の生産は、江戸・享保年間(1720年頃)に、粗い太糸を経糸にし、手紡ぎの屑糸を緯糸に使って、重く堅牢な紬を織り出したことが始まりとされている。江戸方面にも出荷された記録は残っているものの、しょせん農家の副業であり、生産数は年間に数百反ほどで止まっていた。それが明治末年になり、新たな紬生産工場・水上機業場が開業してから、生産数は飛躍的に増えて、その後二軒の工場が新設されたこともあり、1934(昭和9)年には、12568反を記録する。

だが戦後は急速に生産が止まり、1950(昭和25)年には、一旦織工場が全て無くなってしまう。一時は完全に廃れた牛首紬だが、昭和30年代から村を挙げて、地域振興策の一環として積極的に養蚕に取り組み、これが織工場の復活へと繋がる。1978(昭和53)年には、牛首紬技術保存会が発足して、技術の継承を組織で担うことになり、これが10年後に、伝統的工芸品へと指定される礎になった。

 

白峰村は、平成の大合併により白山市となったが、元々この村は1889(明治22)年に、牛首・桑島・下田原の三村が合併して設立された。牛首紬の名前は、この古い村名に由来している。また「牛首」という変わった地名は、白山を開山した奈良時代の修験者・泰澄(たいちょう)が、祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごづてんのう)を祀ったことで、その名前が付いた。これは、717(養老元)年頃の話として伝えられる。

 

(夏牛首紬 薄ピンクストライプ 手挽玉糸使用・玉糸機製織  白山工房)

牛首紬の特徴は、何と言っても、緯糸に玉糸を使うこと。先述したように、江戸期に織っていた紬も、緯糸には手紡の屑糸を使っていたことが判っているが、この屑糸というのが玉糸のことである。玉糸は、玉繭から取れる糸のことを指すが、そもそも玉繭とは、雄雌二頭の蚕が共同して作った繭で、養蚕をすると、生産される繭のうち3%ほどの割合で生まれてくる。

この繭は、二頭の蚕がそれぞれ糸を吐き出すことから、糸が絡まってしまい、良質な糸にはならない。つまり、玉繭が生み出す玉糸とは、規格外品・不良品にあたる。牛首紬は、いわば「厄介モノ」と呼べるような、こんな糸を使って織られているのである。

 

複雑に糸が絡まる玉繭から糸を取り出すことは、容易ではない。工程としては、まず70個ほどの玉繭を鍋に入れて煮る。80℃以上の熱湯に達したところで、素手で糸を引き出す。このタイミングは、全て熟練した職人の勘を頼りとする。この手作業を「のべ引き」と呼ぶが、反物の証紙にも、わざわざ「手挽き糸」と記載するほど、産地ではこの仕事を重要視しており、これこそが牛首紬最大の特徴とも言える。

糸枠に巻き取った手挽き糸は、水分を絞り、乾燥させた上で管に巻いて撚りをかけ、綛(かせ)にする。そしてこの座繰(ざぐり)糸は、牛首伝統の藍やくろゆりを原料とする植物染料で糸染めをするが、最近は染料の堅牢度の問題もあり、化学染料を多く用いるようになった。

 

牛首にはとても珍しい、明るく優しい色のピンク縞。さらりとした風合いで、良い着心地になるか否かは、糸質、特に玉糸の良し悪しが大きく関わってくる。

牛首紬の伝統的工芸品としての技術指定要件・告示には、先に記したのべ引きによる手挽き糸使用と共に、「引き杼(ひ)を使用する」との規定を設けている。この「引き杼」とは、経糸(生糸)を上下に開口し、緯糸(玉糸)の入った杼を左右に飛ばしながら、筬(おさ)によって打ち込み、製織する技法を指す。

以前、牛首紬のほとんどが、引き杼による手機で織られていたが、今から8年ほど前(平成25年)に、引き杼による力織機・玉糸機(たまいとばた)が開発されたことで、現在製織されている紬の多くが、機械機となった。

手機だと、筬を打ち込むタイミングや力の入り具合が、織手によって異なり、品質は安定しない。そこで開発されたのが、この玉糸機である。織機は引き杼を機械化したもので、当然ながら牛首紬の定義は満たしている。しかも、織機一台ごとに織職人が張り付き、不良糸が混ざらないように目を光らせている。

 

夏牛首の反物に貼られている証紙。認定織物保証書と白山工房のトレードマーク・角印が入った「手挽き糸・夏牛首」のステッカー。

この画期的な玉糸機を製作したのが、白山工房。二社しかない機屋のうちの一つだが、現在市場に出ている牛首紬のほとんどは、このメーカーが製織したもの。そして、玉糸機を稼働させたことで、以前より生産数は増えている。

おそらく消費者の多くが、高価な織物は、手機で一反ずつ丁寧に織り込んでいるとイメージしているはず。その「手仕事感」は、作り手も敏感に理解しており、機械機での生産はあまり公言したくないのが常だ。だが白山工房では、堂々と「玉糸機製織」を掲げて、モノづくりをしている。

もちろんこれは、この引き杼機がスグレモノだからだが、手機から機械機へと移行した大きな理由は、牛首紬製織を産業として継続するために、ある程度まとまった生産数が必要と考えたからだ。つまり機械機導入は、未来に「牛首紬」という伝統的工芸品を残していく手段だったのである。そしてそもそも、牛首紬製作に欠かせない20ほどの工程のうち、織工程を機械機にしたとしても、その価値はほとんど変わらない。

 

バイク呉服屋の悪い癖は、その日の稿で紹介する品物について、個々の色や図案よりも、製造工程や歴史について長々とお話することで、読んでいるうちに辟易とされる方も多いと思う。けれども、特に希少品については、目にして頂く機会も少ないために、つい説明過多になってしまう。その辺り何卒、お許し願いたい。

牛首紬は渋い色目のものが多く、縞柄は、藍を基調とした「鰹縞」が古くから定番とされてきた。その中で、この明るいピンクの縞は珍しく、どちらかと言えば「洋服感覚」の色とストライプである。

この品物に限ることなく、私は年配向きの地味な色や模様を、あまり好まない。従って、店に置くモノの色目は、柔らかく、優しいパステルカラーが中心になっている。こんな傾向は、普通の小売店とは真逆なようで、問屋へ仕入れに行くと、派手モノが数多く残っていることが多い。だから、その「残りモノ」をハイエナのように探して、買ってくるのである。この夏牛首も、今は無き問屋・菱一の店の隅に置いてあったものを、目ざとく見つけて仕入れた。もちろん、安く買い叩いたことは言うまでも無い。

では、モダンなピンクストライプの牛首紬を、より軽やかに、爽やかに着こなせる帯を探すことにしよう。

 

(白地 唐花模様 ムガ糸使用 京紅型九寸紗名古屋帯・栗山工房)

インド・アッサム地方の野蚕・ムガ蚕から取れる糸・ムガシルクを使った夏帯。ムガ糸は、金色に輝くことから「ゴールデンシルク」と称されているが、この帯地にこの希少な糸がどれほど使われているか、不明。生地にはシャリ感と滑らかさを感じるものの、それはムガのせいだろうか。

少し生地に疑問は残るものの、夏帯として考えると使い勝手は良いだろう。白地に蔓をのばしたサーモンピンクの唐草が、模様に流れを作っている。栗山工房の作る紅型は、モダンで優しい色合いのものが多いが、夏モノとして、このピンク基調の帯は珍しい。

お太鼓と前模様は、同柄。このように、同じ配色で同じ型を繰り返す品物は、価格が廉価になる。型絵や紅型では、こうした意匠が多い。お太鼓と前を違う模様にすれば、型も二枚分必要となるので、値段もそれだけ上がる。

天然染料を使う鮮やかな沖縄の紅型と比べ、栗山紅型の色は優しい。この帯の小さな唐花に付いた臙脂や芥子、紫の色や、蔓のサーモンピンク色はいずれも色調が控えめ。その抑えた色目が、上品で優しい帯姿を作る。では、どちらも柔らかなピンク色が印象的な、夏牛首紬と京紅型夏帯を合わせてみよう。

 

単純なストライプのキモノなので、少し帯には模様が欲しい。こうした紅型は、図案に遊びがあるので、しゃれ感が前に出てくる。双方のピンク色が優しいので、着姿も優しく映る。薄物には珍しい「暖色合わせ」だが、暑苦しさを感じさせない。

前模様の花のあしらい。小花の芥子と紫色、それに葉の緑濃淡がアクセント。控えめで可愛い図案が、キモノのストライプを引き立てている。

帯〆は、小花の暈し色・青紫にドット模様を使って少し引き締め、帯揚げはピンクの飛び絞りで、可愛くまとめてみた。(帯〆・中村正 絽帯揚げ・加藤萬)

こちらは、葉の緑色を帯〆に使う。帯揚げは、若草とクリーム色の暈し。芥子や濃い紫を帯〆に使うと、また雰囲気が変わる。カジュアルモノは、小物の色選びが楽しく、そこに個性が現われる。何が正しくて、何が間違いということは全くない。着る人それぞれが楽しめれば、それで良い。それが一番のコーディネートになる。(ゆるぎ帯〆・絽帯揚げ 共に加藤萬)

 

今日は希少な牛首紬の中でも、なお珍しいピンクストライプの夏キモノに、ピンクの唐花紅型夏帯を合わせる、いわば「ピンク尽くし」のコーディネートを試してみた。凡そ、薄物には似つかわしくない暖色同士の合わせだが、キモノも帯も「ベビーピンク」と呼ぶべき、極めて爽やかで控えめな色なので、きちんと夏らしい姿として映ったように思う。

今年は春先以来ずっと、外出することさえ憚られ、とても和装を楽しむ雰囲気はない。楽しいはずの夏の行事も、ことごとく中止になり、薄物を装う機会がほとんど奪われてしまった。人々の心にゆとりが無ければ、とてもキモノに目を向けては頂けない。つまり、平穏な毎日があっての、和装である。来年の夏こそ、今年の分まで薄物が着用出来るようにと、今は願うばかりだ。最後に、今日ご紹介した品物を、もう一度どうぞ。

 

ご紹介した夏牛首を製織した白山工房の親会社は、西山産業と言います。本業は、砂防堰堤や林道開設、砂利砕石採取などのいわゆる土木工事、さらには融雪装置や太陽光発電システムも販売しています。そして、牛首紬の製造・販売を請け負う白山工房や、ギャラリースペース「加賀の織座」を開設。会社は、土木・砕石・繊維・環境事業の各部に分かれていますが、これだけ硬軟取り混ぜた仕事をこなす懐の深い会社も珍しいでしょう。

HPを拝見すると、利益を出すこと以外に使命があると、企業の目的が掲げられています。災害復旧や除雪工事の担い手作り、地域文化・伝統産業の継承、僻地雇用の受け皿になること等々、「私たちにしか出来ない、多くの役割がある」と会社の意義が語られています。

伝統産業だけで、仕事を存続していくことが厳しい時代。こうした多角的企業が、生産地に存在することは、本当に心強いと言えましょう。これは、どのように伝統的工芸品を未来に残すか、一つのモデルケースにもなると思われます。

 

ところで、牛首には白山工房の他に、もう一つ「加藤機業場(石印)」という織屋があります。こちらは、緯糸に100%玉糸を使い、織は旧来の「バッタン式高機」で手織。昔の製織法を頑なに守り、白生地だけを作っています。手間がかかるので、ひと月の生産数は、せいぜい10反程度です。

できる限り商業ベースに乗るようにと、未来への継続を考えて生産を増やす白山工房・西山産業とは、全く対照的な織屋。しかし、こうして教条的にモノづくりを考えることも、伝統工芸品を繋ぐためには、大切な要素になります。

たった二つの織屋だけで製織されている牛首紬。ですが、それぞれの現場では、全く違う方向から未来を見つめています。地域振興も含めて、小さな村が次の時代をどのように生き抜くのか、ここに一つの形を見たようにも思いました。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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