バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

そして、時はうつろふ   十勝三股・三股山荘の50年

2026.08 15

「ここは、何も変わっていない。変わっていないから、私たちも変わらないのかもしれない。意識しないでも、自然のままいられる。ここには、何もない良さがある。」

半世紀近く、東大雪の麓・十勝三股で喫茶店を営んできた田中民枝さんは、環境省・国立公園課が発行した冊子「大雪山国立公園ものがたり」の取材を受けて、こう話した。

 

このブログコンテンツ・むかしたびの稿で最初に取り上げたのが、十勝三股だった。今から、13年も前のことになる。1981(昭和56)年10月、初めてこの地を訪れた時、微かな風の音が聞こえるほどの静寂さに、心を揺さぶられたことを記した。

それからも毎年、私は三股に通い続け、何も変わらない三股の風景に向き合っている。現在の戸数は、2軒。住民は4人。これは、私が初めて三股を訪ねた時と変わらない。そして、三股山荘は今も変わらずに、店の前の大雪(糠平)国道を通ってやって来る、多くのお客さんを迎えている。

 

田中康夫さん・民枝さん夫婦が、三股山荘を開業したのは、1977(昭和52)年のこと。来年で、半世紀が経つ。今は娘さんの雪絵さんが、あとを受け継いで、一人で店を切り盛りしている。

かつて林業の町として、1500人もの人が住んでいた三股は、国鉄・士幌線の終着駅でもあった。しかし地域を支えていた産業は急速に衰退し、70年代半ばには、人の姿がほとんど消えた。戦後道内の産炭地や開拓地では、集落ごと人が消えてしまうことも多く、そこは僅かな痕跡を残しながら、ほとんどが自然の中に呑み込まれている。けれども、三股はそうではない。ここには、三股の自然を愛し、静寂を守り続けながら、今日まで生きてきた人がいる。

もし、三股山荘が無かったとしたら、十勝三股という場所のことを、多くの人が知ることはなかっただろう。この店の半世紀は、人々が消え去った後、この土地を守り続けてきた歴史である。そしてそれは、田中さん家族の歴史そのものと言ってもよい。

私にとって、三股は心のふるさと。それは自分を見つめ直す、かげがえのない土地。三股山荘は、そんな私をいつも暖かく迎えてくれる大切な場所である。そこで今回のむかしたびの稿は、十勝三股の歴史を経糸にし、そこに田中さん家族の歴史を緯糸として織り込みつつ、東大雪の小さな集落・三股の半世紀の時のうつろいを振り返ってみたい。そして、この40年私が撮り続けた三股の姿も、一緒にご覧頂くことにしよう。

いつもお話することだが、このカテゴリーは、呉服屋の主としてではなく、かつてバックパッカーだった旅人の視点で記す稿なので、その点をお許し頂き、関心のある方だけお付き合い頂くように、お願い申し上げたい。

 

国内有数の木材集積地だった、十勝三股。駅構内には、伐採されて運び出された木材が山と積まれ、列車による運搬を待っていた。(昭和30年代)

十勝三股は、約100万年前の噴火によって生成されたカルデラ盆地で、周囲を二ペソツ山や石狩山地に囲まれている。その原生林は長い間手が付けられていなかったが、1936(昭和11)年の暴風によって大量の風倒木が発生したことが契機となって、木こりや製材業者がこの地に集まり始めた。

木工場の玄関の前に並ぶ、三股の子どもたち。営林署の職員や伐採従事者、木材加工業者など、様々な林業関係者の家族が、豊かな森を背景にしたこの土地に住み始めた。

当初は馬鉄(馬が貨車を引く鉄道)により、木材の運び出しが行われていたが、1939(昭和14)年に士幌線の終着駅として、十勝三股駅が開業し、また1944(昭和19)年に、馬鉄に代わって音更本流森林軌道が開設されたことから、林鉄から国鉄へとスムーズな運材が可能となり、木材搬出量は飛躍的に増大した。そして戦後は、1954(昭和29)年の、洞爺丸台風が未曽有の倒木被害をもたらしたことで、その処理に当たる林業従事者が急増する。一時は営林署関係者だけでも数百人を数えて、昭和30年代には人口が1500人にも達し、ついには国内最大級の林業集落となった。

 

駅のすぐ脇には大きな木工所の建物があり、一日中材木を切る電気鋸の音が響いた。

原生林の奥から切り出され、森林軌道で運ばれた大木は、働き盛りの男たちの手で下され、一旦駅の構内に積み上げられた後、士幌線を使って運び出されていった。士幌線の貨物収支は、この三股からの木材輸送により、1962(昭和37)年頃までは黒字を維持しており、後に、三股ー糠平間の営業収支係数が22500(100円の利益を得るのに22500円かかる)にまで悪化することなど、当時は全く想像の外であった。

 

三股山荘のお母さん、田中民枝さんが満州から三股に移住してきたのは、1949(昭和24)年、三歳の時のこと。その頃の三股は多くの林業従事者が入り、住宅が軒を連ねていた。民枝さんの記憶では、小学校に通う頃には、すでに駅前に商店が並んで食堂やラーメン屋もあり、とても賑やかだったそうだ。また帯広から士幌線を使って行商の人もやってきて、木工所の社宅を一軒ずつ回って商売をしていた。

駅の東側には大きな木工場があって、すぐ隣には社宅が軒を並べていた。また学校へ向かう坂の途中には、営林署の官舎と三股神社があった。上の画像の真ん中あたりには、屋根だけが見えている建物があるが、これが当時の三股小中学校。

1966(昭和41)年の航空写真から転写した、この頃の三股の住宅地図。上の画像に見える建物の位置関係は、ほぼこの地図の通りになっている。

高台官舎の脇には鳥居があり、階段を上がると社殿があった。画像では、木工所の脇を木材を積んだ貨車が通る姿が写っているが、神社は三股の集落が一望できる高台にあった。後年、私が三股を訪ねた時は、鳥居や社殿は無く、朽ちた階段だけが残っていた。

民枝さんが小学生だった1950年代は、三股の林業が最盛期にさしかかり、子どもの数も多くなりつつあった頃。民枝さんの同級生は10人前後で、小中学校全体では百数十人が在籍しており、隣の幌加集落から列車で通っていた子もいた。この当時は幌加駅周辺でも、三股同様に造材業者が多く入り、まとまった集落を形成していた。なお三股小学校は1944(昭和19)年に開校し、戦後の1947(昭和22)年に中学校を併置している。

民枝さんは三股小中学校を卒業後、士幌線で上士幌の高校へ通い、その後札幌へ出て、ご主人である康夫さんと出会うことになる。民枝さんが三股を離れたのが、1965(昭和40)年頃のことで、この時はまだ、三股も林業集落として存在が維持されていた。がしかし、結婚して二人の娘さんが生まれ、三股へ戻って来る頃には集落の衰退が始まっており、この土地から出ていく人は、日に日にその数を増していたのである。

 

バス転換される前の十勝三股駅。木材を運ぶ貨物列車の本数は激減し、駅構内では引き込み線だけが目立っている。

昭和40年代後半になると、風倒木処理が終わった三股では、次第に切り出す原木の数も少なくなって、ついには営林署が廃止される事態に直面した。1973(昭和48)年のことである。三股の住民の中で最も人数が多かった営林署員の転出は、集落に急速な衰退をもたらした。そして三股小学校は1976(昭和51)年の3月に閉校となり、さらに翌年に木工場が閉鎖されるに及んで、三股は集落として存亡の危機を迎えることになる。

上の画像は、内地から出稼ぎにやってきた伐採人たち。最後の冬の仕事が終わると、すぐに山を下りて帰路についた。この頃の三股の様子を、ご主人の康夫さんは、「みんなぱっと一気に出て行った感じだった」と語る。もちろん商店も次々に閉店して、気が付いたら残った家は三軒くらいになっていた。一つ手前の幌加駅周辺も同様で、この時期までにほとんどの住民が去っており、士幌線の糠平から十勝三股間は類を見ない過疎状態となってしまった。利用客がいない鉄道の収支は当然大赤字となり、少しでもそれを解消するために鉄路を廃止し、代行バスを運行することが検討され始めた。

森の奥深くから切り出された木材は、森林鉄道によって運ばれ、こうして一旦駅構内に留め置かれた。そして士幌線の貨車に積み替えて、帯広方面に運ばれていったのだが、原木伐採量の減少に伴って輸送量も少なくなり、1975(昭和50)年には、ついに皆無となった。

代行バス転換を前にした、十勝三股駅最後の駅職員・江本駅長と斎藤助役。この頃は二人の職員が交代で駅務についた。写真は、廃止直前の1978(昭和53)年12月。

 

現在、三股山荘を切り盛りする娘の雪絵さんが生まれたのは、1975(昭和50)年。それは、三股から人が消えつつある時期と重なる。田中さん一家は、時代に逆行して三股に戻ってきたことになり、否応なく、厳しい環境下で生きることを迫られた。

民枝さんは、変わりゆく生まれ故郷・三股の姿を、寂しい思いで見つめていたものの、この地で生きることに揺らぎは無かった。そして康夫さんは大学時代山岳部に所属しており、ウペペサンケや二ペソツなど東大雪の山によく登りに来ていた。結婚して民枝さんの実家に来た時、初めて若い頃来ていた場所に近いことに気づく。若い夫婦は、三股の自然と共に生きることを選んだのである。

田中さん家族と共に、最後まで三股に残った堀田さんご夫婦。当時堀田さんは郵便局に住んでいて、三股地域の集配業務を委託されていた。後年、画像左の奥さん・道さんとは何度か代行バスで一緒になったが、士幌線・萩ヶ岡駅近くの郵便局まで、配る郵便物を取りに行っており、いつも郵便マークの付いた布製のカバンを肩から掛けていた。代行バスに転換した昭和53年暮れ、十勝三股の住人は、田中さん家族4人、堀田さん夫婦2人の合計2家族6人だけになっていた。

列車の音が消え、ほとんど人影が見えなくなった駅前の通り(糠平国道273号)。立ち並んでいる事業所や商店は、まだそのまま置かれている。

林業関係の仕事が途切れた三股で、田中さん夫婦が生きていく糧として選んだのが、喫茶店兼雑貨店の経営であった。三股には駅前に数軒の商店があったが、そのうち最後まで残ったのが村尾商店だった。田中さんはこの店を買い取って商売を始める。それが1977(昭和52)年のことで、店の名前を三股山荘と付けた。今に続くログハウス喫茶店・三股山荘の始まりである。

住民の消えた集落で、目当てにした客は、店の前の糠平国道を通るドライバーと二ペソツや石狩岳に登る登山客。けれどもこの時代、国道は11月末から3月まで、三股から先の三国峠は閉鎖となり、層雲峡や旭川へ抜けることは出来なかった。従って、春から秋の半年間だけにしか、店の売り上げが見込めなかった。康夫さんは後年、この頃が経済的に一番苦しかったと語っている。

三股山荘が開店した翌年、鉄道が廃止になり、代行バスが走り始めた。バスの運行は、上士幌に本社を置く上士幌タクシーに委託されることとなったが、康夫さんは、この代行バスの運転手として雇ってもらえることになり、帯広まで大型二種免許を取りに行った。民枝さんは店を切り盛りしながら二人の娘の面倒を見て、その間に康夫さんが、糠平ー十勝三股間を一日4往復する国鉄代行バスの運転手として働く。夫婦二人三脚で、懸命に人の途絶えた三股の地で生きていたのだった。

駅から国道を挟んで反対側に、代行バスの停留所が設置され、バスはいつも待合所の脇に止まっていた。この建物は今も残り、帯広から三国峠経由で旭川へ向かう都市間バス・ノースライナー号の停留所として使われている。

 

1981(昭和56)年10月の駅の姿。駅舎こそ板が打ち付けられて入れなくなっていたが、ホームには駅名標が設置されたまま残り、レールも撤去されていなかった。

このブログで最初の三股の稿・風が聞こえる静寂(2013.6.16)で、私と田中さん家族との最初の出会いを記したが、それは三股山荘が開店して、4年目の秋のこと。もちろん店はログハウスを建てる前で、今の場所とは前の国道を隔てて反対側にあった。

駅跡から高台にある小学校跡へ向かう坂道には、踏切を示す標識がそのまま残され、「当分の間、ここは列車は通りません」と書かれた看板が、横に傾いたまま立っていた。木工場の社宅だったと思しき建物も数軒あり、集落の名残がそこここに見られた。

この当時はどこの駅でも、ホームに木製の駅名標と名所案内看板が立っていたが、三股も同様で、名所案内には二ペソツ登山口と書かれていた。ホームの先からは、400mほど木材を積み込むバックヤードが続いているが、そこも一面緑に覆われていた。

初めて三股に来た時は、午後の遅い時間だったせいか、一際静けさを感じた。人の気配はどこにもなく、少し枯れかかった草が微かな風に揺れていた。この時は小学校跡や駅を探索して三股山荘に戻り、民枝さんに鹿肉入りラーメンを注文したが、これが絶品の美味しさだった。確か当時の食事メニューは、ラーメンとカレーだけだったような気がする。そして最終バスが出る時間まで、民枝さんから様々な話を聞かせてもらった。

駅前の大きな空き地で、相撲を取って遊んでいるところ。私の足を持ち上げているのが、お姉ちゃんのさえちゃん。うしろで見ている子が、妹のゆきえちゃん。二人とも人懐っこい子で、しばしば三股を訪ねる私のことをよく覚えていた。そして冬になると、一緒に糠平のゲレンデまでスキーに出かけたりしたが、二人とも私なんかよりずっと上手だった。この時雪絵ちゃんはまだ保育園児だったが、後年聞いたところ、私と遊んだことは記憶に残っていると話してくれた。

 

冬の静寂さは、また格別だった。国道は三股から先が除雪されていないので、通る車はほとんどなく、人の気配も全くない。風に舞う雪、鳥の微かなさえずり、葉の擦れる音。どんな小さな音でも、どんな密やかな音でも、私の耳に届いた。

かつての木工場跡は、広々とした白い原野に戻っている。駅周辺にはまだ建物が残るが、集落は徐々に自然に還りつつあった。

雪に埋もれる、旧三股小中学校の校庭。西クマネシリとビリベツ、通称オッパイ山が正面にそびえている。三股の子どもたちが、毎日見ていた風景。夕方に写したと思われるこの写真からは、厳しい冬の姿が伝わってくる。

毎年田中さんが送ってくれる年賀状には、必ずかつて三股にあった建物が版画で描かれていた。この三股小学校の版画も、その一つ。私は、1981年8月に刊行された雑誌・旅(日本交通公社発行)の中の記事で、廃校になった三股小学校の画像を見たことがきっかけとなり、ここに来た。けれども訪ねた時には、すでに学校は壊されていたので、実際を知らない。しかしこの版画は、当時の雰囲気をよく表している。この校舎が、三股の高台・オッパイ山の麓に建っていたのである。

 

1985(昭和60)年に完成した、現在のログハウス。地元の木材を使い、多くの人の協力を得ながら建てた新しい三股山荘。苦労して三股で生きてきた田中さん夫婦にとって、東大雪の山からで切り出した木を使うことに、特別な思いがあったはずである。それは三股の自然を愛し、ここでの暮らしを受け入れてきた証なのかも知れない。

康夫さんの話によれば、普通の木造の家は木を小割にして使うから40年くらいしか持たないが、そのままで使えば100年は持つはず。だから、そのほうが木に対して恩返しができる。そんな考えのもとで、ログハウスを建てようと思ったと言う。「木への恩返し」は、ここの自然と共生してきた人だからこその思いなのだろう。

木の温もりを感じさせる広々とした店内。十勝三股駅を忠実に再現したジオラマが置かれ、多く訪れる鉄道ファンを楽しませている。誰もがゆっくりと時間を忘れて過ごしたくなる、そんな雰囲気を持っている。

1987(昭和62)年3月23日限りで、士幌線は全線廃止となり、康夫さんの代行バスの仕事も終わった。そして国道273号は、1994(平成6)年に道路改良工事が終わり、三国峠が通年通行できるようになる。そのため、冬の間も三股山荘に立ち寄る人が増えてきた。ログハウスの良い雰囲気と田中さんご夫婦の気の置けない人柄もあって、道内や道外からのリピート客も増えて、次第に店の認知度は高まっていった。

 

この国道が通年開通した時を同じくして、それまで残っていた駅舎やホーム、あるいは腕木式信号機や給水塔、そして機関庫など、十勝三股駅が存在していた証・鉄道遺産が次々と撤去されていった。上の画像は、線路が敷設してあったところで、右側にはホームと駅舎があった。

1987年の廃線以来、8年ほどはそのままになっていた駅跡だが、この土地が国鉄清算事業団から環境庁へ移管されたことが、転換点となった。それは新たな直轄管理者となった環境庁が、三股を「ふれあい自然塾」の拠点として開発しようとする動きに出たことが大きな要因であった。

 

環境省は手始めとして、残存する鉄道遺産を全て破壊し、そこに木道を敷き東屋を作ってしまったのである。計画では17億円もの予算を組んで、コテージやキャンプ場などを整備し、多くの人に自然を体験する場を提供しようとしていた。これは一見、自然環境保護事業のように見えるものの、本質的には「作りモノで人を呼び込み、それによって自然を壊してしまう愚挙」である。

林業集落消滅以来、約30年かけて元の姿に戻ろうとしていた三股の自然環境を、保護する役所・環境庁が自ら壊す。これは、机の前に座り込んでいる役人が、自然を守る、あるいは環境を守ることの意味を全く理解していない証拠である。この無理解な整備事業には、当然地元は反対し、1970年設立の市民団体・十勝自然保護協会も反対を表明するなど、徐々に批判が高まったことで、計画は中止に追い込まれた。そして、役所が作った木道や東屋は撤去され、三股は昔の集落や駅の面影をほとんど残さない、自然のままの姿に戻ることになった。

 

鉄道に関わる建物や設備が全て消えてしまった中、この古い作業小屋だけが、唯一林業集落として存在した三股の遺産として残っている。この建物は、東大雪の原生林から切り出した丸太を運んだ、音更本流森林鉄道の修理庫だった。林鉄の廃止が1958(昭和33)年なので、最低でも築70年は経っているはずで、かなり老朽化が進む。

十勝地方の郷土雑誌・ふるさと十勝の1976(昭和51)年12月号では、この修理庫と思われる建物が掲載されている。2017(平成29)年には、雪によって半壊してしまった。管理する環境省はこれを撤去しようとしたが、北海道産業考古学会や日本森林学会が強固に反対。その結果、撤去は中止された。

この白樺の木の辺りで、林鉄から士幌線への積み替え作業が行われた。木は一段高い土手の上に建っており、その名残が伺える。先ほどの修理倉庫は、現在、国内最大級の隔絶林業集落・十勝三股の痕跡を残す貴重な林業遺産として、認定されている。

 

先述したように、環境省の「破壊行為」によって、士幌線の痕跡が全て消えてしまった三股。同じ沿線でも、幌加駅跡は地元NPO法人の手できちんと整備され、かの有名なタウシュベツ橋梁を始めとする橋梁群は、北海道遺産に認定されて、観光資産としての価値を高めている。また糠平には、士幌線の資料館が建てられ、駅跡も観光施設として整備されている。

残存する遺物が何もない三股は、士幌線遺構を訪ね歩く観光客や廃線跡巡りをする、いわゆる「廃墟マニア」にとっては、つまらない場所に思えるだろう。それはとにかく、何も無いのだから。けれども、何もない場所とは、ただ自然の声を聞く場所に他ならない。何もないことの素晴らしさは、通り一遍の旅行者や廃なる場所を彷徨うだけの虚け者には、理解されない。

でも、それで良いのである。三股は、静寂を求める者にしか、本当の姿を見せない。皮肉なことだが、今となっては、環境省が鉄道の痕跡を全て消したことが、この場所を、自然のままの姿に戻すことに、大いに役立つ結果となったのである。

 

三股の深い静寂の中で、ここだけ灯りが灯る。店の中に民枝さんの姿がある。

次女の雪絵さんは、高校生くらいから店のことが気になり、継ぎたい気持ちが何となくあったと言う。そんなこともあり、高校卒業後は栄養士の資格が取れる短大に進んだ。さらに卒業後、もっと料理を勉強したいと考えて、東京の専門学校に入り直す。そしてそのまま、東京のレストランに就職し、料理人として経験を積み重ねていた。

そして9年が過ぎたある日、東京から三股へ一度戻ってみようと考える。それは嫌だったら、また戻ればいいくらいの気軽な気持ちだった。だが、帰ってきて故郷・十勝の美しさを再認識する。「こんな風景を、ずっと見ていたい」素直にそう思ったと話す。

そして当たり前だと思っていた三股の生活が、当たり前ではないことに気づく。「私は、なんて素敵な場所に住んでいたのだろう」と。それはきっと、東京での生活があったからこそ、気づいたことだった。そして幼いころから、この地で生きる覚悟を持った両親と一緒に、時を重ねてきた彼女だからこそ、気づいたことだったように思える。

2012(平成24)年、田中雪絵さんは両親から店を受け継ぎ、三股山荘は新たな時代に入った。多くの人が去った三股で、古い商店を買い取って店を始めてから、35年目のことだった。そして昨年5月、正式に両親は店の仕事から手を離れ、雪絵さんが一人で店を切り回すことになった。

三股山荘へ行って必ず注文するのが、この畑のランチ。種類の違うジャガイモの味が存分に楽しめるワンプレート。「ゆっくり食事をする時間は、贅沢で素敵な時間」。そんな思いの下で、心を込めて雪絵さんが作る料理は、どれも美味しい。一人仕事となって大変な面もあるが、彼女のことだから、きっと自分らしく頑張っていけるはずだ。そしてご両親と同じように、お客さんとの触れ合いを大切に、そして楽しみにもしながら。

 

三股は、何も変わらない。だから、私たちも何も変わることはない。この民枝さんの言葉に、三股の全てが凝縮されているように思います。「何もない良さ」こそが、今を生きる我々が忘れていること。そして自然のまま生きることこそが、最も人間らしい生き方なのだと思います。

最初民枝さんは、雪絵さんが三股に戻ることに反対したそうです。それは、三股で生きることの厳しさを実感していたからに、他なりません。けれども雪絵さんは、何にもない三股の素晴らしさに気づいてしまったのです。だからもう、後戻りすることはありません。

現代の一般的な生活に照らし合わせれば、確かに三股は不便です。けれども、心豊かに自然に生きることを考えれば、最高の場所かと思います。私は若い頃、ここで暮らしたいと思っていました。その思いは、40年経った今も、変わりません。

店の前で、康夫さん、民枝さん、雪絵さんの姿を写させて頂きました。今回この稿を書くに当たり、田中さんから多くの画像をお借りし、掲載させて頂きました。改めて、ここでお礼を述べさせて頂きます。本当に有難うございました。そしてお許しも得ずに、勝手に原稿を書いてしまい、申し訳ありません。お詫びも、一緒にさせて頂きます。

今日は、バイク呉服屋にとって一番大切な場所、十勝三股のお話をさせて頂きました。これを読まれた方が、「何も、変わらない」と言うことに、少しでも心をよせて頂ければ幸いです。最後に、三股の姿を写した画像を数点お目に掛けながら、この長い稿を閉じることにしたいと思います。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。次回の稿からはまた、呉服屋の仕事に戻ります。

 

(学校の高台へと向かう坂道の上から)

(集落に一本だけ残る、古い木製の電柱)

(駅の跡には、大きなハンノキと白樺が並んで立っている)

(三国峠から見た、雲海の中の三股盆地)

十勝三股の行き方 十勝帯広空港から、車で約2時間。旭川空港から2時間半。   バスは、帯広から三国峠経由旭川行・ノースライナー号 十勝三股下車 約2時間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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