バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

美しき、花デザインの文様(2)  花の丸文様・唐花編

2026.09 19

史実を正しく認識するために最も重要なことは、ベースとなる古文書や記録を正しく読み取ること。記録を無視したり、自分の都合の良い解釈をしてしまえば、それは間違った結論を導くこととなり、物事をあらぬ方向へ押しやることにも繋がる。これは、若い頃日本史を専攻した者の端くれとして、常に念頭に置いていた「戒め」でもある。

一つの血統・万世一系で繋がってきたとされる天皇家。この起源をどこに置くかにより、日本という国の成り立ちが変わって来る。天皇家の系譜を辿ることは、即ち歴史の深遠に触れることであり、歴史を学ぶ者にとっては永遠の課題と言っても良いだろう。

 

現在その地位にある今上天皇・徳仁天皇は、初代・神武天皇から数えて126代目となる。初代神武天皇の即位は、紀元前660年とされているので、今から2686年前ということになる。この神武即位年の裏付けとなっているのが、記紀(古事記と日本書紀)による記述である。

記紀はどちらも、奈良期に編纂された日本最古の歴史書であり、日本の神話や古代の歴史を知る上で最も重要な記述とされている。そして、この紀記成立以前に歴史書として存在したのが、帝紀(ていき・歴代天皇の系譜)と旧辞(きゅうじ・氏や豪族に伝わる伝説)である。古事記は、この二つの書を編纂者の一人・稗田阿礼(ひえだのあれ)が読み上げ、それを太安万絽(おおのやすまろ)らが聞き取って編纂したもの。

古事記には、神武天皇即位の経緯が記されており、後の日本書紀では具体的なその日時が示され、奈良・畝傍(うねび)山の麓の橿原(かしはら)宮において、紀元前660年1月1日(新暦2月11日)に即位したと記述される。まさにこの年が「紀元元年」に当たり、日本と言う国の始まりと規定されている。

 

しかしながら、古事記の記録と実際の日本の姿には、大いなる乖離がある。神武天皇が即位したとされる紀元前660年頃は、縄文時代晩期から弥生時代初期にあたり、ようやく狩猟中心の生活から抜け出し、農耕生活が始まりつつあった時代である。小さな共同体・ムラが生まれた頃で、もちろんまだ支配者の姿は無い。

村さえきちんと確立していない時代に、国の支配者が現れる。これはあきらかな矛盾と言って良いだろう。つまり帝紀や後の記紀の記載には、疑念が生じることになる。しかし、古事記はそもそも神話であり、客観的に裏付けのある史実では無いので、それを正しいか否か判断することは、ナンセンスなのである。

 

では神話ではなく、学問としての歴史・考古学的な物証のある天皇はいつからかとなると、それは5世紀後半に即位した21代・雄略天皇からとする説が有力である。この天皇の存在は、中国の歴史書・宋書倭国伝の「倭の五王」の記載の中で「武」と表わされており、また埼玉・行田の稲荷山古墳から出土した鉄剣に記された「ワカタケル」の名前が、古事記と日本書紀の記述にあることから、実在が確認されている。

そして現在の天皇家に繋がる系譜は、この雄略天皇より5代下がった6世紀初頭、26代・継体天皇からとされている。この継体朝以前までは、複数の王統が存在しており、その中から天皇となる人物が選ばれていたのだが、継体天皇以後は、王統が継体の血縁者に限られるようになり、一本化した。つまり、実質的な天皇家の歴史は、この継体天皇から始まったと言えよう。

 

昨今、皇室典範改正の論議の中で、某政治家が「皇位の男系継承は、2600年以上守られてきた皇室の伝統」などと発言したが、この2600年と言う数字は、あくまでも神話上の話であり、正しく歴史を認識しているとは言えない。正しきは、継体天皇即位の紀元後507年から数えた、1500年余りの系譜となる。

史実を曲げ、自分の都合の良い方に解釈する。もちろんそれは「何らかの意図」があってのことだが、こうした解釈をする者は、他の歴史解釈も同じように「ひとりよがり・身勝手な解釈」をするだろう。それは遥か彼方の紀元前の話ばかりではなく、僅か80年前の戦争責任についても同様である。平然と歴史を曲解する者がいて、それを咎める者も少ない。戦争を知らぬ者が為政者になると、こうなってしまうのか。本当に暗澹とした気持ちになる。正しく歴史を認識しない者には、未来は語れない。今はそう言い残した先人の言葉が、否応なく心に響く。

今、世界に蔓延る「自国ファースト」の風潮の裏には、排他的ナショナリズムがあり、そこには、過去の負の歴史に対して都合良く修正を行う「歴史修正主義」が透けて見える。日本も、そんな世界の渦に巻き込まれていると言えるだろう。第二次大戦後、対立から対話へと舵を切った国際社会は、今また反転して対立の度合いを深めている。

 

このブログに相応しくない前振りで、読まれている方には面白くない内容かと思われるが、このところの天皇制を巡る議論の中で、学術的な見識があまりにも無視され、戦前の皇国史観を容認するような空気が認められることから、思わずその危惧するところを書きなぐってしまった。どうかお許し頂きたい。では気分を変えて、今日の題材・美しき花デザインの話に入りたいと思う。文様の先駆者として、海を渡ってやってきた植物文・唐花。これをどのようにデザイン化し、現代の染織品の意匠としているだろうか。

国の文化は、様々な国から様々なモノを取り込むことで、発展していく。人間が自分一人で生きていけないように、国も自国だけでは成り立たない。そんな文様の国際性をも念頭に置きながら、今日は話を進めることにしよう。

 

唐花の丸の中に花喰い鳥を入れた図案は、典型的な天平・正倉院的な意匠。

花の丸文様は、その名前の通り「丸=円」の中に植物を入れた図案、あるいは植物そのものを丸めて円形にした図案である。前回ご紹介した和花=日本的な花をモチーフにした花の丸図案を見ると、円の形がきれいに整っており、あしらわれた花は、きちんと姿勢を整えたまま、文様として収まっているように思える。これはおそらく、この文様の起源が、平安期の公家装束に使われた織文=有職文にあることが大きく影響している。図案の形をほとんど崩さず、文様としてスタンダード化するのが、いかにも日本的だ。

翻って唐花をモチーフにした花の丸を見ると、その丸が整然としているとは言い難い。上の画像の唐花の丸を見ても判ることだが、円を描きながらも、枝や花弁が飛び出し、自由闊達な印象を受ける図案になっている。そもそもが何とは特定できない「空想の花」であり、その形が決められているものでもない。だからこそ、丸から平然とはみ出してしまうのである。

(空色地 正倉院唐花の丸文様 付下げ・松寿苑)

端正な姿の和花の丸に対し、自由自在で伸びやかな唐花の丸。基本的には、同じように花を丸めた図案だが、その印象は大いに異なる。唐花文は仏教とともに飛鳥時代に伝来し、仏教の発展と共にデザイン化が進む。そして奈良天平期には、その頂点を迎えて、アレンジした唐花を幾重にも重ねたり、配置を凝らすことによって、まるで宝飾品のような姿となって文様化されていく。

ではこれから、キモノや帯の中でどのように唐花の丸が表現されているのか、アイテムを付下げと帯に絞って幾つかの品物を例にとり、そのデザイン内容を見ていこう。

 

(紫色地 波文に唐花の丸文様 付下げ・菱一)

特定の花をモチーフとしない唐花だが、描かれているその姿から、モデルと思しき花を想像させることもよくある。上の付下げでは、同じ形の花を対にして一つの唐花の丸図案としているが、左側の先が尖った花弁の花は撫子のように見え、右側の白とピンクの花弁は百合の花を思い起こさせる。

そもそも唐草や唐花の起源は、エジプトやペルシャなど古代オリエントの国々にあり、各々には題材となった花が存在する。葉アザミ(アカンサス)やナツメヤシ、ロータス(蓮)、牡丹、葡萄などなど。これが時として融合し、伝播する地域でアレンジされながら、様々に文様を形成していく。だから時として、唐花と言えども特定の花を想起することがあるのである。

この付下げの唐花の丸は、青海波文様のような波の中にあしらわれているが、この半円を連ねた波・青海波は、舞楽の装束に表わされた文様を起源とし、江戸中期以降に広く文様化された。ということなのでこの図案は、日本的な青海波と外来の唐花の丸を並立させた意匠になる。画像で見ると、撫子や百合に似た唐花の他、右端の唐花は藤の花に似ている。日本的な波文・青海波とコラボしても違和感の無いように、あえて日本的な唐花の丸に描いたのかもしれない。

 

(鴇浅葱色地 正倉院唐花の丸文様 付下げ・松寿苑)

最初の付下げに見られる正倉院唐花の丸よりも、もう一歩図案をデザイン化した文様。上の二つの花の丸は、菊花と七宝がモチーフになっており、左下は丸く囲んだ五枚の葉の中に、代表的な唐草文モチーフ・忍冬(スイカズラ)があしらわれている。これも、日本的な唐花の丸と本来の姿である外来唐花の丸が融合しているが、デザイン性の高い図案になっている分、モダンな印象を受ける。

(灰桜色地 西洋唐花の丸文様 付下げ・松寿苑)

周囲を月桂樹のような葉で丸く囲み、中の唐花の蔓は、まるで楽器のハープのような姿で表現されている。上で紹介した三点の付下げ唐花文とは、図案の雰囲気が違う。

月桂樹(ローレル)は、ギリシャ神話に出てくる太陽神・アポロンの聖樹として神聖視され、特別の意味を持つ植物。そのため古代ローマ時代から広く、装飾のモチーフとして使われてきた。このローレルやアカンサスを使った柱頭装飾がヨーロッパへと広がり、西洋唐草文様の基礎となる。アレキサンダー大王の東方遠征と共に、アジアに広がった唐草唐花文とは、同じオリエント地域を発祥としていても、その文様の様相には明らかな違いがある。

「西洋唐花の丸」図案・付下げの裾模様姿。数か所にあしらわれた丸い花姿や間に伸びる蔓の姿は、ヨーロッパのアラベスク模様を思い起こさせる。キモノや帯に用いられる唐花の多くは、正倉院の収蔵品に模様付けされた図案、いわば正倉院の唐花であり、その多くが中国・唐を経由して入ってきた「東洋唐花の丸」。なのでキモノ意匠に、このような西洋的な唐花を使うことは珍しい。松寿苑は小さな問屋だが、上品にアレンジされた、こんな唐花図案の品物を制作することに長けている。

 

(白地 天平鏡花錦文様 袋帯・龍村美術織物)

次に、帯に模様付けされた唐花の丸を見て行こう。帯のあしらいは、付下げの図案より一層華やかになり、宝飾品のデザインを彷彿とさせるような麗しい図案を多く見かける。モチーフとなっているのは、やはり正倉院の収蔵品で、天平期の装飾文様をほぼそのまま模しているものも多い。

この龍村の手による天平鏡花錦もその一つで、これは正倉院南倉に収蔵されている鏡を納める箱・銀平脱鏡箱に描かれた図案を、ほぼ踏襲している。花喰鳥を囲んでいる丸は、八弁の唐花で構成されており、それだけでも大変豪華な文様姿となる。花を咥えた鳥も、その種類を特定できない「空想の鳥」。龍村独特の光を放つ織文様が、よりこの帯を恭しい姿に仕上げている。

これは同じ図案の色違い・黒地の天平鏡花錦。白地の優しい模様姿とは異なり、こちらはしっかりと模様が地から浮き上がっていて、インパクトのある帯姿になっている。正倉院収蔵品の鏡箱図案であることから、天平的な唐花の丸は、丸文ではなく鏡文の範疇に入れられることが多い。

 

(黄緑色地 オリエント檀文様 袋帯・龍村美術織物)

この帯図案の様に、花弁が放射状に広がる文様のことを「ロゼット」と呼ぶ。モチーフになっている花は水蓮。この形は、紀元前4000年前の古代メソポタミアで崇められた女神・イナンナのシンボルとしてあしらわれていた。チグリス=ユーフラテス川流域に勃興したメソポタミア文明、ナイル川流域で発展したエジプト文明、そしてペルシャ文明までを含めて、古代オリエント文明と総称している。

番いの鳥を囲んだ八弁のロータスは、まるで太陽のように見える。それもそのはずで、古代エジプトでは、朝開いて夜閉じる水蓮の花を太陽に見立てて、慈しんだ。つまりロゼット文様の形は、太陽そのものだったのである。現在でも、エジプトの国花は水蓮。いかにこの国の人々が、この花を特別視しているかが判る。

それにしても、鮮やかな黄緑色の地に浮かぶ赤と青のロゼット文様は、実にインパクトがある。これこそ「龍村らしい」強烈な帯姿で、他の織屋には真似が出来ない。

 

(白地 糸地鏡裏鳥華文様 袋帯・紫紘)

こちらは紫紘の手による、正倉院鏡文。葡萄唐草とナツメヤシをモチーフにした唐花の丸=鏡文。葡萄唐草は、正倉院南倉の収蔵品・几褥(大仏への献納品を載せた机の敷物)白綾の文様、ナツメヤシに双鳥をあしらった模様は、中倉の収蔵品・密陀(顔料や金箔で加工した文様に油をかけて仕上げたもの)彩絵箱の文様を、ほぼそのまま切り取って意匠化してある。

同じ正倉院鏡図案でも、龍村の天平鏡花錦と比較すると、かなり落ち着きのある模様姿に仕上がっている。強烈な光は放たないが、上品で控えめ。龍村と紫紘、精緻な図案を手を掛けて織り上げることにかけては、他の追随を許さない織屋だが、「正倉院装飾模様」という同じテーマで品物を制作しても、かなり雰囲気は違う。どちらを選ぶかは、装う方の感性によって違ってくる。

 

(白地 ウイリアムモリス メイドオブオナー文様 名古屋帯・紫紘)

紫紘のウイリアムモリスシリーズから、西洋的な花の丸図案を一点。真ん中に薔薇の花を二本置いて、その周りを蔓を伸ばしたデイジー(西洋スミレ)で囲う。正倉院模様ともオリエント模様とも異なる、ヨーロッパ的な花の丸。メイドオブオナーとは、王家の后や娘の身の回りの世話をする女官を意味していたが、最近では花嫁の介添人と解釈される。

白地にパステル調の優しい配色が、帯姿に清潔なイメージを残す。爽やかな初夏の風の中で装いたくなる帯。源氏物語絵巻を始めとして、平安古典の和的図案を得意とする紫紘の、もう一つの顔がここにある。

 

(白地 点描丸文に更紗文様 手描き染名古屋帯・吉岡幸雄)

最後にオリエント系唐花以外の、外来花の丸文を二点ご紹介しよう。上の不思議な樹を丸く囲んだ点描画のような帯は、草木染による伝統色の醸成や数々の天平染織の復元に貢献した、染司よしおかの5代目・吉岡幸雄氏の手によるもの。日本を代表する練達の染色家として知られた存在だが、その作品の中で、他とは全く異なる「花の丸図案」を多く描き残している。

お太鼓の模様には、均等な間隔で並ぶ6つの丸文があしらわれている。モチーフは外来の花だが、正倉院唐花ともオリエント唐花とも、そして西洋的唐花とも違う。幸雄氏の父・常雄氏は「幻の紫色・帝王紫」に魅せられ、その染料となる貝紫を求め、中南米やアフリカ、アジアの高山地帯まで世界中を旅して調査研究を続けた稀有な人物である。そして、そこで現地の織物や裂に触れて、様々な品物を日本へ持ち帰っている。

この帯の更紗のような花図案も、そんな世界各地の土着的な染織品の模様をヒントに描かれたものと類推することが出来る。だから、他の外来花の丸とは雰囲気が違う。私にはこの花が、ペルーの山岳地帯に興ったインカ帝国の装飾のように思える。

 

(黒地 古代ミノア花文様 袋帯・帯屋捨松)

ミノアとは、紀元前2000年頃に地中海クレタ島を中心に起こった、最も古いヨーロッパ文明の一つ・ミノア文明のことを指している。ここで製作されていたカマレス陶器の多くに、渦巻文があしらわれていたが、それは渦巻く海・地中海の姿を文様に表現したと考えられていた。

そして後にこの渦巻の曲線が、蔓や花に変化して、ヨーロッパの唐草文に発展する。つまり渦巻文が、原始ヨーロッパを象徴する文様になっていたのである。おそらくこの帯のミノア文も、そんなカマレス陶器の装飾をヒントにしているに違いない。

カナダ国旗のメイプルリーフを思わせる樹木だが、それを丸く囲んでいるのは、やはり渦巻のように思われる。渦巻文は、日本の縄文晩期に製作された土器にもその模様姿が見えることから、この図案が、全ての文様のルーツ的な役割を果たしているようにも感じる。文様の奥行きは、本当に広くて深い。だから、面白い。

 

さて今日は、花デザイン文様の二回目として、前回に引き続き「花の丸文」を取り上げてみた。和花とは様相が異なる外来花・唐花を使った花の丸だが、その内容は画一的なモノではなく、各々に違って、どれも個性的な文様姿になっている。本文でも書いたが、和花の丸の意匠にはきちんとした「古典」を感じ、唐花の丸の意匠には伸びやかな自由「モダンさ」が感じられる。

しかし一言で唐花と言っても、それは一概ではない。おそらくここまで読まれた方は、その多様性に目を見張られたと思う。日本の正倉院に伝来した唐花文は東方的なオリエント花だが、古代エジプトやペルシャに残る源流的な唐花文もある。さらにはヨーロッパ的な西洋唐花やミノア文、そしてまた中南米の染織品装飾を思わせる文様もあり、まだまだ世界には、「知られざる花の丸文」が沢山残されていることだろう。

 

こうした文様を丹念に研究し、現代のキモノや帯の中で復元・意匠化する。品物が生まれる過程では、文様の歴史を丹念に辿ることが、まず出発点となる。特に外来花文をあしらおうとすれば、そこは避けられない。美しい意匠を染織品の中に表現しようとする者には、やはりそこに「知の裏付け」が、垣間見えていると言えそうだ。次回の花デザイン文様を探る稿では、花を差し入れたり、摘み入れたりする道具を使った文様・花筏文や花籠文を取り上げたいと考えている。

 

1930(昭和5)年生まれの私の母親が、「金鵄輝く日本の、栄えある光身に受けて・・・」と歌っていたのを、聞いたことがあります。この歌が、「紀元2600年の歌」。神武天皇即位から2600年目・1940(昭和15)年に開催された祝賀行事、その際に作られた「国民歌」でした。「金鵄(きんし)」と言うのは、神武天皇の即位を助けた「金の鳶(とび)」のことを指し、その経緯は日本書紀に記されていますが、もちろんこれは神話です。

当時10歳だった母親が、70歳をすぎても、この歌をフルコーラスで歌えると言うのですから、いかに国がこの行事を、当時の日本国民に浸透させていたのかわかります。そして母より三歳上の私の叔母など、歴代天皇の名前を全て暗記していたと話していました。時には頼みもしないのに「神武・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝靈(こうれい)・孝元(こうげん)・・・」とまるでお題目のように、名前を唱え聞かせてくれました。「当時はそれくらいできないと、臣民の子どもとして認めてもらえなかった」そうです。

 

教育というのは、本当に恐ろしいことです。為政者が国民を同じ方向に向け、それが間違っていることとは、誰にも思わせないように仕向ける。この戦前の誤りに現代の政治家が気づいていない、いや分かっていながら目を瞑っているようにも思えます。田中角栄元首相は、「戦争を知る者が政治の中枢にいるうちは大丈夫だが、いなくなった時が怖い」という言葉を残しています。

まさに、その通りになってきてしまいました。戦争を知る者は、次の世代に同じ思いをさせたくない。その一心で、みんな戦後を生きてきたのだと思います。私の母も叔母も、同じようなことを話しておりました。今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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