バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

今に伝わる、琉球王家の優美な織物 首里織・前編 花織とミンサー

2022.06 05

唐突だが、もし今、沖縄が独立した国だとしたら、日本を取り巻く情勢はどうなっているだろうか。無論、日本とアメリカの関係も大きく変わるだろうし、アメリカの世界戦略そのものにも、かなり影響を及ぼすに違いない。そして中国を始めとするアジア諸国との関係も、様変わりするであろうことは、想像に難くない。

実際沖縄は、17世紀初頭まで独立した国家だった。1429(永亨元)年に、琉球最初の統一王朝が、尚巴志王(しょうはしおう)により建国される。それまでは、現在の糸満市を中心とした南山、那覇を中心とした中山、そして国頭郡を中心とした北山の三国に分立していた。支配した尚氏は、東シナ海の真ん中に位置する地理的な優位性を生かし、日本や中国、南方諸国との中継貿易基地として、役割を積極的に果たす。その結果、交易によって流入した諸外国の様々な文化を吸収し、独自の琉球文化を築くことに繋がったのである。

 

しかし琉球王国は小国であり、周辺の大国、中国や日本との関係に注意を払わねばならなかった。当時の中国・明の冊封国(さくほうこく・従属する国のこと)となったのも、独立国家として存立するためには、仕方のない方策であった。そして江戸時代初頭には、徳川幕府からも再三謝恩使の派遣を促される。謝恩使とは、宗主国王即位の時に派遣される使節のことで、従属することを意味する。これを当時の国王・尚寧王が拒否したことから、薩摩藩は幕府の許可の下、琉球侵攻を決意する。

1609(慶長14)年4月、琉球王国は薩摩藩に敗れ、首里城が開城された。そして、琉球は薩摩の附庸国(ふようこく・従属する国のこと)とされ、主権が制限されてしまう。この時点で琉球は、中国と日本という二つの大国から支配される国になった。だがそれでもまだ、何とか独立国家としての体裁は、留められていた。

幕藩体制崩壊後に成立した明治新政府は、新たな中央集権体制を確立するために、廃藩置県を実行することとなり、琉球を完全に支配する必要に迫られた。政府はまず、琉球王府の国王・尚泰王に対して、中国との関係を断絶させようと試みるが、王は拒否。そこで政府は処分官を派遣し、首里城の明け渡しと沖縄県設置を申し渡すという強硬手段に出た。こうして、琉球王府は完全に支配権を失い、王国の歴史に終止符が打たれた。これが明治政府による「琉球処分」で、1879(明治12)年のことであった。これ以後、沖縄は日本になったのである。

 

そして、日本になった沖縄は、先の大戦で戦いの矢面に立たされる。1945(昭和20)年3月から6月の僅か三か月の間で、死者は20万人に達し、沖縄県民の4人に1人が犠牲になってしまった。この国内最大の地上戦は、日本に併合されて僅か60年あまりの島人に、塗炭の苦しみを与えることになった。

さらに終戦後は、アメリカ軍の占領下におかれ、軍政が敷かれる。一応政府が設立され主席を置いたものの、主権はアメリカが握っており、ほとんど実権を持たない政府であった。沖縄は、琉球王府時代には日本と中国、そして大戦後はアメリカと、三つの大国に支配され、翻弄され続けてきた稀有な島であり、人々はその都度、臥薪嘗胆を強いられてきたのである。

この600年もの間、歴史の中でもがき続けた沖縄だが、様々な国のエッセンスを詰め込んだ独自の文化は、今なお息づいている。そして数々の染織品は、悲惨な戦禍に遭遇しながらも、奇跡的にその技術が伝承されてきた。古き良き琉球王府の面影は、そんな品々の中にこそ、見ることが出来る。そこで今日から二回に分けて、琉球王家に伝わる優美な織物・首里織について話をしてみたい。まず今日は、首里花織と首里ミンサーを取り上げることにしよう。

 

十字絣に首里花織(両面浮花織・手花織併用)九寸名古屋帯・織手 東恩納恵子

首里織が国から伝統的工芸品の指定を受けたのは、1983(昭和58)年のことであるが、一口に首里織と言っても、指定された品は五つの項目からなっていた。すなわちそれが、首里花織・首里花倉織・首里道屯(ロートン)織・首里絣・首里ミンサーである。伝産品指定には、地域を包括して存在する幾つかの品物をまとめて認定することがあるが、これだけ複数の品物を含んだ指定品は、この首里織の他には、山形の置賜紬(米沢草木紬、白鷹板締小絣、米琉板締小絣など六品目)が思い浮かぶくらいだ。

首里という地域に、これだけ多種多様な技法の織物が発達した理由は、何であろうか。それは、琉球王府の中心・首里城の存在が大きい。琉球は海上交通の要衝地だけに、政治や経済の中心地・首里には、古くから海外の物資が数多く入り、その中には首里織の原点となる紋織物も含まれていたと考えられる。そしてモノだけではなく、織の技術を持った外国人も存在し、技が伝承されたのではないだろうか。

 

そして琉球を、冊封国として長く傘下に繰り入れていた中国の影響も大きい。すでに15世紀には、中国の皇帝が琉球の歴代国王に対し、貢使いを通じて紋織物を下賜していたことが判っている。そして、琉球王国の正史を代表する歴史書・球陽(きゅうよう)には、17世紀の半ばになって、紋織技術を学ぶために人を中国へ派遣した記述が見える。後の18世紀になると、その技術が伝承された成果を示すように、交易品に多くの織物が登場してくるのである。

当時の中国織物は、緞子や綸子生地、また綾織物が中心であったが、この貴重な織物は、宮廷内の貴人の官服・礼服として採用された。だが、この織物は高機で織られたものであり、当時の琉球には居座機しか無いために、同じモノを製織することは難しかった。王府では、18世紀以後も度々中国へ人を送り込み、技術移入を計ったものの、機を織るハード面に無理があり、計画は頓挫した。しかし、折角得た技を何とか生かす方法はないか。そうした中で創意工夫を凝らし、新たに琉球の織物として生まれたのが、花織や花倉織、道屯織など、一連の首里織であった。

首里織は、王府が定めた「服制」に従い、地位ごとに着用する品物が決まっていた。そんな王国の宮廷衣装として着用された美しい品物は、今も手仕事によって織り続けられている。ではこれから個別に、品物をご覧頂こう。

 

ご覧のようにこの帯は六通で、十字絣と花織を併用した模様が、規則的に並んでいる。そして花織の製織法も一つではなく、両面浮花織と手花織の二つの技法を用い、それぞれの図案を形作っている。沖縄の花織には、他に読谷や与那国があるが、いずれの織物も品物の模様に応じた技法を組合わせ、品物としていることが多い。この帯のように、花織と絣の組み合わせも、珍しくはない。

模様を拡大すると、花織の違いがよく判る。地の藍色と共色で織られている小さく連続した菱形は、読谷花織の代表的図案・風車花(カジマヤーバナ)と酷似しているが、これが両面浮花織という技法で織られたもの。これは、紋綜絖を使って平組織の緯糸の一部を浮かせ、文様を表す技法。綜絖織と言うのは、緯糸を通すために経糸を上下に開き、杼を通す道を開ける道具・綜絖を使う織技法。

両面浮花織で織っている模様は、片方に経糸、もう一方に緯糸が浮いて表情を成しているために、両面とも表の図案となって使うことが出来る。読谷にも同様の技法はあるが、こちらは色糸を用いて経緯糸を浮かせているので、裏に遊び糸が通っている。その点首里の浮花織は、模様(紋)に色糸を使わず無地織になっている。そして裏には糸が見えず、すっきりとしている。

またこの帯地には、芥子色と黄色を使った菱文様の横縞二本が見えるが、ここは手花織であしらわれたところ。もちろんこの織技法も、首里花織の一つとして認定されている。これは、開口させた経糸に緯糸を通して模様を織りなす方法。色糸で織り込まれるので、その織姿は縫い取りのようにも見える。

首里花織の技法には、両面浮花織、手花織の他に、生地の経方向に色糸を使う・経浮花織と緯方向に色糸を使う・緯浮花織がある。この四つの技法の花織を総称として、首里花織と呼んでいる。なお、この首里花織を使った衣は、士族以上の者しか着用することが出来ず、主に晴れ着として使われた。

伝統的工芸品のマークと組合証紙が貼られた、首里織の名古屋帯。織手は東恩納恵子(ひがおんなけいこ)さん。首里織の場合、最初の図案設計から、紋様を作る道具・花綜絖作り、糸の染色(植物染料あるいは化学染料を用いる)、手繰りと整経、さらに綜絖通しや筬通しなど機を織る準備、そして製織まで、一人が一貫して仕事を行う。そしてこの間は、すべて手仕事である。

最初から最後まで一人で製作されるだけに、そのデザイン性や配色には、自然と個性が表れる。やはり、大変な手間がかかるために製織反数は限られ、希少品と言えよう。

 

首里両面浮織 ヤシラミ織 手織木綿半巾帯・織手 比嘉麻南

この綿半巾帯も、両面浮織による模様あしらいだが、最初の名古屋帯のような無地の織姿とは異なり、紋に違う色の糸が入っている。このように二色の糸を使った浮織を、ヤシラミ花織として技法を分けている。

ご覧のように、表と裏では模様が違う。これは経糸を赤・白・赤・白と二色交互に構成させた上で、そこに赤・白・赤・白と二色交互の緯糸を織り込んでいる。そうすると、こうした織姿になる。琉球王府による衣服の統制が終わった後、いち早く庶民の着衣の中に取り入れられたのが、このヤシラミ織であった。なお、青と白二色を使ったヤシラミ織は、喪用としても使われていた。

 

首里ミンサー 手織木綿半巾帯・織手 祝嶺恭子 手織木綿角帯・織手 春山尚子

今日最後は、木綿のミンサー織。ミンサーは首里や読谷、そして竹富や与那国など八重山諸島の各地でも織られている。織り方に変化はそれほど見られないが、模様や糸の染め方には場所ごとに特徴がある。

ミンサーは平織の一種だが、緯糸を引き揃えて太く織る畝織(うねおり)と、両面浮花織をミックスして織姿を表している。ミンサーの意味だが、中国語ではミンが綿、サーは狭いという意味。この二つの言葉を組合わせると、綿の狭い帯、すなわち、小巾=半巾の綿帯となる。

製織者の祝嶺恭子(しゅくみねきょうこ)さんは、首里織の第一人者。県指定の技術保持者にして国画会会員。また沖縄染織の研究者として、県立芸術大学でも教鞭をとる。技術者、芸術家、教育者と多彩な面を持つ。この木綿ミンサーには、手織りならではのざっくりとした表情が伺える。特に、帯の中央に浮き上がった三角の鱗模様に特徴があり、木綿の半巾帯としてはかなり個性的。

こちらはミンサーの角帯。模様をみると中心には「S」のような図案が浮織で表されている。これは、竹串を用いて糸を持ち上げながら模様を織り込む・グーシハナウィ。グーシとは竹串のことだが、こうした織技法は首里ミンサーだけでなく、八重山各地のミンサーや読谷の手花織にも見られる。竹ベラで経糸を割り込ませ、そこに緯糸を通すことでリアルに模様が浮き上がっていく。この角帯も、何本もの経糸が太い緯糸に絡んで、男モノらしいカッチリとした織姿に仕上がっている。女性モノの半巾帯もこの角帯にも、他の地域には見られない、首里織独特のあしらいが映っている。

 

今日は、琉球王家に伝わる優美な織物・首里織を取り上げてみたが、如何だっただろうか。琉球王朝の首都・首里は、中国大陸・朝鮮半島・日本本土・南方諸島と幅広く交易し、外国の文化を取り込む窓口でもあった。そのため様々な織技術やデザインが、多方面から伝えられることになる。

前述したように、中国からは浮花や花倉、あるいは道屯織につながる紋織や捩織の技法が伝わり、南方からは、手花やグーシ織に繋がる技術や、絣の原点となる多彩な文様が伝えられる。こうしたことが様々に融合されて、沖縄独自の織物へと発展してきた。今なお、琉球王家が着用した優美な品物を手にすることが出来ること、これは沖縄の歴史的経緯を考えれば、本当に稀有のことと言えよう。次回は続きとして、王家の妃や王女だけが着用できた最も格調高い織物・花倉織と首里道屯織について、ご紹介する予定。

最後に、今日取り上げた品物をもう一度ご覧頂き、稿を終えることにしよう。

 

考えて見れば沖縄の人たちは、この600年の間ずっと、どこかに従属し続けてきました。中国に、薩摩藩に、アメリカに、そして日本という国に。従うことが、ある意味で生き残る術になっていたのです。そして、多くの国から様々なエッセンスを取り込み、独自の文化を築く。沖縄の文化には、伏していながらも決して逃げない、ウチナーンチュの強さと柔軟さが表れている気がします。

明るく楽天的と言われる沖縄の人々。それは数々の苦難の歴史を乗り越えてきた、心の強さの表れとも言えましょう。今も基地問題に揺れる沖縄ですが、日本国土の0.6%しかない沖縄の地に、米軍基地の70%を押し付けてきた事実を、我々ヤマトンチュはもっと深刻に受け止めるべきでしょう。従属に慣れてしまった沖縄を解放する。このことこそが、日本政府の、そして日本人の責務ではないでしょうか。沖縄の本土復帰から50年、変わらない現実がまだ、横たわっています。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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