バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

おはしょりの謎(後編)  文明開化が、新たなスタイルを生み出した

2018.11 03

近代の日本において、ドラスティックに国の形態が変わる契機となったのが、明治維新と太平洋戦争。そのどちらもが、国内からの変革ではなく、鎖国体制下での欧米列強進出の是非を巡ること、あるいは、大東亜共栄圏の確立という大義名文を掲げた戦争という、いわば対外的な関わりの果てに生まれたものである。

 

明治新政府は、天皇を主権者とし、開国和親と公儀世論の尊重、つまり外国に門戸を広げ、ひろく世論の意見を聞くことを基本方針に掲げて、新しい国作りに乗り出した。まず、版籍奉還や廃藩置県により中央集権体制を確立、そして士農工商から四民平等へと身分制度を撤廃したものの、近代的な国家を建設するためには、多方面の諸制度を整備することが急務となった。

そこで、欧米の国情を見聞し、文化に触れることで、新たな制度作りの礎にしようと考えたのである。これが、1871~1873(明治4~6)年、岩倉具視を代表とし、大久保利通、伊藤博文ら政府要人や留学生を派遣した岩倉使節団である。

この使節団に参加した人々は、日本とはあまりに異なる文化や思想に目を見張り、大いに影響を受ける。そしてそれは、帰国後に様々な分野で生かされることになっていく。いわゆる文明開化の端緒は、この使節団から生まれたと言っても良いだろう。

そしてまた政府は、欧米の先進的な技術や制度を学ぶために、外国人を雇い入れる。いわゆる「お雇い外国人」である。彼らは、技術革新や、教育制度、軍制の確立に大きく関わり、「殖産興業・富国強兵」を掲げた明治政府の国家建設に大きな役割を果たすことになった。

 

国の方針が欧米化に傾く中で、人々の生活にも、否応無く西洋の文化や様式が入り込んだ。髷を落とした散切り(ザンギリ)頭や、洋服の流入、パンや肉を食べる洋食の習慣など、欧米の生活様式がすなわち、近代化の象徴と見なされるようになったのである。

そんな中で、旧態依然とした和装にも変化が起こってくる。その一つが、女性の着姿にも表れるが、今日は「おはしょりの話」の続きとして、明治以降になってどのように形態が変化し、現在の形に整えられていったのか、その過程を辿ることにしよう。

 

家内のおはしょり姿。長さは、帯の下端から2寸(約7.5cm)程度になっている。

キモノの着丈が長くなっていった寛文期以降の江戸中期は、丁度帯の形態にも、大きな変化が起こった時代であった。江戸初期の帯は、巾が2寸(約8cm)、丈が6尺5寸(約2m30cm)という細い紐を使っていた。この紐は、着用する階級により素材や形状が異なり、上流社会では、小袖の生地を裂いて作った「平絎(ひらぐ)帯」を使い、遊び人の傾奇者(かぶきもの)や遊女は、絹糸を縄のように編み込んだ筒状の丸い紐を使った。

いずれにせよ、それまでは帯の巾は狭く、丈は短いものだったが、18世紀になると、巾・丈ともに急速に広く、長く変化をしていく。それは、17世紀末の元禄期には、巾が5~6寸(約19~23cm)に広がり、享保期(1716年)になると、巾は8~9寸(30~40cm)、丈は1丈(3m80cm)となった。この寸法は、現在の帯寸法とほぼ同じである。

こうした帯形状の変化により、様々な帯結びが考案され、バリエーションは一気に広がった。そして帯は、徐々に装飾性がたかまり、着姿の中で存在感を増すこととなった。また結ぶ位置も、結び目の多様化に伴い、前結びから後結びへと変化していく。この時代は、いわば「帯の革命期」に当たり、現在の形態に繋がる礎を築いた時期とも言えよう。帯について興味深いことは沢山あるが、今日はおはしょりがテーマなので、またいずれ別の機会に、詳しくお話したい。

 

このような帯形状の変化は、長いキモノ丈の処理方法にも、変化をもたらす。即ちそれは、それまで細い紐状の帯の間に挟みこんで、余った生地を始末していたことが、帯巾が広くなったことに伴い、不可能になってしまったのだ。

そこで考え出されたのが、余った生地をからげるための帯を、帯の下に使うこと。この下帯が、抱(かかえ)帯である。これは、以前帯として使っていた絎帯のような細紐や、布をしごいて作ったもの=扱(しごき)帯を用いた。扱とは、通常の帯のようにくけることはせずに、生地をしごくことで、帯状にしたものである。

こうして、それまで着姿の上に出ていた生地は、中に隠れることになった。しかしこれは、現在のおはしょりのように形を整えたものではなく、着姿の中に押し込んだ、いわば便宜的な形式なのだが、ともかく下紐で工夫するという基本が、そこには見える。

今に残る「しごき」。七歳祝着を着用する際に使う装飾的な帯。

抱帯や扱帯を用いた始末の方法は、生地のだぶついた身頃に帯を締め、そこにキモノを挟み込んだり、引き出したりするという単純なものだった。このように、着姿からは隠れてしまう生地処理用の扱帯ではあるが、武家や上流家庭のお宮参りなどでは、房飾りを施した綸子やちりめんの贅沢な素材を使うことが多かった。この習慣が、現在七歳の祝着に使用する「しごき」として残っているのである。

また、キモノの上に汚れを防ぐための前垂(まえたれ=現代のエプロンのようなもの)を使用する際には、帯と前垂の紐の間でキモノをたくし上げることもあった。これは、帯巾が広がったことで出来たスペースを活用した方法である。

このように、この頃のキモノの着装方法は、まだ「おはしょり」と呼べるものではなく、多くの人が自分なりに「生地の始末」を考えて、工夫していたものであり、それぞれの着姿は、多様な様相となって表れていた。この時代の着装はまだ、現代の着方へと繋がる過渡期であったと、考えられる。

 

時代が大きく変化を遂げた明治期になっても、全ての女性の着姿に生地をたくしあげる、おはしょり的工夫がなされていた訳ではない。上流社会の一部や、フォーマル時の着姿としてはまだ、はしょることをせず、裾を長くひいて着用する「お引摺(おひきずり)」が残っていた。

しかし一般的には、裾を整えて着丈を調節する「おはしょり」の着装が、外出時だけでなく、室内の日常姿としても定着する。そして女性達の目には、裾を引きずる姿が、「だらしないこと」と映るようになっていった。

 

この時代のおはしょりは、まずキモノの裾を引き上げ、腰で紐を締めて衿もとを整え、胸にたくし上げられた生地を下に下げた後、紐で結ぶというものであった。なお、最初に結ぶ紐は「腰帯」、後の紐を「下紐」と区別していたようである。

だが、この方法で表れたおはしょりは、あまり格好の良い姿ではなく、帯の下は大きな袋が付いたように、ぶくぶくと膨らんだ。その着姿は当時の写真でも見られるが、明治中期に発行されていた「流行」という雑誌には、この姿がまるで「カンガルー」のようで見映えが悪いという記述が見える。

また、おはしょりの下からは、下紐が覗く姿も垣間見える。今と違って、この紐は隠すものではなく、見せるもの、つまりお洒落の一環と意識されていたようだ。女性達は、紐の色にもこだわりを持ち、中には鹿の子絞りや模様を施したような贅沢な下紐を使う者もいた。

なお、先述の雑誌・流行(1900年・明治30年発行)には、こうしたキモノの着姿を改良する必要性を述べた記事が掲載されているが、その中に、この独特のたくしあげのことを、「はしょり」とする記述が出てくる。このことが、今に続く「おはしょり」という言葉の端緒ではないかと考えられている。

 

大正から昭和にかけては、袋状の不恰好な姿の改良が進み、それと共に、おはしょりは余った布を始末するためだけの形態ではなく、着装する人それぞれの体型を調節するための「ポイント」として意識されるようになっていった。

背の低い人は、帯を胸高に締めて、おはしょりを高い位置に取り、着姿にバランスを取る。また、胴長体型では、キモノを長めに着て、帯、下紐の位置を高く取り、足を長く見せるようにする。体格の良い方は、はしょりを少なくし、腰の太さを強調させない等々である。着丈を調節する「おはしょり」が、体型を補正する役割をも担っていると、理解出来よう。

 

こうして現在では、ぶくついた姿や下紐が見えるような着姿は無くなり、フラットで美しいキモノ姿の一つの要素として、おはしょりが存在している。江戸中期に始まった着装の工夫は、近代明治期になって、その形態が固定し、時代を経るにつれて改良が重ねられ、今に至っている。

これは、近代に入って女性が外に出向く機会が増えて、活動性が増したことと無縁ではないだろう。より動きやすく、より暮らしやすくキモノを着用するためには、どうしてもおはしょりが必要だったのである。このように考えると、文明開化の波が、より女性のキモノ姿を機能的に変化させたとも、言えるのではないだろうか。

「おはしょり」という特徴的な着装から見えてくるものは、時代を追って社会の変化に伴う着姿の変容であり、そこには、理想的な姿を求める女性達のあくなき追求や、願望も含まれている。普段はどうしても、キモノや帯の文様や場面ごとの使い分けに、歴史的背景を求めることが多いが、時代ごとの着装からも見えてくることは、沢山ある。また機会を探して、この観点からお話してみたい。

なお、二回に分けてお話してきたこの稿は、今年1月に発表された、文化学園大学教授・福田博美さんの論文「おはしょり形成の過程」を、参考にさせて頂いた。

 

最後に、家内の「おはしょり」の作り方を、画像でご覧にいれよう。着装の方法は、人それぞれに違いがあると思うので、一つの例として、見て頂きたい。「長いおはしょり」が出てしまう長丈のキモノを、どのように着装するかと言う点では、参考になるかもしれない。

衿を合わせて、胸の下で紐を結んだところ。紐下には、たっぷりとおはしょりになる生地が残っている。家内は、着丈を長めにして仕立てているので、こうなる。

この状態だと、おはしょりが多くなってしまうので、適正な長さにするために、つまんで上へたくし上げる。

おはしょりの上端と下端の長さは、5寸8分(約22cm)程度。これで位置も決まる。

帯が入るおはしょりの位置に伊達締めを使い、しっかりと上から締める。こうすることで、衿を締めて着崩れを防ぎ、おはしょりを固定出来る。

帯を結んで完成させた前姿。家内は166cmと身長が高いので、普段着丈を4尺4寸にしてあるが、4尺2寸5分程度であれば、十分着用出来ると言う。つまり、7cmくらい短くても、着方で何とかなる訳である。なおそんな短い寸法のキモノには、紐の位置を下げて対応している。

おはしょりの作り方には、様々な方法があり、人それぞれの工夫もあろう。また、キモノの着丈をどのくらいに設定しているか、その長さによっても変わってくる。どれが正解ということはないので、ご自分のやりやすい方法で、着付けが出来ていれば、それで良いように思う。

 

キモノの着装に、おはしょりという独特のたくしあげを使うようになって、300年。もし着姿の中に、帯の下でわずかに膨らみを持たせたおはしょりが無かったとしたら、どうでしょうか。私は、アクセントに乏しい、とても平板な映り方になってしまうような気がします。

男性の着装には無いおはしょりは、女性らしい、柔らかく優美なキモノ姿を特徴付けるものと言えましょう。ですから、「おはしょりなんて面倒で必要ないのに」などとは仰らず、女性の象徴として捉えて頂きたいと思います。

きっと、おはしょりが決まれば、着姿も決まりますよ。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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