バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

平成の加賀友禅(1) 田丸幸子・椿模様付下げ

2016.06 02

プロ野球の試合を見ていると、一試合を一人で投げ抜くような、「先発完投」の投手が本当に少なくなった。どのチームも、先発・中継ぎ・抑えという役割分担を決めて、試合のプランを立てている。中には、大差のついた負け試合で登板させる、「敗戦処理用」の投手まで用意している。

けれども、バイク呉服屋が生まれた昭和30年代の中頃には、今では考えられないような、とんでもない投手たちが活躍していた。

「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた、西鉄ライオンズの稲尾和久は、1961(昭和36)年には42勝という、おそらく今後破られることはない記録を残している。また、その2年前の日本シリーズで読売巨人と相対した、南海ホークスの杉浦忠は、初戦から4試合たて続けに登板し、一気に4連勝して、チームに初めて日本一の栄光をもたらしている。

 

極めつけは、稲尾が最多勝の記録を作った1961(昭和36)年、中日ドラゴンズに入団した新人投手・権藤博の投げっぷり。のちに近鉄のコーチや横浜の監督として手腕を発揮するのだが、この年の年間130試合のうち、先発すること44試合、中継ぎ・抑えとして25試合、合計69試合に登板している。

梅雨時の権藤の使われ方を見ると、その酷使ぶりがよく判る。この年の7月の彼の動向を見ると、完封・雨・移動日・完投・雨・移動日・先発・雨・雨・移動日・先発。11日間のうち、開催された4試合の全てに先発している。

当時、こんな権藤の姿を見た人々からは、「権藤・権藤・雨・権藤・雨・雨・権藤・雨・権藤」などと、尊敬の念をまじえながら、囃し立てられていた。この年の成績は、35勝19敗。こんな酷い投げ方をさせられたために、投手としての活躍出来たのは、わずかに4年間である。

のち、指導者となった権藤は、「投手の肩は消耗品」という、自分の経験に基づく持論を展開し、現在のような、「投手分業制」の礎を作ったとされている。

 

バイク呉服屋が、このコラム・ブログを書く回数は、最初の年が、月に8~13回。この二年間は、月7回のペースを守ってきた。だいたい中4日で、稿を書かなくてはならないのだが、仕事の増えるに従い、余裕が無くなってしまった。

そんな訳で、先月からは更新回数を1.2回減らし、月に5~6回とさせて頂いた。権藤のように、2,3日おきに登板することは到底無理で、現代の先発投手並に、中5日か6日ほど間隔を開けなければ、きちんとした稿を書くことは難しい。ただ、内容は今までと同様、その日に決めたテーマは、一回読みきりという、一話完結は守って行きたいと思う。

 

ここのところ、また加賀友禅の品物が店に里帰りしてきている。昨年もそうだったが、袷の季節が終わり6月に入ると、お客様たちは、一斉に手入れを考えるようである。

今回お預かりしている品物は、平成の6、7年頃までに、当店のお客様にお求め頂いたものである。そこでこの稿でも、今度は「平成の加賀友禅」として、皆様にご紹介していくことにする。それぞれの作家達の、個性に溢れた作品を楽しんで頂きたい。

今日は、一回目として、女流作家・田丸幸子(たまるゆきこ)の品物を取り上げる。

 

(青紫地色 椿模様・付下げ 田丸幸子 1993年 甲府市・U様所有)

このブログでご紹介する加賀友禅は、黒留袖や色留袖、さらに訪問着など重厚な絵羽モノばかりであったが、今日の品物は、椿の花だけがそっと置いてある、シンプルで楚々とした付下げ。

作者の田丸幸子は、1976(昭和51)年に、成竹登茂男の弟子となり、加賀の世界に入った。優しく柔らかな図案の描き方とぼかしの使い方は、師匠の成竹に雰囲気が似ており、繊細な配色に女性らしさが伺える。

 

地色は、やや薄い藍色にほんの少し紫と鼠色を混ぜ合わせたような、微妙で控えめな色。模様の置いてあるところだけ、霞のように、少し濃い青でぼかされ、濃淡が付いている。

模様は、上前のおくみと身頃と後身頃に、椿の二枝。それに左前袖と、胸に小さな枝がある。付下げの模様付けには、この品物のように、模様同士の繋がりがないものが多い。訪問着のような豪華さが無い代わりに、一歩下がった立場で、フォーマルの場に列席する時には、実にふさわしい品物となる。

 

紅白の椿の小花。加賀友禅で描かれる椿は、写実的なものが多いが、この付下げの花は、かなり図案化されている。開いている花弁の数を、四枚と決めて規則的に描いているので、連続性のある模様になっている。

小花を一つ一つ見ていくと、花びらごとにぼかし方を変えて色挿しされており、丁寧な仕事ぶりが見えてくる。赤い花の蘂は緑青色、白い花の蘂には淡い橙色と、いかにも女性らしい、パステル調の配色にしている。

 

ほんのりとピンクでぼかされた白い花と、白い蕾。葉も、一枚ごとにぼかし方が変えられ、濃淡が付けられている。模様を構成している花と葉の色挿しには、一つとして同じものがなく、全て表情が違う。この細やかさがあるからこそ、模様全体に優しさが広がるのであろう。

僅かに虫食いのほどこしが見える葉。ほとんどの葉の色は、地色と同じ青紫系が使われているが、数枚に挿されている黄緑や橙が模様のアクセントになっている。

左前袖と胸には、短い小枝。一つのモチーフだけで構成されているが、決して物足りなさを感じることはなく、むしろ潔く凛とした雰囲気が漂う。田丸幸子という作家の、控えめで優しい気質までもが、この品物には感じられる。

 

折角なので、田丸の師匠・成竹登竹男が描く椿の花と、比較してみよう。

成竹登茂男の作品から。赤い椿の花を際立った色に挿すことで、模様全体が引き締める。葉に使われている緑と若草の色も、はっきりコントラストが付けられていて、力強い印象を受ける。この模様は、振袖の上前部分なので、しっかり模様を強調するために、このような配色になったか。椿そのものも、写実的だ。

こちらは、田丸の作品。葉や、蘂の中心に見られる同色のぼかし方が、どことなく成竹の描き方に似ている。弟子は、何よりもまず、師匠の作品を見ることから始める。そして技術を学び取り、腕に磨きをかけながら、自分らしい作風を見つけていく。けれども、全ての基礎は自分の師匠にあるため、品物は、どこかしら共通した雰囲気をかもし出すようになっていく。

加賀友禅には多くの作家がいるが、学んだ師匠により作風が違う。作家ごとの系譜を辿りながら、品物を見ていくと、より判りやすい。それは、弟子達によって、それぞれの師匠の図案や配色、技術が受け継がれている証でもある。

 

バイク呉服屋が、もっとも好きな加賀の作家、成竹登茂男。この方が描いた草花は、どれも優しく、美しく、キモノの図案というより、絵画を見ているように思えてくる。椿・牡丹・梅・桜と、どんな季節のどんな花をモチーフにしても、変わることはない。

すでに成竹の没後30年になるが、作風は直弟子の、田丸幸子・東藤岳・小原洋子らに受け継がれ、さらに現在では、孫弟子(東藤岳の弟子)である魚津誠、赤地暁、高松広枝らに繋がっている。

田丸幸子の落款は、幸子の「幸」。

 

控えめな付下げだからこそ、感じられる清楚さ。豪華絢爛たる重厚な模様も良いが、キモノらしいキモノとは、こんな「さりげなく、上品な」品物ではないだろうか。

最後にもう一度、前身頃の画像をどうぞ。

 

プロ野球の球団を運営する親会社を見ていくと、社会の変遷がわかります。

昭和の時代、多くの球団の経営母体となっていたのが、鉄道と映画会社でした。阪急・西鉄・南海・近鉄・東急は私鉄、そしてJRの前身・国鉄も球団を持っていました。今のヤクルトスワローズですね。ちなみに、スワローズという愛称は、当時国鉄が東京ー大阪間で走らせていた花形列車、特急・つばめ号から取ったものです。また、松竹・東映・大映といった映画会社も、球団経営をしていました。

それが今や、ソフトバンクにDeNA、楽天という、IT関連の企業が顔を並べています。さて、20年後は、どんな業種の企業が球団を持っているでしょうか。昨今の、早い世の中の変遷を考えると、かなりの球団の名前が変わっているような気がしますが。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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