バイク呉服屋の忙しい日々

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バイク呉服屋女房の仕事着(4)母が残した龍村光波帯を、紬に合わせる

2015.11 11

家を離れている三人の娘達が、揃うことは稀だ。一年のうちに一度でもあれば良い方で、正月やお盆もそれぞれに予定があり、実家に帰ってくるのも、バラバラである。

たまに三人が揃うと、家内は嬉しそうだ。そして、家に居る間は連日のように「女子会」が開催される。一晩中というより明け方まで喋り通しで、そのまま居間のコタツに寝ているのが二人くらいいる。

バイク呉服屋には居場所がないので、早々に寝てしまう。娘達と仲が悪い訳ではないのだが、彼女等の話題に入っていくのが面倒なのである。その上、起きていると、菓子やアイスをコンビ二へ買いに行かされるので、それも恐ろしい。

 

やはり、母親と娘というのは特別な関係のように思う。それは親が亡くなって見ると、余計に感じるのだろう。

先日も、母親がよく着ていたものだから、といって古い羽織と麻のキモノの手直しを依頼されたお客様が来られたが、自分が子どもの頃に、何を母親が着ていたかが、記憶の中で自然と脳裏に刻み込まれていたのだろう。

母と同じ品物を身に付ける、というのはキモノや帯なればこそ。アクセサリーや時計などは別にして、洋服では手直ししてまで使うことはほとんどあるまい。子どもの頃に見た母のキモノ姿、それと同じ年齢に近づいた娘が、改めて同じものを着てみると、感慨もひとしおであろう。

 

今年の夏、家内の母が他界した。家内は「一人っ子」なので、最後まで面倒を見た。甲府から自分の実家まで3時間はかかるので、通うことが大変だったと思う。

先日箪笥の整理をしたところ、沢山のキモノや帯が出てきた。舞踊や書道を趣味としていた人だったので、キモノを着る機会も多かったようだ。家内には兄弟がいないので、全ての品物を一人で整理して仕訳しなければならない。キモノは、少し寸法直しをしなければ使えないが、帯はそのまま使うことが出来る。

今日の女房の仕事着では、母が残していった思い出の帯を使った着姿を、見て頂こう。

 

(鉄紺色風車格子・十日町紬絣  漆画龍雲文・龍村光波帯)

家内の母は、自分の娘が呉服屋の女房になるとは思っていなかっただろう。今考えれば、よくぞ快く許してくれたものである。縁も所縁もない他県の得体の知れぬ、しかも人相の悪い者が、いきなり手塩にかけた一人娘をさらったのである。家内に言わせれば、「ほとんど犯罪」である。

初めて家内の家へ行った時、山盛りのしゃぶしゃぶ鍋を振舞ってくれた。バイク呉服屋は遠慮というものを知らず、しかも牛肉などほとんど口にしたことが無かったので、それを一人で全部空にしてしまった。後になって聞いたところ、相当驚いたらしい。

ひたすら喰い込む姿を頼もしいと思ったのか、只者ではないと考えたのか、結婚を許してくれた理由は、それくらいしか思いつかない。時には無芸大食も、それを見た人には、思わぬ効果を呼び覚ますものかも知れない。

 

今日御紹介する家内の帯はいずれも、うちの店から家内の母が求めた龍村の光波帯。もう20年以上前なので、その頃の母の年齢は、60歳少し前くらいであろう。今、家内もその年齢に近づきつつある。

使っているキモノが、黒に近いような深い鉄紺色。地色そのものは相当地味である。汚れの目立たないこの手の色は、仕事着として使いやすい。

キモノの上前おくみと身頃。格子柄なのだが、よく見ると縞がよろけていて、風車を重ねたような模様になっている。中の絣は菱のような花模様が二つ交互に付けられている。機械機で織られた十日町絣なので、決して高価なものではない。

八掛の色は、絣の中に配されている藍色を取って付けている。このような紬は、八掛の色により印象が変わる。地色の鉄紺色を付ければ、より地味になり、錆朱や芥子色などを使うと、少し明るくなる。使う人の年齢や着姿により、八掛の色を工夫する必要がある。紬は、裏地の色を決める楽しさがある。家内が選んだ藍色は、年相応で無難。

 

今までに織られた龍村の光波帯の柄は、一体どれくらいあるのだろうか。百や二百は優に超えていると思われる。うちでこの帯を扱うようになって、30年以上経つが、今はもう織られていないような模様のものが、多数ある。先頃お客様から、ある柄を指定されてご注文を受けたのだが、龍村に問い合わせたところ、その柄は在庫になかった。もし新しく織るとすれば、1ロット3本かららしい。どうもこの帯には、定番として織られる柄とそうでない柄があるようだ。

少しでも帯の知識がある方には、龍村は高級な帯と認識されているが、確かに袋帯には手を掛けて織られた高額な品物が沢山ある。しかし、この名古屋帯はすでに仕立上って売られており、価格も98.000円。少し前までは85.000円であった。この価格は、龍村の方で指定しているので、扱っている店はどこであれ、同じ価格で売られている。

光波帯の柄は、紬や小紋に向くようなものから、無地や飛び柄小紋に使えるような、少しフォーマルっぽいものまであり、実に多彩である。モチーフとして一番多いのは、正倉院裂や法隆寺裂などを復元した、いわゆる名物裂と呼ばれるもの。その他、ヨーロッパやオリエントに由来する文様などもしばしば使われる。文様の起源を知るには、数々の光波帯の図案は最適であろう。

 

龍村ではこの文様を、「漆画龍雲文」名付けている。最近ではあまり見掛けない柄である。龍村の解説によれば、朝鮮・平壌博物館蔵の乾漆の匣(はこ)に描かれているものを基にしたもの。

乾漆というのは、木製の芯に漆を塗って麻布を巻き付け、そこにさらに漆を上塗りして仕上げる技法のこと。もちろん中国伝来の技術だが、天平期にはこれを使い、多くの仏像が作られた(乾漆像)。唐招提寺に現存する、鑑真和上坐像などは代表的なもので、東大寺や興福寺などにも幾つかの仏像が残っている。「匣」というのは、蓋付きの箱のことである。

文様を見ると、くねった龍の姿を連ねた図案が何ともモダン。龍である事を意識させないような、不思議な曲線になっている。色分けされた十本の縞のうち、7本が青色系の濃淡、3本が芥子色。芥子の色がこの帯のアクセントになっている。

家内が使っている帯〆・帯揚げの色は、もちろん帯の中の芥子色を意識したもの。帯揚げはちりめん、帯〆はゆるぎ紐。どちらも芥子無地一色。地味なキモノでも、帯と小物で印象を変えられる。

この帯は名古屋帯なので、当然一重太鼓なのだが、上の画像でわかるように太鼓部分の脇にわざとギャザーが入っている。これは、二重太鼓のように見せ掛けるための工夫だ。龍村の洒落た演出である。

 

もう一つの光波帯を使った姿を、簡単に御紹介しよう。

(獅子狩文錦・龍村光波帯)

龍村が手掛けた復元文様の代表格とも言える、「獅子狩文」。ペルシャから唐へ、そして飛鳥期になって法隆寺へと伝来した。

1937~39(昭和12~14)年にかけて、法隆寺夢殿の解体修理が行われたが、その際に本尊の救世観音像を安置する厨子(ずし)を新調するにあたり、新しい戸帳(とちょう)が作られることになった。ちなみに、厨子というのは仏像を安置する仏具、戸帳は厨子を覆う布のことを言う。

その時、この戸帳の製作を依頼されたのが、龍村の祖・龍村平蔵である。彼はこの獅子狩文を、至高な文様として復元した。だからこそ獅子狩文錦は、一番龍村らしい文様として、知られているのである。

家内が嫁ぐ時に持ってきた、藍地の椿模様の大島。おそらく、家内の母が見立てた品であろう。これに、形見となった獅子狩文の帯を合わせる。母の思いが込められた組み合わせ。

小物は、最初の帯に使った芥子色より、少し明るい色。帯揚げも芥子一色ではなく、白の飛び絞りが入っている。なお、この小物も母が使っていたもの。

 

今日は、母が残した龍村・光波帯を使った家内の着姿を、ご覧頂いた。彼女は、思い出を大切にするように、この帯も使い続けていくのだろう。それが、一番のはなむけとなる。

 

残されたキモノや帯には、それを使った人の温もりが、まだ残されているような気がします。衿に付いたままの化粧や、袖口の汚れ、そして幾つかのしみ。それこそが、亡き人が使った証です。

「しみや汚れさえ愛おしい」というのが、形見の品物でありましょう。品物を受け継ぐ方に寄り添い、手直ししていくことこそ、呉服屋の大切な仕事ですね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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