バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

昭和の加賀友禅(2) 柿本市郎・几帳に四季花模様 黒留袖

2015.07 12

北陸新幹線の開業により、金沢は驚くほど近くなった。東京駅から「かがやき号」に乗れば、わずか二時間半の距離である。金沢城と兼六園を見て、香林坊あたりで買い物と食事をするだけなら、日帰りでも十分楽しめる。

昔、北陸へ行くには大変時間がかかった。バイク呉服屋がバックパッカーだった昭和の時代に何度か乗った列車が、信越線(碓氷峠)廻りの福井行急行・越前。夜の9時前に上野を出ると、金沢へ着くのは朝6時。福井へは7時過ぎの到着となる。上野ー金沢間の所要時間は9時間だった。

この列車の自由席普通車は、戦前に製造された客車(旧型客車)が使用されており、車内はニスの匂いがし、何ともノスタルジックな気分にさせてくれた。この急行越前ばかりでなく、この時代の夜行列車の多くに、このような古めかしい車両が使われていた。

窓の開け閉めは自由自在、もちろん冷房など付いてないので、夏は窓を開けて自然の風を入れて涼を取る。さらに、昇降口のドアは手動式で、走行中に開いたままになっていることもあった。安全面から考えれば、あり得ない状態で、今の若い人が見れば、信じられないような列車である。

速さと便利さを追求して開発された新幹線。これが及ぼす経済効果と利便性に異論はないのだが、距離が近くなった分だけ、旅の情が薄れたような気がする。ある種の懐古趣味であり、こんな風に感じるのは、自分が年を重ねた証拠かもしれない。

 

金沢は加賀百万石の街。創始者は言うまでもなく前田利家公である。尾張の小城主(荒子城)前田利春の四男として生まれた彼は、織田信長の小姓から赤母衣衆(あかほろしゅう・いわゆる親衛隊にあたる)になる。そこで槍の使い手として頭角を現わした後、信長の家臣・柴田勝家から能登23万石を拝領したことが、金沢が生まれる端緒となった。

その後利家は、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人に数えられるまで力をつける。そして、天下分け目の関が原の戦いになると、徳川方に付き、その功もあって、加賀の他に能登・越中を拝領する。この領地を全部合わせると、102万5千石となり、ここに加賀百万石の名が付けられたのである。

前田家の居城・金沢城は、二重の堀を廻らせた壮大なものだが、5代目・前田綱紀の時代になると、その外郭に庭が作られた。これが蓮池庭(はんちてい)で、今の兼六園の元になったもの。これは、1676(延宝4)年のことであるが、この当時金沢城下には、すでに5万人を越える人が住んでいたと記録されている。さらに、石川県史料によれば、1871(明治4)年には、戸数24146、人口は123453人で、東京・大阪・京都・名古屋に次ぐ大都市であったことがわかる。

金沢藩は、外様大名でありながら、豊富な資力を持ち、多様な文化や芸術を外部から吸収しようとした。これが後に、加賀友禅が生まれる大きな要因なのである。すなわち1920年代(享保年間)に、京友禅の祖・宮崎友禅斎を京都から金沢へ招き、彼が持ち込んだ技術や意匠が現在の加賀友禅の礎となった。

 

さてまた、前置きがかなり長くなったが、加賀百万石が生んだ麗しい加賀友禅の品を、ノスタルジアの稿として、今日もご紹介することにしよう。

 

(几帳に四季花模様・黒留袖 柿本市郎  1986年 調布市 T様所有)

このキモノはすでに三代にわたって使われている。現在は、甲府から東京の調布へお嫁にいった娘さんが所有しており、今回その娘さんの娘さん(つまりお孫さん)が着用したため、手入れ依頼のために、わざわざ中央高速を飛ばしてお持ち頂いた。

持参された娘さんの話では、「このキモノの手入れは、必ず松木さんのところへ持っていくように」と固く申し付けられていたと言う。そして、素晴らしい品物なのでくれぐれも大切に扱うようにとも、申し送りされていたようだ。

この黒留袖の手入れを承るのは、今回で5回目くらいになろうか。これまでは、すべてこの品物を最初に求められたおばあちゃんからであった。初めて娘さんからの依頼を受けて、しっかりと次の世代に受け継がれていることを改めて感じ、嬉しくなった。

 

「とても良い品物というのは、キモノのことを何も知らない私でも、何となくわかるのですが、これほど大切にするようにと、母が念を押した理由を教えて下さい」と聞かれたので、この品物の成り立ちと作者について説明させて頂いた。

おばあちゃんは、娘さんにこのキモノの具体的な話をしていなかったようである。ただただ、「大切にするように」と話してきただけだ。具体的な加賀友禅の製作過程や、作者・柿本市郎氏のことを話し終わると、娘さんは感慨深く、ポツリと一言つぶやいた。「母は私のために、本当に素晴らしい品物を選んでくれたのですね」と。

おばあちゃんは現在施設に入所されていると言う。自分で管理出来なくなる前に、娘さんに渡しておいたのだ。「自分の娘にも、この品物のことを話して、大切にするように伝えていきますから。」と話される。一緒にお見えになったご主人も、しきりに頷いておられた。受け継がれた品物は、また次の世代が大切に扱う。時代を超えたこの連鎖こそが、良質なフォーマルモノの正統な使い方であろう。

では、世代を越えて使われているこの黒留袖の素晴らしさを、見ていくことにしよう。

 

上前おくみと後身頃の二枚の几帳と、それを包み込むようにあしらわれた花々。挿し色はかなり控えめに付けられているが、多用されたぼかし技法は、上品な模様のアクセントになっている。

 

作者・柿本市郎氏は1937(昭和12)年、金沢市の生まれ。石川県立工業高校・図案科を卒業後に、加賀友禅作家の金丸充夫氏に弟子入りし、友禅の道に入った。氏が卒業した石川県立工業高校は、金沢の伝統工芸品の技術者養成所とも呼べる存在で、明治以降、幾多の優れた職人を生み出してきた学校でもある。

1887(明治20)年、金沢工業学校として設立されて以来、今年で創立128年。日本の工業高校としては、もっとも古い伝統と歴史を持つ。明治に活躍した画家・納富介次郎(のうとみかいじろう)の尽力の下、金沢藩政下から続く地場伝統産業の九谷焼・輪島塗・山中漆器・加賀友禅の技術者を育成すべく設立された。

その目的を果たすため、機織科・色染科・窯業科・漆工科・図案科などの専門科に分類されて生徒が集められた。戦後は、その道を極めた著名な職人を講師として迎え入れ、充実した教育がなされてきた。すなわちそれは、九谷焼の第一人者・中村翠恒や、輪島塗の沈金技術で人間国宝に認定された・前大峰、そして加賀友禅の大御所・木村雨山であった。技術を教わる先生が「人間国宝」とは、何と贅沢な学校であろうか。

 

柿本氏が高校在学中の昭和27年~30年頃は、丁度木村雨山が講師として教鞭をとっていた頃にあたる。(雨山は、昭和23~35年まで在籍していた) 氏は、最初から友禅職人を志したのではなく、とにかく手仕事を身に付けたくてこの学校へ入った。だから色染科ではなく図案科だったのだ。図案(デザイン)を学ぶということは、九谷焼にも輪島塗にも加賀友禅にも通じている。

卒業にあたり、自分の恩師から紹介された職人が、金丸充夫であった。金丸は木村雨山の弟子に当たる。氏は直接金丸に師事するとともに、大師匠・木村雨山や、やはり木村の弟子としてすでに第一線で活躍していた能川光陽(のがわこうよう)から指導を受ける。こう考えると、柿本一郎という作家には、木村雨山とその弟子達のエッセンスが満載されていることになろうか。

柿本が加賀友禅作家として独立したのは、1967(昭和42)年のこと。各種の作品展で入賞を果たし、1990(平成2)年には、加賀染振興協会の理事となり、1994(平成6)年には、石川県指定無形文化財・加賀友禅技術保存会会員に認定される。NHKで放映されている美術鑑賞番組「美の壺」でも、その仕事ぶりが紹介され、今や重鎮・第一人者の地位を占めている。

今日ご紹介している品は、1986(昭和61)年頃に製作されたものなので、氏の年齢は40歳台後半ということになる。まさに加賀の作家として力を漲らせ始めた、少壮期の品物ということになる。

 

後身頃に付けられた几帳模様。三巾に分けられた帳(とばり)には、それぞれ異なる文様があしらわれている。三枡文様に楓・松・菊・萩、亀甲文様に竹、さらに梅・桜と舟文様。

模様の中心、上前おくみに付けられた几帳模様。こちらは、茶屋辻文様と青海波に飛鶴。それぞれの模様とともに、四季の花々が咲き誇っている。

三連の画像は、几帳の上部。几帳につかわれる布は帷(かたびら)と呼ばれ、T字型の横木(「手」と呼ばれる)に通される。このため帷の上は筒状に縫われており、紐はご覧のように結わえられる。遠目には判り難い几帳の描き方も、近接して写すと、実に丁寧に糸目が引かれていることがわかる。それを見て頂きたくて、続けて画像を紹介した。

 

加賀友禅の特徴の一つ、「ぼかし」。花弁を一枚ずつ良く見ると、外側から内側に向かって色がぼかされていることがわかる。これは花弁でも葉でも同じで、先端が最も濃く、内に向かうほど薄くなっている。この濃淡の付け方により、品物を見る者に優しく上品な印象を受けさせている。

もう一つの特徴的な技法、「虫喰い」。前回ご紹介した百貫華峰氏の作品に見える虫喰いの付け方と、少し違って見える。この技法一つでも、作者ごとに個性が見られる。

 

柿本市郎は、三人の師から様々なことを学んだ。木村雨山からはとにかく真摯に仕事に向き合うという姿勢を、金丸充夫からは、技術的な友禅の基礎から始まる全てのことを、能川光陽からは、自分で感じたままの色や模様を表現することを。

一枚の作品の中で表現される一つの花、一枚の葉の自然な姿を大切にし、今でも「スケッチ」をすることに最大の労力を払っている。写実と一言で言うのは簡単だが、モチーフとなるものが自然の中でどのように輝いているのか、自分で感じる心がなければ、優れた作品は作れない。我々には、この感受性を持ち続けることなど至難である。それこそが、稀有な名品を生み出す源泉となっていると言えるのではないだろうか。

柿本市郎の落款は「市」。

 

最後にもう一度、全体像をどうぞ。

 

柿本市郎氏は「美の壺」の中で、加賀友禅の作家の基本はどんなに暑くとも寒くとも、外へ出て対象物を写生することと語っています。一つの花でも、夜明け前、朝、昼、夕暮れ時とそれぞれ表情が異なり、光の当たり方や、風のそよぎ方でも、変わるものだと。

これはどんな植物でも、出会うことが「一期一会」であり、たった一度の機会も疎かにせず、真剣に向き合うことこそが、作品を表現する心なのだと言いたいのでしょう。

 

作者のひたむきなまでの心が凝縮されている作品こそ、本当に大切にすべきものでありましょう。それを求められたお客様には、少しでも長く使って頂けるよう、我々は努力しなければなりませんね。

我々にとっても、素晴らしい作品と出会えた「一期一会」を大切にしながら。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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