バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

「伝統的工芸品」を考える(前編) 「本塩沢」に見る成り立ちと基準

2014.05 11

1974(昭和49)年といえば、今から丁度40年前。この年の最大の出来事といえば、田中角栄内閣が「金脈問題」で退陣し、米国でニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」で辞任したこと。

山口百恵の「ひと夏の経験」や森進一の「襟裳岬」が流行り、ベストセラーは有吉佐和子の「複合汚染」。セブン=イレブンの第一号店が東京江東区に産声を上げたのがこの年の5月。当時の大学卒の初任給は8万円ほどだった。

昭和40年代というのは、「高度経済成長」の成長・成熟期にあたり、それに伴う「ひずみ」が表れてきた時代ともいえる。公害問題や都市集中などが叫ばれ、環境問題への関心が高まりつつあった。「複合汚染」がベストセラーになったのも、このような背景によるものである。

そんな中で生まれたのが、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」、いわゆる「伝産法」である。この法律が作られた背景は、経済の発展に伴い、人々の日常生活から失われつつあった「伝統的手仕事品」を見直すことを主眼としていたこと。他方では、時代の変化により、不振に陥った「伝統産業」に頼らざるを得ない、地方の経済を立て直すことを目的としていた。

固い言葉で言えば、伝統的手仕事品の需要拡大と、産業振興による地域経済の活性化ということになろう。そして、「国のお墨付き」を与えることで、その品物の価値を高めると同時に、作り手に「伝統的」な技法を守らせ続けていくことにもなっていく。

 

呉服屋が扱う品物が、この、国のお墨付きである「伝統的工芸品」が多く含まれているのは、ご存知の通りである。法律制定から、40年。この国の生活様式も、経済状態も隔世の感があり、工芸品をとりまく環境も激変した。

今日から二回ほど、「伝統的工芸品」について、当店で扱っている品物を見ながら、その現状と将来像の話をしていこうと思う。

 

「伝統証紙」は、「伝統的工芸品」である品物の表示に用いられている。正確には「経済産業大臣指定伝統的工芸品」。このマークは、「伝産協会」により発行されている。デザイナー亀倉雄策氏の手による、「伝」の字と「日の丸の赤」をモチーフにしたもの。

伝統的工芸品への認定を目指すには、その事業体(協同組合)が経済産業省に申し出をしなければならない。組合等は、実際に工芸品を製造する事業者の過半数以上で構成されていなければならないが、認定後は、この事業体である組合に大きな責任が掛かってくる。

認定を受けた工芸品は、「伝統的工芸品」としての告示、つまり世間へ公表される。その際には、その品物の伝統的技術・技法、伝統的に使われてきた原材料、そしてそれが製造される地域も表示される。つまり、この三要件を満たしていないと、「伝統的工芸品」には成り得ないということである。

このマークの意味は、言うまでもなく、「伝統に則った手作り品」の証であり、消費者が安心して買うことの出来る印である。だから、貼り付けられている品物が、厳正な検査基準と検査方法により、合格したものでなければならない。そして、先ほどの事業体である組合がこの任にあたる。だから、組合の役割は重要なのだ。

上のマークの下に、アルファベットと数字で表記されている番号が見えるが、これは付けられている品物の「管理番号」であり、これにより生産者がどこの誰であるか識別できるようになっている。つまり、「製造責任」の所在が明らかに出来るということで、消費者に対する安心にも繋がっている。

1975(昭和50)年から、法律に従い伝統工芸品への指定が始まったが、呉服屋が扱う染織品に限れば、染めが11品目、織りが37品目、合わせて48品目ある。最初の年に指定されたのが、村山大島紬・塩沢紬・信州紬・本場大島紬・久米島紬・宮古上布・伊勢崎絣・加賀友禅・小千谷縮・小千谷紬・有松鳴海絞・弓浜絣の12品目。もっとも新しく指定されたのが、昨年の12月の秩父銘仙。

「伝マーク」の付いた「伝統的工芸品」には、それぞれに「告示」と呼ばれる基準が設けられている。それは、技術、技法、原材料が厳密に指定されており、そこから外れることは許されていない。これから、実例として、手元にある「本塩沢」を取り上げて、その内容を見ていこう。

 

(亀甲模様本塩沢絣 大丸織物  伝統的工芸品指定 本塩沢 1976・昭和51年)

塩沢町は、2005(平成16)年、新潟県南魚沼市に編入されてしまったが、「魚沼産コシヒカリ」の生産地として知られ、周囲を越後山地と三国山地に囲まれた雪深い盆地である。この町で生産される伝統的織物はいずれも「伝統的工芸品」の指定を受けている。それが、本塩沢・塩沢紬・越後上布である。

今日取り上げるのは、「本塩沢」だが、この織物が生まれたのは、「越後上布」の存在があったからこそである。製法を見ればそのことがよくわかる。それも含めて、「伝統的工芸品」としての指定を受ける条件がどのようなものであるか見ていこう。

 

まず、本塩沢が工芸品としてどのような「告示」がされているか、そこから話をする。使用される原料は、生糸。技術・技法には五つの要件がある。1・先染め平織りであること。2・経糸と緯糸の絣を手作業で柄合わせし、模様を織り出すこと。3・地糸の緯糸には米糊・蕨糊・布糊を用い、糊付け後「追い撚」をする事。4・絣糸の染色法は、「手括り」・「手摺り込み」・「板締め」・「型紙捺染」による事。5・「シボ出し」は「湯もみ」によること。

塩沢地方を含む越後の織物の歴史は、「麻織物」から始まる。奈良・天平年間には、すでに上布が朝廷へ献納され、正倉院へ収蔵されていた記述がある。以来、「越後麻布」は、上布の最高品としての地位を確立し、時には権力者への貢物として、時には地域経済を支える重要産品となっていった。

越後上布の原料は、言うまでもなく「麻」だが、この麻は「苧麻(ちょま)」とよばれる種類のものである。麻には、「大麻」・「亜麻」とこの「苧麻」などがあるが、それぞれそこから取られる糸質にも違いが見られる。

「苧麻」はイラクサ科に属する多年草植物であり、中国や東南アジアなどの南方に多く繁茂している。草の特徴は、丈が長く、その茎も長い。糸にするには、茎の繊維を細かく裂き、それを一本ずつ繋ぎ合わせる。こうして作り出された糸は、織り上げると、硬く強度のあるものとなる。その強さは、羊毛の4倍・綿の2倍にもなり、シャリ感とコシの強さが特徴となる。

ちなみに「亜麻」は、ヨーロッパなどの北方に広く分布しており、草の特徴は短く、低く、柔らかい。糸にして織り上げた時も、柔らかく、風になびくような風合いとなる。色も薄く茶色がかかった「亜麻色」。「亜麻色の髪の乙女」という唄があるが、その中に出てくる女性の「髪」の特徴は、しなやかで柔らかい、この「亜麻」のようなものということになる。

この「苧麻」を原料にした、「越後上布」の技法は江戸期にはすでに確立されたものになっていた。それは、絣模様付けが手括りでされていたことや、人と織り機が一体となって織り上げる「いざり機」を用いていたこと、シボ取りが「湯もみ」でなされていたことなどである。

この技法を応用し、「苧麻」ではなく、生糸を用いて絹織物が作れないものか、として考案されたのが「本塩沢」なのである。

 

7:3に絣と無地場が分かれた文様。細かい蚊絣が使われている。仕立て方の工夫で、柄行きが変わる品物。

本塩沢は別名「塩沢お召」の名で呼ばれることも多い。同じ塩沢でも「塩沢紬」の場合、使われる糸は真綿の手紡ぎ糸だが、本塩沢では、「お召糸」が使われる。この糸は強い撚りをかけた「強撚糸」であり、その糸の原則は、先錬りと先染め。

「告示」に従い、本塩沢の工程を追ってみる。まず、地糸の経糸と絣模様の経・緯糸ごとに糸を寄り合わせたあと、地の緯糸に撚りをかける。これが下撚りである。撚りの回数は経糸が1mあたり350回、緯糸は1800回。地糸の緯糸は、糊が付けられた後、もう一度強い撚りをかける。ここが告示要件の「追い撚り(上撚り)」に当たる。ここで糸に使う「糊」も「米・蕨・布」と限定されている。

この強撚糸こそが、本塩沢の特徴である、「シボ感」や独特の風合いである「シャリ感」を出す元になる。この品物の根幹とも呼べるものなのだ。

絣模様の図案が決まったら、「絣作り」をする。これが要件の4で決められている。すなわち、技法は「手括り」、「手摺り込み」、「板締め」、「型紙捺染」による色付けと模様付けである。この「手括り(てくくり)」は、越後上布の技法「絣くびり」を応用したもので、絣模様の図案に基づき作られた定規や紙テープにより、糸の束に墨で印を付け、くびり糸(綿糸)で固く巻きつけ染色する。この部分は防染され、絣になる。

「蚊絣」と呼べるような細かな十字絣。繊細な「手括り」による柄出しによるもの。

糸が完成したら、機織に移る。要件の2に当たるところだが、「経糸と緯糸を手作業で絣合わせする織り出し」は、人と機が一体となって織り上げる越後上布の技術の継承である。糸の張りの調整や、丁寧な経絣と緯絣の合わせなどは、「人の手」でしか出来ない技術である。

品物が織り上がったところで、「湯もみ」の作業。要件の5だが、これは、地の緯糸に使われた「強撚糸」が湯の中で揉まれることにより、戻ってゆくこと。それにより「シボ」と呼ばれる独特の地合いが生まれる。これも、越後上布の湯もみによる「シボ取り」の応用である。

黒無地のところで、生地の「シボ」感がよくわかると思う。

一通り、本塩沢における「伝統的工芸品」に指定される「要件」を見てきた。技法や技術を追っていくと、先行して作られていた「越後上布」から継承されていることの多さに気づかされる。

品物を通して共通するのは、やはり「地合い」ということに尽きると思う。「地合い」とは、あの独特な「シャリ感」である。上の画像でもわかるように、生地表面にある波のような「凹凸(おうとつ)」のある「シボ」に触れてみると、確かに「シャリシャリ」する。この感覚が、越後上布から本塩沢へ受け継がれたのだ。

原料こそ、「苧麻」と「絹」の違いがあるが、「着心地」や「肌触り」といった、「着る人の持つ感覚」を大切にして作られた品物ということが出来る。もちろん、品物にとって、色や柄行きは重要なのだが、それよりも本質的な、「質感」というところに主眼を置いたところに、「本塩沢」の最大の特徴がある。

 

先にお話したように、厳密に決められた技法や原料を管理、監督していくのは、「組合」である。本塩沢や塩沢紬は「塩沢織物工業協同組合」で製品検査がなされ、「伝」マークの証紙が貼り付けられていく。証紙の画像をみれば、「伝」マークとともに、組合独自の証紙も貼られているのが見える。

組合は、研修センターや織物会館などを作り、製品開発や、人材育成、さらには商品の普及に努力しているのだが、先行きは厳しいことも認識しているようだ。現在組合に所属する事業所は10企業、300人余りとされている。

今日、紹介した「本塩沢」を製作したメーカー、「大丸織物」も先年廃業してしまって、今はもう存在していない。組合の現状を聞いたアンケートでも、生産量と生産額の減少傾向は止まらず、企業の後継者と、職人の後継者それぞれが不足気味であることを答えている。将来像はなかなか見えてこないようである。

次回の後編では、「伝統的工芸品」に指定されている品物と地域の課題、またその将来像について、お話していこうと考えている。

 

「雪の中に糸となし、雪中に織り、雪中に酒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力半ばして、名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親といふべし。」

塩沢出身の江戸時代の随筆家、「鈴木牧之(すずきぼくし)」の「北越雪譜」の一節です。鈴木は、この作品で雪国の生活がどんなものであるか、を世間に知らしめました。塩沢の品物を語るときには、欠かせない書物でありましょう。彼自身は、縮の仲買人であり、それで財を成した資産家でもありました。

越後における「伝統的工芸品」は、今日取り上げた本塩沢のほかに、塩沢紬・越後上布・小千谷紬・小千谷縮・十日町絣・十日町明石縮と織物だけでも7品目。さらに、漆器の村上木彫堆朱、木工の加茂桐箪笥、金工の燕槌起銅器と越後与板打刃物、越後三条打刃物、そして仏壇の新潟白根仏壇と長岡仏壇。全部で14もの品物が工芸品に指定されています。

これは、雪に閉ざされた地域で、忍耐強く仕事をせざるを得なかった「越後人の県民性」と「地域性」の表れということも出来、鈴木牧之の言葉通り、「雪と人の気力半ばして」、モノ作りをしてきた証でもあると思います。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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