バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

この「おめでたい道具」は何だ? 宝尽し文様

2014.11 11

数日前から、小笠原諸島の父島の近くで、不法に「珊瑚」を採り漁っている「中国密漁船」のことが報道されている。

「宝飾品」と位置付けられている「赤珊瑚」は、希少であり「高値」で取引されるため、「一攫千金」を狙ってやって来るのだ。報道で見れば、何とも「粗末」な船であり、しかも「台風」が通過しても「帰らない」。まさに「命知らず」の連中である。

 

しかし、「珊瑚」を宝(宝物)とする歴史はかなり古いようだ。仏教の「無量寿経」の中で「七宝」と認定されているものがある。この経典は、「自分が成仏するためには、生あるものの苦しみを救うこと(一切衆生)」という大乗仏教の教えをまとめてある。

この「七つの宝」の中に、「珊瑚」が含まれている。この他の六宝は、「金」・「銀」・「瑠璃」(「瑠璃色の瞳」などと使われるように、澄んだ青い色の宝玉)・「玻璃」(透明な水晶)・「シャコ」(白い珊瑚)。

釈迦が生きた時代は、紀元前4,5世紀。その2500年前から「宝物扱い」されていたモノは、やはり現代でも「宝」なのであろう。

 

さて、「宝」ということになれば、文様の中にも「宝尽し」という、大変「おめでたい」吉祥文様がある。この文様には、様々な文物が使われ、表現されているのだが、その一つ一つには意味と歴史がある。

今日は、キモノや帯の中の「お宝」について、話を進めてみよう。

 

(黒地 吉祥至宝文 袋帯 龍村美術織物)

「吉祥(きっしょう)」というのは、仏教の中で「繁栄や幸福」を意味する言葉である。「吉祥天」という美しい「女神」は、「幸福や美、さらに富」をあらわす神として存在していた。

奈良の薬師寺に伝えられている、「国宝・麻布著色吉祥天像(まふちゃくしょくきちじょうてんぞう)」は、天平期に執り行われていた「吉祥悔過会(きちじょうかけえ)」のために作られたものとされている。「悔過会」とは、国の繁栄や民の幸福のために、「守護女神・吉祥天像」を祀る「宮中行事」である。

描かれている「吉祥天」は、両手を胸のところまで挙げて、左手には「如意宝珠」を持ち、緑の菱文様が描かれた衣装を着ている。この「宝珠」は、自分の意のままに宝物を生み出すことができる「魔法の玉」。形状は、よく寺や橋の欄干に付いている、「先の尖った円錐形」のちょっと不思議な形のものを思い浮かべて頂きたい。

この「如意宝珠(にょいほうじゅ)」も、「宝尽し」の文様の一つとして、使われることがあるが、現在使われている文物は、このような「仏教伝説」に由来したもの、すなわち中国(唐代やその後の宋代)から伝来したものと、その後「日本独自の宝物」として取り込まれたものとがある。

現在、「宝尽し文様」として帯やキモノに表現されているものは、この「二通り」の「宝物」が混在している。その一つ一つを見ていくと、それぞれの柄に意味があり、その「いわれ」が見えてくる。

これから、上の「龍村の帯」に表現されている「宝」を例として、話を進めてみよう。

 

帯上に表現されている宝物の数は、7,8柄。これが、やはり「吉祥」とされる「松・竹・梅」の花模様と混在して、付けられている。

 

「金嚢(こんのう)」または「宝袋(ほうたい)」。形からわかるように、財宝を入れる袋。これは「和製宝物」で、室町期の頃から、文様として定着したもの。

仏教的な唐様宝物(伝来したもの)には、最初で述べた様々な「玉」である「七宝」と、仏教の宝物を現した「八宝」(先の「如意宝珠」もこれに入る)さらに、それ以外の「雑八宝」がある。「和製宝物」には、伝来の宝物を「日本風」に表現しなおしたり、新たな「和製宝物」が取り入れられたりした。

 

「隠れ笠(かくれかさ)と隠れ蓑(かくれみの)」。どちらも、「姿を消す道具」つまり「危険から身を守る大切なモノ」として、「宝」の中に入れられている「和製宝物」。

「隠れ笠」と「隠れ蓑」が「宝物」であった記述が、平安末期の「軍記物」として描かれた、「保元物語」の中に見える。少し引用してみよう。

「昔まさしく鬼神なりし時は、隠れ蓑、隠れ笠、浮かび靴、沈み靴、剣などといふ宝ありけり」。これは源為朝が「鬼が島(現在の青ヶ島)」へ渡ったとき、島の住人に、「鬼の子孫ならば」その証拠に、鬼が持っているはずの「宝」を出してみろ、と問うた時の答えである。鬼だった時の宝の中には、「隠れ蓑や隠れ笠」などがあったと書かれている。

保元物語は、1156(保元元)年から始まった、後鳥羽天皇の後継を巡る崇徳・後白河天皇の確執に端を発した内乱であり、摂関家や、有力武家だった源氏、平氏それぞれの内部対立の様子を描きながら書き進められたものである。

このことから、「隠れ蓑」や「隠れ笠」が「貴重品」として扱われてきたのは、平安期からであり、「和製宝物」として、「宝尽し文様」の中に採用されている理由を伺い知ることができる。

 

画像の左が「打ち出の小槌(うちでのこづち)」。右が「分銅(ふんどう)」

「打出の小槌」に関しては、説明することもないほど「知られた宝」であろう。民間小説の祖とも言うべき「御伽草子(おとぎぞうし)」の説話や寓話の中には、この「小槌」がよく登場する。もっとも有名なのは、「一寸帽子」が使った「打出の小槌」であろう。

鬼が置いて行った「打出の小槌」を使い、自分の体を大きくしたり、食べ物はもとより、金銀財宝まで叩き出している。この道具は、「ドラえもんのポケットの中に入っているような道具」と同じで、「何一つ不可能なことはない」便利なものである。

もう一つの「分銅」であるが、これは、昔「両替屋」などが、金や銀の重さを量るために使われた「おもり」の形を表したもの。おそらく、貴重品をはかる道具ということで、「宝文様」の中に組み入れられたのであろう。

この円の両側を「くびれさせた」ような「分銅文様」は、現代でも意外なところに生かされている。社会科の教科書で「地図記号」のところを見ていただきたい。「銀行」を表す記号が、この「分銅」の形になっているはずだ。それもそのはずで、「銀行」は「両替商」だからである。

 

「宝巻(ほうかん)」。この「巻物」は、「仏教の教義書」であったり、代々伝わる「奥義書」だと想像できる。つまりは、「門外不出」の貴重品という意味として、「宝物」に組み入れられている。我々も、「巻物」などというと、なにか恭しい、貴重なものというイメージを持っている。

なおこの「宝巻」の表現には、巻物を斜めに交差して付けられることがあるが、これは別名「祇園守文」と名づけられている。何故かといえば、「祇園祭」で知られる京都の八坂神社の守り紋に、この文様が使われているからである。

 

「丁子(ちょうじ)」。インドネシアなど亜熱帯原産の「クローブ」のことだが、古来中国では、この花の蕾を乾燥させ「香料」として珍重していた。

正倉院へは、この丁子が香料としてばかりでなく、「薬品」として伝えられたことが記されていて、「鎮痛剤」や「におい消し」のための「貴重品」とされていた。

また、平安期の源氏物語の中にも、しばしば「丁子」に関する記載が見える。一つだけ引用しておこう。第三十三帖「藤裏葉」から。

「宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染の焦がるるまでしめる、白き綾のなつかしきを着たまへる。ことさら艶に見ゆ。」宰相中将が着ていた濃い直衣が、「焦げるような深い色の丁子染め」でなされていて、それと合わせた白い綾の着姿が大変優雅に見えたと書かれている。

平安貴族の間でも、「染料」や「香料」として使われた「丁子」という植物材料は、大変貴重なものだったのであろう。ただこれは、「和製宝物」ではなく、唐から伝わった「八雑宝」の一つに当たる。

 

「花輪違い(はなわちがい)」。10月のコーディネート「薄地色付け下げ」のところでもご紹介した、「七宝文様」である。「円」を重ねたこの図案は、「円満を繋げる」と言う意味があり、「宝尽し文」の中にも使われることが多い。

拡大したそれぞれの「道具」の画像が、かなり稚拙なものになってしまったことをお許しいただきたい。もう少し「撮ること」を勉強しなければと思う。

この帯にほどこされた文様には、他にも、「方勝(ほうしょう)」や「宝珠(ほうじゅ)」といった「雑八宝」からとられたものが見受けられるが、「宝尽し文様」としては、まだ紹介しきれないものもあり、またどこかでこの続きを書きたいと思っている。

最後に、もう一度この帯の全体像で、「宝尽し文様」の雰囲気を見て頂こう。黒地の他に白地の「同じ柄」の帯を一緒に写してみたが、同じ文様でも地色が変わるだけで、かなり印象が違うものとなるようだ。

「白地」の吉祥至宝文・龍村袋帯。

「白地」と「黒地」の同じ柄のもの。私には、やはり文様がはっきりと浮かび上がる「黒地」の方がインパクトが強いように思われる。ご覧の皆様にはどのように映るだろうか。

 

今日はおめでたい「吉祥文様」のお話をさせて頂きましたが、東京の方ならば、「吉祥(きっしょう)」という言葉から、「吉祥寺(きちじょうじ)」を連想されるのではないでしょうか。

そこで、最後に少し、「吉祥寺」という街の成り立ちをお話しましょう。バイク呉服屋が東京で暮らしていたのが、一つ隣の駅の「西荻窪」だったので、吉祥寺にはよく「歩いて」買い物に行ったりした、とても懐かしい街でもあります。

 

「吉祥寺」という地名が、「お寺の名前」から付けられたのは想像が付く所ですが、実在する「吉祥寺」は、現在「駒込」にあり、江戸の明暦年代までは「本郷」、その前は「江戸城内」にありました。

もともとこの寺は、江戸城を築城した「太田道灌」が室町期の1958(長禄2)年に建立したもので、それが徳川家康の江戸入城により、本郷駿河台に移されたのです。「江戸城内」にあった寺だけに、多くの大名や旗本の菩提寺ともなっていたのですが、以前お話した「振袖火事=明暦の大火」で焼失してしまいました。この時の火元が、同じ本郷にあった「本妙寺」だったので、それこそ、あっという間に焼けてしまったと思われます。

火事の前の吉祥寺の周辺は、門前町として賑わいを見せていましたが、焼失後、幕府がここに「武家屋敷」を作ることを決めたため、寺は「駒込」に移され、門前の住人も移転することを余儀なくされてしまいました。

幕府は、吉祥寺の浪士だった佐藤定右衛門と宮崎基右衛門と相談の上、門前の住人達の「立ち退き先」を、幕府の御用地だった「牟礼野(今の武蔵野市吉祥寺から三鷹市牟礼あたり)」に決め、順次移転させていきました。

当時の「武蔵野」は、丁度「玉川上水」の建設が進みだした頃で、多くの人達が、これを使いながら新たな土地を開墾したのです。そして、ここに移り住んだ人々が、昔住んでいた門前の寺「吉祥寺」の名を懐かしみ、残そうとして、この名前が付けられたのでした。

そんな訳で、実際の寺が「吉祥寺」にあるのではなく、「駒込」に存在するという、ちょっと不思議な街の名前となっているのです。

余計なお話がまた、長くなってしまいました。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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