バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

キモノの「袖」に注目してみる(前編) 「江戸期の振袖」にまつわること

2014.08 26

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は、よくご存知だろう。「華」という例えが適切かどうかは疑問だが、江戸市中において、大火災がかなり絶え間なく起こっていたという証でもある。

江戸の三大大火は、1657(明暦3)年1月の「明暦の大火」、1772(明和9)年2月の「明和の大火」、1806(文化3)年3月の「文化の大火」。中でも、「明和の大火」は、江戸城の天守閣を始め、多数の武家屋敷や町家を焼失し(大名屋敷500・旗本屋敷700・社寺300・町400以上が罹災したと伝えられる)、死者は10万人にものぼる。関東大震災や東京大空襲以前では、最大の厄災だった。

 

最初の「明暦の大火」は、別名「振袖火事」とも言われている。なぜこの呼び名が付いたのかには、「怪談めいた訳」がある。

この火災の火元は三ヶ所。真っ先に火の手を上げたのが、本郷丸山(現在の文京区本郷5丁目あたり)にあった法華宗の寺「本妙寺」。時は明暦3年1月18日(今の暦では3月2日)の未の刻(午後2時)頃のこと。

この日、本妙寺では、「寺と因縁のある振袖」を焼く「供養」が行われていた。この振袖には、「焼いて供養しなければならない訳」があった。長くなるが、お話してみよう。

この日を遡ること丁度2年前。日も同じ1655(明暦元)年の1月18日のこと、本妙寺に一枚の振袖が納められた。この振袖の持ち主は麻布の質屋、遠州屋彦左衛門の一人娘「梅野」であった。

この梅野の振袖は、紫のちりめん地に荒磯と菊を染め出した、袖丈の長い「大振袖」である。この品の色と柄は彼女自身の強い希望で誂られたものだった。それは、上野へ花見に行った時に出会った、一人の「寺小姓」が着ていた衣装に似せたもの。梅野はこの寺小姓の少年に「一目ぼれ」したのだ。

以来、この少年の「面影」を忘れることなく、着ていた「衣装」も忘れられなかった。そして、自分にも彼の衣装と「同じ色・図案」の「振袖」が欲しいと望んだのである。つまり「片思いペアルック」ということになろうか。

振袖そのものは、豪華絢爛たるものである。梅野は、これを着て、再び少年に出会う日を夢見ていたのだが、「病」に臥せり、亡くなってしまった。両親は「恋も知らず早世してしまった娘」の冥福を祈るため、思い入れのある「振袖」を菩提寺である本妙寺へ納めた。

 

さて、受け取った寺としても、こんな豪華な振袖をどうすることも出来ないので、古着屋へ売り払った。ところが、一年後の1656(明暦2)年、1月16日にまたもこの振袖が寺に納められた。今度は上野の紙商人、大松屋又蔵の娘、「おきの」の品としてである。寺では、再びこの品を古着屋に売り払った。

そして、翌年、この大火の年の正月、寺では三度この振袖と対面したのだ。今度は本郷元町の麹商人、喜右衛門の娘「おいく」の棺の上にかけられていた。

さすがに寺も、この振袖を手にした娘が、三人ともすべて亡くなるという「祟り」を諌めるために、「焼いて供養すること」を決めた。

本妙寺の庭で「振袖供養」が始まったのが、未の刻(午後2時)。読経のうちに火がたかれ、そしてついに、「因縁の紫ちりめんの大振袖」を火の中に投げ入れた。その時、突風が吹き、火の付いた振袖が舞い上げられ、本堂の屋根に引っかかった。そして、見る見るうちに、火は堂を包み込み、やがて寺から隣接する建物に次々と燃え移っていった。まさに、この振袖がはらむ「狂気」のようなものが感じられる。夭折した「梅野」が持つ、現世に対する「恨み」がこもっているのだろうか。

これが、「振袖火事」といわれる所以のことだ。今日の本題に入る前の前置きがまたまた長くなってしまった。

 

現代の「大振袖(加賀友禅)」。

「振袖」の「振り」とはどの部分のことなのか、そのあたりから話を始めてみよう。この形態のキモノ(小袖)が現われたのは、鎌倉や南北朝時代に遡る。この時代に見られた「脇を小さく開けた子どものキモノ」がその原型とされている。

「振り」とは、「あけられた脇」のことで、これが付けられたキモノが「振袖」であった。だから、現在のように「たもとが長いキモノ=振袖」なのではない。室町期になると、この形態が定着したが、「脇開け」のものは、15,6歳までと着用が決められていた。

近世の江戸期に入ると、この「脇開け小袖」は嫁に行くまでのもの、すなわち当時の結婚適齢期である16,7歳くらいに着用するものと意識され、20歳になる前には、「脇を閉じたもの=脇を留めたもの(これが「留袖」の由来でもある)」を着なければならなかった。

現代における振袖の「脇開け」部分。「袖付け」の下、両側に開いたところ。

画像上の身頃側の「脇開け」が「身八つ口」。下の袖側の「脇開け」が「振り八つ口」。袖側の「振り八つ口」が閉じられず、開いたままになっていることで、「振袖」の名が付いた。

現代のキモノの形態では、喪服にせよ浴衣にせよ、全ての長着にこの「振り八つ口」が付いている。つまり、袖側の脇は開けられていることになり、「形的」に言えばすべて、「振袖」ということになるのだ。もちろん、現在の「振袖」という名称は、振りの形ではなく、未婚の女性が着用したキモノという「用途」から付けられているのは、言うまでもない。

 

さて、江戸期の振袖に話を戻そう。先ほどお話した、「振袖火事」のエピソードの中で、この振袖が誂られる「きっかけ」のところを思い返して頂きたい。麻布の質屋の娘「梅野」は、上野の花見で出会った一人の少年の「衣装」を真似て、同じ色、柄の振袖を作らせた。ということは、少年が着ていた衣装が、「振袖」だったということになる。

この時代、「元服(13歳)」になる前の少年も、「振袖」を着用していた。それを裏付ける資料をご紹介しよう。

1687(貞享4)年に刊行された「男色大鑑(なんしょくおおかがみ)」。著者は、江戸の民衆生活を書かせたら、この人の右に出るものはいない「井原西鶴」。西鶴のことは、以前大晦日の掛け取りの話「世間胸算用」(昨年12月28日の稿)を紹介したが、これは「町人物」というジャンルにあたる。

西鶴の「浮世草子」の中でも、もっとも得意としたのが、「好色物」(いわゆる「性的」なもの・今でいう「アダルト本」)。昭和の「エロ小説」の三大巨頭と言えば、「川上宗薫・宇能鴻一郎・富島健夫」、これにSM小説の帝王「団鬼六」を加えれば、「エロ四天王」である。バイク呉服屋も若い頃、随分世話になった。今は、「映像」での「性表現」が氾濫しており、大変憂慮する時代だが、一昔前は、「巧みな文章表現」だけで「想像を膨らませてた」ような、なんとものんびりした、有る意味では、「健康的」ともいえる良い時代だった。

「昭和のエロ小説」を語り出せば、ブログ一回分では、足りないので、この辺りでやめておく。ともあれ、西鶴は江戸の「アダルトモノ」の分野でもトップランナーの位置を占めていた。

この「男色大鑑」は、その名でわかるように、「男色」つまり、「同性愛=ゲイ」の話である。その中には、大人がうら若い少年を愛するような「稚児愛」なる話が書かれている。今なら当然、「児童ポルノ禁止法違反」になる。具体的な内容はともあれ、この本には、当時の少年達が身に着けていた「衣装」も細かく描写されており、この時代の「服飾文化」を知る上では、貴重な記述になっている。

「小姓」などを勤めていた少年の振袖には、「裾模様」のものや「無地モノ」、「雲取りや縞」、また「総模様」ともいうべき、全体に柄が付けられていたものなど、様々な意匠があった。色、図案とも女性モノと遜色ないもので、その着方も同じだった。だから、「梅野」が「少年が着用していた振袖」と同じ衣装を誂ることができたのである。

つまりは、「振袖」というものには、男女の区別がなく、単純に「年齢」を表す品物であったことがわかる。男子も女子同様に20歳前になると、脇の開いた「振袖」ではなく、脇の閉じられた「留袖」を着用しなければならなかったのである。

 

袖における「振り」の話から、「丈の長さ」というところに話を移そう。

「大振袖」と「中振袖」の袖丈の比較。画像の上のブルー地の品物の袖丈は3尺(約114センチ)以上。下のレンガ地の品物は2尺5寸(約95センチ)

 

キモノというものの原型は「小袖」にあり、江戸時代にこの「小袖の意匠」が変化したことで、「袖丈の長さ」も変化していったと考えられる。江戸期以前の小袖の模様というものは、有る程度「固定化」したものだった。なぜならば、着用できる人は、武士などの「上流階級」の者に限られていたためで、「流行」と呼ばれるような変化にはなかなか至らなかったのだ。

江戸に入り、時代を追うに従って、一般町人の中から金銭的に余裕のある商人たちが現われ、その者によりあらためて「衣裳」というものが見直された。それは、今までの「小袖」に付けられていた模様や施しを進化させ、「贅を尽くした衣裳」になるような模様や柄付けが考え出されたのである。

これが、江戸初期(1615~24年)に流行した「慶長小袖」であり、その30年後(1658~73年)の「寛文小袖」であり、革新的な「友禅」という技法が生み出された元禄期の「元禄小袖」である。

慶長小袖は摺箔と刺繍、寛文小袖は鹿の子絞りと刺繍、元禄小袖は友禅と、それぞれ柄を付けるための技法に特徴があり、柄行きも年を経ることに、「大胆に自由に」しかも「豪華」になっていった。

もちろん小袖そのものに表現される柄行きや施しで、「豪華さ」を競っていったのであるが、それと同時に注目されたのが「袖の丈の長さ」だった。特に、「脇の開いた、振り八つ口」のキモノを、身に付けることができる「うら若き女性」の「小袖」は、「柄のあしらい」が豪華になるのと比例するように、「袖丈の長さ」が長くなっていった。

資料を見ると、「寛文小袖」が流行した頃の袖丈は、1尺5寸(約57cm)程度で、特に「長い」と思われる丈ではないが、「元禄小袖」の頃は、2尺2寸(約83cm)となり、さらに19世紀初頭の文化年間には、今の大振袖の寸法とほぼ同じ、3尺(約114cm)にまで長くなっていった。

「袖丈」が長くなるということは、それだけ、「袖の振り八つ口」も長くなるということであり、「若さ」を強調する意味もあったのではないだろうか。そして、これだけ袖が長くなると、もうそのキモノを「小袖」と呼ぶのには似つかわしくなく、それが「振りが長い袖のキモノ=振袖」という意味に変化していったと思われる。

 

今、ひと世代前の母親達が使った振袖を見ると、「中振袖」すなわち「袖丈・2尺5寸程度」の品物が多い。上の画像でみると、袖丈の短い方の振袖を参考にされたい。しかし、今の振袖を見ると、ほとんどが「大振袖」すなわち「袖丈3尺」で仕立てられている。もちろんこれは、女性の体格の変化(高身長になり、袖が長い方が見映えがするということ)が大きな要因であるが、同時に、より品物を豪華に見せることができるという、意識の「象徴」と見ることも出来るだろう。

ともあれ、現在の3尺という振袖の袖丈は、すでに200年も前から、形作られていたものなのであるが、改めて、この「振袖」という品の原点から歴史を辿れば、また違う見方も出来るような気がする。

 

次回は、今のキモノにおける「袖丈の寸法」について考えて見たい。キモノのアイテムにより変えられる袖丈の寸法。持っているキモノの袖丈が「まちまち」なため、襦袢の袖丈と合わないものが沢山ある、という人の話もよく聞く。

キモノの種別により、「袖丈」の変化はあるのか、また「標準」となる袖丈の寸法があるのか、またあるとしたら、それは守るべきものなのか、その辺りのことを中心として話を進めてみたい。

 

「江戸の華」だった「火事」と「喧嘩」は「リンクするもの」と考えられる説があります。どういうことかといえば、ここで使われている「喧嘩」というのは、「火事場での喧嘩」であり、「火消し同士の対抗意識」の果てに起されるものだということです。

「町火消し」が誕生したのは、1718(享保3)年のこと。発案は当時の南町奉行大岡越前守忠相、あの大岡越前です。この時「町火消し」に採用されたのが「鳶職人」達。彼らは身軽に飛び回り、また「家の構造」にも詳しいことから、火を消す仕事にはもってこいの業種。これ以前はそれぞれの町には、「火消し」はなく、「定火消し」という各藩の武家屋敷を守るための「火消し」しか存在しませんでした。

町ごとに作られた火消しは、「いろは48組」に区分され、それぞれ「町の名誉と誇り」を持った集団でもあったのです。だからこそ、他町の組との「対抗意識」も強烈なものがあり、それと同時に、それまでの火消しを一手に引き受けていた「定火消し」に対する意識や反発も相当なものだったのです。

この「火消し同士」が火事の現場で、消火の仕方や仕事の手順において「仲たがい」をして「喧嘩」になることは、「日常茶飯事」。それで「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれたと解釈できるようです。

また、長い稿になってしまいました。飽きずにここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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