バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

組紐、その奥深き世界(前編) 日本の伝統美を結んできた歴史

2019.09 09

数十本の糸を一つに束ね、一定の法則で斜めに交差させながら紐のように組み込んで作るのが、組紐である。その起源は古く、今から一万年以上も前の縄文時代にまで遡る。

日本草創期のこの時代に、縄文と名前が付いた理由は、言うまでも無く「縄文土器」を使っていたからだが、土器表面の「縄目」は、焼く前に紐を押し付けたり、紐の上で転がしたりして付けたもの。この時使っていた紐は撚紐と組紐だが、中でも組紐には、四本の糸を用いた丸紐と、三本の糸を用いた平紐があり、それぞれの紐を用いて文様を付けたと類推される土器が出土している。つまり、すでにこの時代には、現代に通じる組紐の原型が形作られていたと言えるのだろう。

この縄文期以来、組紐は時代ごとに様々な道具の中で、広く使われてきた。だが現代になると、この技術は、帯〆や羽織紐のような限られた和装品でしか見ることが無くなり、多くの人にはあまり馴染みの無いものとなっていた。しかし3年前、一本のアニメ映画を通して、組紐は、多くの若い方々に注目されることになる。

 

2016年に公開されたアニメ映画・「君の名は」。観客動員数は2000万人にも昇り、その興行収入は250億円以上。世界125か国で公開された日本映画史上に残る作品である。

この映画は、東京に住む男子高校生と、岐阜県の飛騨地方に住む女子高校生の体が入れ替わるところから、物語は始まる。岐阜の女子高生・宮水三葉は、「糸守町」にある「宮水神社」の孫で、巫女を務めているが、設定では、この社が古くから組紐の技を伝承していることになっていて、巫女が丸台を使って紐を組むシーンも出て来る。映画の中で組紐は、二人を結びつける重要なアイテムとなっているが、それはおそらく、人と人とを結ぶ象徴として、組紐が意識されていることに他ならないだろう。

 

映画の中では、ブレスレットあるいは髪をまとめる紐として、組紐を使っていたが、公開後には、同じモノを使ってみたいとする若い人が殺到し、組紐屋は時ならぬ注文に多忙を極めたらしい。「君の名は」は、多くの人に、日本の美を表現する伝統的な技・組紐を、改めて知らしめるところとなり、その意味でも、大変価値のある作品になった。

そんな訳で、今日から三回に分けて、組紐の話をしてみたい。まず最初はその歴史について、そして次回からは、組紐の技術を最も具現している帯〆で、その多様な技法と、それぞれの使い道を見ていきたい。

 

最もオーソドックスな帯〆・冠(ゆるぎ)組。一色で組まれた無地紐は、袋帯・名古屋帯を問わず、多様な場面で使われている。

先述したように、すでに縄文期には紐を使った文様装飾がなされていたが、時代が進むうちに、紐は服飾に取り入れられていたことが、遺物からも判っている。例えば、縄文晩期の遺跡として知られる青森県・亀ヶ岡遺跡からは、縄の衣と袴を付けた土偶が発見されていて、この時代人々は「縄衣」をまとっていたと想像が付く。

さらに、弥生から古墳時代にかけては、胸に紐を付けた衣服を着た女性埴輪や、袴の上から膝で結ぶ紐・脚帯(あゆい)を付けた姿の男性埴輪が見られ、鎧・短甲の縅に使用されたとみられる紐の残片も、出土した化石に付随している。また、刀や鏡に付いていた紐も残っており、その形状は、現在の角組(角八つ組)と同様のものがある。

 

菱文様の平紐・唐組(からくみ)。奈良期に伝来した笹波組を応用した組み方で、主に平安期以降に作られるようになったが、正倉院や法隆寺の遺品の中にも見られる。

組紐も、多くの染織品と同様に、大陸や朝鮮半島との交流が始まった飛鳥、奈良・天平期になると、高度な技術と鮮やかな色彩配色が伝来したことで、大きく発展した。元来、単純な三つ組、四つ組で作っていた紐は、技術革新を経て精巧な姿に変わり、新羅組(安田組)や高麗組、さらには奈良組、唐組、笹浪組など、多様な組み方が生まれている。そして現代まで受け継がれている技法の多くが、この時代を基にしている。

法隆寺に残されている最も古い聖徳太子の肖像画・唐本御影(とうほんみえい 聖徳太子及び二王子像)を見ると、組紐で刀を吊る姿の太子像が描かれている。そしてこの当時、寺堂の内外を飾る荘厳具・幡には、組紐で垂飾りが付けられていたが、この組み方が上の帯〆に見えるような「唐組」であった。

唐組帯〆を近接して写してみた。こうすると、菱文が浮き上がった組紐の形状が判る。

法隆寺には、太子の遺品・組帯の中に、もう一つの組紐残片が残されているが、これは唐組のような菱文ではなく、矢羽根のような形状になっている。組織的には唐組と同列であるが、矢羽根の方が組み方としては簡単で、伝来した時期も唐組より早かった。

この矢羽根模様は、ある場所で逆方向に組むと、模様が菱形になり、唐組となる。矢羽根は、江戸中期になって「笹浪組」と称されるようになったが、いずれにせよ、唐組・笹浪組ともに、今も華麗な組紐の代表として、作り続けられている。

 

平安期になると、大陸に影響を受けた前代と異なり、日本独自の色使いや技法をアレンジした組紐が作られるようになる。この辺りも、他の染織品同様に、いわゆる「国風化・和風化」の様相が見えている。

この時代は、王朝貴族の装束、例えば十二単に見られるような、華麗で美しい色に彩られた衣装を用いたために、染色技術が発達し、組紐にもその影響は及んだ。それは天平期の組紐の色が、錆朱や臙脂、紫など濃色が主だったのに対し、クリーム系などの繊細な薄色を使うようになったことでも判る。

そして組み方にも創意工夫がなされ、職人達の高度化した技術を使った複雑な組紐が生まれた。それは、従来の技法を組み合わせて、新たな組み方を開発したものが多く、例えば、奈良組と角八つ組を併用した御岳組が生まれ、さらにこの御岳組を二本繋いだ中尊寺組と、三本繋いだ四天王寺組が生まれるという具合に、新たな組み方が次々と生みだされていった。

また中世以降は、貴族文化が花開くとともに、武士が勃興してきたことで、組紐の需要は増大する。「結ぶ・縛る」という機能的な役割を果たすことはもちろん、そこには装飾的な要素を含ませることが求められた。それは時代と共に、装束だけでなく、武具や装身具など広範囲に及んでいった。

 

貝のように堅く組まれた紐ということで、その名前が付いた貝の口組。その多くが、太刀の緒や下げ紐として使われた。武家社会を代表する組紐の一つ。

中世も、鎌倉期以降の封建社会になると、組紐は太刀や鎧、直垂など武士の道具や装束に使うことが中心となっていく。特に鎧には、縅の紐や繰締(胴を締める紐)の他に、肩を吊る高紐、脇を締める引合の紐など、数え切れないほどの紐が使われていたが、そこには技術に裏付けされた組紐の華麗な美しさが全て網羅されており、武具と言うよりもむしろ美術工芸品であった。

しかし室町、戦国期になると、組紐は低迷期を迎える。戦乱の時代だったので、当然鎧や甲冑などの武具の需要は高かったものの、数を量産しなければならず、その仕様は実用性が重視された。その結果、美術的な要素が強かった鎌倉期と異なり、紐の結びやすさとか、伸縮しやすい丈夫なものとかの、機能的な質を求めることになった。

もちろん紐の色も、平安・鎌倉期のような色とりどりの美しい姿はどこにもなく、紺とか濃緑色のような、素っ気ない一色だけのものが多かった。そして戦乱が進むと、武具そのものの製造が需要に追いつかなくなり、紐は組紐ではなく、革紐を代用するようになっていった。

またこの時代は、茶道が始まった頃とも重なるが、組紐は、茶道具や手箱、掛け軸などにしつらわれ、茶人達にも愛用された。だが、その色調は、静寂や質素を旨とする「侘び寂び」の思想から、茶や鶯の渋い色が多く使われており、平安・鎌倉期のような美術的な華やかさは消されていた。

 

金糸で亀甲模様を表した貝の口組。江戸時代、武士の魂・刀の下げ紐には貝の口組紐を使うことが多かったが、武士が求めたものは、華やかな美しさではなく、目立たない中にも工夫を凝らした「粋なセンス」だった。

戦乱の時代が終わって平穏な江戸の世を迎えると、組紐の需要は、庶民にまで広がりを見せる。それまでの時代は、貴族や武士、一部の特権階級の者だけが組紐に触れていたが、商品経済が活発になるに従い、次第に力をつけた町人も増えて、庶民の間でも様々に組紐を使うようになっていった。

武士は、太刀や脇差の下げ紐、刀の持ち手・柄巻(つかまき)の糸、さらに刀袋の房に、自分らしい組紐を使い、庶民は、鏡台や襖など室内用度品の飾りとして、また手提げ袋の緒や髪飾りの紐に、洒落た組紐を求めるようになっていく。こうして需要の増えた江戸では、次第に組紐職人が集まるようになり、後にこの人々によって「江戸組紐」の伝統が築かれていくことになる。

 

そして、組紐の需要をさらに高めたのが、帯〆の出現であった。以前ブログで、帯の歴史を振り返ったときにお話したが、江戸初期までの帯は紐のように細く、それが時代を経るにつれて広くなり、江戸後期になってようやく、現在のような形に落ち着いた。

江戸の人々は、帯巾が広がったことで、様々に帯結びを工夫したが、1817(文化14)年、江戸・亀戸天神への渡り橋として、太鼓橋が完成した際、渡り初めに招かれた深川の芸者が、この橋の形に似せた帯結びをしてきた。これが、今に続く最もポピュラーな帯結び・お太鼓結びの始まりだが、この時芸者は、帯が解けないように丸ぐけの紐を用いた。この帯を安定させる止め紐こそが、帯〆の始まりであった。つまり、お太鼓という帯の結び方が、帯〆という道具を呼び込んだのである。

その後、お太鼓結びが流行するとともに、帯〆も流行し、人々はこの紐を、帯のアクセント、あるいは着姿のポイントと考えるようになり、紐の色や組み方にも美しさや個性を求めるようになっていった。

なお羽織の紐は、帯〆よりも古い歴史を持ち、室町期の道服(公家の男子が家庭で羽織る上着)の胸紐が、その発端とされているが、江戸期になり、羽織の形が変化するに伴って、様々な羽織紐を用いるようになった。そしてその組み方も、八つ組から平組、丸組、内記組へと、時代を経るごとに変化している。

 

明治以降は、それまで組紐に大きな需要があった武士たちがいなくなり、中心は、帯〆と羽織紐に移った。お太鼓結びが定型化したことで、帯〆は欠かせない道具となり、女性が羽織を着用するようになって、羽織紐の需要は大きく伸びた。

そして現在、組紐の技法は、帯〆と羽織紐にほぼ集約されていると言っても良いだろう。実際に、この二つ以外で組紐を使っているものは、ブレスレットやストラップ、髪を結ぶ紐などがあるが、その需要は決して高くない。その上、和装そのものの需要が落ちているために、和装小物として製作される数も減り続けている。

 

和の装いがある限り、帯〆や羽織紐が消えることは考えられず、その意味では、どうしても必要なアイテムである。現在では、伝統的な技法に則った人の手組み紐は少なくなり、機械で組んだものや、中には海外で組まれるようなものも多くなっている。どんな品物でもそうだが、使う人が品物の質を理解して選ぶようにならなければ、上質なものは残っていかない。

帯〆や羽織紐に代表される組紐は、使っているうちに質の良し悪しが判る。今日の稿では、駆け足でその歴史を振り返ってきたが、一本一本組まれた紐には、長い間受け継がれてきた職人の技が、そこに凝縮されていると言えるだろう。次回は、紐それぞれには、どんな組み方がされていて、それはどのような場面で使うものなのか。実際の品物をご覧頂きながら、話を進めることにしたい。

 

昨日、このブログを訪問された方が、100万人に達しました。書き始めて6年4ヶ月になりますが、これだけの方が読んで下さることになるとは、当初想像も付きませんでした。

お世辞にも上手な文章ではなく、ただ長く、判り難さ満載の駄文ですが、これが少しでも読まれた方のお役にたっているとすれば、とても嬉しいことです。そしてまた、呉服屋の仕事や扱う品物に関心を持って頂けたのであれば、ブログに込めた私の目的は果たせたと言えましょう。

今日は結んで使う組紐のお話をしましたが、私と皆様を結ぶ紐は、このブログです。このページに辿り着き、稿を読まれたことも何かのご縁。読者お一人お一人の姿を拝見することは出来ませんが、出来る限り長くご縁を結ぶことが出来るように、これからも自分なりのペースで書き続けていきたいと考えています。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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