バイク呉服屋の忙しい日々

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「取引」ではなく、「商い」をすること ブログ公開から5年目を迎えて

2017.05 15

たまに読者の方から、「ようやく全ての稿を読み終わりました」などと記されたメールを頂くことがあります。このブログでは、だいたい一度の稿が、4000字・400字詰原稿用紙で10枚分の長さ。これが4年分で、350回以上もあります。

文章の構成はとりとめがなく、言葉の使い回しも下手くそとくれば、よほどの忍耐力がなければ、読み通せるシロモノではありません。ですので、我慢強く丁寧に読んでくださる皆様には、どのように感謝してよいのかわかりません。

ブログ公開から5年目を迎えた今、改めてお礼を申し上げます。

 

さて、4年といえば、大学の就学年数と同じですね。入試をくぐり抜け、希望を胸に入学した者が、様々な出会いと経験を経て、社会の一員になっていく。学生時代は、自分の生き方や未来について存分に思考することを許された、モラトリアム(猶予された)な時代。人生の中で、一番贅沢で、大切なひとときでありましょう。

自分を振り返ってみても、若い頃の過ごし方が、今の生き方に対して、間違いなく影響を及ぼしています。今日は節目の日なので、呉服屋としての4年間を振り返りつつ、これから自分の仕事の進むべき方向などを、少しお話してみたいと思います。

 

今日のウインド。青磁色の紗袷訪問着と白地の紗唐織袋帯。

この4年間の中で、呉服屋の仕事として大きく変化したことは、ほとんどありません。お客様一人ひとりと、丁寧に向き合いながら、希望をお伺いし、品物を提案したり、手直しをすすめるという商いのスタイルは以前と、全く変わりません。

ただブログを公開したことで、新しい若いお客様と多くのご縁が出来たことは、事実です。県内だけでなく、電車や車を使って、遠方からお見えになられる方もおられます。特に、沢山の直しモノを抱えて来られるような方には、本当に申し訳ないような、それでいてとても嬉しいような思いがありますね。

名も無い小さな呉服屋が書く、こんなつたないブログでも、それを読んだことにより、ここまでの信頼を頂ける。任せて頂く私としても、責任が重く、これまで以上に気が引き締めて、仕事に掛からなければならないと思います。

 

「相対でなければ仕事は受けない」などというバイク呉服屋のような店は、現代では化石のようなもので、効率や利便性には全く欠ける仕事のやり方でありましょう。

大勢の消費者を相手にし、沢山の品物を売る。取引の量が増えれば増えるほど、利益も上がる。そして知名度が上がれば、次第に規模も大きくなり、店として成長していく。どんな大きな企業でも、小さい店でも、事業を司っている経営者なら、この方針から逸れることは、ほとんどないと思われます。

そのためには、出来るだけ消費者と効率よく繋がり、モノを買ってもらうシステムを作ること。ここに力を注ぐことは、これまた当然のことなのです。そして、決済は、スムーズに間違いなく受け取れるような形を取る。「早く売って、早く回収する」というのは、現代の鉄則になっています。

 

売り手は、相手の顔が見えなくても、どこに住んでいようとも、全く構わず、ただモノが売れていき、確実にお金が入りさえすれば、それで良い。また、買い手は、誰がどこでモノを扱っていようと構わず、望むモノを納得出来る価格で、すぐに手に入れば、それで良い。

売り手と買い手の間で直接繋がることはなく、モノとお金だけがやり取りされていく。当然そこには、感情が行き交うことはなく、無機質な関係でしかない。ITの出現は、売り手と買い手が自己の利益だけを追い求めることにおいては、大変優れた役割を果たす道具と言えましょう。

 

私には、この便利な道具・ITを使った無機的なやり取りが、「取引」であり、感情のある有機的なやり取りは、「商い」だと思えるのです。

「取引」を意味する英語は、transaction。この語源は、transactで、「向こう側に行動する」という意味を持ちます。つまりは、モノそのものが、売り手から買い手へと移動するということで、この単語が生まれたのでしょう。transactionは、他に処置するとか、取り扱うという意味でも使います。

一方、「商い」を意味する英語は、trade。これは、trace、あるいはtrackといった言葉から派生したようです。traceもtrackも、「通り道とか轍(わだち)」という意味があります。ということは、モノが行き交う過程を重要視したことから派生した語と、考えられるのではないでしょうか。

 

二つの言葉を比較すると、売り手と買い手の間で渡される「モノだけ」に視点が置かれた「取引=transaction」は、無機的であり、「モノをやり取りする道のり」が重視される「商い=trade」は、有機的と捉えられるでしょう。

つまり、商いとは、モノを間に挟んで、売り手と買い手の間にどのようなやりとりがあったか、それこそが本質であるということが、判ります。重箱の隅をつつくような、語彙のこじつけかも知れませんが、やはり品物の通る過程が尊重されなければ、確かな商いにはならないと思うのです。

今の事業者や消費者の動向を見ると、ほとんどが、商いよりも取引にシフトしています。けれども、商いには、品物を求める相手までの道を辿る楽しさがあります。苦労してたどり着いたからこそ、相手に対する感情も湧き出します。モノそのものに感情がある訳ではなく、それを使う人の思いがモノに宿ります。モノが行きかう過程を重視するというのは、求める方の気持ちを尊重することに繋がるように思えます。

経営なので、利益を上げることは大切なことですが、それ以上に相手と気持ちが通い合うことが、商いの本質ではないのか。それを貫くことこそが、自分らしい生き方になると信じて、この先も仕事を続けたいと思います。

 

今日の店内。 単衣向きの白やベージュ色の小紋・紬・名古屋帯が並ぶ。

さてこの4年間、私の商いの方法は変わることはありませんでしたが、モノの作り手や、流通させる問屋、さらに加工を受け持つ職人達など、呉服屋の仕事を取り巻く環境に変化はあったのか、考えてみましょう。

手を尽くした友禅や、精緻な模様の手織り帯などは、購買層が限られるものであり、それに伴い生産数も限られます。そして、モノ作りの工程が職人別に細かく分かれていること、すなわち分業であることが、年々生産を困難なものにしています。

 

例えば、高価な金や銀の引箔帯の原料となる箔糸を作るには、まず、箔を和紙に巻き付け、それを裁断しなければなりません。箔作りは専門の箔屋があり、職人の手で原紙である和紙に漆を塗り、そこに金や銀の箔を押していく。出来上がったものは、裁断屋に回され、そこで細かく刻まれる。それが、撚(より)屋に渡って、芯糸とともに撚られることで、初めて金銀の箔糸になる。

金や銀を、金属から糸に変身させていく。この「錬金術師たち」がいなければ、原料が生まれてこない。すなわち、この糸作りの工程のうち、一つでも欠けてしまえば、引箔帯を織ることが出来なくなるのです。現在、専門に箔を裁断する職人の家は、わずか二軒にすぎません。他の現場でも、職人の高齢化と後継者難により、技術を受け継ぐ者が本当に少なく、このままではそう遠くない未来に、生産が不可能になってしまうでしょう。

「作りたくとも、作れない時代の到来」は、メーカーが一番恐れることですが、有効な解決策は見当たらないのが、現状です。帯を例に取りましたが、友禅の工程でもほぼ同じ状況が見受けられます。

 

また、メーカーがきちんとモノ作りをして、市場へ送り込んでも、扱う小売店が少なければ、品物は捌けていかず、それは次の生産にも大きく影響を及ぼします。

先日やってきた竺仙の担当者が、こんな話をしていきました。「うちの品物は、予め上代価格(小売価格)がきっちり設定してあるため、店で勝手な値段を入れる訳にはいかない。そのことが、扱う店を狭めている」。

どういうことかと言えば、呉服屋にとって、守らなければならない竺仙の設定価格は、他の品物と比較して掛け率が少なく、売っても儲けがあまり出てきません。つまり、商売として「旨みの少ない品物」ということになります。だから、利益を優先する店では、竺仙の品物の質がいくら良くても、扱うことはないということです。

品物の質に目を向けない小売現場の「志の低さ」は、売り手の質の低下ばかりか、きちんとモノ作りをしているメーカーの未来にも、影を投げかけているのです。

 

最後に、加工職人の話をしましょう。昨年の8月、うちの帯加工や難しい補正を引き受けてくれていた西陣の植村商店さんが、突然廃業しました。「仕事を受ければ受けるほど赤字」だったことが、直接の原因でした。私は、仕事を依頼する限り、職人側がきちんとした利益が出るような工賃を取ることに何の遠慮もいらないと思うのですが、思うような価格設定にはなっていませんでした。

手直しや補正の仕事は、うちのように小売屋が直接職人に出すことは少なく、大概自分の取引問屋を通して、依頼します。そうすると代金には、職人の工賃だけでなく、扱った問屋の口銭も上乗せされてしまいます。おそらくこんな流れが、職人の正当な賃金を奪ったのでしょう。扱い問屋は、自らの口銭を増やすために、職人の工賃を低くさせていたと想像が付きますから。

 

優れた腕を持つ加工職人の廃業は、きちんとモノを直そうとする店にとっては、計り知れない打撃になります。それは今の時代、変わりになる人を簡単に探すことなど出来ないからです。うちの場合、西陣に人脈を広く持っている買い継ぎ問屋の山田さんと懇意だったことで、すぐに優れた職人さんを探すことが出来ましたが、そうでなければ途方に暮れていたことでしょう。

この「後がいない加工職人」の問題は、これからもっと厳しい現実と向き合わなければなりません。職人の欠乏は、直したくても直せない、あるいは、縫わせたくても縫う人がいないという、仕事の存亡そのものに関わってくるからです。

 

最後は、呉服屋の暗澹とした未来予測の話に行き着いてしまいました。けれども小売の者は、少しでも上質な品物を扱うことと、丁寧に手直しをしていく努力を怠ってはいけません。仕事に携る職人が一人でもいる限り、その技術は生かすべきであり、またそのことを消費者の方々にも、知って頂きたいと思います。

これから呉服業界がどのような時代を迎えるのか、想像も付きません。そして、私がこの仕事に携れる時間は、あとどのくらい残っているのか、それもわかりません。

けれども、この先このブログを通して、読まれる方が少しでもこの国の民族衣装のことを理解して頂けたら、こんな嬉しいことはありません。つたない文章ですが、これからも書き続けていきたいと思います。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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