バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

師匠と弟子、加賀友禅の作品を比べてみる  押田正義と村田幸司

2026.10 18

「盗んで、覚えろ」という新人の育成方法は、昭和の時代のこと。具体的に指導するのではなく、仕事のやり方を見せて、これを学び取らせる。つまり、自分で自発的に学習する意思が無ければ、いつまでたっても成長せず、ひいては、一人前として認められることはない。これは、本人に仕事への意欲が無ければ、難しい修練である。

そう言えば私も、父親から売り方や接客方法を教わったことは、一度もない。こういうお客さまが来たら、このように応待せよなどという、通り一遍のことが通用するような商売ではない。無論、キモノのことが何もわからない駆け出しの頃は、来客者と言葉を交わすことも出来ない。だから、ひたすら商いの様子を見て、そこから品物の提案の仕方や、コーディネートの方法を盗んだ。しかし、商品知識や誂えや加工のことが理解できていなければ、商いが出来るようにはならず、モノなど到底売れるはずはない。

店にいる将来の後継者が、聞かれたことにまともに答えられない。これでは、信用そのものが失墜する。つまり、暖簾に傷を付けることになってしまう。しかし、それでも親は教えない。ひたすら、成長を待つのである。早く覚えようとしても、それを商売の実践で生かせるようになるには、とにかく時間が掛かる。私が、マトモにお客さんの前に立てるようになるまで、5年以上は十分に掛かっている。そして少し自信が持てるようになったのは、10年ほど経ってから。40代も後半になってから、ようやく仕事で困ることが少なくなったが、未だに、経験したことの無い加工仕事にぶつかり、難儀することがある。呉服屋の仕事は、本当に一筋縄ではいかないと思う。

 

小売の現場もそうだが、モノづくりや加工の現場ともなると、もっと「見て覚えろ」という空気が強くなる。いわゆる徒弟制度が、長い間伝統産業の現場を支えてきたのは周知の通りだ。師匠の仕事場に弟子入りし、最初は身の回りの世話や下仕事だけで、技術的なことは何も教えてもらえない。そんな下積みを数年重ねていくうちに、師匠の仕事を見て技術を理解し、徐々に自分のものとしていく。

今日は久しぶりに、昔の良品をご紹介するノスタルジアの稿を書くが、ここでは二点の加賀友禅・黒留袖を取り上げてみる。一点は昭和の加賀友禅、そしてもう一点は平成の加賀友禅。この二点は、師弟関係にある作家が、各々に描いた作品である。

師を頼って、厳しい加賀友禅の修行に入った弟子。背中を見て育った弟子の作品と、師匠の作品には、どんな共通点があるのか。また、それぞれが描いた意匠や挿し色には、どんな特徴があるのか。二つの作品を見比べながら、改めて伝統産業における技術の継承や、後継者の育成ということにまで考えを及ぼしてみたい。

 

(昭和の加賀友禅  師匠・押田正義の作品  1980年代)

(平成の加賀友禅  弟子・村田幸司の作品  1990年代)

加賀友禅の作家になるためには、まず工房を持っている師匠のところへ弟子入りし、そこで友禅の全ての工程を実践の中で学んでいく。まず図案の作成から始まって、生地の仮仕立てをして、そこに青花で下絵を描いた後、糊で糸目を引き、模様の彩色をする。そして下蒸しを施してから、模様に地色が入らないように糊で中を埋め、地染を行う。そして最終工程の本蒸しを施し、余計な糊や染料を落とす水洗い(友禅流し)をして、仕上げをする。この工程を、一つ一つ理解して行かなければ、作家への道は開けない。

こうした師匠の下での修行期間は、5~7年以上。これは、加賀友禅の作家として認定する時の、一つの基準として決められている。そしてこの期間を経て、独立するだけの技術が身に付いたと師匠からお墨付きをもらい、さらに師匠以外にもう一人、加賀染振興協会の会員=すでに認定されている作家からの推薦を得て、初めて協会へ会員として入会することが出来る。そしてこれが、技術を認定された者としての証明となり、ここでようやく、自分の作品に「落款」を入れることが出来るようになるのだ。

 

無論、師匠は最初から仕事など教える訳はない。おそらく最初は、工房の掃除や仕事の準備、片付けなど下働きをするだけ。その中で工房の雰囲気を感じ取り、兄弟子がいれば、その仕事を見ながら手伝いをし、徐々に仕事を理解していく。何年か経つ間に、自分で対象物をスケッチし、図案や構図を考えていく。誰も、何を描けとか、このようにモチーフを見ろなどと言ってはくれない。それこそ、自分で考えるのである。

であるから、作家となる第一歩は師匠の作品や兄弟子の作品を、観察するところから始まると考えても良いだろう。だから、図案の描き方やモチーフの切り取り方などは、どうしても影響を受ける。最初から、自分の作風が確立出来ている人などおらず、たとえ「こんな作品を描きたい」と理想はあったとしても、実際に形に出来るのは、ずっと後のことになる。

そして、師匠の仕事に影響を受けながらも、次第に自分なりの図案の描き方や色の挿し方、さらに構図など、いわゆる「作家としてのオリジナリティ」が表れるようになる。友禅の基礎が身に付いているのはもちろんとして、おそらく、作品に独自性が発揮できているか否かが、作家として独立できることを見極める基準になっているのではないか。技術的には作家のレベルに達していても、作風が師匠と瓜二つでは駄目なはずだ。

前置きが長くなったが、師匠と弟子それぞれが描いた加賀友禅、どこに共通点があり、どこに個性が発揮されているのか。これから、二つの作品を見ていくことにしよう。

 

(遠山に四季花筏模様 加賀友禅 黒留袖・押田正義 1980年頃)

師匠・押田正義の師匠は、人間国宝の木村雨山。雨山が育てた直弟子六人の中の一人で、兄弟弟子には、毎田仁郎や金丸充夫、松本節子がおり、いずれも昭和期の加賀友禅を支えた錚々たる作家たちである。

雨山もそうだが、その弟子たちの作品には、加賀友禅の本流である「絵画的」な意匠が並ぶ。写生を重視し、モチーフを日本画のように写実的に描き、それを加賀の基本色・加賀五色を用いて挿す。上品さと華やかさが同居する美しい模様姿が特徴的で、それはいわゆる、加賀友禅の王道を行く作品とも言うことが出来よう。

模様は、上前衽の剣先のすぐ下から始まっており、裾廻りだけに描かれる黒留袖としては、かなり高い位置にある。上前衽と身頃にかけて、四季の花々を山のように重ねた図案が見えるが、これが着姿の中心であり、同様の花の山は後身頃と下前身頃にかけても付いている。これだけ模様中心の位置が高いと、小柄な方が着用すれば、中心図案がおはしょりの中に入ってしまい、着姿には出てこない恐れもある

また下前に入ってしまうところには、通常では模様をあまり付けないものだが、この品物に関しては、しっかりと最後まで描き切っている。これはこの作家が、キモノの意匠と言うより、一点の絵画のように模様を描くことを強く意識している証拠で、これこそが昭和の加賀友禅の本流たる、写実性の極めて高い作品の特徴と言えよう。

 

百花繚乱とも呼べる、花の山図案。中に見えるのは、菊と牡丹、梅に蘭。昭和の作家たちは総じて、花を描く時の花弁が小さい。この意匠でも、菊と牡丹以外はかなり細かく描いて、それを山の形にして散りばめていることが判る。

菊の図案。花弁の形は二種類。画像で左側の赤と黄色の花が、花の中心から花弁が管のように放射状に広がる管物(くだもの)。右側の白と赤の花が、花弁が中心に集まって盛り上がるような花姿になる厚物(あつもの)。同じ菊でも、花の形を変えて描くことで、図案に変化が出てくる。

牡丹の図案。花弁を同色の濃淡や白と組み合わせて描くことで、模様に奥行きが出てくる。花だけでなく、葉の一枚一枚も微妙に色が違い、挿し色の繊細さが伺える。

特徴的な加賀技法の一つ、虫食い。葉の一部を朽ちたように描くこの施しは、全体の模様からはほとんど目立たないが、見たままを作品に描く作家の写実性を象徴している。

図案の区切りにも使っている筏模様の中には、波頭が描かれている。寒色を挿すことにより、花色の鮮やかさがなお引き立つ。メインの図案と脇役の図案、色にメリハリを付けることで、全体の華やかさが際立つようになる。作家は、すべてこれを理解した上で、確信して挿し色を選んでいるように思える。

着姿の中心・前姿はこうなる。花の山が裾から上に向かって三つ重なっているが、メインは一番上。意外に筏の波頭が目立つ。模様はかなり嵩があり、華やかさが十分に感じられるが、水の色が抑えとなり、着姿を落ち着かせている。糸目の細やかさと挿し色のバランスにより、着姿に上品さと優しさを印象付ける。絵画的な加賀友禅の特徴が存分に発揮された、逸品と言えよう。それでは、押田正義の弟子・村田幸司の作品を見てみよう。

 

(稲穂に雀と絵馬模様 加賀友禅 黒留袖・村田幸司 1990年頃)

弟子・村田幸司は、押田正義が育てた11人の弟子の一人。同門の兄弟弟子には、正義の子・正一郎や技術保存会の会員を務めた杉村典重、大村洋子がいる。村田幸司は、1978(昭和53)年に加賀染振興会が発行した落款名簿にはすでにその名前があり、昭和期から活躍していた作家である。なお、1994(平成6)年の名簿には記載が無いので、この方の作品はすべて、今から30年以上前に製作されたものになる。

村田幸司の作品は、師匠同様に草花模様をモチーフにしたものが多かったが、時にはその意匠に、インコや鶴などの鳥を植物と共にあしらうこともあった。今回取り上げる作品もその一つで、模様の中心に描いているのは雀である。

描かれているのは、稲をついばむ雀と絵馬。雀はキモノや帯の図案として、鳥の中でもよく用いられるモチーフの一つで、特にふっくらと太った姿で描かれる「福良雀」は、縁起の良い文様として位置づけられている。

雀が文様化される時、一緒に組み合わされる植物が、竹と稲穂。竹と雀を合わせた図案は、越後の上杉氏や、仙台の伊達氏の家紋として使われているように、古くから、竹の強さと雀の繁殖力が繁栄の象徴と見做されていた。稲穂も実りの豊かさ、つまり五穀豊穣を表わす植物として尊重され、これを雀と組み合わせることで、繁栄を意味する縁起の良い模様として認識されていた。

この留袖の模様配置は、師匠の作品ほど高くはないものの、模様の嵩は十分にあり、上前衽と身頃の図案はかなり密にあしらわれている。また、脇から後身頃へと模様がきちんとわたっており、前姿から後姿へと、流れるように裾模様が繋がっている。

 

着姿のメインとなる上前衽と身頃には、少し大きめの雀が群れ飛んでいる。近くで模様を見ると、かなり大胆で迫力がある。雀が太った姿の福良雀で描かれていることから、余計存在感がある。稲の穂に付く籾が赤い丸で、また所々には白い雫が大小の丸で描かれている。こんな朝露に濡れる稲穂の姿は、おそらく作者がスケッチした田んぼの風景が基になっているのだろう。この辺りに、加賀の写実性がよく出ている。

群れをなして飛ぶ雀。その姿は、羽の一枚一枚まできちんと糸目が入り、精密に描かれている。形も大きさも鳥ごとに違いがあり、配色も異なる。草花の図案とはまた違う、施しの難しさがあるように思える。

稲穂の波の図案。小さな赤い籾をよく見ると、一つ一つ形も違い、暈しの入り方も違っている。師匠が描いた四季花も、細部まで手を抜かない仕事が施されていたが、弟子も決して負けていない。雀と稲穂という組み合わせのせいだろうか、こちらの方が動きのある模様姿になっている。

絵馬の図案を一緒に組み込んだ理由は、雀と稲穂文様が繁栄を象徴する縁起文として、古くから神社の絵馬に描かれてきたことに起因している。おそらく作者は、第一礼装・黒留袖を強く意識して、この吉祥図案を考えたのであろう。

こちらも、前身頃を写してみた。師匠の絵画的な草花文と比べると、福良雀の姿がかなりインパクトがあり、図案的な要素が強い。見たままを重視する図案と、作者が自ら構成した図案の違いということになろうか。けれども、加賀の特徴である細部にわたる繊細さと、丁寧な挿し色は同じで、技法そのものに変わりはなく、また技術的な差は見当たらない。ただ、見る人が見れば、師匠と弟子の間に、確固とした技量の違いはあるのかも知れないが、私にはわからない。

 

師匠・押田正義の落款。正の字の下が、右に流れているのが特徴。

弟子・村田幸司の落款。司の字の一部が、外にはみ出しているのが特徴。

今日は、師弟関係にある二人の加賀友禅作家が描いた、二点の黒留袖を取り上げて、各々意匠の特徴や、技術的な共通点をお話してきたが、如何だっただろうか。

加賀友禅は、モチーフの写生から図案の構成、さらに挿し色の設定まで、すべて一人の作家の手で行われるため、数ある染織品の中でも、作者の技術やセンスが最も如実に表れる品物の一つである。だから品物の細部を見れば、どれほど一つの作品に神経を注いだのか、その痕跡が自然と浮かび上がってくる。

修業時代のつらい経験は、盗んで覚えた技術と共に、いつのまにか自分の中で昇華され、自分だけの作風へと発展する。人に頼らず、自分で身に付けた力だけに、錆びることは無い。モノつくりの現場に限らず、呉服の世界では、こうした人材育成の方法が当たり前であったが、時代の波には逆らえず、ほとんど消えかかっている。徒弟制度など、現代ではとても許されるしくみでは無いだろうが、私のような昭和世代の者は、一抹の寂しさを禁じ得ない。

今回は師匠と弟子の作品を比較したが、また違う機会に、今度は同門の作家の作品を並べて、その個性を論じてみたい。

 

加賀友禅の最盛期は、1980年代~90年代にかけての10年間。丁度今日ご紹介した二点の黒留袖が製作されたのが、この頃でした。フォーマルモノに質を求める方が多いこの時代、手を尽くした加賀友禅は憧れの品物となり、ブームが巻き起こりました。当時の市場規模は約200億円とされ、石川県の高額納税者に名を連ねる作家もいたほどです。

それが、バブル崩壊とその後に続く不況、あるいは冠婚葬祭に対する人々の意識の変化に伴い、呉服業界が急速な市場縮小に直面したこともあって、加賀友禅の需要も急速に減少し始めます。昨年の加賀友禅の出荷額は、わずか6億程度。最盛期の3%にまで落ち込んでしまいました。

そして現在、現役の加賀友禅作家として落款を登録している人は、110人余り。しかし、実際に品物を描いているのは30人程度で、ほとんどの人は友禅だけでは飯が食えず、他の仕事と掛け持ちで、何とか作家活動を続けているような状態です。こうした事情に伴い、工房を持って弟子を受け入れている作家も数人だけとなり、後継者の育成にも暗雲が漂っています。

 

この先、加賀友禅はどのような道を辿るのでしょうか。いや加賀ばかりではなく、ありとあらゆる染織品の作り手や担い手の見通しは、ほとんど立っていないのが現状です。手を尽くした職人の作品を認めて、それに手を通そうとしてくれる方がいなくなれば、それで終いになります。時代に伴い、モノの価値も変化する。残念ながら、呉服と言う前時代的な品物は、時代の波にのまれて、消えるのを待つばかりのような気がします。最後に残るのは、品物の質をどこかに置いてきた、形骸化した和装の姿だけでしょう。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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