バイク呉服屋の忙しい日々

職人の仕事場から

紋章上絵師として、職人が生きた時代  その矜持は何だったのか

2024.08 03

6月の中旬、長い間うちの紋仕事を請け負ってくれた、紋章上絵師の西さんが急逝した。享年、72歳。亡くなる僅か一週間前、出来上がった黒留袖の紋入れを受け取りに仕事場へ行き、話を交わしたばかり。なので訃報を聞いた時は、なかなか信じることが出来ず、呆然としてしまった。

西紋店は、西さんの祖父・菊蔵さんが、1907(明治40)年頃に、甲府市中心部にあった問屋街・連雀(れんじゃく)で創業したのが始まり。その後父の欣造さん、そして現在の清春さんと続き、息子の清志さんは紋は描かないが、染物屋として同じ職人の道を歩いている。今回清春さんが亡くなったことで、県内に依頼できる紋章上絵師がいなくなり、紋の仕事を地元で賄うことが出来なくなった。これまでも、湯のしや洗張り、しみぬき補正など、呉服屋の仕事には欠かせない職人が、次々といなくなっていたが、これでうちの仕事を請け負う地元の職人は、三人の和裁士だけとなった。

 

うちと西紋店の関りは、それこそお互いの祖父の時代から始まっているので、半世紀はゆうに超えているだろう。そして私と清春さんは、互いに三代目ということもあって、これまで40年間、親しくお付き合いをさせて頂いた。私より7歳年上で、一足早くこの世界に入っていた彼からは、紋の仕事について一から教えてもらったが、仕事を覚えるに従って、様々な加工についてアドバイスを受けたり、相談に乗ってもらったりもした。私にとっては、本当に頼りになる職人さんであり、また呉服業が斜陽と呼ばれる厳しい時代を、同じように生きた盟友でもあった。

そこで今日の稿では、これまで西さんに依頼した数々の仕事・紋姿を見ながら、昭和・平成・令和の三つの時代を、職人としてどのように生きてきたのか、その足跡を辿ってみる。そして彼が、何を拠り所として仕事を続けてきたのかを、考えてみたい。

 

西さんの仕事場に置かれた机。この上で、ついこの間まで紋仕事を行っていた。

西さんと私は、甲府市内の同じ県立高校の先輩・後輩。この高校の卒業生は、ほぼすべて大学に進むのだが、西さんは美大進学を望みながらも、自分の家業に就いた。大学へ行かなかった詳しい事情は、ついぞ聞きそびれてしまったが、おそらく彼は、小さい頃から親の姿を見ており、早くから「紋を入れる仕事」に、芸術的な価値を見出していたのではないか。

そして、西さんが紋の道を志した70年代初めは、呉服業界が最も隆盛を極めていた頃で、品物は売れまくり、紋に関わる仕事も山ほどあった。父親の欣造さんからすれば、一日も早く息子に仕事を覚えてもらい、自分の手助けをして欲しかったに違いない。西さんも、それが判っていたからこそ、進学せずに家に入ったのだろう。

 

石持に描かれたのは、丸ナシ下がり藤紋。紋を入れた反物の淵に、200213の数字が見えているが、これは紋入れを施し日・2020年2月13日を記したもの。この数字部分は、誂えてしまえば中に隠れて全く見えなくなるが、西さんは自分が仕事をした証として、いつもこの日を記していた。

黒留袖や喪服の生地には、予め紋を入れる場所(紋場)が白い丸で染め抜かれている。このような紋所を石持(こくもち)と呼ぶが、ここに色を刷り込み、竹製のコンパス(分廻し・ぶんまわし)や細い筆を用いて、図案の蕊(細い線)を描いて仕上げる紋の技法が「上絵(うわえ)」である。上絵とは、紋や模様の大部分を染めた後、細部を人の手で描き加える、いわば仕上げの作業を意味する。だから紋職人を上絵師(うわえし)と呼ぶのは、最後に自分の手で図案を描いて、紋を完成させるという意味を持つ。

 

昭和40年代~50年代には、どの家庭でも、結婚式用の黒留袖と葬式用の喪服は、どうしても必要な品物であった。この当時はまだ、第一礼装は和服でと考える人が多く、特に喪服は、娘を嫁がせる際にはどうしても持たせなければならない、重要な道具として認識されていた。その上この時代はまだ、結婚式を司る仲人の存在があり、黒留袖も旺盛な需要に支えられていた。呉服屋が活況を呈していたこの時代、礼装品に欠かせない紋入れを担う上絵師の仕事も、多忙を極めていたのである。

職人の仕事が沢山あった時代には、実際に品物を使って技を磨く「生きた実践の場面」が、常に存在していた。これは紋章上絵師だけでなく、和裁士や他の加工職人も同様であり、日々沢山仕事をこなしていく中では、否応なく技術は向上していく。職人を育成するという意味でも、良い時代であったが、西さんはそんな空気の中で、紋職人としてのスタートを切ったのだった。

 

別誂染をした無地のキモノは、予め紋場を設える石持仕様になっていないので、生地を紋の形に抜染してから、模様を描き入れる「抜き紋」を施す。この仕事では、紋の中の色が地色と同一になるよう、色を挿して修正することが大切。照りのある薄紫の梨地から、丸に木瓜紋がくっきりと浮かびあがっているのが、画像からも見て取れる。

西紋店では、二代目にあたる清春さんの父・欣造さんが、東京で修業をした折に、この方法を習得し、県内ではいち早く仕事の中に取り入れた。先述したように、抜き紋を施す際には、紋の内側と外の地色を揃える作業が必要になり、そこでは地直しとか色掃きなど、キモノ補正(しみぬき)と共通する技術が求められる。そのため、紋章上絵師の中には補正仕事を兼務している職人も多い。この技術があることで、フォーマルモノの需要が減って紋仕事が少なくなった際、しみぬき補正に活路を求め、そちらが主流になった職人もおり、清春さんもその一人であった。

 

呉服の小売市場規模のピークは、1981(昭和56)年の1兆8千億。けれども売り上げ数は、オイルショックが起きた70年代半ばを境に下降線を辿っており、すでに先行きに暗雲が漂い始めていた。それに反して市場規模が拡大していた理由は、売れ筋が高額品にシフトしていたからであり、実態はキモノ離れの兆しが見えていたのである。

昭和40年代、入学式に列席する母親の装いは、色無地の紋付キモノに黒の羽織姿が定番で、当時これをPTAルックと呼んだ。それほど和装は、人々の節目に密着したものだったが、これも80年代には翳りが見え始め、式服は洋装に変わりつつあった。これにより、キモノや帯は嫁入り道具として必需な品物ではなくなり、少しずつ意識の外に置かれるようになっていった。そして、持っていて当たり前だった無地紋付のキモノも、徐々に求める人が少なくなり、紋職人に渡る仕事も年々減少していった。

 

贅沢な手描きの友禅であしらわれた、男児の産着。図案は、松菱に宝尽くし。深みのある狐茶色に丸に三つ柏の紋が映えている。きちんと人の手を掛けて誂えた品物には、やはり手を尽くした紋姿でなければ恰好が付かない。

この紋の形式は「切り付け紋」で、生地をいじることなく、正式に紋を入れる技法。簡単に言えば、別生地に紋を描き入れて、それを切り付け針に通した細糸で止めて仕上げる方法である。こうした産着や、紋を替える際に元の紋が抜けない時、あるいは生地が弱く紋抜きに耐えられない場合などに使われる。

これは一昨年、婚礼衣装として制作した躑躅色の無地振袖にあしらった八重向梅紋。これも切り付け紋を用いている。紋の大きさは通常の女紋・直径5分5厘ではなく、男紋サイズの1寸になっている。これは紋を、着姿の中で強調する意図があってのことだ。技法に切り付けを採用した理由は、婚礼が終わった後、袖丈の短い色紋付として着用する予定があり、そこで紋を通常の女紋サイズに戻す必要があったから。切り付け紋は先述したように、生地をいじらずにあしらっているので、紋の入れ替えが楽に行える。

 

昭和の終わりから平成の初めには、一時高額品が動いて呉服商いは好転したかに見えたが、それもバブル崩壊と共に、終焉を迎える。そして平成不況と肩を並べるように、呉服需要は下がり続ける。それまで水面下で進行していたフォーマル需要の減少が顕在化し、多くの呉服屋が商いに苦慮することになる。そして結果として行き着いた先が、振袖を中心とした商いへの転換だった。

だが商いそのものは、問屋から品物を借りて開く従来の展示会形式から抜け出せない。そして、誂えを安価な海外仕立で済ませたり、他の加工も一括して行う業者に丸投げして委託したりと、それまで請け負ってきた職人の手から、仕事を奪うことが日常化した。売り上げが落ち、ただでさえ仕事が減っているのに、その少しの仕事さえ回って来ない。縫い方などはどうでも良く、キモノの形になり着用出来ればそれで良いとか、紋など印刷でも何でも、入ってさえいれば良い。そんな考え方が、瞬く間に蔓延した。これは、利益だけを優先して職人仕事に理解を示さず、徹底的に職人をないがしろにする呉服屋の姿勢を端的に表している。まさに「貧すれば、鈍する」である。

 

略式紋・陰紋は、縫いで表現されることが多い。茶席で装う江戸小紋や軽い付下げなどであしらわれることが多く、縫糸は装う方の希望により、白糸や地色の共色糸を使う。この丸に九曜星紋は、金彩で施された松模様の付下げに合わせて、金糸を使用している。西さんでは、紋図案の型をご主人の清春さんが起こし、それに従って奥さんの弥生さんが、糸で縫い詰めて紋を仕上げていた。いわば夫婦の共同作業なのだが、これは先代の欣造さんの頃から続くこと。なので弥生さんも、清春さんのお母さん(欣造さんの奥さん)から、仕事を学んだ。こうして、紋の仕事が次世代の夫婦に継承されてきた。

丸い枝梅の中に茗荷紋を入れた、デザイン性豊かな加賀紋。絵心のある西さんは、作り手のセンスが問われる加賀紋の製作を得意とし、また仕事の依頼を楽しみにもしていた。唯一無二のオリジナル紋は、着姿からはそれほど目立たないものの、装い手の隠れたオシャレを演出できる数少ないアイテム。一般的な紋仕事は少なくなったが、中にはこうしてこだわりのある紋姿を求める方もいた。

 

平成も後半になると、より和装のフォーマル離れは進み、儀礼そのものも簡素化した。キモノは買うモノではなく、借りて装うモノという消費者の意識も、年を追うごとに高くなっていく。そしてネットの急速な普及により、旧態依然とした呉服商いでは、店は生き残れなくなった。それは職人も同じで、これまでのように呉服屋からの依頼をじっと待っているだけでは、どうにも立ち行かなくなり、自ら仕事を探す必要性が生じた。

そして西さんのところでも、染物屋を営んでいる息子の清志さんと共同でHPを立ち上げ、直接消費者からの依頼を求めるようになる。そして私と同様、県外のお客様から声が掛かる機会が増える。先日も、ここ数年で増えたネット依頼に喜びつつ、残りの職人人生はゆったりと自分の納得のいく仕事をしたいと話していた。そんな矢先に、突然亡くなってしまったのだ。さぞ、本人も残念だったに違いない。

 

西さん最後の紋仕事は、白坂幸蔵が制作した加賀友禅の黒留袖。松皮菱に松竹梅模様を優美に描いた上質な作品。紋章上絵師の名前の通り、この石持に「上絵」を施すことが、紋職人として最後の仕事になったが、それは図らずも、フィナーレを飾るに相応しい美しい友禅の第一礼装品であった。

留袖に描かれた紋は、細輪に稲垣茗荷(いながきみょうが)。茗荷の花を図案化した「茗荷紋」は、紋帳に掲載されているものだけで60種類以上。茗荷はポピュラーな紋に入るが、この紋は茗荷の花先に稲が付いている。また丸が細輪というのも珍しい。茗荷は、神仏の加護を意味する「冥加(みょうが)」と同じ読み方で、縁起の良い紋として知られ、寺社の紋に使われることも多く、日光東照宮や出雲大社などでは祭礼の神輿に、この紋を入れている。

描き入れた稲垣茗荷紋を拡大すると、その筋一本一本に違いがあることが見て取れる。特に先端の稲垣に付いている蕊は、長さも太さもまちまち。ミリ以下の細い筋に、丁寧な仕事ぶりが表れ、それが職人の個性になっている。西さんの描く紋は、こうした「線の強弱」によって図案に動きがあり、繊細ながらも際立つ紋姿になっている。そして、描かれた五つの紋には、墨の濃淡や線に僅かな違いが見られる。もちろんそれは、一生懸命目を凝らさなければわからない微細なもの。全てを同じにしようとしても、決してならない。それが人の手の仕事であり、そこにこそ心があると言えるだろう。

西さんが求めた紋姿とは、人の息遣いが感じられ、そしてそれが凛とした美しさを持つ紋。家紋は、代々続く家の象徴であり、その図案は、日本文化の一端を表わしている。だからこそ、人の手を使って、後世に恥ずかしくない紋を入れる。ただ入っているだけでは、何の意味も無い。そこに職人の手で「魂」が入らなければ、「家の紋」とはならない。おそらく、ずっとそんな思いを持ちながら仕事を続けてきたはず。それこそが、職人としての矜持だったように思う。

 

平成から令和にかけて、「人の手」はどんどん社会の隅に追いやられてきた。そして人に頼らず、効率的にモノつくりをすること、あるいは取引や商いをする事を良しとする。もっと早く、もっと効率よく、もっと簡単に。時間効率を優先する社会の流れにより、多くの仕事や、それに携わる職人たちが切り捨てられた。心を置き忘れ、形だけに捉われる。これは、魂が入らない紋と同じである。

西さんが職人として生きた半世紀、日本社会は大きく変わった。分業で成り立ってきた伝統産業・呉服業は、人々の意識の変化により、形骸化してしまう。しかし彼は、仕事が減り続ける中でも、職人としての矜持を最後まで持ち続けた。下り坂を歩き続けることは大変だったはずで、その暮らしも、厳しかっただろう。だが彼から、職人の道を選んだことの後悔は、一度も聞いたことがなかった。紋章上絵師という仕事に誇りを持ち続けた72年の人生、本当にお疲れ様でした。

 

豊かな社会とは、そして潤いのある生き方とは、いかなるものでしょうか。情報ばかりが加速して激しく行きかい、人々は生活から時間だけが奪い取られる。上っ面だけの世の中に、何の価値があるのでしょう。時間をかけること、本質を見極めることを捨てた国に、文化が守れるはずがありません。そして根付くはずもありません。

私も、そう遠くないうちに、この仕事を離れる日が来ます。けれどもその時まで、タイパ社会に向けて、ほんの少しだけ無駄な抵抗をしたいと思います。今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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