バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

源氏物語、その王朝色と文様(1) 出衣に見る色襲の美意識

2024.03 12

京都駅から西陣の織屋へ行く時は、地下鉄・烏丸線に乗って五つ目の駅・今出川で降りる。そこから今出川通を西へ歩くと、大きな堀川通の交差点に差し掛かる。この角に建つ西陣織会館を見ながら、さらに西へ進むと千本通にぶつかり、そこを北へ上がれば西陣となる。

平安王朝の時代には、この西陣の地に、天皇の住まい・大内裏(だいだいり)が置かれていた。その場所を現在の通りに置き換えれば、南北は二条通~一条通、東西は大宮通~御前通となり、西陣はこの範囲の中にすっぽりと納まる。そして、先述した西陣への上り口・千本通が、内裏の真ん中を貫いていた道・朱雀大路であり、一番南の二条通と千本通が交差した所に、宮城の入り口・朱雀門が置かれていた。

例えば、源氏物語とは縁の深い織屋・紫紘が店を構える東千本町は、大宮通と一本西の智恵光院通の間にあるが、ここは平安宮において、天皇の住まい・内裏のすぐ東側にあたる。当時この場所に置かれていた役所が、近衛府(このえふ)と職御曹司(しきのみぞうし)。近衛府の職務は、宮中の警備だが、職御曹司とは皇后や皇太后に関わる事務所で、つまりは中宮の役所ということになる。ここは、仮御所の役割も果たしていたようで、一条天皇の后・藤原定子も一時仮住まいとして使っていた。

 

源氏物語の作者・紫式部が女房として仕えた藤原彰子も、定子と同じ一条天皇の后。定子は藤原道隆の子で、彰子はその弟・道長の娘である。源氏物語の評判を聞きつけた藤原道長が、紫式部の才を見込んで、中宮・彰子の女房として出仕を求めたのであった。式部は、中宮職を務めながら源氏物語を書き続け、宮廷での生活は36歳から約9年間続くことになる。この宮中での様子や、彰子の父・藤原道長の邸宅での出来事などが、「紫式部日記」として書かれており、中世の優雅な貴族の実生活を知る貴重な資料として、今に残っている。

世界最古の長編小説と言われる源氏物語は、天皇を頂点とした貴族社会を描いたもので、第1帖・桐壺から、最終帖・夢浮橋まで全54帖にわたる物語は、ほぼ平安宮の内裏の内側が舞台になっている。その絢爛たる場面ごとの様子は、後に藤原隆能の源氏物語絵巻によって描かれることになるが、そこで表現される衣装の色や数々の道具のあしらいは、まさに日本の美の原点と言えるものであろう。

では、源氏物語の中に映し出された王朝の色や文様とは、果たしてどのようなものか。壮大なテーマではあるが、これから少しずつ探っていこうと思う。今日は初回として、宮廷女性の衣服に注目して、稿を進めることにする。

 

源氏物語絵巻・竹河。右は、この場面を題材にした紫紘の帯・春艶。

宮廷での華やかな生活が、最も表れていたのが、女性たちの衣服。宮中で繰り広げられる儀式や宴で装われる衣装は、そこに生きる女性たちが、常に互いのセンスや感性を競いつつ、まとっていたもの。これが、良く知られている「十二単(じゅうにひとえ)」の装束で、それは衣装を何枚も重ね着することで整えられる装いであった。

十二単は、朝廷の公式行事の際に着用する「晴れの装束」と、日常で装う「褻の装束」では形式が異なっている。晴れの日には、下から白小袖、打袴、単(肌着的なもの)、襲袿(かさねうちぎ)、打衣と続き、一番上には唐衣(からぎぬ)と裳(も)を付ける。これが褻になると、唐衣と裳を付けず、下に袴と単を付けて、袿を重ねる着こなしになる。なお、唐衣とは袖と丈が短く、衿を折り返して着る衣装で、裳は腰の後ろに付ける飾りのようなものである。

装いの決まりごとは、相当複雑に出来ており、重ねる枚数は十二どころか、十八にも二十一にも及ぶことがあった。当然のことながら、その重さはかなりのもので、これを装った上で、活動的に生活することは難しい。雅やかに見える美しい衣装も、本当のところでは、まとうことが相当に大変だったのである。

 

帯の中で織りなされている十二単。女性が後で引いている水色の襞が、裳である。

この時代、装束の色彩美は、一枚の衣ではその表裏の重ね色で、そして装束全体としては、その一枚ごとに重ねた色を着重ねた・襲(かさね)の色によって表現された。この色目は二百種類以上あり、この中から、唐衣や袿にどの色を使うかを考えなくてはならなかった。

その色の選択には、春夏秋冬各々の季節や、装う時間と場所、さらに装う人の年齢や好みまで勘案しなければならない。このコーディネートを担うのは、宮中に勤務する女性・女房達である。襲の色を決めるのは、教養や美的センスを持っていなければ、とても出来ることではない。だから、女性の最高位・皇后に仕えた紫式部の識見の高さなどは、如何ばかりであったかと思う。女房の仕事は、室内の調度品の差配から装束の支度まで、日常の中で息つく暇もなく続き、相当な激務だったことは、想像に難くない。

衣装の上から下まで、どのように色を組みあわせたのか。これを見せるためには、上に着る衣装を少しずつ小さく仕立てる必要がある。そうすると、袖口や襟元、褄や裾に僅かなズレが生じて、各々の色の重なりが自然に、そして緩やかに見る者の目に入って来る。そこで、色が着姿とどのように調和しているのか。そこにこそ、装う人の美的センスが現れてくるのだ。

特に、上から透き通るような薄モノの素材、紗や羅や生絹(すずし)では、重ねた布の中に光が入り込むことで、微妙な色が表現されるが、これを旬の花色に見立てて、着姿の中に映し出しすことも試みていた。こうした色の襲ねは、装いに限らず、染紙などを用いて、几帳や御簾のような室内の調度品にも応用されていた。

 

春艶と題されたこの帯は、桜が咲き誇る玉鬘の邸宅が舞台。夕顔の娘・玉鬘が主人公となる第44帖・竹河の一場面を題材にしている。

この場面を描いた源氏物語絵巻では、桜の下で、囲碁に興ずる二人の姫と女房達の姿があり、それを夕霧の子・蔵人の少将が覗き見している姿が見える。蔵人の少将は、姉の大君にかねて思いを寄せていて、その美しい姿に改めて心を奪われるというシーン。

帯では、匂うばかりの桜の花が織り出されているが、絵巻原図では花がほとんど落ちていて、寂しい風情を見せている。春の一場面を演出するとなれば、やはり満開の桜の方が絵になる。この帯にあしらわれた桜の一枚一枚には、紫紘らしい精緻な織の工夫が見られ、その技術の高さが伺える。

この竹河の場面のように、御殿の中や御簾の下から衣装の袖や裾を覗かせて、男性にその襲の色の美しさをアピールすることを、「出衣(いだしぎぬ)」と呼んだ。これは女性が顔を見せずに、衣装の襲の配色だけを見せて、それが季節に相応しいものか、またきちんと季節を取り込んだものになっているかを男性に判断させること。このセンスの良し悪しで、男性の心を捉えるかどうかが決まってしまう。襲により、女性のモテ方が大きく変わるとは、まさに色合わせは、中世貴族社会の重要なファッションセンスだったのである。それはつまり、装いには女性の教養や知性が凝縮されていると、認識されていたことに他ならない。

 

平安京への遷都は、794(延暦13)年。約400年続いた都では、最初の100年間はまだ、奈良天平期と同様に、大陸からの文化が受容されていた。しかし菅原道真の建議で遣唐使派遣が停止(894年)され、中国からの情報や文化が途絶えると、急速に日本の風土に合った文化が形成される。いわゆる、唐様から和様への転換である。

装束も、平安中期に藤原氏の摂関政治が確立すると共に変化し、雅やかに重ね着した宮廷服が生まれた。そして衣服を重ねたことにより、貴族たちが優美さを誇り、それは着姿を競い合う意識を生みだすことにも繋がった。

また、内裏の建築様式が寝殿造へと変わったことで、冬の寒さを凌ぐことが課題となり、その防寒のためには、必然的に衣服を重ねなければならなかったこと。そして、宮中での儀礼が立礼から座礼へと様式が変わり、そこで衣服の長大化が求められたこと。さらには、夏の高温多湿な風土に合わせて、自然と袖や身頃を広くとる形式になったことなどが、十二単が宮廷衣装となった背景にあると考えられている。

 

今日は、紫紘の帯にあしらわれた宮中女性の姿を参考にしながら、源氏物語の世界で描かれている宮廷衣装・女房装束について、お話してみた。この帯には、紫紘の優れた技が結集されており、ぜひ皆さまには、画像をクリック拡大しながら、その素晴らしい織姿をご覧になって頂きたい。

「色を重ねる」ことに、どのような意図があるのか。そして平安人はその襲の中に、どのような美意識を持っていたのか。それは、簡単に書ききれるものではなく、今回はさらりと上辺だけを述べてきた。なお今回、具体的に書くことが出来なかった、200種以上ある襲の色については、別の稿で、四季ごとの色の組み合わせをご紹介したい。 これから月に一度ほどのペースで、平安貴族の王朝色と文様について、その都度題材を変えながら、取り上げていきたいと考えている。

 

紫式部は、自分の前に中宮に仕えていた清少納言について、「したり顔で、いみじう侍りける人(自分のことを偉そうに、自慢している人)」などと、紫式部日記の中で酷評していますが、清少納言は、傲慢で少し身勝手な性格という説が有力なようです。

一方紫式部は、仕事をしているより、家庭にいることを好む性格だったらしく、最初のうちは内裏へ出仕してもすぐに家に帰ってしまい、職場放棄のようなことも何度かありました。夫の死により、結婚生活は僅か3年で終り、幼子を抱えた未亡人になってしまう。物語を書き始めたのは、そんな境遇の中でした。おそらく彼女は、希望を失った自分の鬱積した気持ちを、書くことで紛らわせていたのではないでしょうか。式部は、宮廷での仕事を辞めた直後、45歳で亡くなりました。墓は、晩年に住んでいた御所の北・紫野にあります。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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