バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

さいはて鉄道の、絶景車窓を歩く  根室花咲線  落石・三里浜

2023.08 11

国鉄とは何かと問われても、40歳代以下の方には、もうほとんどわからないだろう。日本中の鉄路を網羅していた日本国有鉄道が七つの会社に分割・民営化されたのが、1987(昭和62)年の4月。もう36年も前のことになる。当時の首相・中曽根康弘は、行政改革の一環として、25兆円もの累積赤字を抱え、経営に行き詰まっていた国鉄の借金を清算し、新たな民間事業会社として再出発させる決断をする。長い間「国のお荷物」になっていた国鉄の事業に、ようやく大鉈が振るわれたのだった。

地域別に分割された七社は、それぞれ民間企業となった訳だが、当然その経営状態は、収入の多い路線を抱えているか否かで大きく異なる。人口が密集する首都圏や関西圏の路線を抱える会社、また乗客が多い新幹線を運行する会社は、当然営業実績が上がり、その収益で他の赤字路線の運行を支える。また、都市圏であるが故に、鉄道事業以外の不動産収入や店舗事業からの収入が得やすく、それが経営に大きく寄与している。JR東日本、東海、西日本の会社運営が、こうした形態をとっている。けれども元々沿線人口が少なく、国鉄時代から運行する路線の多くが赤字だったJR北海道、四国、九州では、その経営は、ずっと苦戦を強いられている。

だがこの三社は、民営化する時に、その赤字規模に応じて、国から経営安定基金という実質的な赤字補填の補助金を受けている。これは、不採算ローカル線ばかりを抱える会社では、到底鉄道収入が見込めないと、国が認識していた証拠である。この基金の額は会社ごとに違い、北海道は6822億、九州が3877億、そして四国は2082億。この基金は、本体を直接赤字補填に充てることが出来ず、その運用益だけが使える。現在、JR九州は営業努力と経営の多角化で収益が上がり、基金への依存度は低いが、北海道と四国は基金なしでは経営が持たない。特に年間100億以上の赤字が続くJR北海道は、すでに「経営難」と呼べる状態であり、多くの鉄路の存続が危ぶまれている。

 

現在、JR北海道が運行するのは14路線・2.336㎞あまり。だが、毎年のように路線が縮小され、多くの駅が廃止されている。先ごろも、水害で運行が休止されていた根室本線の富良野ー新得間が来年の春に廃止され、同時に道内42駅の廃止が検討されていると発表された。実際、ある程度の乗客が見込まれるのは、札幌近郊の一部路線だけで、後は赤字だらけ。もちろん、この先収益の改善は見込めない。

民営化した1987年当時の北海道の鉄路は、21路線・3.176㎞。しかし、その10年前1977(昭和52)年には、36路線・4.007㎞も運行されており、比較すると、現在路線は3分の1、距離は半分近くに減ったことになる。北海道の産業振興と住民の生活に、長い間寄与してきた各地の鉄道だが、炭鉱の閉山や漁業の衰退、そして激しい人口の流出・減少によって、その役割は限りなく終焉に近づいている。

これまでに廃止された路線は、「よくぞ、こんな所に線路を引き入れた」と感心するような、僻遠の場所も多く、それだけに車窓には、本州では決して見られない、峻厳で雄大な風景が展開されてきた。多くの旅人は、この絶景に惹きつけられて、北海道へと渡っていたと言っても良いだろう。そして今、寂しくなってしまった北の鉄路の車窓に、「旅人を魅了する日本離れした超景色」が、わずかだけ残されている。

 

ここ何年かは、盆休みになると、旅の話をさせて頂くブログの稿。今回の旅先は、北海道の東の果てを走る鉄路・根室本線(通称花咲線)の車窓に広がる絶景。もちろん変人バックパッカー・バイク呉服屋が企てる旅なので、単純に鉄道に乗って、その車内から見た風景を紹介するというものではない。それは、歩いて絶景に到達する旅。どんな場所を歩き、どのような美しい景色を目にすることが出来たのか。これからご案内することにしよう。今日の稿が、お休みになっている皆様の、暇つぶしにでも読んで頂けると良いのだが。

 

根室本線(花咲線) 別当賀ー落石間  落石三里浜に続く、海蝕崖の上で。

根室本線は、起点の函館本線・滝川から、終着駅根室までの443.8㎞。北海道に残る路線の中でも、長大である。「北の国から」の舞台・富良野を経て、狩勝峠を越え、十勝の中心都市帯広へ。そこから太平洋沿いに線路は伸びて、釧路に着く。釧路はこの線の途中駅だが、昔からほとんどの列車がこの駅止まりで、根室まで直通する列車は無かった。釧路以東は、列車の本数も少なくなり、ローカル線の色が濃くなる。現在はそんなこともあってか、「花咲線」という愛称がこの区間に付いている。

1980年に石勝線が開通する前までは、この根室本線が幹線として、道央の札幌圏と道東の十勝・釧路圏を繋ぐ重要な役割を果たしていた。だが、特急を始めとする優等列車が、距離も時間も短縮された石勝線経由となったことで、大回りの根室本線を通る列車の本数は少なくなり、次第に客足が鈍っていった。

2016(平成28)年の夏、立て続けに北海道を襲った台風によって、根室本線の東鹿越ー新得間は線路が流出して、不通となる。これまで、バスの代行運転が続けられてきたが、一向に復旧工事を始める気配がなかったので、このままなし崩しに廃線になるのではと思われていたが、案の状、JR北海道は来年の春に、この区間を含む富良野ー新得間の廃止を発表した。これで根室本線は、滝川ー富良野間と新得-釧路・根室間に分断されることになる。

1981(昭和56)年10月 釧路ー根室間のダイヤ。(鉄道弘済会・道内時刻表)

現在花咲線は、上下8本の列車が運行されているが、釧路ー根室間を通して運転するのは6本。そのうち、途中駅を飛ばす快速列車・ノサップ号とはなさき号がある。40年前の時刻表を見ると、根室までの直通運転が8本で、今とそれほど変わっていないが、急行列車(ノサップ号)が二本走っている。この時代、すでにほとんどがディーゼル列車だが、一本だけ機関車が引っ張る「汽車」があった。それが、釧路6:43発の441列車。昔、何回かこれに乗ったことがあるが、荷物車と郵便車(郵便物を詰めた貨車)、そしてタンク車など数両の貨車と一緒に、二両の古びた客車を連結した、いわば貨客混合列車であった。若い方は、こんな列車など想像も付かないだろう。

地図で見る根室本線(花咲線)。40年前の路線図にある駅で、糸魚沢・初田牛・花咲の三駅は、現在までに廃止になっている。

地図でも判るように、釧路を出てからしばらく内陸を走った列車は、厚岸に近づく頃、太平洋が見えてくる。そして厚岸湾に沿って敷かれた線路は、厚岸湖を横に見ながら、ラムサール条約に登録された湿地・別寒辺牛(べかんべうし)湿原の間を縫うように進む。この車窓に広がる海と湿原が、花咲線の最初の絶景ポイントになる。

茶内から浜中、厚床にかけては、点々と牧場があり、車窓から草を食む牛の姿が見える。厚床は、1989(平成元)年まで存続した、標津(しべつ)線の分岐駅である。厚床を出ると、ほとんど人家は姿を消し、窓の外には防風林や防霧林が姿を現わす。そして別当賀を過ぎると、にわかに線路を乗せている台地が狭まり、背の低いハンの木やヤチの木が、風に揺れて騒めきだす。

クマザサが揺れる起伏の多い丘を幾つか超えると、突然、列車は海に放り出される。断崖を走る窓からは、前方に落石の岬、後方に湾曲する三里浜が見える。線路は、海岸浸食により切り立った崖の上、そのギリギリに敷かれている。荒涼とした不毛地帯から、大海原へ。こんな劇的な車窓の変化は、他に見られるものではない。車内の乗客は、一斉に海側の窓へと釘付けになる。ここが、花咲線の「白眉」と言われる絶景だ。

 

たとえ赤字に苦しむJR北海道であっても、こんな風光明媚な路線を放って置く手は無い。花咲線は現在、「地球探索鉄道」と名付けられ、様々な形で喧伝されている。その効果もあり、さらに「いつ廃止になるか分からない路線」でもあることから、常にかなり多くの鉄道ファンや旅行者が乗車している。運行される列車では、別寒辺牛湿原や落石の断崖に差し掛かると、出来る限りスピードを落として運転し、乗客に、絶景を少しでも長く楽しんでもらう試みもされている。

けれども、そんな息をのむほどに美しく、日本離れした風景を、たった数秒で通り過ぎてしまうのは勿体ない。自分が飽きるまで、ずっと眺めていたい。そして、断崖を吹き抜ける太平洋の海風を、思い切り感じたい。ではこれを実現するには、どうしたらよいのか。答えは簡単、絶景ポイントまで歩いて行けば良いのだ。

前置きがすっかり長くなってしまい、またまた出発が遅れてしまったが、これから花咲線の絶景・落石三里浜の断崖上へと、皆様をご案内することにしよう。

 

今回の旅の起点は、浜中駅。前夜は、定宿にしている浜中・中の浜のワタナベ民宿に泊まる。釧路空港でレンタカーを借りているので、車で落石まで行く方が時間的に効率は良いのだが、目指す場所が鉄道車窓の絶景なので、最寄りの落石駅までは鉄道を使うことにした。浜中の駅は、役場のある町の中心・霧多布地区からは、少し離れている。

私が頻繁に乗降した昭和の頃の浜中駅は、木造の渋い駅舎で、駅員も配置されていたが、今のコテージ風駅舎に改築されたのは、1989(平成元)年のこと。駅の入り口には、「ルパン3世」に登場する五右衛門と次元の姿が見えるが、ここ浜中町が、作者・モンキーパンチの故郷。町が、漫画のキャラクターを観光事業に使っているため、こんなパネルが、浜中町内の三駅(茶内・浜中・姉別)に設置されている。

待合室に掲げられる時刻表。乗車する列車は、9:45発の根室行。帰りは17:24着の列車を予定する。浜中を発着する列車は、上下6本。待合室には、人影が無い。

上りの釧路行を見送って10分ほどすると、根室行のワンマン普通列車がやってきた。編成は、たった1両。いわゆる単行気動車である。それにしても、北海道で鉄道に乗るのは、本当に久しぶりだ。記憶を辿ってみると、浜中ー落石間の乗車は、1987(昭和62)年の1月が最後。思えばこの時はまだ国鉄で、JRでは無い。そしてこれを最後に、北海道旅の往復は飛行機になり、道内ではレンタカーを使うようになった。だから北海道新幹線どころか、青函トンネルさえ、未だに列車で通ったことが無い。

さて、車内に入ってみると、席はほぼ全て埋まっている。席の形式は、二人掛けのクロスシートが大部分で、一部だけ国電型のロングシートになっている。乗客は、全員が観光目的の旅行者のようで、鉄道マニアと思しき若い男性が目立つ。また中年女性の二人連れや、年配のご夫婦、そして私と同年代の一人旅の女性の姿もある。10月末のウイークデーにしては、多い乗客だが、地元の人が誰一人乗っていないことに驚く。沿線住民にとって、すでに鉄道が日常の足になっていないことを実感する。これでは、廃線云々を取り沙汰されても、やむを得ないだろう。

浜中駅から約40分で、落石駅に到着。運賃は、970円。途中の姉別・厚床・別当賀では誰も乗らず、誰も降りない。ここ落石で下車したのも、私一人。この列車はさながら、釧路と根室の間を走る「貸切観光号」のようだ。小さなザックだけの姿で、途中から乗って、途中で降りてしまう。乗客の多くが、そんな私に向けて、どこへ行くのかと奇異な視線を投げかけていた。

これから歩く絶景車窓は、落石駅の手前3~4㎞ほどの場所。当然浜中から乗ってきた列車も、ここを通過してきた訳だが、三里浜の断崖に差し掛かると、確かに運転手は急にスピードを落として、乗客に絶景を眺める時間を与えた。それでも、大体20秒くらいか。その僅かな間に、乗客は一斉にスマホで写真や動画を撮る。この「地球探索鉄道」に乗ること自体が観光の目的なので、これで十分満足されるのだろう。

落石駅の全景。ここも昔は、風情のある良い木造駅舎だったが、すっかり姿が変わってしまった。国鉄時代には駅員が配置されており、荷物の預かりもしていた。1982(昭和57)年の秋、初めて落石に来た時には、駅に大きなザックを預けて、岬まで歩き通した。以来、何度か落石に来ているが、この駅から歩くのは本当に久しぶり。さあ国土地理院の地形図を片手に、絶景への道を探りながら、歩き始めよう。

 

地形図でみる落石地区の概要。落石は、駅から東へ突き出た半島の浜松地区と漁港のある東地区、三里浜に続く西地区、そして落石岬のある岬地区に大別できる。花咲線の断崖は三里浜の真上にあるので、まず駅からは、町の中心を通って岬へと続く道・北海道道1123号(落石港線)を歩く。そして浜に出る前に、断崖へ取り付ける場所を探す。この海蝕崖(かいしょくがい・波に浸食されて切り立った崖)は、鉄道写真の撮影ポイントとして昔から知られており、崖の上には踏み跡が、かなり残されているはず。駅からは4~5㎞ほどの距離なので、道を探しながらでも1時間ほどで着くだろう。

港へ続く道は急な下り坂になっていて、港と岬のある半島が一望できる。この風景は、40年前とほとんど変わらない。秋の陽ざしを受けて、水面が輝いている落石湾。

道の所々には、古い木造の海産物加工場が立ち並ぶ。落石の漁の歴史は古く、すでに江戸寛政年間(1790年頃)には、本州から場所請負商人がやってきて、番屋を開いた。そして明治の中頃には、早くもコンブや鮭の採取組合が設立され、組織的な漁が始まった。ちなみに、落石灯台の点灯や落石無線電信局の開設、さらに教育所(落石小学校の前身)の設置も、明治末までには終わっていた。

 

坂の途中、落石郵便局の前にある朝日食堂。開店したのは、1965(昭和40)年。

さて時刻は11時。今日は少し早いが、昼飯にする。営業時間は、黒い暖簾が出ている時だけという、大雑把さが嬉しいこの食堂は、私がバックパッカーとして落石を歩いていた頃には、すでに店を開けていた。この店に入るのは、昭和61年以来、実に36年ぶり。この間、ずっと営業を続けていたこの店も凄いが、これだけ長い時間を空けて再訪する客も、なかなかいないだろう。

店を切り盛りするのは、照子おばさん。当年とって、80プラス何歳かは不明。私が前に来た時は、40歳代だったのか。そして20歳代だった私も、還暦を過ぎた。店内は、カウンター5席と小上がりが一つ。地元の人だけを相手にした、こじんまりとした店。そもそも落石は、観光地としてほとんど認知されていないので、旅行者相手の店は以前から無い。こういう店こそ、私が入りたくなる店なのだ。

注文したのは、名物のシマエビ入りラーメン(900円)と白飯。落石で採った根コンブと野菜のうまみを合わせたラーメンスープは、あっさりとして優しい味わい。当然シマエビも、地元で水揚げされたもの。お客さんの多くが地元漁師なので、麺の量が通常の1.5倍以上は入る。これこそ、落石の旨味満載のラーメンなのだが、それはてらいのない、漁師町の日常の味でもある。

スープまで飲み干して、完食。麺の量が多い上に飯まで食べたので、かなり満腹になった。食べ終わったところで、照子さんと少し話をする。もちろん彼女は、以前私がここに来たことなど覚えてはいないが、昔の落石を知っている人と判ると、懐かしそうに色々なことを話かけてくる。

「ほおずきの宿、知ってますか?」と聞かれ、「泊ったことは無いけど、知っていますよ」と答える。朝日食堂のすぐ近くにあった、ハチさんこと中島守さんが開いた旅人宿・ほおずきは、北海道の旅人宿の草分け。1976(昭和51)年から落石で8年、美瑛に移って35年。北海道を一人で旅する若者達を、心からもてなす温かい宿だった。そうだ、あの頃はリュックを背負った多くの若者が、落石の駅に降り立っていたのだ。ラーメンを食い、昔の旅話をして、すっかりお腹も心も温かくなったところで、三里浜の断崖へ向かって出発する。

 

現在地は、郵便局のマークがあるあたり。この地図からも、落石駅を出るとすぐに森の中を走り、いきなり断崖へ飛び出している花咲線の経路が読み取れる。三里浜へ行く道は、何本かあり、その道沿いには家が立ち並んでいる。ただ地形図に、断崖を上る道は全く記されていない。三里浜の砂浜から登れそうなところを見つけるか、それとも行き止まりの道外れに登り口を探すか。浜から断崖の上まで、高さは30m以上ありそう。ここから滑落でもしようものなら、それこそ命取り。やはり、断崖が始まる際で、登れそうな所を見つける他は無いだろう。

上の地形図を見ると、落石西と記載がある辺りで、途切れている道がある。そして、この少し先が断崖の端になっている。ともあれ、まずはここまで歩いて、登り道の在処を探ることにする。外浜沿いには、船を上げた漁師の家と海産物の加工場が並ぶが、道の行き止まりには、貝殻の捨て場があり、異臭を放っている。そこにはトラックが何台もやってきて、次々に加工済みの貝を捨てている。思わず顔をしかめて見ていると、この捨て場の脇には踏み跡があり、上に向かう道の痕跡がある。それが上の画像だが、草地の中に小さな筋を確認することが出来る。

上へと昇っていくと、なだらかな起伏の台地に出る。道は所々にあったり無かったりするが、ともかく線路のある西へと歩いてみる。

 

アップダウンを繰り返すうちに、左側の視界が開けて、弧を描いた三里浜が見えてくる。小さな道筋は、丘の高みを目指してさらに続く。おそらくこれを登り切ったところに、線路があるはず。

しばらくして後ろを振り返ると、落石西の集落が小さく見える。秋も終わりに近く、草はほぼ枯れて台地は茶色。大きく弧を描いた湾の先には、落石岬の先端が見える。

更に踏み跡を進むと、平らな台地に着く。左側が急峻な崖なので、もうここは三里浜の海蝕崖の真上。画像の右側には、所々人工の植林があるので、ここに線路が引かれているはず。

さらに進むと、右側から線路が現れ、低く垂れこめた雲の先には、大地が広がっている。これは列車の中からでは見ることの出来ない、絶景だ。さっきまで晴れ渡っていた空が、一転して曇り、大粒の雨が落ちてきた。遠くは晴れてるのに、ここは雨。凌ぐ場所が無いので、濡れるに任せるが、この景色を前にしては、一向に気にならない。

そこへ丁度、下りの根室行列車が現れる。断崖をゆっくりゆっくり進んでいる。乗客は海側に釘付けのはず、なので車内からは私の姿が見えないように、遠目から車両を写す。絶景を見ていて、もしそこに人の姿があれば、間違いなく興ざめである。だから、旅行者の気分を害さないよう、気を使わねばならない。

車両は徐々に海蝕崖を離れ、森に入る。ここから落石の駅までは、5分程度。冬になると、ここにはエゾシカが大挙して現れ、時には列車の運行を妨げる。そして、時折ヒグマも出没する。運転士がその姿を見かけることも、珍しくは無い。根室市のHPには、この別当賀ー落石間における線路上の目撃情報がよく掲載されている。もちろん今日も私は、クマ撃退スプレーを携帯し、クマ鈴を鳴らし、時折ホイッスルを吹いて、人の存在を知らせながら歩いてきた。見通しのきく場所だが、油断は絶対に禁物である。

 

さらに歩いて、線路のすぐそばまで近づいてみる。おそらく、この辺りが花咲線の絶景ポイントになるのだろう。三里浜の行きつく先には、別当賀のフレシマ湿原がある。海と空と大地が奏でる壮大な風景には、やはり圧倒される。心行くまで眺められるのは、歩いてきた者の特権。だが列車の人たちには、何だか申し訳ない気がする。

 

 

花咲線は、三里浜の断崖の上を1㎞ほど走ると、徐々に海岸から離れて、起伏の少ない段丘の間を進む。地形図からは、三里浜と線路の位置関係がよく判る。三里浜の先には、天狗岩があり、その先に広がるのが、4年前に歩いたフレシマ湿原。地図には、鳥獣保護区を通る道・別当賀パスが黒い線で示されているが、ここにはパスの鍵が無ければ入ることは出来ない。だが、この湿原を見渡す風景も、三里浜断崖に劣らぬほど美しく、日本離れしている。

三里浜断崖から見える天狗岩。この向こうに広がるのが、フレシマ湿原。線路伝いに断崖の上を歩いて行くと、約4㎞ほどでフレシマに行きつくはず。ヒグマは怖いが、いつかこの道を踏破してみたい。

この画像は4年前、今回とは反対側、三里浜の先にあるフレシマ湿原の海岸べりから、落石方向を写したもの。(フレシマに関しては、2012.12.2の稿で記載)  左側の台地の先には、天狗岩の姿が小さく見えている。初田牛(はったうし)のガッカラ浜から、フレシマを経て、落石三里浜まで。今や貴重となった手つかずの北海道の原風景を、色濃く残す場所である。

 

翌朝早起きをして、今度は車を飛ばして落石までやってきて、再び三里浜断崖に上った。画像で分かるように、前日はどんよりと雲が垂れこめていて、すっきりとしない天気だった。もちろん、絵としてこれはこれで良いのだが、この絶景から、晴れ渡った空と海を見てみたい。そんな思いで、懲りずに再挑戦してみた。

朝8時前、快晴の三里浜断崖。心地よい微風が吹く中、空と海が奏でる青のグラデーションが、目の前にどこまでも広がっている。そして枯草の上に座ると、海風が体を吹き抜ける。ああ、来てよかった。お天気の神様に感謝しながら、この絶景を後にした。

 

乗り物の中から窓越しに見る風景と、自分の足で歩いて辿りつき、存分に眺める景色とでは、たとえそれが同じ場所であっても、全く印象が違います。簡単に通り過ぎてしまえば、簡単に忘れますが、時間をかけて歩けば、いつまでも余韻が残ります。回り道をすること、じっくりと時間をかけること。これこそが、私の旅の基本なのです。そしてそれは、呉服屋としての仕事の向き合い方ともリンクしています。若い時に培われた旅の精神は、今なお、心の中に息づいています。

「ああ、これでは読むのが本当に嫌になるな」と思いながらも、また長々しい旅行記を書いてしまいました。どなたか、私のこの悪癖を直して下さる方はおられませんか。もし何か効果的な処方箋がございましたら、ご一報下さい。あまり読み通される方はおられないでしょうが、最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 

(落石・三里浜海蝕崖への行き方)

JR根室本線(花咲線)落石駅下車。まず岬方向へ歩き、落石西地区の外れにある断崖の端を目指す。そこから踏み跡を辿り、丘に上がると、下には三里浜が見える。ほどなく右手に線路が現れるので、並行して崖の上を進むと、車窓絶景に辿り着く。駅からは5~6㎞ほどで、約1時間。

なお、断崖への道は何の目印もなく、当然案内は何もありません。国土地理院・二万五千分の一の地形図を持っていけば、判りやすいかと思います。ヒグマ出没の恐れがある場所なので、撃退スプレーやクマ鈴は必携。自己責任で、そして時間に余裕を持って、出かけてみて下さい。

 

なお勝手ながら、本日11日(金)~18日(金)まで、夏休みを頂戴します。この間、頂いたメールのお返事も遅れてしまいますが、何卒お許しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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