バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

有職文様とは、何か(前編) どうしてオリジナル和文様は生まれたか

2022.11 12

立冬を過ぎて、このところ晴天が続いている。日本列島の西にある大陸上に高気圧があり、東の千島列島付近に低気圧が位置するという、いわゆる「西高東低」の気圧配置になってくると、秋深く冬近しを思わせる。こうなると、太平洋側の地域では晴れて乾燥した日が続き、日本海側では、曇天で雨や雪が降る日が多くなる。

冬の天候は、日本列島の東と西ではっきりと分れる。この原因は、シベリアにある冬の高気圧がもたらす乾いた北西の季節風にあり、これが日本海を渡る時に、海面から熱と水蒸気が補給されて雪雲を作る。そしてこの雲が、日本列島の南北に連なる山脈にぶつかり、日本海側の地域に降雪をもたらす。さらに、風が山脈を越える時には乾燥することから、太平洋側では晴れる日が続くことになる。

こうして見ると日本の気候は、列島の中央に連なる山脈が、その境界線になっていると考えられるが、この太平洋と日本海を分ける山の分水嶺の連続線を、「中央分水界」と呼んでいる。分水界は、いわば日本の背骨にあたるところで、北は宗谷岬から南の鹿児島・佐多岬までが一本に繋がり、列島を分けている。2005(平成17)年に創立百周年を迎えた日本山岳会が、その記念事業として中央分水界の踏査を行ったが、道も定かでない未踏な山稜も多く、その歩程は困難を極めた。

 

雨が空から降ると、その水は地上や川に流れて、やがて海へと出て行く。分水嶺とは、雨水が異なる方向へと流れる境界で、それはつまり水系の境にあたる。端的に言えば、山に降った雨が分水嶺を境として、一方は日本海へ、もう一方は太平洋へと流れる。この分界の多くが、山の稜線になっているのだ。一本の尾根の右と左で気候が変わり、ひいては自然環境も異なる。まさにそれは、分かれ目と呼ぶに相応しい場所と言えよう。

こうしたことから、分水嶺という語句は、物事を決める転機や契機の比喩として使うことがよくある。例えば、「人生の分水嶺に立たされる」などと使うのだが、それだけ多くの人が、この言葉に「境界、転換点」という意識を強く持っているからだろう。

 

いわばターニングポイントの意味で使う分水嶺だが、文様にも、歴史的に大きな分水嶺があった。それは、文様黎明期における大陸伝来の文様から、日本固有の文様へと変化する分岐点。飛鳥・天平期の正倉院文様から平安期の有職文様へと、時代に従って文様やモチーフが動いたのである。

そこで今日から二回に分けて、初めての「和風オリジナル文様」ともいうべき「有職文様(ゆうそくもんよう)」について、話をすすめてみたい。どのような背景を辿って、日本固有の図案が生まれたのか。そしてそれは今、キモノや帯の意匠として、どのように表現されているのか。奥の深いテーマだが、出来るだけ判りやすくまとめてみよう。

 

代表的な有職文の一つ、小葵(こあおい)文様。白生地と染めた後のキモノ

文様の原点は、飛鳥期から本格的に交流が始まった大陸から伝来したもので、それは中国や朝鮮半島だけでなく、その先のエジプトやペルシャ、あるいはローマなど世界中のエッセンスが散りばめられていた。特に唐が隆盛を極めた天平期には、東西文化の交差点とされた国際都市・長安に多くの留学生を送り込んで、多彩な文化を学び取らせた。こうした交流が起点となり、正倉院収蔵品に見られるような、優美で華麗な天平文様の花が開いたのである。

文化の伝達使として役割を果たしてきた遣唐使だが、平安遷都(794年)以降に派遣されたのは、804(延喜23)年と838(承和5)年の二回だけ。派遣されなくなった大きな要因は、唐の国内における政情不安である。755年に起こった安史の乱が唐の衰退の始まりで、以降は政治腐敗が進んで、次第に民衆の不満は高まっていた。こうなると、奈良期のような繁栄した国の姿は消え、危険な航海を冒してまで吸収すべき文化は、ほとんど無くなってしまった。

 

875年に起こった巨大な民衆反乱・黄巣の乱により、唐の滅亡は決定的な段階を迎えていたが、894(寛平6)年に突然、宇多天皇が遣唐使派遣を発議する。この時派遣大使として指名されていたのが、参議の菅原道真である。崩壊寸前にあった唐へ使いを送ることは、この時期あまりに不自然で唐突だが、この計画の陰には、道真と対立する藤原氏一族が企てた陰謀が隠されていた。それは、政情不安な唐へ道真を追いやることで、中央から追放しようと考えたのである。道真を重用する宇多天皇は、藤原氏と外戚関係を結んでおらず、地位の維持に危機感を覚えた藤原氏の不穏な計画であった。

だが唐の政情を理解していた道真は、宇多天皇に遣唐使そのものの廃止を提議する。これを天皇が認めて、600(推古天皇8)年の遣隋使派遣以来、約3世紀にわたって続いてきた大陸との正式な交流が途絶えることになった。この対外関係の打ち切りこそが、日本固有の文化、いわゆる唐風から国風へと転換する分水嶺となり、有職文様と言うオリジナル和文様が生まれる契機になったのである。長々と遣唐使廃止の背景を述べてしまったが、ここから今日の本題・有職文様誕生の背景を探ることにしよう。

 

斜めに直線交差する菱格子・襷文と向かい鶴の複合文。誂えたのは、八千代掛。

確かに有職文様は、初めてのオリジナル和文様であるが、何も無いところから生まれたものではなく、やはりそれは、前代に大陸から伝来した染織技術や文様の影響を少なからず受けている。奈良期の後半、僅かに文様に和様化の兆しが伺えていたものの、遣唐使が廃止される前後・平安中期になると、従来の唐花的な図案を和風にアレンジしたり、幾何学的図案を複合的に組合わせた「固有の日本的文様」が現れてくる。そして文様のモチーフは、空想的な花文から、生活感のある身近な題材が選ばれるようになる。

 

この時代に文様が日本化したのは、貴族の衣装が変化したことと大きく関る。前代・奈良の官服は唐の影響を受けた、どちらかと言えば体にピタリとフィットしたシルエットだったが、平安期になると、住まいや仕事場が開放的な寝殿造の構造に変わったことから、季節に応じて衣の枚数を増減して調整する必要が生じた。その上に朝廷の儀式を坐って行うようになったことで、自ずとゆったりとした衣をまとうようになる。そして男子の正装は、それまでの朝服(官僚の仕事着)から重ね着をする束帯に変わり、女官も、唐衣と裳を付けた女房装束、いわゆる十二単が、束帯と同様に正装となった。

公家の束帯や女房装束に用いられたのが、二陪織物(ふたえおりもの)と呼ばれる二重の織物で、地紋のある綾織物の上に、別の糸で文様を織りなしたもの。これを一見すると、刺繍のような織姿に見える。この織物を、濃い色から薄い色へと重ね、襲の色目(かさねのいろめ)の組み合わせで、装いの姿とする。

天平期には、蠟染めや板締めといった絞り防染の模様染めが盛んに行われたが、平安前期までに姿を消し、多色の色糸で織りなす紋織物・錦も、ほぼ二色に限られてくる。貴族の装束には綾織の他に、平地の浮文錦織も使われていたが、色は極めてシンプルなものであった。結果として、平安貴族の装いはほぼ織物に傾き、それは、地から浮き上がる文様と、微妙な単色を重ねることで生まれる「ほのかな色の気配」に、装いの美意識を見い出すことになったのである。

 

立涌に撫子文。波状の線が縦に並ぶ立涌文は、縦区画の中に様々な図案が入る。これは黒地の紋紗生地なので、薄物らしく撫子をモチーフに使っている。下に着用する襦袢の白から、地紋を浮き上がらせて模様姿を映す紋紗は、襲の色目の発想。

単色の色重ねだけに、織生地にどのような色を施してあるかが着姿の鍵になる。この時代の服飾や染織に関わる事象は、927(延長5)年に完成した法令の集大成・延喜式に、膨大な量の記載が認められる。この中には、三十色以上もの植物染料を用いた染色方法が記されているが、高貴な色とされた紫などは、深紫・浅紫・深滅紫・中滅紫・浅滅紫などと何段階にも分けて染められていた。

このように襲の色目で表現される自然の色は、桜色とか朽葉色、あるいは柳色、紅梅色などと植物に擬えて呼ばれた。それはこの時代を描いた文学作品の源氏物語や栄華物語、今昔物語集などの記述にも散見される。平安貴族たちの自然風物に対する細やかな感覚が、こうした繊細な「にっぽんの色」の表現に結び付いたもので、そこにはこの時代の、貴族の優雅な生活が偲ばれる。

 

上の白生地は、菱襷に波文様。下は、菱襷に羊歯文様。襷文は綾織物として、最も多く使われていた基本的な幾何学文様。この図案が様々にアレンジされて、多彩な文様が生み出された。画像で判るように、この文様は線を中心に見れば襷文だが、区画された面を中心に見ると菱文になる。

装束の姿に映し出される色は、生地から浮き上がる文様によって変わる。にっぽんの色にこだわった貴族が、にっぽんの文様にもこだわったのは、当然の帰結である。それまで受け入れてきた文様は、正倉院の染織品を見れば明らかなように、あまりに壮大で幻想的な異国デザイン。料理で言えば、中華料理にエスニックが混在しているような、ある意味無国籍的なものだ。こんな天平文様は、繊細な平安貴族の心情と相容れるはずが無い。

自分たちの装いには、自然の理に適う、身近で生活に密着したモチーフを使う。そう考えて生まれたのが、幾何学図案を用いながら、植物や鳥など身の回りの自然事象を使う文様=有職文様であった。色も図案も、自然と一体感を持ち、四季折々その時に相応しいものを使う。そんな貴族の意識が、如実に文様に表れている。それは季節感を大切にする、いわば「万葉的な感性」の表れであり、それこそが日本人の本質と言えよう。

 

公家染織の有職文は、全て織の文様。ご覧頂いた画像でも判る通り、その図案は幾何学的な構成で、文様が繰り返されるのが、大きな特徴である。なので、現在この文様を強く意識する品物となると、浮き出した地紋を生かした白生地になる。この生地で色を染めた無地紋付や、浮文が夏姿となる紋紗、さらに白生地をそのまま使う八千代掛などは、有職文が装いの中心となる品物と言えよう。

今日は、日本で最初に生まれたオリジナル和文様・有職文の成立と背景についてお話してきた。次回の後編では、様々な有職文をご紹介しつつ、それが現代の意匠の中でどのように組み込まれているか、品物を使ってご案内することにしよう。

 

還暦を過ぎてひと区切りがつくと、ちょっとだけ、自分の人生を振り返るようになります。自分の分岐点がどこにあったのか、そしてそれは、何が起因していたのかなどは、年齢を重ねないと気付かないことかも知れません。

私がこうして今、呉服屋として仕事をしているのも、そして三人の娘の父親になったのも、考えてみれば、「まさかこれが、分水嶺だったとは」というほど、些細なことに起因しています。こんな人生の不可思議さは、どんな人でも多かれ少なかれ経験していることでしょう。思い通りにいくことより、思い通りにならないことの方が、ずっと多い。そして自分の意思に反して、思わぬ方向に進んでしまう。「こうなることは、必然だったのだ」と、思わず運命論者的に、自分に言い聞かせたくなります。

分水嶺に立たされているとは気付かないまま、重大な選択をしてしまう。人生は、そんなものかなとも思いますね。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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