バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

遺されしものに、会いに行く(後編・学校編) 霧里・上足寄鳥取

2020.05 11

営業自粛もあって、例年のゴールデンウイークよりも長い休みを頂いた。無論、どこに出かけることもなく、家内と二人で家に蟄居していたが、その中で唯一毎日行ってきたことが、峠道を全力で歩くこと。これは適度というより、かなりハードな運動である。

都会では、住まいの周りだと、ウォーキングやジョギングをする場所が限られ、かえって公園などに人が集中してしまう。だから、適度な運動をしたくてもなかなか難しい。居場所を制限された生活を強いられる中で、これは、大変気の毒なことと思う。だが田舎には、車も人も少ない道がそこらにあり、かなり自由に走ったり歩いたり出来る。

 

私が休み中に歩いていた道は、県道104号・天神平甲府線。この道は、甲府市北部から、景勝地・昇仙峡へと続いている。途中に和田峠というかなり勾配のきつい峠があり、登り切ったところに、千代田湖という小さな貯水池がある。

自宅からまっすぐに和田峠を登り、千代田湖の畔まで歩く。距離は片道約5.5K。標高差は260mで、峠の勾配斜度は、6.6%。家から湖まではずっと上りっぱなしで、峠はくねくねと曲がり、勾配もきつい。ここを、毎回上りは1時間前後、下りは約50分で歩き通す。暑い日は、汗が滴り落ちて、息も絶え絶えとなるが、終わった時の爽快感は格別。歩く前後には、家で約15分のストレッチもするので、毎日2時間半も運動をしたことになる。

以前は週に一、二度ジム通いをしていたが、今はそこも営業を止めている。けれども、そこでの運動はここまでハードではない。家に籠っておられる都会の方々には大変申し訳なく、誠に不謹慎に思うが、私のコロナ休みは、体を鍛える時間になってしまった。

 

私が体を動かす理由は、もちろん体調の管理、体力の維持が目的。これから先、呉服屋の仕事を続けるには、何と言ってもまず体が資本である。そして隠れたもう一つの理由。それは「歩く旅」を維持するため。毎年出掛ける北海道では、自分の行きたい場所へたどり着くには、歩くことが欠かせない。交通手段を伴わない僻遠の場所は、もし歩くことが出来なくなれば、それで終いになってしまう。

北海道も、一時は終息に向かったコロナ禍が、再び広がっている。果たして今年の秋は、例年通り行くことが出来るだろうか。そんな訳で、休み中の今回の稿は、北海道旅・「遺されしもの」最終編・学校をテーマにして書くことにする。いつものことながら、読者の方々には呉服の話が出来ず、申し訳ない。

 

山深い開拓地の奥に佇む。旧音別町立・霧里(むり)小中学校の校舎。

さて、皆様が卒業した小学校は、まだ健在だろうか。平成という時代は、急速に少子化が進み、それと時を同じくして全国で市町村の合併が推進された。その結果、この30年の間に、多くの公立小中学校が姿を消すことになる。文部科学省の統計によると、平成14年~27年の廃校数は、全国で6811校(小学校4489・中学校1307・高校1015)にも上る。

私が小学校を卒業したのは、1972(昭和47)年。自宅から10分のところにある母校は、これまで統合の話が何度も出ながら、何とか残っている。現在児童数は全校で190人というから、私が在校していた頃と比べると、五分の一程度に減っている。甲府市内の学校では、一部を除いて、どこも同じような減少傾向にある。

 

このように、全国的に学校の統廃合がかなり進んでいるが、中でも北海道は飛びぬけて廃校数が多い。先述した統計を見ても、全体の一割にあたる688校もの学校が、学び舎を閉じている。だが北海道での廃校は、今に始まったことではない。

戦前から戦後にかけて開拓に入った人々は、苦闘の末に未開の土地を開き、作物を植えて牛を飼った。しかし、厳しい自然条件の下、撤退を余儀なくされる人が続出する。そして中には、集落全体がそのまま離農して、消えてしまうことも珍しくはなかった。この「地域全体が消える」ことは、開拓地に限らず、炭鉱や木材集積地にも見られる。当然のことながら、産業の喪失は、すなわち人口の流出である。北海道での離農、離村はすでに1960年代から始まり、その傾向は今だに続いている。

人が土地を離れた後、どうなるのか。それは、元に戻るだけ。つまりは、入植する前の原野に還るのだ。けれども、僅かに人の痕跡を残している場所がある。それが鉄道や駅の跡であり、開拓して新しい姿に変わった土地だった。そんな「遺されしもの」の最終編は、学校。人が生活を営む上で、どうしても欠かせない学びの場。どこの開拓地でも、入植者たちが真っ先に望んだ施設が、学校であった。

そこで今日は、どのような形で学校が残されているか。三つの学び舎をご覧頂こう。

 

釧路支庁・旧音別町の概略地図。

釧路から40キロほど西の太平洋沿いに、旧音別町がある。ここは、2015年に釧路市と合併しており、現在の行政区は釧路市となる。ただ東隣に白糠町を挟んでいるので、飛び地である。

旧音別町には、根室本線の駅が音別・尺別・直別と三つあったが、今残るは音別駅のみ。かつては尺別の奥には炭鉱があり、5千人以上が働いていたが、昭和45年に閉山後は、急速に人口が減少した。最初にご覧頂くのは、音別駅から北へ25キロ、山懐の開拓集落・霧里(むり)にあった霧里小中学校である。

私が霧里を知ったのは、国土地理院の地形図から。白糠線沿線の集落を調べるために、5万分の一地形図を眺めているうちに見つけた。ムリとは、アイヌ語で「草のある場所」という意味。そして、ムリを含む音別川の流域では、ムリ草と呼ぶテンキ草(ハマニンニク)が沢山自生する。

北海道の集落名は、アイヌ語を当て字にしたものが多いが、ムリを「霧里」としたのは、何ともロマンチックで秀逸。これを「無理」なんて付けたら、本当に住むことが無理になってしまう。他にも、アイヌ語で「悪い川」を意味するウエンベツを「雨煙別」に、夏の道・サクルーを「咲来」と名付けているが、そんな地名は見ているだけで行きたくなる。

 

音別の海岸。橋の下に見えている水辺が、馬主来(パシクル)沼。水位によって海と繋がったり、隔てたりする不思議な沼だが、湿原には多くの水鳥の姿が見える。よく地元の人が、シジミ採りやワカサギ釣りに来ている。この海沿いの国道38号を音別駅まで進み、そこで分岐する道道241号を北上する。

音別の市街を出ると、すぐに人家もまばらとなる。道の左右には小さな牧場が点々と広がる。北海道ではお馴染みの「シカ横断注意」の標識が見える。

道々の分岐だが、道に沿って流れていた音別川も、ここで分流する。ここの地名は二俣だが、霧里小学校が閉校した時には、ここにあった学校に統合された。だが、本校の二俣小も平成9年に閉校する。現在音別の小中学校は、それぞれ一校になってしまった。

音別から二俣までは、約15K。この二俣も十分僻地だが、霧里はさらにここから11Kも奥に入る。道道241号でここを直進する本流地区は、上音別と呼ばれ、かつては炭鉱があり学校もあった。上音別小中学校(僻地等級4級)の閉校は、昭和40年。

霧里へ向かう道道500号に入ると、全く人家が無くなる。途中僅かに、農地と牧草地があるくらい。そして電柱には、リアルな「クマ出没情報」が貼ってある。日付を見ると、現れたのは数日前のこと。恐ろしい。

霧里のへき地等級は4級。最高が5級なので、かなりの遠隔地になる。僻地等級を決める基準は、駅や病院、町の中心までの距離や交通手段の有無などで決まり、より不便だと等級が上がる。へき地校に勤務する教員の基本給は、等級により変わり、最高の5級校だと25%増しとなる。

最後の人家から4K。ムリ川を橋で渡ると、舗装道の終わりが見えてくる。そして道の果ての、少し開けたところに、木造の古い校舎が建っている。

 

旧音別町立 霧里小中学校  開校・大正6年5月  閉校・昭和42年3月

現在ここは、YAMANONAKA カムイミンタラという名前のキャンプ場になっている。そして校舎もツーリングハウスとして整備され、使われている。かつて旅人だった管理人は、廃校して荒れ果てていたこの校舎と出会う。そして、深い森を持つ霧里の清冽な自然に魅かれ、校舎を整備してキャンプ場を開くことを決めたのだった。

校章と校名がきれいにそのまま残る玄関。小学校の學の旧字体が、時代を物語る。これだけで、オーナーがこの校舎を大切に管理していることが判る。玄関を開けて、来訪を告げる。もちろん約束などしていないが、たとえ校舎の写真を写すだけにしても、きちんと管理人の許可を得なければならない。

突然の申し出だったが、管理人のMさんは快く受け入れてくれた。そして、「良かったら、校舎の中もどうぞ」とのこと。喜んで、入らせて頂く。

かつての教室は、談話室になっている。オーナーの奥さんのピアノが置かれ、ストーブがある。木枠の窓からは、秋の陽ざしがたっぷり降り注ぐ。

廃校が昭和42年というから、すでに半世紀以上が経つ。古い木造の校舎がこれだけ美しく残っているところは、そうはあるまい。窓から見える校庭は、きれいに草が刈られて、テントサイトとして使われている。

教室の続きの部屋は、かつての校長先生の住宅。へき地校では、校長も教員も学校に隣接した住宅に住んでいた。つまりは職住一体である。

 

改めて、表から校舎を撮ってみた。樹木に覆われた小さな平屋の学校は、まさに「森の学校」。玄関の左側は、以前は教室だった談話室。さらに左端の部屋は、宿泊者のベッドルームとして使っている。校長先生の住居だった右側は、オーナーの住まいになっている。

外から見ても木の窓枠の美しいこと。そして、赤い屋根と煙突も印象に残る。

校舎の裏には、キャンプや薪ストーブに使う薪が積んである。学校の周りは、前の道を挟んでムリ川、裏にはポンムリ沢川が流れる。水場もあり、付近に人家もなく、静謐が保たれる。大自然に抱かれてキャンプを楽しむには、またとない環境と言えよう。

玄関脇に取り付けられていた板。おそらく閉校した時のものだろう。読んでみると、大正6年に「特別教場」として学校が開設されたことが記されている。その後昭和4年・4月に正式な「尋常小学校」となる。さらに、戦後の昭和22年4月、学制の改革によって「霧里小学校」と改称される。最後の記載では、昭和42年・4月に二俣小学校へ統合された旨が、記されている。

学校の前で終わっている舗装道の先には、林道が続く。オーナーの話だと、昔学校は集落の中ほどに位置していたという。ということは、当時はこの林道の先にまだ民家があったことになる。

霧里の児童数は、最も多い時で40人ほどだった。だが、100年以上前に、これほど山深いところで開拓の鍬が下ろされていたとは、それだけで驚きである。厳しい自然と対峙した末に、撤退は余儀なくされたものの、こうして校舎が残されたことで、開拓者たちのスピリットに思いを馳せることが出来る。

オーナーに感謝を述べて、最後にもう一枚美しい校舎を撮る。次に来るときは、ぜひ泊まってみたい。ここでは、どんな高級ホテルよりも、贅沢な時間が過ごせるはずだ。数えきれない北海道の廃校舎の中で、霧里ほど大切に建物を保存しているところは、あるまい。この木造校舎が、「いつまでもこのままで」と願いながら、学校を後にした。

だが、霧里のように管理された校舎は、例外中の例外である。それは、次にご紹介する学校の様子を見れば、理解できるように思う。

 

十勝支庁・足寄町概略地図

足寄町は、十勝北東部に位置する広大な町。東西66K、南北41Kにも及び、面積は全国の町村の中で最も大きい。周囲を接する町村は、東に阿寒・白糠、西に上士幌、南は本別、北が陸別・置戸・津別と7町村もある。

東の雄阿寒岳と雌阿寒岳、北西の喜登牛(きとうし)山、クマネシリ山、ビリベツ岳など、町の周囲には1300~1500m級の高い山がそびえる。町は、標高200m~500mの丘陵地にある。

かつて足寄町内には、池北(ちほく)線というローカル線が走っていた。この線は、根室本線の池田と石北本線の北見を結んでいたが、国鉄の民営分割後は、沿線自治体が運営する第三セクター・北海道ちほく高原鉄道となって運営されていた。だが、もともと過疎地帯を走る長大な路線で経営は厳しく、何とか頑張ってきたものの、ついに2006(平成18)年に廃線となった。

足寄の開拓は、1879(明治12)年に細川繁太郎夫妻が、中足寄に入植したことが始まりである。その後、大正末にかけて全国各地から開拓者を迎える。特に大豆や小豆などの豆の作付が盛んで、大正期には豆の相場が高騰したことから、土地の開墾は一挙に進んだ。足寄は戦前に足寄村と螺湾(らわん)村、戦後に西足寄村が合併して足寄町となり、現在の行政区域となったのは、1955(昭和30)年のことである。

日本一の広さを誇る町だけに、集落数も多い。また戦後の開拓地は、交通不便な未開地ばかりで、開拓者に子どもがあれば、どうしても学校は集落内に必要だった。こうした事情もあり、町制施行当時の昭和30年には、小学校が22校、中学校は18校もあった。だが統廃合が繰り返された結果、現在は小学校が3校(足寄・芽登・螺湾)中学校は足寄中学校1校だけになってしまった。

学校が消えた大きな要因は、離農による人々の流出である。足寄の開拓地では、集落が丸ごと消えたり、数戸だけが残った高度過疎地になっているところも多い。最初は奥地にある開拓地の学校が閉鎖され、少し町に近い学校に統合されたが、次第に統合した学校の地域にも子どもがいなくなり、また別の学校に統合される。現在の学校数は、こうした繰り返しによる。

これからご紹介する上足寄小学校鳥取分校と本校の上足寄小学校も、こうした事情から閉校になった学校である。

 

だだっ広い足寄町の中でも、上足寄地区は町の中心からかなり遠い。そして鳥取は、さらに道を辿らなければならない。ここへ行く道は、大まかに二通りある。一つは、国道242号を陸別まで走り、そこから道道143号でカネラン峠を越えて鳥取集落に至る方法。これだと距離は、旧足寄駅から50Kほどあり、峠道は狭い上に未舗装区間があるので、約1時間半はかかる。もう一つは、国道241号で螺湾を経由する方法。こちらの道は割と平坦で、距離も約30Kと短い。所要時間は40分くらい。

どちらを選ぶか。ここを訪ねた時は、10月半ばで紅葉の盛り。とすれば、たとえ悪路で遠回りでも峠道を選ぶ。しかもカネラン峠は、頂上から阿寒山地を見渡せる。地元の人さえ通ることの少ない道だが、隠れた「眺望スポット」だ。

標高507mにある頂上からは、雌阿寒岳、雄阿寒岳の姿がよく見える。

こちらは白糠丘陵の山々。中心のウコタキヌプリ山は、雌阿寒岳に連なる。峠の紅葉は見頃を少し過ぎているが、やはり眺望は素晴らしい。ここから、砂利道を上足寄へ向かって下る。

峠にある道道の標識。上足寄まで14K、阿寒湖畔まで44Kとある。だが、この道を使って阿寒湖に行く車はほとんどあるまい。そして万が一にも、観光ツアーのバスがこの道に入れば、この先で間違いなく立ち往生する。国道ならこんなことは無いが、道道には怪しい道が沢山ある。

画像ではわかり難いが、道道143号・北見白糠線と書いた標識の下にこの場所の地名が出ている。見ると「足寄町・鳥取」とある。すでにこの場所が鳥取地区だが、学校跡はここから8Kも先になる。

 

(足寄町立 上足寄小学校鳥取分校 開校・大正4年5月 閉校・昭和43年3月)

峠を下り始めると、すぐ深い砂利のダート道となる。道幅は、車がギリギリでようやくすれ違うことが出来るくらい。カーブがきつく、油断の出来ない運転が4Kほど続く。ダートが途切れると舗装道になるが、家は一軒も見当たらない。この辺りには開拓者の家があったはずだが、痕跡は何もない。

舗装道に変わってしばらくすると、右に小さな牧草地があり、その脇にある鬱蒼とした木の陰に、何やら建物がある。これが、今から50年も前に閉校した、上足寄小学校鳥取分校の校舎。

道の脇からみた校舎。褐色に色づいた大木と背後の森が、廃校舎を美しく囲む。小さな平屋の建物が、学校の小さな規模を象徴する。鳥取分校は、閉校する2年前の昭和41年までは、単独校だった。しかし、児童の減少から上足寄小の分校に降格され、2年後に廃校となった。最後に在籍した児童は、僅か2人だった。

鳥取に学校が出来たのは、大正4年と古い。集落名から判るように、ここへ入植してきたのは、鳥取県の人たちである。現在、釧路市の近郊にも鳥取という地名があるが、明治の中ごろ、釧路川から阿寒川に至る流域には、鳥取県の士族が多く入植した。今は、釧路市に合併されたが、昭和24年までは鳥取町という独立した町があった。この足寄の鳥取地区の入植者も、おそらく同じ流れを汲んでいると思われる。なお上足寄には、鳥取の他に茨城、宮城という集落もあり、これも各々の県の出身者で占められている。

さすがに半世紀も放置されていると、校舎の傷みも激しい。屋根は剥がれ、建物はぽっかりと口を開けている。僅かに学校の痕跡を残すのは、入口の扉と教室の木製窓枠くらい。だが、この小さな学校は、子どもたちの、そして遠く鳥取からやってきた開拓者たちの、心の拠り所だったに違いない。

校舎と牧草地の間には、フェンスが張ってある。どうやら、鹿の侵入を防ぐためのようだ。そして校舎の内側には、農機具が保管されていた形跡がある。窓を外して大きく外に開いているのは、スムーズに農具を仕舞うためか。

校舎とは別に、右側に崩れかかった建物がある。これは、赴任していた校長か教員の住宅であろう。この辺りは、北海道の中でも特に寒さが厳しく、降雪量も多い。考えてみればこの校舎は、不完全ながらもよくぞ形が残ったものだ。人の手を入れず、全く自然に任せたままの校舎の姿は、保存された霧里小学校とはまた別の、「遺されしもの」への感慨を与えてくれる。

秋の柔らかい陽ざしを浴び、静かに朽ちて佇んでいる校舎を眺めながら、この遠き地で開拓に鍬をふるった人のことを、思う。きっと、今も校舎の前で色づく大木を、鳥取の子どもたちも、小さな校舎の木窓から見つめていただろう。私が廃校舎に強く惹かれるのは、こんな時間旅行が出来るからだ。

さて、鳥取分校を統合した上足寄小学校も、1993(平成5)年に閉校してしまったが、今はどのような姿になっているだろうか。訪ねてみることにした。

 

(足寄町立 上足寄小学校  開校・明治44年6月 閉校・平成5年3月)

鳥取分校を後にして、道道143号を下っていくと、足寄から阿寒へのメインルートになっている国道241号に行きあたる。上足寄小学校は、国道と交差する手前の左側、少し小高い丘の上にあった。

上足寄へ入植が始まったのは、明治42年。やはり最初は豆作が中心だったが、第一次大戦終結後に豆相場は一気に下落し、農家は大打撃を受けた。その上昭和初期には、毎年のように冷害が続く。そこで町では打開策として牛の貸し付け制度を作り、酪農への転換を手助けすることになる。上足寄で酪農が始まったのは、昭和7年のことである。

小さな山を背景にした校舎の規模は、分校の鳥取とは比べ物にならぬほど大きい。隣接している体育館も立派だ。昭和30年代の上足寄地区の人口は、約2000人。農家も多く、この時代はまだ林業も盛んで製材加工場もあり、さらにこの先の茂足寄(もあしょろ)地区の奥には、硫黄を採掘する鉱山もあった。

林業が盛んだった町らしく、木で彫り抜いた「上足寄小学校」の学校標が、玄関先に残っている。また、入口のガラス戸の上には、校章と思われるマークの跡が残る。昭和22年~42年までは、中学校も併設。教育の場として、また地域の文化を担う場所として、長い間役割を果たしてきた。

校舎の窓越しに、児童の出欠席表が見える。撮り方が極めて悪く、画像ではガラスに反射した樹木が写ってしまったが、閉校時には、1、4、6年に男の子が一人ずつ、5年生に女の子が一人の計4人の児童が在籍していたことが判る。

使うことが無くなった国旗掲揚台と、地域の防災無線の施設が並ぶ。閉校になっても、地域の集会場や防災施設として役割を持つのだろう。そのこともあってか、学校を閉じて30年近く経つというのに、机や椅子のほか、書籍や学校の備品類もそのまま残されている。

帰り際にもう一度、使われなくなって草が蔓延る広いグランドから、学校の姿を写す。現在、学校があった上足寄の中心・本町地区の居住者は、7世帯17人。他の地区を含めても、上足寄の人口は24世帯63人に過ぎない。上足寄小は、国道を西へ進んだ螺湾地区の螺湾小に統合されたが、この螺湾小も、昨年度の在校生は12人しかいない。

廃校は、まず一番不便な奥地の学校から始まり、次第に、規模の大きい町の学校へと連鎖していく。いわば「廃校のドミノ現象」であるが、こうした状況は、北海道に限らず全国どこでも同様にみられる。

家の世代が変われば、人は出ていく。これは農林業には限らない。うちのような代を越えて続いてきた商売の家でも、子どもたちを引き留めてまで続けることはない。「子には子の人生がある」と考えるからである。こうして、地方には廃校ばかりか、人の住まなくなった空家や廃屋が増えていく。

遺されし学び舎は、この国の地方社会の行く末をも、暗示しているように思える。

少し気の重い旅のまとめになってしまったので、最後に雄阿寒と雌阿寒をバックにした美しい紅葉の道をご覧にいれて、今回の長い話を締めくくることにする。まだご紹介したい趣のある廃校舎が幾つもあるので、またいつか続編を書きたいと考えている。

 

(霧里への行き方)

根室本線・音別駅から27K。道道241号、500号。車で約40分。

(上足寄鳥取への行き方)

旧池北線・足寄駅より、陸別・カネラン峠経由で約50K。車で1時間30分。国道241号の螺湾経由で約30K。車で40分。

 

また死ぬほど長い、旅の話を書いてしまいました。今回は、バイク呉服屋に余暇が沢山あったので、なおまずかったですね。相も変わらず、訪ねるところは偏っていて、とても一般受けはしない内容になってしまいました。これでは、読者の皆様の暇つぶしにもならないでしょう。申し訳ありません。

次回からは、また呉服屋に戻りますので、懲りずにお読み頂ければ、有難いです。  今日は、マニアなお話に最後までお付き合い頂き、大変感謝しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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