バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

縞にも色々ありまして(1) ヤマト王権の倭文と正倉院の長斑

2016.03 03

バイク呉服屋が使うシャツには、ストライプが多い。スーツの柄もごく細い縞で、ほとんど無地にしか見えないようなものばかりである。

なぜ縞にこだわるのかと言えば、それは自分の体型のせい。ストライプは伸びやかな模様なので、太い体を細く見せる効果があると、勝手に信じ込んでいるからだ。しかし最近、ストライプならどんな模様でも「着やせ」して見えることはない、と気付いた。

先日、薄いピンク地に少し太めの縞のYシャツを着てみたところ、細く見えるどころか、逆により以上に太って見えてしまった。ピンクという色にも原因があるだろうが、それ以上に間隔の空いた太い縞柄が、太い体型をより強調してしまっている。

すでに何を着ても、似合うモノはない自分の体型ではあるが、今までのささやかな努力が水の泡である。縞という模様を間違えて扱うと、大変なことになる。

 

縞模様ほど、キモノの文様として、多種多彩に使われているものはない。江戸小紋や浴衣地に見られる万筋は、小粋さを演出し、唐桟(とうざん)に代表される綿織物の縞には、素朴な味わいがある。また、室町期に伝わった、名物裂の中の間道(かんとう)と呼ばれる縞は、今に繋がるキモノの文様に、大きな影響を与えている。

という訳で、これから三回ほどにわたり、「縞」という文様についてお話してみたい。

 

そもそも縞という名前は、江戸時代の享保年間あたりから付けられたもので、それ以前は「筋」と呼ばれていた。江戸小紋の極細縞が万筋と呼ばれているのは、その名残である。では、この筋はいつ頃から日本に入ってきたのだろうか。今日は、今に続く縞文様のルーツを探ってみよう。

 

(獅噛文長斑錦 龍村美術織物・光波帯)

縞が最初描かれていたのは、土偶や埴輪である。もともと縞という文様は、古代インドあたりで発生したものであり、それが西アジアから中国へ広がり、日本へ渡ってきたと考えられている。

埴輪に縞が見られたこの古墳時代には、すでに縞模様の織物が作られていたことがわかっている。1996(平成8)年、奈良県の下池山古墳から出土した鏡の周囲に、縞模様の織物が付着していた。この古墳は4世紀前半に作られたと推測されているため、同時代に織物があったことが認められる。

 

少し時代が下がり、日本書紀巻16・武烈天皇紀には、「おほ君のみ帯の、之都波陀、結び垂れ」という記載が見られる。武烈天皇というのは、第22代で5世紀末から6世紀初頭に即位していた王である。「之都波陀」は「しづはた」と読ませる。記述によれば、天皇はしづはた織の帯を結んでいたとあるが、このしづはたこそが、縞模様の原点とされる織物である。

しづはたについては、古代の文献には数多く見られていて、大体が「倭文桟」或いは「倭文」と記されている。読み方は同じ「しづはた」「しづ」である。

例えば、万葉集巻5の山上憶良の歌に、「倭文手纏 数にも在らぬ身には在れど 千年にもがと 思ほゆるかも」とある。倭文手纏(しづてまき)とは、手に巻きつけられる倭文織の飾りのことだが、憶良は、自分の命のことを倭文手纏に例え、「しづおりの手巻きのように、大して価値のない命だが、千年でも生きたいと思う」と詠んでいる。この歌は天平5(733)年に作られたものだが、この年憶良は亡くなったとされているので、辞世の歌のようにも思える。

 

少し話が逸れてしまったが、倭文というのは、楮(こうぞ)や麻、芋麻(からむし)などを使い、緯糸を赤や青などの原色に染め、縞模様に織り出された古代布。

この布は、3世紀後半、弥生期に海の上で活動していた「海人族(あまぞく)」が織っていたものとされ、のちにこの集団は大和王権に従属して、職工集団・倭文部民(しとりべ)を形成する。そして後に、倭文・しづの名前で、社会に流通していったと考えられている。

最初にお話した、4世紀前半の古墳から出土した縞模様の織布が、倭文だった可能性を伺わせるのは、こんな理由からである。なお、縞模様の「しづ」と言う言葉は、その後「すじ」に転化し、縞は筋となったと言われている。

 

(唐花雙鳥長斑錦 龍村美術織物・光波帯)

初めて遣隋使が派遣されたのは、600(推古天皇8)年。大陸との本格的な交流が始まったことで、社会は大きく変化を遂げる。染織品からみても、この時代は大きなターニングポイントであった。

正倉院や法隆寺には、裂(きれ)として、膨大な染織品が残されているが、これらは、中国や西アジア・ペルシャなどの遺跡から発掘された品々と多くが共通している。

正倉院裂に見られる、獅噛文長斑錦や双鳥長斑錦、鴛鴦唐草文錦、また法隆寺裂に見られる獅猟文や蜀紅錦、それに太子間道のようなインド系の絣文様の錦などを見ると、それぞれの文様や織技法がそのまま踏襲されて、持ち込まれたものとわかる。

 

この時代にもたらされた代表的な錦には、主に二つの技法が使われて織られていた。「経錦(たてにしき)」と「緯錦(よこにしき)」である。飛鳥から奈良朝前半にかけては経錦のものが多く、奈良中期以降の天平の時代には、緯錦が主流を占めている。

経錦と緯錦、技法が難しいのは経錦である。錦という織物を単純に言えば、先に染められた織糸を二色以上を用い、模様を織り出したもの。経錦は経糸で、緯錦は緯糸で文様を表現する。

経糸で模様を形作ろうとすれば、使うだけの色糸を経糸として準備しなければならない。つまり、三色なら三本、四色ならば四本である。これをひと組の経糸として使う。経錦のほとんどは、三本一組(三十経と言う)にされた糸を使うが、色の本数を増やせば増やすほど、経糸そのものの本数が増え、糸を開口させることだけでも難しくなる。

経糸に対して、色を表に出すための緯糸(母緯糸・おもぬきいと)と、表に出ない色糸を沈めるための緯糸(陰緯糸・かげぬきいと)とを交互に通しながら、模様を織り出していく。

経錦は、経糸として使われる色が、模様の色の全てであり、どうしても模様が小さくなってしまう。その点、織の工程の中で、緯糸を自由に何色でも色を変えることが出来る緯錦では、模様の大きさも彩りも自在であり、たやすく変化を付けることが出来る。

飛鳥・天平期の錦が、時代を追うごとに緯錦が増え、経錦のものが見られなくなってしまったのも、この二つの技法の自由度の違いを考えれば、当然のことであろう。現在、錦帯として流通している品物のほとんどが、緯錦であるが、北村武資氏により、この難しい経錦が復元されたのは、よく知られているところである。

 

最初の画像で御紹介した、獅噛文様を拡大したところ。龍村では、1922(大正13)年より正倉院御物裂の復元を委嘱されていたが、1928(昭和3)年に一通りの成果を出している。

この獅噛文長斑錦も、その一つに当たる。この裂は、三本の経糸・三重経で織り出されている経錦である。ということは、獣の顔のような、不思議な獅子の顔に使われている色は三色になる。

けれども、四色に区分けされた縞模様の上に置かれた獅噛文を見ると、色鮮やかである。これは、四色縞との相乗効果により、多彩な色の模様として見せかけているのだ。

 

唐花雙鳥長斑錦を拡大したところ。六色縞で構成されている長斑錦。

正倉院裂の中には、縦に数色に区分けされ、縞状の地になったものが見られる。この縞のことを長斑(ちょうはん)といい、錦でこのような配色がなされているものは長斑錦(ちょうはんにしき)と呼ばれている。

長斑は、経錦という色の変化の少ない織物を、彩り良く見せるためのものであり、この時代を象徴する縞模様とも言えよう。

 

今日は、古代における縞模様を見てきた。古墳時代からヤマト王権にかけて織られていた倭文と、その後の飛鳥・天平期の長斑。今に続く縞という文様が、どのようにして生まれてきたものなのか、調べてみると奥が深い。

この後時代が進み、室町期には日宋・日明貿易により名物裂がもたらされ、「間道(かんとう)」と呼ばれる縞が入ってきた。また、桃山期の南蛮貿易により、南の島々から数多くの縞柄・綿織物が運び込まれ、近世から近代にかけて、日本各地に様々な個性豊かな織物が生まれる契機となる。

次回は、室町以降の縞について、綿織物のことを中心に話を進めてみたい。

 

日本各地には、「倭文神社」という社があります。祀られているのは、天羽槌雄神(あめのはづちのかみ)という機織の神様。倭文神(しどりのかみ・しずのかみ)という名前で呼ばれているようです。

倭文に見られる縞模様は、日本の文様の原点なのかも知れませんね。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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