バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

空蝉の町 炭鉱エレジー  夕張社光・福住

2015.08 11

今年の7月9日、ドイツ・ボンで開かれた第39回ユネスコ世界遺産委員会において、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」が、世界遺産として登録されることが決まった。

明治初頭から始まった、産業の近代化を象徴する建造物や施設に、その歴史的な価値が認められたことになる。これまで、日本の産業遺産として登録されていたのは、石見銀山と富岡製糸場であるが、今回初めて八幡製鉄所や長崎造船所など、重工業の分野が脚光が浴びることになった。

産業遺産と認定された中に、炭鉱施設が幾つか入っている。筑豊・三池に残る宮原坑と万田坑跡は、竪坑や櫓などがそのまま残り、当時のレンガ造りの建造物や西洋から輸入されて使われた機械なども、良好なまま保存されている。この二つの坑跡は、すでに国から重要文化財の指定を受けている。

また、長崎の炭鉱島として知られている端島炭鉱(通称・軍艦島)は、1898年から採掘が始められ、主に八幡製鉄の原料を担う役割を果たしてきた。大正から昭和にかけて、島には炭鉱労働者のために、次々と鉄筋コンクリートの高層住宅が建てられ、まるで要塞のような姿となって現れた。少し前までは、老朽化が進んだこともあり、立ち入りが禁止されていたが、2009年より一部が見学出来るようになり、近年増えてきた「廃墟マニア」の聖地となっている。

 

筑豊の炭鉱跡が遺産として光を浴びる中、この国のエネルギーを支え続けた場所がもう一つある。北海道・夕張である。筑豊と夕張は、明治以後の日本の石炭産業を支える両輪であった。「炭都」と呼ばれたこの二つの都市が置かれている現状は、光と影のようにあまりに対照的である。

夕張は、ご存知のように2007(平成19)年3月に財政再建団体に指定され、日本初の財政破綻自治体となった。人口は、1960(昭和35)年の116000人余から90%以上減少し、今年3月末ではわずか9300人余となっている。

「栄枯盛衰」という言葉だけでは言い表せないほど、夕張には悲哀に満ちた歴史がある。昭和30年代半ばから進んだ、石炭から石油へのエネルギーの転換。それに伴う町そのものの喪失は、もしかしたらこの国の未来をも、暗示しているのかもしれない。

 

久しぶりに書く「昭和レトロトリップ」は、バイク呉服屋が80年代初めに何度か訪ねた夕張の風景である。晩夏に見られる蝉の抜け殻・空蝉。今だからこそ、その夕張の哀惜を伝えたい。そして、一人でも多くの方に、夕張という町のことを知って欲しい。

 

1982(昭和57)年4月、夕張駅構内。

夕張は谷合いの町である。当時の国鉄夕張線の起点は、室蘭本線の追分だった。追分から30分ほどで紅葉山(もみじやま)という駅に着く。ここが夕張市の西端地区にあたり、ここから列車はシホロカベツという川に沿って進む。両側は山が迫り、どんどん谷は狭くなる。終着駅・夕張はそのどんづまりのようなところにあった。

この頃の夕張駅は、現在の駅よりも少し奥の、社光(しゃこう)という地区に置かれていた。今は、市役所や商店街が並ぶ本町地区に移転している。夕張線の列車は全てディーゼルカーで、だいたいが2.3両の編成で運行されていた。

1980(昭和55)年10月・北海道時刻表路線図より。

夕張に鉱脈が見つけられたのは、1888(明治21)年のこと。それより15年ほど前、当時の北海道開拓使雇の地質学者・ベンジャミン・スミス・ライマンが夕張川流域を踏査した際に、この地域に炭層がある可能性を示唆したことが端緒で、その調査隊に所属していた坂市太郎(ばんいちたろう)がシホロカベツ川上流を調査したところ、本当に大鉱脈が発見されたのである。

採炭が始まったのは、1892(明治25)年のこと。長崎の軍艦島・端島炭鉱よりも6年早い。北海道内では、その夕張よりも先に幌内(ほろない)炭鉱が1879(明治12)年に採炭を開始しており、それに伴い鉄道も敷設されていた。1980(明治13)年、小樽に近い手宮と幌内を結ぶ運炭鉄道である。幌内は上の地図の右隅、岩見沢が基点で終着駅は幾春別(いくしゅんべつ)。

 

夕張は、幌内炭鉱を経営していた北海道炭鉱鉄道という会社の手で開発された。幌内と同様に、運炭のための鉄道が追分と夕張の間に敷かれた。これが夕張線にあたる。この会社は、1906(明治39)年に鉄道国有化が決められて鉄道部門が国に買収されたのを期に、社名を北海道炭鉱汽船と改めた。のちに夕張の命運を握り続けることになる「北炭」という会社の始まりである。

北炭は三井財閥に属し、夕張の中で次々と炭鉱を開発する。清水沢・登川・真谷地などである。この頃三井と並ぶ財閥の雄・三菱も開発に加わり、美唄(びばい)・芦別・大夕張を開発。まさに空知地方は「炭鉱銀座」の様相を呈していた。

明治後期から大正に向かう時代は、産業革命の進行に伴い重工業が飛躍的に発展した時であり、そのエネルギーの源泉のほとんどが石炭に求められていた。その後、第一次大戦後の反動不況により一時生産が落ちたものの、軍国化が進む昭和の時代に入ると、軍需生産の増大に伴い、需要が急増していく。この頃になると、北海道は夕張・空知地区だけでなく、留萌や羽幌、さらには宗谷地方の天塩、そして釧路などにも炭鉱開発は広がり、まさに日本の一大エネルギー生産基地となったのである。

戦後は、経済復興の原動力としての役割を担い、朝鮮戦争の特需もあって、夕張を始めとする道内産炭地の重要性は高まるばかりであった。しかし昭和30年代になると、国はエネルギー政策を石炭から石油へと大転換する。さらに海外からの安い輸入炭との価格競争を強いられ、見る見るうちに苦境に立たされてしまう。

1961(昭和36)年の夕張地区鉄道路線図と北海道内にあった私鉄運炭鉄道の時刻表。(昭和36年9月・交通公社時刻表より)昭和・留萌・羽幌・大夕張・美唄に私鉄があったことがわかる。

夕張の人口は、1960(昭和35)年の116.908人がピークであった。そしてそれ以後急速に減少していく。まず資本力の乏しい、中小零細な炭鉱から山を閉じ、北炭や三菱などの大会社でも合理化が押し進められた。それと同時に運炭鉄道として役割を果たしていた各地の中小私鉄も次々に廃止されていった。

 

さらに、夕張を苦境に陥れたのは、度重なる事故だった。石炭を含む炭層の中にメタンガスが含まれることから、採掘中に一酸化炭素中毒を起こしたり、引火してガス爆発や炭塵爆発などの重大事故が繰り返されてきた歴史がある。そしてエネルギー政策転換後には、過度の合理化や無理な増産により、事故のリスクはいっそう高まってしまったのである。

1960年(北炭夕張第一坑・死者42人)、65年(北炭夕張第二坑・死者62人)、68年(北炭夕張平和坑・死者31人)、81年(北炭夕張新坑・死者93人)、85年(三菱南大夕張坑・死者62人)。戦前にも重大事故は度々起きており、まさしく夕張の歴史は事故の歴史とも言える。

事故はすなわち閉山に繋がる。1977(昭和52)年までに、北炭が経営してきた夕張の既存炭鉱は全て閉山してしまう。翌年、その北炭が会社の命運をかけて開発した、夕張新坑も81年の事故により、わずか6年余で閉山。最後に残った三菱・大夕張坑も85年の事故の5年後、1990(平成2)年に閉山し、ここに炭都・夕張としての歴史に幕が下ろされた。

 

 

私が初めて夕張を訪れたのは、1980(昭和55)年の秋。夕張駅周辺の既存炭鉱(北炭夕張第一坑~三坑)はすでに閉山していたが、その当時新しく開発された夕張新坑が、清水沢の清稜町にあったので、清水沢駅の周辺にはまだ賑わいが残されていた。また、三菱・大夕張坑につながる鉄道がまだ走っており、隣駅の沼ノ沢の奥にあった北炭・真谷地(まやち)坑も健在であった。

清水沢には、北炭が大正時代末期に建設した巨大な火力発電所がまだ稼動していたり、沼ノ沢には、夕張新坑で採炭された石炭の選炭場があり、両駅共に広い駅構内には、石炭を運ぶ貨車がずらりと並んでいた記憶がある。

何十両にも繋がった運炭貨車。車両の横には黄色文字で「道外禁止」と書かれていた。

夕張駅の周辺は、この頃すでに閉山に伴う影響があちこちに見られた。最初の画像は、1982(昭和57)年春の駅構内とその北側を写したもの。左隅に青い屋根の建物が見えるが、これが夕張駅の駅舎であった。画像を見てわかるように、ホームの脇に大きく広がった空き地がある。

以前ここには、無数のレールが敷かれ、貨車が留置されていた。画像の上部には、第一坑・第二坑の坑口があり、昼夜を問わず石炭の積み出しが行われていたのだ。この頃はすでにレールは撤去され、信号機や機関車の転車台も見当たらず、往時を偲ぶべくもなかった。

 

最初の画像は、駅の東側にあった社光(しゃこう)という地区から写したものである。夕張の狭い谷の両側には、山の斜面に沿うように、無数の住宅が立ち並んでいた。駅の上の斜面(画像の左側)に見えるのは福住(ふくずみ)という地区である。社光は、駅を挟んで反対側の斜面である。

社光の炭鉱住宅街。青い屋根が印象に残る。遠くの斜面には炭鉱アパートも見える。

この住宅は、炭鉱労働者のために会社が用意したもの、「炭住(たんじゅう)」と呼ばれる。駅から社光の炭住街へ登ってみる。道は細く未舗装で、住宅は山の上へと伸びている。どの家も北海道特有の「マンサード屋根」だ。この屋根は、二段階に勾配が付けられ、自然に雪が下へ落ちる構造になっている。

炭住は二軒長屋もあれば、五軒長屋もある。どれも木造で同じような間取りだ。だが、空家が多い。半分ほどが無住だ。昭和57年の春は、前年秋に起きた夕張新坑の爆発事故により、多くの住人が夕張から離れつつあった頃である。

斜面を上るにつれ、空家が目立つようになる。。雪が溶けたばかりの時期だったので、雪の重みに耐え切れず倒壊してしまった住宅が何軒もある。また、倒れないまでも、すさまじく荒れ果てた家がある。当時それを写すことはとても出来なかった。破れた障子は家の外にまで飛び出し、窓のガラスは破れ放題、玄関の扉は外れて横倒しとなり、中には家財道具が散乱していた。子どもの遊び道具や漫画本までもが、道にまで放り出されている家がある。

そんな倒壊した家屋の木材を、拾いあつめている人の姿を目にする。おそらく石炭ストーブを燃やす材料にするのだろう。私は、あわてて目をそらした。炭住街は、ひっそりと静まりかえり、ほとんど人の姿はない。重苦しいというよりも、なにか深く澱んだ空気に支配されている。

私は、ただ悲しかった。そしてやり場のないむなしさとぶつけようのない怒りに、自分が支配されていることを知った。

 

社光を離れて、一度駅に戻り反対側の福住地区に向かう。社光という地名は炭鉱の「斜坑口」があったところという意味で付けられたもので、「会社の未来に光りあれ」という思いからこの字が当てられたらしい。福住も、「幸せな住まい」になるようにと付けられた地名である。

福住は、駅の前の道をまっすぐ奥へ向かって歩いていくと、その左側にある集落だ。社光と同じように、山の斜面には炭住が立ち並んでいる。遠目からみても、荒廃している家が見受けられる。道沿いに小学校がある。旭小学校という名前で、昭和58年3月限りで閉校になる学校だ。

この小学校は、以前夕張第二小学校という名称で、昭和30年代にはクラス数55、児童数2500名余と言う、北海道内最大のマンモス小学校であった。当時教室を建てる敷地がなかったため、仕方なく山の斜面に階段を付け足し、上へ上へと校舎が建て増しされていったのだ。子どもたちは、自分の教室へ入るまでに、毎日急な階段を何往復もしなければならなかった。

 

消えかかった学校前の横断歩道を見ながら、さらに先へ進む。とすると、目の前に忽然とジェットコースターが姿を現す。最初の画像でも、右上(煙突の先)に、円形と塔のようなものが見える。これが、この当時夕張再生の切り札として建設されたテーマパーク「石炭の歴史村」であった。

建設途中の石炭の歴史村。どう考えても夕張には不似合いな遊園地(北海道新聞より)

この建物は、炭鉱の閉山に伴い、何とか地域を再生させようと考え、当時の中田鉄治夕張市長が構想して建設したものだった。「炭鉱から観光へ」の合言葉の下、広大な炭鉱跡地を利用して、博物館や遊園地を中心とするテーマパークが作られていった。

上の画像は、「アドベンチャー・ファミリー」と名付けられた遊園地が開園する直前の様子。左側に見えるSL機関車は、夕張線の運炭列車を牽引し続けたD51。ジェットコースターの他に大観覧車もあり、夕張の町を一望出来るようになっていた。遊園地の開園は、1983(昭和58)年6月。

 

炭住街を歩いてきた私の目には、遊園地が異質のものとしか見えず、どのように考えても、この事業転換が上手くいくとは思えなかった。今の今まで、荒れ果てた炭住街を目の当たりにしたばかりである。このあまりの落差は、異次元の世界に飛ばされたような錯覚を引き起こした。

観覧車やジェットコースターから見える夕張の町が、どのように映るのだろう。レジャーを楽しむ気分など、どこかに吹き飛んでしまうに違いない。併設されている石炭の歴史館には、炭鉱の立坑を模したタワーや、炭鉱内の様子をそのまま作った模擬坑などがあり、その上炭住の様子や労働者の生活を再現した「炭鉱(やまの)生活館」も作られた。

当時、歴史村の中で炭鉱を模擬化することなど、私にはどうしても許されないように思えた。なぜならば、現実として朽ち果てた廃墟が、目と鼻の先に残っているからだ。この現実を直視しない行政の感覚こそが、夕張財政の傷口を、より深くしてしまったのではないだろうか。

 

最後は怒りにも似た思いで、完成間近の石炭の歴史村を後にして、駅へ引き返す。丁度夕闇がせまり、谷の両側の斜面に建てられた炭住の灯りが灯る。空家が多いせいか、灯はポツリポツリと少し間隔が空いて、照らし出されている。

夕闇に沈み行く町は、空蝉の町。哀惜・エレジーという言葉で、この町が過ぎてきた時代を送りつつ、駅を発った。その日は、どうしても屋根の下で寝る気になれず、楓(かえで)駅の駅舎で一夜を過ごした。

 

いつかは、むかしたびの稿で夕張のことを書きたいと思っていました。筑豊が世界遺産として注目される今、夕張はその姿を自然の中に戻そうとしています。

社光や福住の炭住街は、現在完全に撤去され、人がいた痕跡は何も残っていません。特に福住地区では、一人も居住者がいなくなり、集落そのものが姿を消しました。

当時私が危惧していた石炭の歴史村は、2006(平成18)年、夕張市が財政再建団体の申請をし、事実上倒産状態になったことで、市からの委託料が望めなくなり、連鎖的に破綻しました。これはそもそもこの施設が、市の第三セクターとして運営されていたためです。

その後、夕張リゾートを運営している加森観光により、歴史村の一部の施設が受け継がれ現在に至っていますが、遊園地は再開されず、長らく野に晒されたままの状態で放置されていました。その後ようやく、2008(平成20)年に完全に撤去されたようです。

 

エネルギー政策で左右される町は、今も後を絶ちません。福島第一原発の崩壊で、住民が帰還出来なくなった双葉・富岡・大熊の三町の行く末は、今後どうなるのでしょうか。また他の原発立地自治体の未来の姿は、誰にもわからないでしょう。

その上、今後人口の自然減や流出により、機能不全に陥ると見られる自治体は、数限りなく見受けられます。夕張の現状は、とても対岸の火事とは思えず、未来のこの国の姿を暗示しているようにも思えます。

今日は、本当に長すぎる稿になってしまいました。読まれた方が、夕張という町に少しでも思いを馳せて頂けたら、幸いです。

 

(夕張への行き方)

札幌より石勝線特急・釧路行スーパー十勝号で新夕張下車。夕張行に乗換。

所用時間 札幌より1時間30分。新夕張より30分。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。なお、明日より16日まで夏季休業致します。次回のブログの更新は、17日か18日の予定です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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