バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

形骸化を容認出来るか(4) 二極化する品物と消費者(後編)

2015.07 25

先日、バックパッカー時代の旧友と久しぶりに会って、ゆっくり食事をしながら様々な話をした。

彼は、バイク呉服屋とは全く違い、大変有能で多彩な人物である。経歴も、某有名大学の理工学部の大学院を出て、その後大手企業に在籍、その間にアメリカ・ボストンに社費で留学してMBA(経営学修士)を取得、帰国後は経営コンサルティンググループを経て、中堅商社の中国支社長を務め、現在は金属関係会社の経営者になっている。

そんな彼は、このブログの熱心な読者でもあり、その時々の感想もよく話してくれる。MBAを取得するような、経営のプロとも呼べる人物なので、非効率なバイク呉服屋の商いの仕方は、さぞかし目を覆うようなことばかりかと思う。

 

先日彼が話題にしたのは、日本の伝統文化に対する外国人の評価の高さについてだった。彼は多くの外国人と知己があるのだが、押しなべて日本固有の文化に対し、尊敬と驚きを持っているという。それは、繊細な美意識と日本人だけが持つ感性が、そこに表現されていることが大きな要因なのだと。

例えば、散り際の桜が美しいと感じる心は、潔さを美徳とする日本人特有の心情を表している。日本の伝統工芸品は、そんな自然の中の一瞬を切り取り、様々な図案や文様として表現されている。また、古来から根強く日本人の意識の中にある「侘び寂び」を美とする独特な感性は、他民族には真似の出来ない固有のもの。

 

彼が言わんとしているのは、このような伝統美は、人の手仕事でしか表現出来ないもの。それが今の日本社会の中から失われつつあるのは、どうにも我慢がならないということだ。

微妙な色や繊細な形は、決して機械では表現できない。その時の作り手の心の揺れや、その日の気候さえも作品に影響を及ぼす。自分の思い描くものにどれだけ近づけられるか、その目標に向かって精進し、完成されたものが伝統工芸品と呼ばれるものである。

効率が最優先されるあまり、画一化・均一化が進み、作り手の心そのものが表現されているような品物が疎かにされる。日本人よりも外国人の方が、よほどこのことに対して危機感があるらしい。

 

この話は、伝統工芸品として位置づけられるキモノや帯の形骸化にも、そっくり当てはまる。呉服を取り巻く環境は、かなり厳しく、このままでは「座して死を待つ」ような状況になりかねない。外国人に危機感を持たれる前に、まず日本人は、どのように考えたら良いのか。今日はその辺りを探ってみたい。

 

日本人の意識の中には、手仕事の良さを認知できる力は、まだ残っているように思える。品物のことは何もわからない方でも、きちんと作られたものと、そうでないものの両方を同時にお見せすると、ほとんどの方が、その良し悪しを見分けられる。

例えば、一番身近な浴衣地で考えてみよう。プリントモノと、型紙を使った注染浴衣や中形小紋などを比較してもらうと、誰の目にも一目瞭然として、判断がつく。この、「何もわからないが、何かが違う」と見極められる感性が、大切なのだ。これは、モノを見る感覚として、多くの日本人に予め備わっている資質のようにも思える。

その上で、我々のような品物を扱う者が、製作過程や、その歴史などについて話をさせて頂く。そうすると、その違いがより明確となり、「腑に落ちる」。これが、良品を消費者に認知して頂く手順になる。

 

仕立て上がってきた絹紅梅と小紋中形。この手の品物を見たことのない方ならば、浴衣の一種であるとは、わからないかも知れない。

生地の違いや、模様の染め出され方の違いは、キモノについて全く知識がない方でもわかる。どこがどのように違うのかはわからないが、感覚として「違うモノ」と意識されることが、手仕事の品を理解していただく第一歩になる。

 

しかし、現状を考えれば、消費者が良品に行き着くことがあまりない。というより行き着き方さえ、よく理解されていない。品物に出会わなければ、良し悪しの判りようがないのだ。プリントモノの浴衣は巷に溢れていて、何処へ行っても簡単に見ることができるが、竺仙の品物を置くところは、限られている。つまりは、手仕事品を見る機会さえもが、ほとんど失われていることになっている。浴衣にしても、これなのだから、他の品物などはもっと顕著であろう。

インターネットの普及で、良品を探す意志さえあれば、いくらでも見つけることは出来るようになった。しかし画像だけでは、確かな色や質感まではわからない。直接品物に触れてみなければ、見えてこないこともある。

だが、ネットで調べようとする消費者にしても、あらかじめ良品を探そうとしている人であり、もともと興味を持つ方や関心のある方に限られる。これでは、手仕事品にまで行き着く人は、かなり少なく、一般への広がりを求めることは出来ない。

 

消費者が、手仕事の品物を手に取って見ることさえ難しい現状なのだから、品質を比較して検討するようなところには、到底行き着かない。つまりは、良し悪しの判断、日本人が感覚として持っている良品を見極める力を発揮する場そのものが、消失していることになる。

だから、どこにでもある品物だけが、普及していく。現実に置いてある品の、見た目の色や柄だけで選ぶ以外に、方策がないのだ。大都市ならば、まだ大手のデパートや専門店があり、質を重視した品揃えがある程度はなされているところも多い。それは、消費者が手仕事品を目にする機会が得られることになるが、地方ではかなり難しい。呉服屋といえども、よほど「良質な品」にこだわる店でなければ、日常的に置くこともない。

 

消費者に、品物の質を選択する機会を与えないことが続けばどうなるのか。それは、質を理解する力を失くすばかりか、いつの間にか形骸化した品物が、スタンダード、標準になってしまう。

数年前の夏、ふらりと店に入ってきた若い娘さんたちが、私に質問をしたことがある。「ここには、浴衣はないのですか?」。浴衣はウインドにも飾ってあるし、店先にも沢山積み上げてある。「そこに置いてあるのは、全部浴衣生地ですよ」と言うと、「こういうのでなくて、吊るしてあるものです」。

探していたのは、「プレタ=仕立て上がったもの」。彼女達は、浴衣というものは、すべからず、仕立て上がって吊るされて売られているもの、と認識していたのだ。

驚いてはいけない。反物で売っている店を知らなければ、こうなる。知識を持たない彼女等に落ち度はない。ただ、それまで浴衣の反物を置く店に出会わなかっただけである。

 

これは極端な例かも知れない。しかし、反物であっても、プリントモノしか見たことがなければ、これが当たり前になってしまう。しかも、浴衣だけではない。化繊の半巾帯や外国産の安い下駄などしか見ていなければ、その質を理解してくれと言っても、到底無理である。

さらに言えば、仕立てあがっているプレタ浴衣は、海外で一枚数十円で縫われたもので、縫い方へのこだわりや、寸法への丁寧な意識がほとんどなされていない。これは、着心地の良さを消費者が理解することから、目を背けさせてしまうことに繋がる。

このように、形骸化した品物しか見ていなければ、全てにおいて「わからないまま」になる。質を理解しようとする消費者と、そうでない消費者の格差は、否応なく広がるばかりとなる。

 

このように考えてくると、品物の質を伝える責任者は、やはり消費者と向き合う小売屋になるだろう。形骸化された品物しか置かない店は、すでに質を伝えることを放棄していると言わざるを得ない。

それは、商いを品物そのものではなくて、他のことに目を向けてなされている証拠とも言える。すなわち「伝統工芸品として」呉服を見ていないことになる。前回お話したようなインクジェットの振袖をセット販売する、いわゆる「振袖屋」に当たる店は、この典型であろう。

各々の店が、どんな商いの仕方を取ろうが勝手だが、形骸化した品物を、良質品に似せて、誤魔化すような価格を付けることだけは、許されまい。そもそも、質から目を背けるような者に、質の良し悪しを語れるような、知識が身についているはずがない。

 

手仕事品を残すための第一歩は、その品質を理解して、消費者に伝えることの出来る店や人を増やすことであろう。さらに、その人が様々な伝達手段(ネットであれ、店頭であれ)を駆使し、一人でも多くの方に目に留めてもらえるような、工夫を凝らさなければならない。

また、作り手である職人やそれに関わるメーカーの者にも、これからは直接消費者に伝えることが求められるだろう。すでに多くの小売屋が、形骸化への道に舵を切っている現状をみれば、自ずと自ら情報発信をするより他に、道はないのである。

 

最初に述べたように、日本人には良質な仕事を見極められるだけの、資質や感性が備わっており、また、作り手の心のこもった仕事を尊ぶ意識もある。それなのに、繊細なほどこしや微妙な色彩を見分ける、日本人固有の美意識を廃れさせてしまうのは、何とも惜しい。

これからの時代、伝統工芸品に携わる我々の責任は、ますます重大になる。何とか一人でも多くの方に、良質な手仕事がほどこされている品物について、理解して頂けるように努めたい。形骸化が加速化し、職人が完全に消失するまでの時間は、もうあと僅かしか残されていないのだから。

 

今年の3月1日、朝日新聞の日曜版「GLOBE」に、「着物に明日はあるか」という特集記事が掲載されました。その中で、日本在住の英国人、デービット・アトキンス氏による、キモノビジネスへの辛辣な提言がなされています。

彼の元職は、アメリカ証券会社のアナリスト。今は寺社の文化財修繕を行う京都・小西美術工藝社の社長であり、茶道も嗜むような、飛び切りの日本通外国人。彼の目には、「呉服業界には、消費者の視点が著しく欠けている」と映っています。

この記事は、キモノの未来がどうあるべきかということを、否応なく考えさせてくれます。日本人からではなく、外国人からこのような問題提起がなされたというところにも、注目出来るでしょう。

近いうちに、ブログ上でこの提言を取り上げて、様々なことを考えてみたいと思います。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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