バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

成人の日を問う(前編) 儀礼かイベントか それとも何なのか?

2015.01 12

先ほど、末娘が甲府市主催の成人式典から帰ってきた。三人目の娘ともなると、二十歳になったことに、親としての特別な感慨をあまり感じない。

末娘にしたことは、今朝家内が、姉達が着たものと同じ振袖を着せつけ、会場へ送っていったくらいである。写真も、娘と一緒に私と家内がそれぞれ一枚ずつ、店のウインドの前で撮っただけ。しかも我々両親が改まった格好をすることはなく、普段の仕事着のままである。

我が家では、今までも成人の日を記して、特別なことをしていない。娘達は、市主催の式典と、この日の前後に開かれる小・中・高校の同窓会へ出席するだけ。成人式よりも、旧友達と再会出来ることを楽しみに地元へ戻ってくるようである。

 

(参加者に会場で渡される小パンフレット)

末娘に、成人式会場の様子を聞いてみた。市長の挨拶時には、一部の新成人が野次を飛ばしたり、話を遮ったりして、注意を受けていたようだ。また、式典の最中に私語が多く、話はほとんど聞いていないらしい。

式の後半には、祭典の部として、バンド演奏や抽選会などが開かれたようだが、このあたりになると席に座っている者より、友人同士で写真を撮り合う者やグループで話に夢中になる者が多くなる。主催者の市側でも、式典の中で、新成人を飽きさせないようにと考えられたイベントだが、この様子を聞けば、ほとんど効果がなく、その意味を為していない。

 

呉服屋にとって、成人式は絶対に必要な行事と一般には考えられているだろう。つまり成人式を、最大のビジネスチャンスと捉えているということ。これは、振袖販売に注力する「振袖屋」にとっては、そのような位置づけになるだろうが、我々のような呉服屋には疑問符が付く。

確かに、大勢の若者が、和服に目を向ける最大の機会になっていることは認めるが、今の有り様が本来の呉服屋にとって相応しい姿とは思えない。

 

そこで、成人の日の衣装を云々する前に、成人の日に執り行われている式典そのものの意義と問題について考えてみたい。将来、式典が変わるのか、また中止する自治体が出てくるのか等々、それにより、成人式ビジネスも変わってゆくだろう。

今日の前編では、成人の日がどのように捉えられているのか、というところから話を進める。

 

成人式というのは、大人になる儀式であり、これから社会の中で一人前として扱われる通過儀礼である。日本におけるこの儀礼は、貴族や武家社会における男子の「元服式」や女子の「髪上げ」の習慣に始まる。これが明治になり国民皆兵制度が導入されると、「徴兵検査」が大人への儀式に変わる。兵隊になることすなわち、一人前の男として認められることだった。

現在のような成人式の形式になったのは、戦後のことである。1946(昭和21)年11月22日、埼玉県蕨町(現在の蕨市)で行われた第1回成年式が始まりとされる。敗戦まもない頃、打ちひしがれる若者達に未来への希望を持たせ、励ますことを目的として計画された。

この成年式の主催者は蕨町青年団である。青年団というのは、20~30歳くらいの若者で構成される地域ごとの団体で、戦前から存在し、終戦後その運動はピークに達していた。

第1回蕨町成年式の要領を見ると、現在と同じような式典の内容が伺える。町長の式辞や来賓の挨拶、そして成年者代表・誓の詞なども式次第の中に入っている。場所は蕨町第一国民学校(当時の小学校)運動場で、式典ばかりではなく、芸能大会や文化発表会、また農産物即売会や物資交換会なども開催され、復員相談などというこの時代を感じさせるものもある。現在でも蕨市では、成人式ではなく成年式と呼び、市内の蕨城址公園には、成年式発祥の地の記念碑が建っている。

この成年式開催が契機となり、1948(昭和23)年の祝日法公布の際に、成人の日が制定された。1月15日に決められたのは、元服の儀が執り行われたのが小正月の1月15日だったことに由来すると思われる。

 

さて、今手元の資料として、2003(平成15)年に書かれた論文がある。千葉大学文学部・岩村直樹氏による、成人式について考察されたもの。この中には、1948年に始まる成人式の変遷が年代を追って資料(当時の新聞報道)と共に記されていて、中々興味深い。この内容をご紹介しながら、話を進めてみる。

1950年代までの成人式は、新成人に対して戦後復興の担い手としての役割を期待するものであった。祝日法による成人の日の位置づけが、「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」というものになっていることからも、国の姿勢が伺える。

この当時の大学・短大の進学率を見ると、1959(昭和34)年でも、男子19.6% 女子13.8%で、全体で見ると16.9%である。つまり、成人時には、8割以上の者が職に就いていることになり、成人式が大人への自覚を促す機会ではなく、すでに大人社会へ入っている者がほとんどであり、彼らを励まし、未来へ向かわせるための式になっていたことが想像出来る。

 

60、70年代に入ると、成人式の式典そのものを見直す風潮が生まれる。毎年同じ内容の形式張った儀礼的なものを「お座なり」で意味を持たないとし、レクリェーション的要素を含んだ式典を考える自治体が都市部で目立つようになった。また、70年代は学生運動が激化しており、旧来の「おしきせ的行事」に反発する者も多く、式への参加者はかなり少なかった。

岩本氏の論文に、東京港区での成人式参加率の推移表が載せられているが、私が成人した年の1979(昭和54)年を見ると、35,5%になっている。つまり3人に1人しか式に行っていない。当時、成人式に参加していない私や周りの友人達は、少数派ではなく多数派だったことがわかる。

特に地方から都会へ出ていた者には、成人式というものが、「どうしても参加しなければならない」ような行事と意識するような余裕がない。だから式典に参加するためだけに、田舎に帰ることを考えない。親達も、家を出た子どもに干渉することはなく、成人式が特別な儀式とは思っていなかったのである。私自身を振り返っても、意識どころか忘れていた。それよりも毎日どうやって食うかということに追われていたのである。(昨年12・23の稿の中で、その頃の悲惨な学生生活の一端を書いた)

 

80~90年代末には、自治体が様々なアトラクションを取り入れ、イベント要素が濃い式典になっていくことが見受けられているが、特段に変化はない。すでに儀式なのか、イベントなのか判然とせず、形骸化していく様子が伺える。自治体には各々予算設定というものがあり、変化させるには限界があった。しかしながら、現在問題となっているような式典での事件は起こっておらず、参加者は分別をわきまえて式に臨んでいた。

呉服屋の立場で見ると、振袖を着て式に参加する人が増えたのは、80年代半ば頃からと推測されるが、それと同時に、新成人の式への参加率も上昇している。バブル期に向かっていたこの頃は、日本の経済も豊かであり、家々の格差も少なかった。どこの家でも、娘に振袖くらいは用意してやれる余裕があったことも、この振袖現象の背景にあるだろう。

振袖屋化していく呉服屋の端緒は、やはりこの年代あたりに見られる。一度の商売で高額な売り上げが見込めること、そしてこの頃呉服市場が急速に萎んでいたことなどが相まって、旧来の呉服屋にはない、異質な商いをする店が出現していったと見られる。

 

1999(平成11)年、仙台市の成人式で問題が起こった。この事件を見ると、現在の成人式会場の雰囲気と共通するものがある。この年、仙台市は式典のイベントとして、考古学者として知られていた早稲田大学の吉村作治教授の講演を企画した。

当日、式典が始まり、市長の式辞になっても、ほとんどの参加者が席についていない。会場の外で写真撮影に夢中な者、友人同士のおしゃべりに熱中する者、だれも式典の話など耳を貸さなかった。吉村教授は講演を始めたが、途中でこの様子に対し、「これは、新成人ではなく、新生児の祝いだ。もう二度と成人式には出ない」と怒りをぶちまけた。

当時マスコミではこの事件を大きく取り上げ、はじめて「成人式問題」が世間に知られるところとなった。すでに、この年以前から、式典中の私語や身勝手な行動は散見されてはいたが、ごく一部の問題として公にされていなかった。

2000年以降は、毎年のように「荒れる成人式」の模様が報道される。2001(平成12)年、高松市で市長に向かい新成人がクラッカーを投げつけた事件、高知市で当時の橋本大二郎知事と口論になった事件、昨年も橋下徹大阪市長が淀川区の式典で、騒ぐ新成人に退場を求めるなど、枚挙にいとまがない。また那覇市では、毎年のように酒に酔った一部の新成人が市内で暴れ、市はついに成人式の主催を取りやめてしまった。

 

(甲府市式典・式次第 式典に要する時間は僅か40分)

 

今日の甲府市の式典を見ても、「荒れる」まではいかないものの、式典の雰囲気そのものは、何も変わらない。携帯電話の普及や、Lineを使って連絡を取り合うことがより容易くなったことで、式そのものに関心を示さず、身勝手な行動を取る者が目立つ。

式典は友人と再会する場として存在するだけになり、話も聞かず、イベントも見ない。新成人のモラルの低さだけが、浮き彫りになる場となってしまった。

自治体としても、この問題に対し対策を打ち出していない訳ではない。何とか式に集中させようと、様々なイベントを組み、なるべく式辞の時間を短縮させようとも試みる。また、新成人の中から式典をプロデュースする者を選び、自ら式進行を企画させることも試している。しかし、なかなか結果に結びついていない。

どこの自治体の成人式典も、一時間以内に終わるように設定されている。だが短時間にしたところで、問題は解決しない。試行錯誤の中で、儀礼的な意味を持つ式典として、成人の日を正そうとする意図は分かるが、すでに現状はそれ以前の問題になってしまっている。とにかく、席に座らせるには、どうしたらよいか、というまるで「幼稚園児」に対処するようなことから、始めなければならないのだ。

 

成人式というものの変遷を、年代を追って振り返ってみたが、形骸化が行き着く所まで進み、儀礼どころか、イベントとしての役割も果たしていない。要するに「何なのか」わからない行事になってしまったことが、見えている。

つまりは、自治体主催の式典は、すでに限界を迎えていると言えよう。では、成人式をどんな形で行えばよいのか。それは家族だけで祝うとか、もっと小規模な(例えば小学校単位で)式典に限定するとか、根本的に考えを変える必要があろう。小規模化することを効果的と考えるのは、小さな自治体(参加者である新成人が少人数の小さな町や村)では、このような問題に直面していないからである。

 

特別な日として、振袖やスーツを着て出かける式典としては、あまりに本質を欠く現状は、果たして、そんな衣装を着てまで参加する意味があるのか、というところに行き着く。「振袖に限定したコスプレ会場」と化しているのが、今の現状と言えば、それは言い過ぎだろうか。

振袖を着る本来の意味は、単に成人式に参加するための衣装ではなく、未婚女子の第一礼装である。現状を考えると、成人式典そのものだけでは、振袖を用意する動機付けとはなり得ないように思える。

そして会場の中には、成人になった思いを込めて振袖を着ている方もいる。それは式典であることをわきまえている人ということになる。大切なのは、その方々にとって相応しい日になって欲しいということである。他人の迷惑を顧みないような者の行動により、大人への門出の日を台無しにしたくはない。

今日の話は、あくまで私見である。本来どんな理由で振袖を着ようが構うことではない。菓子屋がバレンタインデーにチョコレートを購入する客に対して、意味も無く買うなと言ったり、すし屋が恵方巻きを食べる人に、吉の方向に向かって食べなければ売らないと言っているようなもので、無茶な論理であることは承知だ。ご批判もあることだろう。そのことを分かった上で、あえて話をさせて頂いた。

 

次回の後編では、こうした現状を、参加した新成人やこれから成人を迎える人がどのように考えているか。また、すでに成人式を終えた大人は、これからの成人式典をどうあるべきと考えているか。自治体のアンケートなどの資料をお示ししながら、その未来を探ることにする。

それは、成人式ビジネスの一端を担う呉服屋の未来を探ることにも繋がっている。

 

 

式典に参加している新成人の中には、節目ということを意識して、新たな気持ちを持って臨んでいる人もいます。そんな人たちが、会場全体の雰囲気だけで、十羽一絡げに、今の若者の姿と評価されてしまうことは、本当にしのびない。

少子高齢化が進み、社会保障制度の先行きが不安視される現在、不確かな時代を歩まなければならない若者達の門出の日が、有意義なものであって欲しい、そう思います。

成人となれば、新たな義務と権利が生じます。代表的なものは、年金の支払いと選挙権。どちらもとても大切なこと。これを意識させることこそ、大人の役目であり、それが出来るか出来ないかは、若者の手の中にあるこの国の行く末に、大きく関わってくることと言えましょう。

長い稿にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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