バイク呉服屋の忙しい日々

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あけましておめでとうございます

2014.01 05

昨年末の29日から、3日まで正月休みをいただいた関係で、今日が今年初めてのブログの更新になりました。昨年5月から始めた、「ブログ」のような「コラム」のような、わかりにくい呉服屋の話にお付き合いしていただいた皆様、本当にありがとうございます。

お客様方はじめ、職人さん達、また個人的な友人や知人からも、ブログに対する感想やご意見を伺うことが出来、また励ましの言葉なども頂き、恐縮しております。

読んだ方に、少しでも「呉服屋とは何ぞや」と興味を持ってもらえたら、大変嬉しく、キモノに関心のある方にも、キモノに縁のない方にも楽しんでもらえるような内容にしてゆきたいと思います。「呉服屋」という「現代離れした」仕事には、わかり難い専門用語なども沢山あるため、出来るだけ丁寧な言葉で、話を進めて行こうと考えていますが、私の力不足は否めません。

そのあたりのところは、ご容赦願い、本年もお付き合いのほど、よろしくお願い致します。

 

(年の始まりのウインド。由水十久・三番叟黒留袖)

「正月」は年中行事の始まり。1月は、「初売り」、「初荷」、「七草」、「小正月」と旧来から続く伝統行事が多い。

昨今、この「行事」の形骸化は、かなり進んでいる。正月に欠かせない「御節」や「年賀状」を考えても様変わりしている。昔からそれぞれの家には、独自の味というものがあった。「御節」は、その際たるもので、煮物や焼き物、雑煮などは、地方色豊かであり、家により味が違った。

しかし今は作らない家が増えた。11月上旬あたりから、デパートなどで予約が始まり、スーパー、コンビニ、ネットでも買うことができる。もちろん「重箱ごと」の御節である。和風ばかりか、洋風や中華風もあり、値段も数十万円もする高価なものから、「お一人様用」の手軽なものまで様々である。

なぜ、御節を作らなくなってしまったのか。やはり、「手間がかかる」ということが一番の要因であろう。働く女性達の「時間的余裕のなさ」や、「家の味」を伝えようにも、「核家族化」の影響により、教えを請う「年配者」がそばにいないことなどが挙げられる。それと同時に「御節」が「元旦の飾り」になってしまったことであろう。

もともと「御節」は保存の利く料理だった。昔は三が日は商店も休みなことから買い物にも行けず、また、普段料理をする女性達の手を休ませる意味もあり、正月の三日間は「御節」を食べ続けたのだ。それが、今は元旦の朝だけ「箸をつける」もの、いわばその場限りのものになってしまった。

「御節」がなければ、正月として格好が付かない。しかし、自分で作るにはあまりにも「面倒」な代物である。こうして「おせち」は作るものから買うものに変わったのである。

 

「年賀状」は、年々発行枚数が減少する。特に「メール」が普及したここ何年かは、「年賀状を出さない」人の割合は急激に増えている。特に30代以下の若年層では、この習慣は消えつつあるだろう。省みて、仕事上の人間関係で「慣習」としてやりとりする「賀状」は多い。これは、どれもこれも「お付き合い」で出されたものなので、通り一編の文句で印刷され、「人の手」で書かれたものは少ない。

個人どうしがやりとりする賀状でも、ひと文字も人の手で書かれていないものがあるが、実に味気ないものだ。「心がない」とまでは言いたくないが、せめて2,3行でいいから、自分の言葉で近況を知らせて欲しいと思う。「形だけ」のやり取りならば、その人との個人的繋がりは、「すでに終わっている」のかもしれない。家庭でもできる簡易な印刷技術の向上は、「人の手の温もり」を消してしまった。

 

翻って、「初売り」の現状はどうだろう。先に述べたように、「昭和」の頃は商店も三が日は休んだ。昨今ではそれが、元旦からの営業は「当たり前に」なった。デパートで繰り広げられる福袋の争奪戦は、正月の風物詩である。

スーパーのおせち用商品も、元旦に買いに行くと「半額近く」になっているようだ。一番安く正月のものを用意するならば、「元旦の朝」に購入するべきであろう。こうなると、「暮れも正月もあったもんじゃない」と言えるだろう。

大型店の元旦営業は、「年の初めのけじめ」というものを吹き飛ばしてしまった。考えてみれば、コンビニの24時間営業も利用者の利便性だけを重視した、「けじめのない」商いと言える。この「年中無休・24時間営業」(コンビニだけでなく、他の外食産業なども)が当たり前になったのは、そんなに昔からではない。「平成」になってからの話である。

「元旦に買い物」などとは、昔考えもしなかった。「元日」くらいはどの家も家族で家で過ごすものだった。だが、元日営業の大型店はどこも賑わいを見せている。今の社会では、「けじめ」よりも「商い」そして、「利便性」であり、消費者が求めていることならば、どのようにでも対応するのが当たり前になった。正月という年中行事の形などどこかに吹き飛んでしまい、その「儀礼」は商いの口実や道具と化している。

 

「サービス業」で働く人達にも「家族」がいる。一年のうち三日くらいは、「みんなが休み」の日があってよい気がする。それが無理なら、たとえ元旦の一日だけでもいい。もちろんネット販売も休み。物流関係も休み。すべての人が、仕事よりも個人それぞれの「家」や「家族」を優先できる、そんな日になれば、「元旦」や「正月」の意味に沿った、本来の過ごし方に少しは戻れるだろう。それこそ、「夢」でも到底実現できないことであろうが。

「家」や「家族」というような、旧来型のコミュニケーションから外れた人が増えたことも、変化の大きな要因である。その人達にとって「年の始まり」は特別の意味を持たない。今の政府は旧来の「家」制度を重視する政策(現実離れしている復古的なものと言うしかないが)を進めようとしているが、社会のこうした現状を見れば、到底無理であろう。

 

伝統的な日本の行事の形骸化は、伝統衣装であるキモノにも無縁ではない。「元服」の意味がある「成人式」における振袖や、「七五三」の祝い着などは、その場だけあればよいモノであり、写真にだけ残せばよいモノになっている。また、冠婚葬祭に使う留袖や喪服の必要性は、ほぼ失われている。

残念ながら、旧来の「にっぽんらしさ」を取り戻すことはもう無理であろうし、それを望む人も多くはないだろう。どこぞの政治家が「日本を取り戻す」などと言っているが、「経済の高い成長」は取り戻せたとしても(これもかなり怪しいが)、「日本人の心持」を戻すことは出来まい。儀礼的なものや年中行事のようなものも、「形」だけしか残らない。

このような社会の変化が、一概に良いとも悪いともいえない。「家の制度」にしても、戦前の家父長制度が大きく変容し、それと共に家族の形が変わった。戦後の民主主義は、国よりも家よりも個人の多様性を重視したのである。自由な考え方は、制度ばかりか、伝統的な儀礼にも大きな影響を与える。昔のように「こうあらねばならない」ということはなく、どのように解釈するのかは、個人の勝手である。

 

年の初めの世相の変化について考えてみました。年中行事の形骸化は「にっぽんらしさ」の喪失でありましょう。ただ、その流れは止められる訳もなく、個人各々がどのようにでも考えればよいことなのでしょう。

私は、いつも「一般論」で考えてみる、ということを大切にしています。キモノは不要であるというのも、「多くの一般の人にとって」(世間的に考えて)ということです。「必要でないモノ」は、どんなに手を尽くそうとも、「必要なモノ」にはなりません。

「水を飲む気がない馬を水辺に連れて行っても、水は飲まない」のです。「飲む気にさせることが商いの本質」、と考えている人も多いでしょうが、それは、「どうぞご自由になさって下さい」という他ありません。

商いの考え方とすれば、「キモノを必要とする人」または、「必要としたい人」にどれだけのことが出来るかということを優先させなければ、「専門性」や「独自色」を出すことは出来ません。どんな商いでも、「個人経営」であるならば、同じだと思います。

正月という「年中行事」の現状を改めて見てみると、著しい「形骸化」が進んでいると言えましょう。「形だけが残る」というのは「キモノ」も同じです。移り行く社会の変化にどこまで逆らえるか、今年も試してみたいと思います。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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