バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

縁あって、手直し(2) 曾祖母の婚礼用・黒地振袖を、曾孫が着用する

2020.11 17

西暦だと今年は、2020年。日本の元号・和暦で言えば、令和2年である。年号は現在、この二つにほぼ集約されるが、今から75年前の戦前までは、年の数え方がもう一つあった。それが「皇紀」である。

1872(明治5)年、明治政府は太陽暦の採用と、天皇制に基づく独自の紀元法を制定する。この皇紀は、初代神武天皇の即位の年を紀元としており、その年は記紀(古事記と日本書紀)の記述から、紀元前660年(西暦)と規定した。例えて言うならば、西暦2020年が、皇紀では2680年になるということだ。

 

皇紀は終戦まで、公文書や条約などで元号と共に併記されていたが、特に天皇を頂点とする国家主義・天皇制ファシズムが社会を支配し始めた昭和初期以降は、この年号を採用する場面が大きく広がっていった。そんな空気の中での象徴的な出来事が、1940(昭和15)年に挙行された「紀元2600年記念行事」である。

この節目の年となる式典の準備は、5年前から計画されており、神武天皇を祀る奈良・橿原神宮の整備や海外植民地での神社建立など、神武紀元を記念する行事が随所で執り行われた。そして同時に、政府はこの年を国の力を内外に知らしめる絶好の機会と捉え、様々な国際的イベントを呼び込んでいた。

それがすなわち、この年東京で開催される予定だった第12回・夏季オリンピック大会と、札幌開催予定の第5回・冬季オリンピック、さらに紀元2600年記念日本万国博覧会(東京万博)であった。これらはいずれも、「皇紀2600年」を記念する行事の一環として招致され、すでに数年前から準備を整えていた「国家イベント」であった。

しかし、1937(昭和12)年の7月、北京郊外・盧溝橋で始まった日本と中国の衝突は、その後泥沼の日中戦争となり、この式典が開催された昭和15年になっても、まったく収まる気配を見せなかった。また欧州の情勢も一段と厳しさを増し、連合国と枢軸国の対立が深まると同時に、中国への進出を止めない日本への風当たりも強まっていく。そんな国際的な緊張と同時に、国内経済も逼迫してきたことから、日本政府はオリンピック、万博の開催を断念せざるを得なかったのである。

 

それから80年後の今年、思いもよらぬ新たな感染症の世界的な流行により、第32回夏季オリンピック・東京大会は、一年延期となった。しかし依然としてウイルスの蔓延が止まず、来年の開催は不透明なままで、もし中止となれば、戦前に続いて再度の断念となってしまう。一つの都市が、二度までも中止の憂き目に会うとは、何とも運の無い巡り合わせである。

さて今日の稿は、皇紀2600年・昭和15年の結婚式で着用した「ひいおばあちゃん(曾祖母)」の振袖を、曾孫が成人式の衣装とするお話。どのような依頼の下にバイク呉服屋が手直しを進めたのか、ご覧頂くことにしよう。

 

黒地 松竹梅に御所車模様振袖  1940(昭和15)年 甲府市・H様所有

今回の依頼主は、うちの近くで、古くから食堂を営んでいるおばあちゃん。もちろん旧知の方なのだが、今年の春先に突然店にやってきて、自分の母が使った振袖を、孫娘が着たい旨を告げたのだった。だがこの方の年齢は私より一回りも上であり、その母親の振袖とは、一体いつ頃着用したものなのか。気になったので聞いたところ、今から80年前・昭和15年の結婚式で使った品物と言う。

「私にはまだ十分使えそうに見えるけど、松木さんに状態や寸法を確認してもらって、直すところは直して、何とか孫が着用できるようにして欲しい」と話す。もちろん品物を見せて頂くと同時に、お孫さんと振袖の寸法を見比べながら、勘案する必要がある。だからそれまでは、出来るか否かは即答出来ない。

そうこうしているうちに、このコロナ騒ぎになってしまい、振袖とともにお孫さんが店に来たのは、夏過ぎのこと。だが、手直しする時間は十分あり、来年の成人式には余裕を持って間に合う。まずは、品物の状態を詳しく見ることから、始めることにする。

 

図案は、松竹梅を中心とする四季の花々をメインとして、上前身頃には御所車、後身頃には鼓と几帳をあしらう。また裾や模様の合間には、波頭や雲取に観世流水、花の丸の文様も見えている。オーソドックスな古典図案が華やかに描かれ、いかにも未婚の第一礼装・振袖らしい雰囲気を醸し出している。

両肩から背にかけては、松竹梅と桐。両袖も同様で、大輪の牡丹の花も見える。振袖の中でも黒地の品物は、強く礼装を意識しており、振袖の中でも最も格が高い。そして、この時代を象徴する紋が入っている。昭和30年代中頃までは、こうした「紋付振袖」を婚礼衣装として着用することが、当たり前だった。

前の合わせをしてみた。こうして見ると、上前・おくみの模様はかなり高い位置まで付いている。重厚な図案だが、挿し色にメリハリがあり、若々しい印象が持てる。特に松や菊の葉の明るい若草色が目立っている。こうして画像で見ると、ほとんど汚れなど見えないが、実際はどうなのか細部を確認してみる。

 

上前の花で一番目立つ大輪の菊には、刺繍の施しが随所に見られる。駒繍は少し糸が浮き気味だが、修復には及ばない程度で大丈夫。また模様の色挿し部分には、ヤケも変色もほとんど見えず、とても良い状態。

白い鶴の羽には胡粉を使っていて、僅かに変色が見られる。それでも、とても80年も前の品物には見えない。ただ、匂いを嗅いでみると、かなり強いカビ臭がする。何十年と箪笥に眠っていたので、これは致し方ない。

袖口近くにある大きな変色と生地のスレ。模様部分ではほとんど見られなかった汚れが、黒い地のところでは各所で目立つ。

衿の汚れ。この程度ならぬりやのおやじさんの補正で、十分にきれいになる。どうしても汚れが落ちない時には、掛衿と本衿を切り替えて対応すれば良い。

袖口はかなり汚れているが、こちらも補正で何とか落とせそう。袖口は表地より裏地側に汚れが付くことが多く、ひどい時はそっくり付け替えることもある。

キモノに付いている汚れは、変色直しや色ハキを使って直すことが出来そうだが、問題は寸法だ。曾祖母と曾孫の寸法がかけ離れていれば、いくらキモノがきれいになっても、着用は不可能で、手を掛けて直しても仕方がない。

 

ということで、この振袖の現状寸法を測ってみる。画像は、袖丈を尺メジャーで測ったところだが、ほぼ3尺ある大振袖で、袖の丸みも3寸付いている。昭和40~50年頃の振袖には、袖丈2尺5寸程度の中振袖が多かったことを考えると、この丈は80年前の品物としては長く、現代の振袖と何ら変わりはない。

身丈は4尺5分。裄は1尺6寸2分。身巾は、前が6寸・後が7寸5分の並寸法。寸法から考えれば、この振袖を着用したひいおばあさんは、身長が152~3cmで細身の体型だったと想像が付く。では曾孫のサイズはどうか。店に来てもらったお嬢さんの寸法を測ると、身長もほぼ同じで、まさにこの振袖の寸法に合う小柄な女性であった。つまり、曾祖母と曾孫の寸法はほぼ同じだったのだ。

ただ、この裄寸法の1尺6寸2分は、いかにも短い。だが袖付と肩付の縫込みを確認すると、それほど入っていない。本当は1尺7寸にしたかったが、これでは1尺6寸5分から先は知れたものである。80年前の品物なので、反巾は今よりかなり狭く、これでは出来る限りの長さで我慢してもらうしかない。結局、その点を了承してもらい、裄は直すことにした。

結局のところ、この振袖に必要な手直しは、袖・衿・袖口の汚れ落としで、各々の部分直しには、色ハキと地直しを使う。またキモノ全体にカビの匂いがあるので、しみぬき補正後に丸洗いを施さなければならない。そして寸法直しは、裄直しのみ。ただそのためには、袖付と肩付を解き、縫い跡を消すスジ消しが必要となる。また、元のスジに汚れがあれば、それも落とさなければならない。そのままにしてしまうと、前のスジや汚れが表に残ってしまうからだ。

 

肩付と袖付を外し、縫いスジを消して戻ってきた振袖。画像で赤く飛び出しているのは、胴裏生地の紅絹(もみ)。

キモノでは、付随している裏地や紋などの施しにより、製作・着用された時代を類推出来ることがある。皆様の中には、このような赤い裏地が付いているアンティークキモノをご覧になった方も多いと思うが、この赤い胴裏のことを「紅絹=もみ」と言う。

もみは別名「本紅」とも書くが、名前の由来は、この色が楓の紅葉色に似ているからとも、紅花の花餅を揉みこんで染める色だからとも言われている。明治中期以降は、化学染料を使って染めているが、こうした紅色の絹裏地は、主に女モノの胴裏として使われており、特に子どもの祝着や未婚女性のキモノに多く見られた。その理由は、この鮮やかな紅色が「魔除けの色」とされたかららしいが、本当のところはよくわからない。

ただこの「もみ」の付いたキモノは、せいぜい昭和30年代前半くらいまでで姿を消しており、その多くは戦前の品物である。だから、昭和15年に着用されたこの振袖に、赤い裏地が見えることは、ごく自然なことと言えよう。また上の画像で判るように、裾の裏地(八掛)が表裾模様と同じ・共生地を使っている。こうしたあしらいも、戦後の品物にはほとんど見られない。これも、時代を裏付ける特徴の一つであろう。

 

さて、手直しを依頼したぬりやさんと加藤くんのところから、品物が戻ってきた。どのような状態になったのか、直す前の画像と比較して見て頂きたい。

 

袖口付近にあった少し赤っぽい汚れの手直し。ほぼわからないほどきれいに地直しされている。また袖口も、表地側・裏地側ともに、全く汚れが無くなっている。

袖口を拡大してみた。80年も経過した古い汚れでも、しみぬきと色ハキを駆使することこで、ここまできれいになる。だが、どんな汚れでも直るとは限らないので、手を付けてみないと結果はわからない。

衿の白いスレや点々と付いていたしみ汚れも、きれいになっている。またしみ抜き後に丸洗いを施したので、カビの匂いも消えている。丸洗いを依頼した加藤君からは、途中で「生地がもろくなっているので、難しいかも知れません」と電話があったのだが、「そこを何とかお願い」と平身低頭して仕事をしてもらった。こうして上手く仕上がったのは、職人さんの腕と心意気のおかげである。

解いた袖付と肩付の生地を、出来る限り広く出して仕立て直す。ただやはり寸法に限界があり、裄は1尺6寸6分にしかならなかった。そして画像で判るように、飛鶴や松の図案がズレている。これは、柄合わせよりも寸法の広さを優先した結果なので、仕方がない。

 

今回の仕事として、振袖の手直しと同時に、一緒に使う長襦袢の誂えも依頼された。おばあちゃんが持ち込んできたのが、上の画像にある襦袢。地はピンクの暈しで、所々に飛絞りの赤い花が入った可愛い品物だが、如何せん袖丈が1尺3寸しかない。これではどう転んでも振袖襦袢にはならない。

こうした時、新しい襦袢を勧めるのは簡単だが、せっかくある襦袢を生かさない手は無い。色も柄も若々しいので、袖だけ何とかなれば使えそうである。そこで私は、袖部分だけに別の布を使い、この襦袢をそのまま使うことを提案する。これまでも、端切れやお客様の希望する生地で、袖別布の襦袢を誂えたことが何回もあったので、そんなに難しいことでは無い。

 

うちの店では、こうした時に寸法の分だけ裁って使う生地を、何種類か用意している。3尺の袖にするには、片袖分で縫込みを含めると6尺5寸。これが二枚必要なので、袖に使う生地の長さは1丈3尺となる。

だが、袖に別布を付けると言っても、何でもよい訳ではない。そこで私は、この振袖の胴裏に使っている「紅絹=もみ」に注目し、この紅裏と同じ色で染めることを提案した。キモノの振りから僅かに襦袢が覗いた時に、この鮮やかな紅色は印象に残るだろう。おばあちゃんもお孫さんも快諾されたので、早速今は亡き「北秀商事」の色見本帳・秀美の中から色を決めて、清澄白河の近藤染工さんの所へ生地を送った。

二週間後に染め上がった別誂染の襦袢袖。見本帳の色とほぼ同じに仕上がっている。

長襦袢は袖を外して、胴だけを洗張りする。また刺繍衿には、色鮮やかで可愛いものを新調する。そして、色染めした袖を合せる。

「もみ」と同じ色の袖を付けた、袖3尺の大振袖用・長襦袢。手持ちの生地を生かしつつ、オリジナリティを表現する。取り立てて難しいことではないが、出来上がってみると、改めて「誂えの楽しさ」が実感できる。

 

こうして何とか、80年前の振袖を今に蘇らせることが出来た。これは何よりも、箪笥の中に眠っていたひいおばちゃんの品物に、曾孫の娘さんが目を留めたことから始まっている。そしてこの品物を、戦前の昭和から戦後へ、さらに平成、令和まで大切に保管し続けたおばあちゃんがいなければ、決して今回のことは実現し得なかった。

四代・80年にわたって着用される、未婚女性の第一礼装・振袖。その品物には、着る本人や家族の思いと、それを懸命に直した職人の思いが込められている。私にとっても、こうした仕事を請け負わせて頂くことは、呉服屋冥利に尽きることと言えようか。

なお7年前のブログでも、戦前の振袖を直した例を記事にしている(2013.7.5 「おばあちゃんの振袖 80年ぶりの晴れ姿」)ので、よろしければ、そちらもお読み頂きたい。最後に、出来上がった振袖と長襦袢の画像を、もう一度ご覧頂こう。

 

得体の知れぬ感染症・新型コロナウイルスの蔓延は、何よりリアルな人と人との交わりを、難しくさせてしまいました。しかし、そんな中においても、わざわざ家族で遠方からお出かけを頂いた上で、振袖に関わる仕事を、今年も幾つか依頼して頂きました。

もとよりバイク呉服屋への依頼は、全ての品物を新調するようなことは少なく、「今ある品物を、どのように生かすか」ということがメインテーマです。今日の稿でご紹介したような「ひいおばあちゃんの振袖」はさすがに稀ですが、お母さんが使った振袖、おばあちゃんが締めた袋帯を、娘さんやお孫さんが、自分の成人式や結婚式に使いたいと希望されることは、決して珍しくはありません。

家族の歴史と深く関わりがあるからこそ、家の中に残るキモノや帯は、大切にされます。これからも、品物を繋ぐお手伝いを少しでも出来たら、と思っています。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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