バイク呉服屋の忙しい日々

職人の仕事場から

江戸小紋の手仕事を探る  染型紙編・1  縞彫と糸入れ

2021.06 06

重要無形文化財保持者・いわゆる人間国宝の認定が始まったのは、戦後10年が経った1955(昭和30)年のこと。これまでに371名が認定を受けたが、我々呉服屋と縁が深い染織関係では49名の人間国宝が生まれ、このうち現存者は17名。

もっとも新しい認定者は、2016(平成28)年の村上良子(むらかみりょうこ)。志村ふくみに師事した彼女は、師匠同様に、植物染料で染めた糸を使い、多彩な技を駆使し、数多くの紬作品を生み出した。そんな手仕事の技術が高く評価されたのである。

 

では、今から66年前、最初に認定された染織家とは、どんな方々だったのか。改めて調べて見たところ、全部で15人いる。

友禅は、糊置き技術者を含めて5人(田畑喜八・中村勝馬・上野為二・木村雨山・山田栄一)。また千葉あやのは、宮城県栗駒町在住で、自然発酵で藍染料を作る古来からの技法・正藍染の伝承者。そして残る9人が、江戸小紋・長板中型に関わる人たちで、型染め小紋の世界に生きる伝統技術保持者であった。

長板中型からは、松原定吉と清水幸太郎。二人とも、木綿生地に模様型紙を張り付けて糊置きをする「型付け」の技術者。同様に、当時江戸小紋における型付けの第一人者・小宮康助も、認定されている。

そして残る6人は、いずれも小紋の型紙を作る、あるいはそれを補助する職人達。中島秀吉と中村勇二郎は道具彫、六谷紀久男(梅軒)は錐彫(きりぼり)、南部芳松は突彫(つきぼり)、児玉博は縞彫。そして、縞や中型の型紙製作で欠かすことの出来ない、型紙を補強する「糸入れ」の技術を持つ城之口みえ。いずれも三重県・鈴鹿市白子町周辺に在住する人たちであった。

 

友禅の技術者以上に、国から伝統保持者の「お墨付き」を受けた伊勢の型紙職人。それは、型紙というものが、伝統的な手仕事として高く評価されていた証である。だが現在、この技術者たちのことは、あまり知られていない。すでに長板や伊勢型に関わる伝承者は、ほとんど物故しているが、彼らが製作した型紙は、僅かながら今なお残っており、それを使って品物が染められてもいる。

そこでこれから数回、この知られざる「江戸小紋の仕事人」のことを、取り上げてみたい。まずは、品物の原型・型紙を作る伊勢の型紙師のことから、話を始めよう。今日は、縞彫り型紙と糸入れについて。

 

「縞彫の人間国宝」児玉博氏の手掛けた型紙。今も竺仙に残る、貴重な手仕事の跡。

染織品において、どのように模様を施すかは、古来より様々な方法が考えられてきた。言うまでもなく、縞や絣で模様を織りなす・織と、糸や地を色で染めて模様を表現する・染である。染は、奈良天平期の代表的模様染めである三纈(絞り染・纐纈、蠟染め・蠟纈、板締め・夾纈)に始まるが、基本は所定の場所を防染、あるいは抜染しながら模様を染め出す方法を採ってきた。

江戸期に始まった友禅染は、糊を置いたり伏せたりしながら、自由に模様を表現する画期的な手描き技法となったが、これに対して、小紋や中型染め、さらに更紗や紅型などは、型紙を使って糊防染をする技法を用いていた。

型を使う染技法として、型染めとよく似た言葉・型絵染があるが、型絵は作家が下絵草案から型彫り、そして色染までを一人でこなすもので、自由に自分の個性を表現出来る仕事となる。一方、小紋や中形の型染めは、過去から連綿と続いてきた古い型紙模様(古型と呼ぶ)を基礎として、それを伝えていくことが基本となっている。つまり、型絵染は自由な創作で、型染めが伝統に培われた保守的な創作と言えるのだろう。なお型絵染の人間国宝としては、芹沢銈介(1956年認定)、稲垣稔次郎(1962年認定)、鎌倉芳太郎(1973年認定)の三人が存在している。

 

刃を手前に引きながら、真っすぐに彫り抜かれた筋。縞彫りは「引彫」という技法によって、形成されている。

伊勢での型紙彫りがいつから始まったのか、判然とはしないが、すでに平安後期には鎧の布地などに、模様出しをしていたとみられる。爆発的に盛んになったのは、江戸期の武士の裃に使われるようになってから。当時の伊勢は、徳川御三家の一つ・紀州藩の領地だったが、藩が型紙彫りの仕事を強力に保護育成したため、この地で裃小紋を、一手に製作するようになった。

江戸小紋や中形は、表現する模様により使う道具が変わり、それにより彫り方も変わってくる。方法は、今日ご紹介している縞彫り(引彫)の他に、道具彫、錐彫、突彫があり、どの彫り方も修得するためには、長い年月を要する。そのため技術者それぞれは、一つの彫り方だけを全うすることになる。

 

縞彫・技術保持者 児玉博氏(1909~1992)の仕事姿。

児玉氏が縞型彫の修行を始めたのは、今で言えば小学校六年生の12歳頃のこと。父・房吉氏は、当時二千人いた白子の彫師の中で、たった二人しかいない縞彫職人だった。

縞は、伊勢型の中で最も単純な柄だが、この模様を起こす作業は、単純にして極めて正確な技を必要とした。彫師は、筋に微細な狂いも許されないため、一度彫りに入ると、その場から8時間以上は離れることが出来ない。それほど厳しく、また極めて努力と忍耐の要る仕事だけに、白子の彫師と言えども、縞彫りを選ぶ者は本当に少なかった。

縞柄の本数には、各々決まりがあって、それぞれに呼び名が付いている。この児玉型紙には、曲尺1寸(約3cm)に26本の筋が、彫り抜かれている。

縞の名前は、曲尺1寸・3cm巾に10本以下の縞が棒縞筋、10本・大名筋、12本・万筋、14本・上万筋、16本・極万筋、18本・間万筋、19本・並毛万筋、20本・毛万筋、21本・極毛万筋、22本・似多利(にたり)筋、23本・譜立割(ふたつわり)筋、24本・極譜立割筋、そして24本以上は微塵(みじん)筋と呼ばれている。

型紙原紙には、規格がある。現在の基本サイズは、「八丁判(はっちょうばん)」と呼ぶもので、縦が曲尺1尺7寸5分(約53cm)で、横が3尺(約90cm)。なお、この判を二つ折りにした「四丁判(縦53cm・横46cm)を使うこともある。

画像では、地紙の縁に「二十六 極々フタツ割」の文字が見えるが、これは縞の本数が26本で、通常24本の極譜立割よりさらに細かい、「極々譜立割」であることを示している。

よくもここまで細分化して、縞の名前を考えたものだと感心するが、昔の縞の限界は、上の型紙のような26本程度とされていた。しかし児玉氏は、最高だと何と31本もの縞を付けていたのだ。これは微塵縞の中の微塵縞、極微塵とも呼ぶべきものだろう。上の型紙は極微塵とまではいかないが、十分微塵縞の範疇にあるものだ。

 

染型紙として彫られる茶色の渋地紙のことを、型地紙(かたじがみ)と呼ぶ。この紙は、彫り細工がしやすいことはもちろんだが、その上に、強靭さと伸縮し難さを兼ね備えていなければならない。型紙が染に繰り返し使われることを考えれば、耐久性が求められることは、当然である。

地紙は、楮(こうぞ)だけを原料とする自然紙を理想としているが、使う美濃和紙は、紙の繊維の目が縦横に互い違いになるよう、複数枚を貼り合わせる。和紙を重ね貼りする時に用いる接着剤に、そしてまた防水加工のために、柿渋を用いる。柿渋の中にあるタンニンを酸化させて固定化すると、紙そのものが固定化出来る。伸縮する紙では、彫りも型付けも、厄介なことになってしまうからだ。

貼り合わせた紙、通称・渋紙(しぶがみ)は、乾燥させることで柿渋が固定される。紙には天日乾燥の「生紙」と、室と呼ぶ建物で吊るして乾燥する「室入り紙」があるが、生紙は茶色に、室入り紙はそれより濃い茶褐色となる。いずれにせよ、地紙に使う渋紙はすぐ使える訳ではなく、柿渋と紙そのものの組織を落ち着かせるため、品物によっては1~2年くらい寝かせることもある。この地紙の出来如何は、型付けの出来や型紙の寿命を左右するため、様々なことを勘案しながら、丁寧に作られている。

 

竺仙が扱った児玉博の微塵縞・江戸小紋。この画像は数年前に写したもので、今なお児玉氏の型紙が現存し、型付けが出来るか否かは判らない。

仕事の手順として、筋を引く前に「割り付け」という作業を行う。これはまず、筋の巾に従って、地紙の上下に「星」と呼ぶ点を押し付けておく。この目印である星の上下に定規を当てて、彫刻刀で筋を引いていく。

児玉氏が愛用した道具は、刃物の産地・新潟県三条で作られた小刀。彫を始める前には、必ず砥石で研ぎ、入念に刃先を磨き上げていたそうだ。

児玉氏の引彫は、型紙を一度に数枚重ねて引いていく。少しでもズレてしまえば、それは染上がりの時に模様の不具合となって、表れてしまう。そのため児玉氏は、一本の線に三回刃を当てて、慎重に引いていく。力任せに引くと、紙が浮いてしまい、筋が曲がってしまうからだ。

こうして型紙に使う紙そのものにも、人の手を掛け、もちろん模様をあしらう彫り師も、心を込めて模様を彫り進める。そうした限りない職人の努力により、江戸小紋の染型紙は作られてきた。

 

型紙の縁に墨書きされた、「糸入 はま」の文字。これは何を意味するものか。

児玉氏の縞彫りのような、極めて細かい模様だと、彫り抜いた空間が多すぎて生地が落ち着かず、糊を置いて染める時に動いてしまったり、場合によっては破れてしまうことにもなりかねない。それを防ぐ目的で、型紙が動かないように糸で固定することを「糸入れ」と呼ぶ。

糸入れをする型紙は、彫る前に薄い竹べらで剥がして、予め二枚に離しておく。彫り上げたところで、地紙を上下二枚にして、間に生糸を渡して、ずれないように再び柿渋で貼り合わせ、固定する。この時使用する生糸は、五月頃の春繭から取った「二十一ナカ(20~22デニール、繭糸を7本撚り合わせた単位で、「ナカ」とは「中」を意味し、ばらつきのある繭糸の太さの平均値をとったことを意味する)」という細いもの。

 

貼り合わせた型紙の歪みを、ヘラで修正しているのは、児玉博氏のご母堂・はまさん。残された「糸入・はま」の文字は、この型紙の糸入れが、児玉氏のお母さまにあたる「はまさん」の手によることを意味していたのだ。

糸を、長さ三寸ほどの細い竹管に通し、糸かけ枠の竹ひごに掛ける。そして型紙の模様により、縦横斜めに糸を張り巡らせる。そして別の木枠に張った型紙の一枚を糸掛け枠にはめ込み、もう一枚の型紙もずれないように張り合わせ、ヘラで歪みを修正する。何れも柿渋を使うので、乾かないうちに素早く行うことが大切となる。

この糸入れの技術が確かなものでないと、精緻な縞彫りの技も、真価を発揮することは不可能となる。縞はもちろんだが、一部の柄にも、この型紙補強作業「糸入れ」が、欠かせない。そのため、型紙彫の家にはそれぞれに流儀があり、夫が模様を彫り、妻や母など女性が糸入れをするような「家ぐるみの共同作業」が見受けられた。児玉氏の家でも、母・はまさんや、妻・つるゑさんが糸入れを担当していた。

 

糸入れ・技術保持者 城之口みえさん(1917~2003)の仕事姿

5人の型彫師と共に、最初の無形文化財保持者として認定された「糸入れ職人」の城之口みえさん。当時38歳の若さだった。

糸入れはどうしても欠かせない工程だったが、難しくて手間がかかるために、代用される作業が考えられた。これが「紗張り」である。この方式は、予め絹糸を目の粗い紗布に織っておいて、型紙とこの紗を合せて、漆を塗る。これである程度、型紙を補強することが出来るが、微塵縞など非常に細かい模様だと、この方式では歪みが生じて、代用することは出来ない。

戦後、この紗張りが普及するにつれて、糸入れの出来る人が激減し、1955(昭和30)年当時でも、若い城之口さんの他には、数えるほどの人しかいなくなっていた。城之口さんは、2003(平成15)年に86歳で亡くなるまで、地元鈴鹿市で伊勢型紙伝承事業の講師として、糸入れ技法の伝承に長い間尽力した。

 

城之口さんが亡くなったことで、1955年の人間国宝認定者は、誰もいなくなった。伊勢型紙の製作技術は、伊勢型紙技術保存会の手で受け継がれているが、糸入れの技法は現在全く行われておらず、それに伴い児玉博氏が手掛けたような微塵縞も、製作することが出来ない。また、彫の技術を受け継ぐ者も見当たらない。微塵縞彫と糸入れが、一体であったことが、改めて証明された。

今日はいつもにも増して、長い稿になってしまったが、私が驚いているのは、初めての人間国宝の認定において、決して品物からは見えてこない「糸入れ」のような、いわば「陰の仕事」に精通している職人の仕事に対しても、目を配っていることである。当時の文化審議会で、誰がどんな形で文化財保持の認定者を決めていたのか、今となっては知る由もない。けれども、「見えないところを見ている」ことは、本当に難しく、染織の仕事を心底理解していない限り、無理である。

おそらく、この当時のように日本の染織文化に理解のある政治家や官僚は、今はどこにもいないだろう。それが65年という歳月の流れと、現在のこの国の文化行政の貧困さを示している。次回は、錐彫と突彫について、話を進める予定にしている。

 

「型屋に生まれたから、何とも思わんと型彫をしてきましたけどなあ、縞いうのは途中で中断すると、縞の調子もかわってしまいますに、始めたら八、九時間ぶっ通しです。そりゃしんどいことですわ。もう六十年近くやってますけど、未だ100%満足でけるものは、ありません。型がようても染めが下手やったら、あきませんしな。まあ、死ぬまで修行ですわな。」

これは、児玉博氏が70歳半ばの頃、ある雑誌のインタビューに、地元伊勢の言葉で答えたものです。「地紙作りから染出しに至るまで、最低三年は自分の傍らで寝かせておく型紙には、大変愛着がある」とも話しています。

そして、「精緻で均一な文様は、コンピューターの技術でいくらでも作れる。けれども機械の模様は正確だが、着用しているうちに飽きてくる。何故なら、心が入っていないからだ。手を尽くす品物に飽きがこないのは、そこに人のぬくもりを感じるからだ。」という言葉も残しています。

 

おそらくどんな仕事でも、人の手だけに依拠するならば、完璧に目標を達成することは、難しいでしょう。けれども貴いのは、出来る限り100%になるよう努力する心かと思います。結果も大切ですが、過程はもっと大切。それを誰もが、認める社会になって欲しいものです。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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