バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

2月のコーディネート  雅楽器とサクラで、一足早い花の宴

2017.02 27

仕事柄、京都へ行くことは多いが、観光などほとんどしたことがない。出張は、ほぼ一泊二日で行くが、日帰りもする。甲府ー京都間は、在来線と新幹線を乗り継いで約4時間。京都に滞在出来る時間は、5、6時間なので、どう考えても余暇に当てる時間はなく、仕事を済ませたらトンボ帰りになる。

取引先は、中京区の室町と上京区の西陣に限定され、この区域以外に足を運ぶことは、まずない。地下鉄・烏丸線の、烏丸御池ー丸太町ー今出川ー北山の区間を、「乗ったり、降りたり、歩いたりするだけ」である。

京都には、花見スポットと呼ばれる桜の名所や、紅葉を愛でる場所が沢山あるが、全く行ったことがない。あとひと月もすれば桜の季節となるが、いつも仕事先にほど近い、京都御所や、北野天満宮あたりに咲く花を、チラリと眺めるだけだ。

 

サクラの花見は、812(弘仁3)年、嵯峨天皇が神泉苑(しんせんえん)で開いた「花宴の節」が始まりと言われている。ここは、現在も二条城の目の前にある真言宗・東寺派の寺だが、平安京に遷都してまもなく、大内裏(天皇の住居)の南に近接して造営された、天皇だけの庭園(禁苑)でもあった。

広大な敷地の中には、池が作られ、沢山の樹木が植えられた。ここで、天皇を始め、貴族達が舟遊びを楽しみ、宴を開いた。花宴の節以前の、802(延暦21)年にも、嵯峨天皇の父・桓武天皇が行幸し、雅宴を開いた記述がある。

 

今、春の花見の主役はサクラだが、平安期以前は梅であった。奈良期に中国から伝わった梅は、人々からもてはやされ、愛された。このことは、正倉院宝物の装飾文様のモチーフとして、数多く見受けられることからも、わかる。

それが、遣唐使の廃止に伴う国風文化の伸長と共に、花の主役は、サクラに取って変わられる。花見が始まった平安初期の桓武・嵯峨天皇の時代は、丁度この過渡期に当たっていた。

嵯峨天皇という人物は、書の達人・三筆の一人(他の二人は、空海・橘逸勢)であり、また、宮中装束である御袍の色を、太陽の色・黄櫨色と決めたことで知られ、いわばこの時代の知識人・文化人であった。天皇は花見の宴を開くにあたり、自分が気に入っていた東山・地主神社から、サクラを献納させていた。これが人々の知るところとなり、この後、急速にサクラを愛でる気運が高まったとされている。

 

京都では、時代を下るごとに、サクラの名所が増えていく。伏見区にある醍醐寺は、桃山期に豊臣秀吉が開いた花宴・醍醐の花見で知られ、江戸期には、衣笠・仁和寺の遅咲きのサクラが、御室のサクラとして人気を集める。さらに、嵯峨天皇が愛した地主神社や清水寺・高台寺など、東山周辺のサクラや、嵐山なども花見スポットとなっていった。

平安貴族の花見には、優美な雅楽と舞が無ければ始まらない。そこで今日は、少しサクラには早いが、雅楽器とサクラを使って、春の宴を演出するようなコーディネートをご紹介してみたい。皆様が一足先に、柔らかな春の装いを感じ取って頂ければ、と思う。

 

(一越桜色地 雅楽器模様・付下げ  金引箔地 桜鎧縅文様・袋帯)

平安期の王朝文学・源氏物語には、宮中での宴の場面が数多く描かれている。物語54帖の中の第8帖は、「花宴(はなのえん)」とタイトルが付いているが、そこには、春の花を愛でながら、優雅に宴を楽しむ貴族達の姿が見られる。

「楽どもなどは、さらにもいはず、ととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、春の鶯囀るといふ舞、いとおもしろく見ゆるに・・・」

口語で訳すと、「もちろん、音楽を奏でる人々は、秀でた人たちが集められていた。日の長い春の一日も、ようやく暮れる頃、春鶯囀(しゅんのうてん)の舞を、愉快に見ると・・・」となる。

光源氏二十歳の春に、御所の紫宸殿で開かれた花宴を描写した記述だが、雅やかな音楽を奏でる中で、優雅な舞を堪能する高貴な方々の姿が、目に浮かぶ。春鶯囀という舞楽は、唐の三代皇帝・高宗が、鶯の声を模して作らせたとされる。おそらく、この時代の春の宴には、ふさわしい舞として、しばしば披露されていたものと思われる。

 

(一越桜地色 唐草に雅楽器文様 型糸目手挿し友禅 付下げ・松寿苑)

舞楽を奏でる楽器には、弦楽器、吹奏楽器、打楽器があるが、キモノの文様として使われているのは、やはり日本古来のものになる。この付下げの意匠も、平安王朝文化の優美さを象徴する道具だが、どれも特徴的な形をしていて、デザイン的な面白さも持ち合わせている。

模様の中心、上前のおくみと身頃。

地色は、春らしい控えめな桜色。単純に「ピンク」と言っても様々な色があり、色の濃さや系統の違いにより、印象が異なる。例えば、撫子色だとはっきりとしたピンクとなり、桃色だと、少し濃厚でポッテリと映る。

桜色は、あくまで優しく、おとなしいピンク色。ホンモノのサクラの花びらを見ると、白の中にほんのりとピンクの色が感じられる程度。見ようによっては、グレーが掛かっているようでもあり、それが「薄墨桜(うすずみさくら)」あるいは、「墨染めの桜」とも言われる由縁である。

 

深草の 野辺の桜し心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け  上野岑雄

古今和歌集の832番。作者・上野岑雄(かむつけのみねお)が、親しい友人だった関白・藤原基経を悼んで詠んだ歌。

深草は、京都市の南に位置する深草のことで、平安の昔から、桜の名所であった。桜の木を前にした作者が、友人をしのび、「今年だけは墨色のような花を付けてくれ」と呼びかけている。

藤原基経は、日本で初めて「関白」の地位に就いた人物だが、そんな高位の人を友人と呼ぶ上野岑雄のことは、あまりわかっていない。また、和歌集に収められている彼の歌は、この一首だけである。なお、伏見区には、「薄墨」という駅があるが、おそらく、この歌に由来している土地と思われる。

品物から、話が少し逸れてしまったが、この付下げの地色は、墨染めまでは行かないものの、僅かにグレーが感じられる柔らかい桜色。春そのものを感じさせる色である。

 

上前の柄合わせをしたところ。

中には、横笛・琵琶・笙という、三つの雅楽器があしらわれている。そして、その間を唐草の蔓が繋いでいる。一つ一つの模様は、控えめで、際立つような姿ではない。あくまで、上品な着姿になるような、おとなしい模様の配し方になっている。

琵琶は、中世の和楽器では欠かせない。琵琶を鳴らしながら平家物語を語った盲目の法師・琵琶法師のことは、よく知られているところ。もともとこの楽器は、天平の頃、唐から日本に入ってきたもので、正倉院にも、紫檀材を使い、その上に螺鈿細工が施された美しい五弦琵琶が、残されている。

この付下げは、型糸目を使ったものだが、糸目の線がきれいである。型と言っても、人の手で作るものなので、出来に違いがある。良い仕事のモノでは、仕上がった品物から、型糸目なのか、手描きなのかを判断することは、なかなか難しい。この付下げは、中の色挿しは手挿しで、所々に刺繍がある。上の琵琶の弦も金糸の縫い取りで、あしらわれている唐花の一部にも縫いが見える。

笙(しょう)は、雅楽に使う代表格の楽器。これも琵琶と同様に、天平期に唐から伝来した。雅楽が伝わるとともに、楽器も一緒にやってきたとされている。

笙は、この付下げの茶色い配色でもわかるように、竹製。この楽器には、17本の丸い竹管があり、縦笛と同じように、開いている穴を指で押さえ、横の口から息を吹きこんで管を共鳴させ、音を出す。平安時代に、この楽器を伝えたのは、先ほど「墨染めの桜」の和歌に登場した、関白の藤原基経で、彼は、笙の楽祖と呼ばれている。

横笛も雅楽では、お馴染みの楽器。平安貴族が好んだ横笛は、龍笛(りゅうてき)と呼ばれ、高音から低音まで二オクターブもの音域をカバーしていた。音色は、龍の鳴き声にも似るということで、龍笛の名前が付いたとされている。これも、竹製なので、笙と同じような挿し色になっている。

源氏物語の37帖・横笛は、頭中将の長男・柏木の愛した笛が、人伝いに光源氏に届くまでを描いている。これを読むと、平安の貴族たちが、この楽器に対して、どれほど強い思い入れがあったかを、知ることが出来よう。

 

さて、春らしい桜地色に、宴を彩る舞楽器をあしらった品物にふさわしい帯は何か。「花の宴」なので、そこにサクラを登場させない訳には、行かないだろう。

 

(金引箔地 桜に鎧縅文様 袋帯・浅野織屋)

鎧縅(よろいおどし)とは、鎧の手や太ももを覆う部分に付けられていた、いわば防御板である。これは、小さい札状の板を何枚も繋ぎ、上下に結び合わせる「小札(こざね)式」という様式で出来ていた。札の材質は、防御用なので、鉄製のものが多く、時には皮も使われていた。

武士達は、この縅一つにも、一目で誰と判るように、個性を競った。色鮮やかで目立つものが好まれたが、その配色には目を見張るものがある。こんな流麗な姿は、文様としても大変魅力的であり、帯などで再現されている。

この帯の文様も、横段と配色を変えて三つに区切った縦筋で、鎧縅を表現している。そこに散らされているのが、サクラである。

金の引き箔地に、紫、鶸、臙脂の三色で表現された鎧縅。「小札感」があまり無いために、一見しただけでは、縅に見えない。現在、この帯を製作した証紙番号・152番の浅野織屋は、組合登録されていないが、2257番・織楽浅野の前身である。

西陣の織屋では、代を繋ぐ途中で社名を変更し、証紙番号を変えてしまうことがある。浅野織物の創業は、1924(大正13)年で、現在・織楽浅野として織屋を引き継いでいる浅野祐尚氏が、三代目に当たる。

名前の通り、「織を楽しむ心」を大切に、シンプルな色と模様にこだわりながらも、現代感覚に通じるモダンな図案にも挑戦している、モノ作りに熱心な織屋である。同じようなコンセプトを持つ、捨松やおび弘などと合同して、よく展示会を開催している。

平安貴族の雅楽器と、鎌倉武士の鎧桜。どちらも中世を象徴する文様であるが、時代背景はかなり違う。このキモノと帯を組み合わせると、どうなるのか。早速試してみる。

 

鎧縅それぞれの色の変化が少ないので、あまり鎧のように見えない帯図案。むしろ文様は、京都の町家に見られる「格子窓」のようであり、そこに桜が舞い散る雅やかな姿に映る。帯の武士図案・鎧縅のイメージが薄いのが、幸いしている。

前の合わせだと、なお帯の鎧縅のイメージが無くなる。桜の花の配色が、金・銀・白だけなのが、キモノの桜地色をより生かしているように思う。金地主体のシンプルな帯色も、楽器を引き立てている。春のイメージを崩すことなく、雅な宴が演出出来ていると私は思うのだが。

 

琵琶の上部の挿し色・緑青色に合わせて、帯〆と帯揚げを考えてみた。もう少し、帯揚げの色を大人しくした方が良いのかもしれないが、どうなのだろうか。帯の地色や模様の配色が抑えられているので、少し、個性的な蛍光色を使ってみた。

こちらは、桜の色を意識したピンク系の合わせ。キモノ地色の桜色より、少し強い同系色でまとめてみた。帯揚げは、ちりめんに桜の花の縫い取りで、最初の合わせで使ったものとは色違い。

(ちりめん桜刺繍帯揚げ 水色・サーモンピンク 加藤萬 鶸・茜色帯〆 龍工房)

 

花の宴をテーマにして、上品な春の着姿を考えてみた。帯文様が、武士の鎧になってしまったので、少しそぐわない感じもあるが、格子窓に見立てたことで、お許し頂こう。

フォーマルモノとして、季節を前に出すコーディネートは、使う期間が限定されることもあり、敬遠されることがよくある。だが、旬を感じさせる色や模様には、その時だけの「特別さ」があるように思う。こんなキモノや帯を着用することこそ、最も贅沢な装いであろう。

毎年必ず巡ってくる春。長い冬を越え、うららかな季節を感じさせてくれる品物を、ぜひ一度は身にまとって頂きたい。最後に、今日ご紹介した品物を、もう一度どうぞ。

 

京都には、1300年前の平安貴族が愛でたサクラが、今も沢山残っています。

伏見の醍醐寺・東山の清水寺と高台寺・衣笠の仁和寺と龍安寺・市内では平安神宮や下鴨神社、知恩院など。少し足を伸ばして、大原や嵯峨野、そして遠い吉野まで行ってみるのも良いかも知れません。

有名なスポットだけでなく、町歩きの中で、偶然良いサクラに出会うことも多いでしょう。バイク呉服屋も、今年の春の出張の時には、ほんのひと時の間でも、京のサクラを堪能したいと思います。

花見の祖・嵯峨天皇に所縁のある地主神社と、神泉苑には、ぜひ行ってみたいですね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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