呉服屋の品物は、様々な経緯を辿って、店先や棚に並んでいる。当然のことだが、商いをする時には、反物や帯をお客様の前で広げて、その地色や柄行きを見て頂くことになる。けれども見る側にとって、品物の内容を見ても、これが新しい品物か、それともかなり前に仕入れたものか、その時間的な経過を判断することは難しい。
呉服商いの面白いところ、そして重宝なところは、品物が色ヤケ等の理由で劣化しない限り、いつになってもその価値は変わらないこと。もちろんこれは、真っ当な仕事を施した良質なモノに限るのだが、こうした品物は、売れずに長く店に鎮座しようとも、決して「ダメなモノ」にはならず、商品的な価値が下がるようなことは無い。
そして、ダメどころか、もう手に入らなくなった稀少な良品として、むしろ評価が上がるモノさえある。それは物故した友禅作家の作品とか、型紙が破損して染めることができなった小紋、また廃業などで機を止めてしまった帯や織物類などが、それに当たる。これはすでに市場には出回らない品物であり、小売屋の店の棚にしか残っていないものである。このような商品は、誂え済みのものであれば、リサイクル市場に出てくることもあるが、一度誰かが求めて裁ちを入れてしまえば、それは中古品となり、商品的な価値は大きく下がる。価格で言えば、呉服屋の棚に残る未仕立品と誂済品との差は、十倍にもなるだろう。
けれども、いかに質の良い品物でも、なかなか見初めてもらえず、買い手が付かないことはある。中には「これが、何故売れ残っているのか」と不思議に思う品物もある。だがカジュアルモノの場合には、いつか必ず、誰かに目を止めてもらう時が来る。これは私の経験上のことだが、趣味的な品物が捌けていくのは、本当に偶然の産物のように思う。それがただ、早いか遅いかだけのことで、売れずともそんなに焦る必要は無い。
しかし需要の落ち込みが、そのまま品物の足を止める場合がある。これは深刻で、求める人が現れる可能性は、かなり低い。つまり、品物は永遠に棚で眠り続けることも、ある程度は覚悟しなければならなくなるのだ。その代表格が、黒留袖・江戸褄と喪服である。どちらも以前は、冠婚葬祭にはなくてはならない式服であったが、儀礼の変化、簡素化により、すっかり商いの機会が失われてしまった。
もちろん装う方が全くいなくなった訳ではないが、その人たちのほとんどが、レンタル品で済ませているのが現状。また自前で用意するにしても、譲られた品物を直して使って間に合わせることも多く、新しい品物を求めようとする方は、ほとんどいない。これは社会の変容に伴う需要の変化だけに、この先回復することは見込めない。
このように、江戸褄関連の仕事を請け負うことは、ほぼ絶望的と私は考えていたのだが、何故か今年の春は、新しい品物の誂え依頼や、留袖に合わせる帯の引き合いがあり、さらには祖父の黒紋付羽織袴を直して、自分の結婚式で使いたいという、若い男性からの要望まで受けた。コロナ禍の影響もあったが、ここ数年全く声が掛からなかった「結婚式関連の仕事」が幾つも続いたことに、少し驚いている。けれどもこれは、婚礼という儀式をきちんと衿を正して、自分が納得した装いで執り行いたい方が、未だに存在している証とも言えるだろう。
そこで今月のコーディネートでは、久しぶりに江戸褄を取り上げることにする。品物は、今から30年以上も前、高級染問屋として名を馳せていた「北秀商事」から仕入れた、個性的な意匠。時間は経過したが、今も決して色褪せない良品である。今回は、令和の時代になっても変わることのない、凛としたフォーマルな装いを演出してみよう。
(道長取 仕覆に桐模様・江戸褄 白金地 橋に松竹梅模様・袋帯)
婚礼用の式服として使う、黒地に五つの紋を付けた裾模様のキモノは、江戸褄とも黒留袖とも呼ばれている。この名前の由来は、一方が模様の配置様式で、もう一方が誂えた時のキモノの形状。この形式のキモノを、礼服として使い始めたのは江戸後期からであり、それが現代まで延々と続いていることになる。二つの呼び名は、この品物の特徴をよく表しているので、各々について少しだけ触れてみよう。
まず江戸褄についてだが、これは江戸で流行した褄模様の略で、本来は小袖の文様形式の一つである。江戸後期の町人衣装の特徴として、出来るだけ着姿を地味に見せようとする傾向があり、それに伴って、大人しく目立たない柄行きが好まれるようになった。そこで生まれたのが、模様の位置を低くして、裾廻りだけに図案をあしらった「裾模様」や、その一つで、前の端から裾のかけて斜めに模様を描いた「褄模様」、また表は全く無地で裏の裾廻りだけに模様をつけた「裏模様」である。
友禅染が生まれた元禄期から天明期、いわゆる江戸の中期では、経済力を持った豪商や有力町人の台頭により、華やかで贅沢な衣装美が好まれていたが、安永・天明年間に起こった度重なる天災や飢饉により経済は悪化し、幕藩体制の基盤に揺らぎが生じる。そこで幕府は、質素倹約を旨とする改革案を出して、贅沢に傾いた風潮を引き締めた。寛政の改革では、派手な衣装を装った者ばかりか、少し凝った櫛や簪(かんざし)を使用しただけでも、お咎めを受ける事態となり、人々は否応なく、「華やかなさ」から遠ざけられてしまった。
そこで人々は、目立たない「渋さ」の中に美しさを見出そうとする発想に転換し、これが「粋」という文化に発展する。裾や褄だけに、ほんの少しあしらいをした「江戸褄」は、こうした風潮の中で生まれた庶民の模様形式であった。
そして、もう一方の留袖という名称であるが、これは名前そのままに、脇をふさいだ袖の形状を持つ小袖を指し、袖付の下に脇を開けて振りを作る振袖とは対比される品物。振りのある長い袖丈の振袖は、元服前の未婚男女が用いたが、既婚者になると、振袖の脇をふさぎ、丈を短くして使うようになる。この脇詰め・脇塞ぎの行為を「留める」と称したことで、留袖という名前がついたのである。
江戸初期から中期にかけて、すでに袖を留めた黒い紋付の小袖が、礼服として町方女性の間で定着していたが、当初は黒無地の紋付だったものが、裾・褄模様の流行に伴い、次第に裾廻りだけに模様を配した黒紋付へと変わっていく。この江戸後期の形式が、現代に続く「黒留袖」という品物に繋がったのである。また前置きが長くなってしまったが、ご紹介する品物の方へ話を移すことにしよう。
(道長取 仕覆に桐模様 京友禅江戸褄・北秀商事)
華燭の典を彩る江戸褄は、厳かな中にあっても、華やかな席を彩る式服として、これまで様々に趣向を凝らした意匠の品物が作られてきた。特に、形式を重んじた儀礼が執り行われていた昭和の時代には、新郎新婦の母親はもとより、式に列席する親戚女性のほとんど、そして縁を繋ぐ役割・媒酌人を務める夫婦の妻が着用し、式場では、多くの江戸褄姿の女性が一堂に会していた。
この時代は、レンタルで間に合わせる人は少なく、ほとんど自前の品物を用意して、式に臨んだ。中でも、立場上媒酌人を頼まれることが多い方の妻は、春秋別々の柄の江戸褄を用意し、場合によっては盛夏用の絽の留袖を誂えることもあった。そのため、松竹梅文や四君子文、あるいは宝尽し文、熨斗文といったオーソドックスな吉祥文様ばかりでなく、個性的な図案の品物を希望されることもよくあった。
そんな旺盛な需要に支えられて、作り手の方も、職人の手を尽くした品物を丁寧に作り、市場に数多く供給していた。やはり沢山売れるからこそ、個性的で手を掛けた品物を作る余裕が生まれる訳で、モノ作りの現場にとっても、昭和という時代は大変良い時代だった。今日の江戸褄も、そんな時代の空気が少しだけ残る、平成の初期に制作された品物。作り手は、当時日本一の高級染メーカーとして、銀座筋や有力な専門店、そして老舗百貨店に品物を卸していた北秀商事である。この頃、小売店で北秀と取引があるということが、ある種のステータスにもなっており、それは高級専門店として認められる証となっていたようにも思う。
なだらかなカーブが、上前衽から後身頃へと連なる。曲線的な模様形式・道長取の中には、茶道で使う道具を入れる袋・仕覆と桐の花葉だけが描かれている。裾の前から後ろへと、流れるような道長取の中の地色には、ごく薄い水色を使っていて、それが水面のようにも見えている。図案の区切り方も大胆で斬新だが、使っているモチーフが仕覆と桐花というのも、ほとんど見かけない組み合わせ。
着姿の中心となる上前身頃には、紫と朱の紐を付けた二点の仕覆が描かれている。仕覆の本体には、ぼかしたような金の箔模様が浮き出されているが、これはまず、摺り金箔用の接着剤を、毛足の硬い筆やスポンジなどを用いて生地にたたくように付けた後、その上から箔を張り、乾燥させた後で余分な箔を取り除くことで、このような粗くて不画一な金箔の表情が現れる。こうした箔加工のことを、たたき加工と呼んでいる。
鎌倉期から室町期にかけて、中国の元や明から伝わった染織品の裂模様は、後に名物裂として、様々な織物に使われるようになったが、その流行を押し進めたのが、茶道の発達であった。そして、この名物裂を最も贅沢に設えた道具こそ、茶碗や茶入れを入れる袋物・仕覆であった。特に室町期の仕覆には、金襴や緞子、間道など様々な裂が、特徴的な文様を伴って使われていたが、それは、使う茶人の美意識を象徴する道具だと言えようか。仕覆を、第一礼装・江戸褄のモチーフとして使ったのも、背景にこうした美術的価値があったからである。
道長取の中で、縦横に枝を伸ばしている桐の花。花と葉の配色は、胡粉の白と錆朱色が中心で、極めてシンプルである。一定のリズムを持ちながら模様を描き、色を挿している品物であるが、決して単調にはならない。その理由は、人の手で糊を置いて描き、人の手で色を挿しているから。花の輪郭や枝の柔らかみのあるラインや、挿し色に僅かに付いた濃淡が、模様に自然な深みと暖かさを映し出す。
背を中心とした、後身頃にあしらわれた裾模様。模様のパターンを変えることなく、裾のすみずみまで描き切っている。江戸褄で表現される裾模様では、上前身頃と後身頃では模様の嵩が異なるために、図案が分離されたように見える品物が多いが、このキモノは、裾全体に統一感があり、すっきりとした印象を受ける。
なお、江戸褄の裾の模様付けは、この品物のように、上前の褄下から後身頃、下前衽にまで斜めに模様をあしらうものがほとんどであるが、このような形式を「江戸褄後掛模様」と呼んでいる。また、模様の位置を全体的に高くして、腰まで掛かるような形式の「腰掛模様」や、両方の褄と裾廻しに同じ模様を付けただけの「両褄模様」、さらには、江戸時代の様式・裏模様の流れを汲む、裾廻し(八掛)の両褄だけに模様を施す「裏褄模様」などがあるが、何れも現代のキモノではほとんど見かけなくなっている。
それでは、仕覆と桐で裾が包まれた江戸褄には、どのような帯を合わせれば、個性的で流麗な式服姿を演出することが出来るのか、考えてみよう。
(白金地 橋に松桜楓模様 帯名・宴の橋 袋帯・紫紘)
真ん中に、朱色の欄干を付けた橋を置いて、その上下に楓と桜を細かく散らし、間に松を入れ込んでいる。紫紘はこの帯図案を「宴の橋」と名付けているが、四季の風情を愛でるスポットとして存在する橋を想像しつつ、この意匠を考えたのだろう。こうして、黒い背景の中に帯を置いてみると、模様中心の橋の朱色が鮮やかに浮き上がり、周りを彩る桜と楓、松も各々に存在感が伺える。
地色は白だが、間に少し金糸を通して、まだらな表情になっている。朱色は、かなり強く目立つので、若向きの帯にしか使い難い色だが、この帯に関して言えば、この色が帯の個性を高めている。
春秋を表す桜・楓の中にあしらわれているのは、四季を通して変わることなく緑を保つ・松。詳細に織を見ると、多彩な糸が織り込んまれた小さな花弁の様々な表情が見えてくる。紫紘という織屋の真骨頂は、手を尽くす仕事を細かく積み重ねて、一つの図案を形作ること。手機の現場では、色の数だけ杼の数が必要になり、それだけに織手の技術も必要になる。「手間をかけた仕事」の一端が、織姿から垣間見えている。
鮮やかな朱色で、古典的な意匠をきっちりと織りなした帯。白と金のグラデーションが付いた柔らかい地色が、上品な雰囲気を醸し出す。では、仕覆と桐の江戸褄と組み合わせるとどうなるのか、試すことにしよう。
こうして合わせてみると、まず目につくのが「朱色のリンク」である。橋欄干の朱と桐葉の朱。江戸褄にも礼装袋帯にも使うことが珍しい朱色を、こうして合わせてみると、ピタリとはまる。むしろこの朱色があったからこそ、双方をとり合わせたとも言えるだろう。鮮やかな朱色だが、派手過ぎることはなく、きちんと品の良さを保ちながら、模様を強調している。
江戸褄の道長取を水の流れに見立てると、これが帯の橋の下から流れているように見えてくる。双方にあしらわれている花は、松に桜に楓、そして桐。いずれも日本を代表する花であり、それだけに、古典を強く感じさせるコーディネートにもなっている。
帯の前模様には、楓と桜両方が均等に模様付けされており、春秋どちらの季節にも対応できる。前姿から見ても、帯の白金地は、やはりこのキモノによく映えている。個性的だが、フォーマルに相応しい装いで、これならどんな場所で着用しても絵になるはず。
帯〆は、一越生地に金駒刺繍であしらった小さな渦巻を散らしたもの。帯〆は、所々に金糸を組み込んだ貝ノ口組。礼装用でもあまり金色が前に出てこない、白を基調とした小物で、あっさりとまとめてみた。(帯〆・帯揚げ共に加藤萬)
今日は久しぶりに、手を尽くした江戸褄と袋帯を使って、これぞ第一礼装というコーディネートを試してみたが、如何だっただろうか。この仕覆と桐模様の江戸褄は、今から30年以上も前に製作された品物であるが、全く古臭さなど感じさせず、今見ても斬新である。そしてもう、こんな個性的な意匠は、なかなか作ることは出来ないだろう。
長く呉服屋を続けているからこそ、良質な品物が棚に残る。この先、それほど長く商いを続けることは無いだろうが、最後まで丁寧に、一点ずつ品物を扱っていきたい。最後に、今日ご紹介した品物を、もう一度ご覧頂こう。
カジュアル化が進んだ昨今の結婚式ですが、若い人の中には、きちんと形式を弁えた厳かな式を行いたいと考えている方が、少なからず存在しています。黒紋付羽織袴姿の花婿と、白無垢姿の花嫁とが、神社の神殿の前に並んで式を挙げる。そんな結婚式に憧れているという話を、時として耳にすることがあります。
「きちんと居住まいを正す姿には、特別な格好良さがある」と考えている訳で、それはおそらく、心の奥底に日本人としての魂が宿っているからかと思います。脈々と続いてきた儀礼には、欠かすことの出来ない民族衣装が備わっている。江戸褄の仕事を諦めるなんてことは、呉服屋として言ってはならないことですね。少し、反省しております。今日も長い話になってしまいましたが、お付き合い、感謝申し上げます。