バイク呉服屋の忙しい日々

職人の仕事場から

消えゆく徒弟制度下の職人養成所  「和裁所」が果してきた役割とは

2024.04 19

先日、長くお付き合いを頂いている大学の先生から、「最近の大学は、すっかり就職予備校と化してしまった」と嘆く声を聞いた。本来大学の意義は、自分が専攻する学問を探求することにより、新たな知見や知識を得ることだけでなく、様々な経験により、人間的な成長を培う場所であるはず。それが、卒業後どこに就職するかということを、第一義に置きながら、学生生活を送る者ばかりになったというのである。

もちろん、卒業後の仕事は大切と思うが、そこだけに捉われて学生生活を送るのは、何とも寂しい限りである。私のように、その昔、不真面目極まる学生生活を送った者は、折角モラトリアムな時間を貰ったのに、就活やその準備だけに費やして終わるのは、空しくないかと思うのだが、そうでもないらしい。まずは、卒業後に自分の納得する仕事に就く、あるいは企業に入ること。だから大学の4年間は、その大切な準備期間であり、自由なんぞ謳歌していたら、社会から弾かれてしまう。将来を見据え、真面目な努力を怠らない若者たちなのだが、傍からはその姿が、何故か疲れているように見える。

 

今から20年ほど前から、各企業では、学生に対する就業経験・いわゆるインターンシップを実施するところが多くなり、今では、大学3年になるとほとんどの学生が、どこかの企業や組織に入り、一定期間仕事に従事している。調査によれば、インターンシップを経験した学生は、実に93%にも及び、これが就活のための事前学習になっていることは間違いない。今やこの体験を経ないで、就職することは出来ないのである。

インターンシップの期間は、短いもので数日、長ければ半年から一年にも及ぶ。学生によっては、大学の授業よりも、企業での就労を優先させている者もおり、それが教員にとって「大学での学びを疎かにしている」と映るのだろう。ただ学生にとっては、社会でどのように糧を得ていくのかは、最も重要な課題であり、しかも未だに、新卒一括採用の雇用形態が蔓延る現状を考えれば、これもある意味、致し方ないかも知れない。

 

このインターンシップが、期間を限定した学生の就労体験であることから、これを「徒弟制度」のような形態と考える向きもあるようだが、それは全く違う。徒弟制度も、一定の期間に仕事に従事しながら、技術を身に付ける「教育的な雇用形態」になっているのは同じだが、大学生のように、就職の事前学習のための「お試し労働」とは、訳が違う。弟子として親方の下で働き、仕事を覚えて一人前として認めてもらうまでは、ひたすら忍耐と努力の日々。「この仕事で、一生を貫く」とまなじりを決して、その道に飛び込んでいる。その真剣さにおいては、インターンシップなどと呼んでいる生半可な「横文字」の労働体験とは、雲泥の差があるのだ。

徒弟制度による職人教育は、封建的な主従関係によって成り立っていた部分が大きく、労働条件も極めて曖昧で、給与体系も確立されていなかったことから、今の社会ではほとんど見られなくなった。けれども、呉服屋に関わる職人たちの中には、徒弟制度の中で技術と気構えを学び、それを今の仕事で生かしている者も、まだ少なくない。

今日は、消えてしまった徒弟制度の中で、職人はどのように養成されてきたのか。本人たちの話を交えながら、お話してみよう。舞台は、仕立職人・和裁士を養成する和裁所である。

 

自分の仕事場・裁ち台の上に置かれた道具の数々。現在、バイク呉服屋の仕事を支えてくれるのは、三人の和裁士。いずれの方も、うちの誂えを担当して30年以上が経つ。そして、三人とも「和裁所」に内弟子として入り、徒弟制度の中で技術を磨いて、職人として独り立ちしている。

 

和裁で身を立てようと考えるなら、その技術は、専門学校で習得するか、あるいは和裁所へ入って仕事に従事しながら身に付けていくか、二つのケースが考えられる。学校はあくまで「授業料を払って、仕事を学ぶところ」であるが、和裁所は授業料など不要で、場合によれば、食事も寝る場所も用意されて、生活一切の面倒を見てくれた上で、技術が習得できる「職人の養成所」になっている。

そこでは、和裁所を主幸する親方や同じ境遇の弟子たちと、文字通り寝食を共にしながら、少しずつ技術を学び、職人への階段を上がる。中学あるいは高校を卒業するのと同時に、この道に入るのだが、もちろん入所する時に試験などはなく、必要なのは「断固たる決意」だけ。それは、一生この仕事で飯を食べていくという、覚悟である。

それでは、和裁所はどのような教育を施し、職人として育て上げるのか。さらに、独立して呉服屋の仕事を請け負うには、どのような経緯があるのだろうか。

 

仕事の中で、最も緊張する工程・裁ち。誂える寸法を確認しながら目印になる針を打ち、慎重に鋏を入れる。ここでの失敗は取り返しがつかないので、どんなに経験を積んでも、常に緊張すると話す。

うちの仕事を請け負う三人の和裁士に、「何故、この仕事に就こうと考えたのか」を聞いてみたところ、三人とも同じ答えが返ってきた。それは、「手先の仕事が好き、それも縫うことが特に好きだったから」である。彼女たちは、賃金を得るためとか生活のためではなく、手作業が好きという極めて単純な理由から、職人の道に入ったのだ。

 

裁ちを入れる場所には、まずコテで印をつけ、そこに糸を付ける。袖、身頃、衽、袖と全て直線裁ち。上の画像のような飛び柄の小紋だと、模様をバランス良く配置することが必要になる。裁つまでには、反物をひっくり返して、どこをどの部分に使うか悩む。このような小紋が、最も職人泣かせの品物である。

三人の和裁士のうち、保坂さんと小松さんは同じ和裁所の出身で、いわば同門。年齢は同じくらいだが、保坂さんの方が少しだけ先輩。中村さんは別の和裁所だが、彼女は一旦専門学校で縫いを学んでから、親方のところに入っている。同門の二人は、和裁所の中で生活しながら仕事を覚えるという、いわば「住み込みでの修行」で、専門学校出の中村さんは、自宅からの「通い弟子」であった。

 

茶席用の飛び柄小紋に紋を入れるため、積りを入れる。この「紋積り(もんつもり)」は、誂える人の身丈寸法によって決まるが、無地ならば単純で難しくないものの、こうした飛び柄は模様配置との兼ね合いで、ここと決めるまでには時間を要する。和裁士も自分だけでは決められないので、私と相談しながら柄配置を決める。だからこうした作業は、和裁士の仕事場ではなく、店の畳の上で行うことが多い。

和裁所の修業年限は、5年。最初の1年は、ほぼ運針だけ。まずは晒や木綿を使い、針目がまっすぐきれいに揃うように、稽古をする。運針は、和裁の一番基礎となる技術・平縫いと直結しているため、これをきちんと身に付けないと先へは進めない。針の運びがスムーズになると、部分縫いを始めて、まずは長襦袢から誂えを学ぶ。そして2年目には、浴衣や単衣モノが縫えるようになり、3年目から袷のキモノに手を付ける。この最初の三年間が基礎編であり、後の二年間は、帯やコート・羽織などのキモノ以外のアイテムや、重いフォーマルモノ・振袖や留袖類の誂えを学ぶ応用編となる。

 

黒地の友禅訪問着にあしらわれた細かいぐし。フォーマルモノの衿や袖口、褄下、裾などに付ける細かい縫いの目で、これがきちんと揃っていると、誂えが一段と美しく見える。特に黒い地の品物、黒留袖や喪服、そしてこの黒地の訪問着のようなキモノでは、それが際立つ。このキモノには、1寸の中におよそ12、3個の縫いの目が見える。

このぐしの細かい技術こそ、運針の賜物であり、ここを見ると職人の技量が良く判る。保坂さんや小松さんが修行をした和裁所の親方の誂えは、ぐしが美しいことで知られていた。こうして施しを見ると、その技はしっかりと、弟子たちにも受け継がれていることが判る。

 

格子模様の花織紬で誂えた道中着。結び紐の先には、共布で花飾りを作っている。こうしたひと工夫にも、職人の気持ちが込められている。

その昔大いに流行した、絞りの絵羽織。これは数年前、棚に残っていた最後の二点を誂えた時の画像。小松さんは、コートや羽織類の誂えが得意で、新しい品物だけではなく、キモノから羽織や道中着、あるいは雨コートへと誂え直す仕事も器用にこなす。和裁士各々には、品物のアイテムによって得手不得手があるので、依頼する私としてはそれを見極めながら、仕事を振り分けている。

今や珍しくなった被布衿の道行コート。最近こそ、道行衿の形の多くが角衿になったが、ひと昔前までは、きれいな曲線を描くへちま衿や千代田衿、そしてこの被布衿など、多様な形のものがあった。こうした衿には、型紙を用いて誂えているが、直線裁ちが基本の和裁では珍しい施しになる。

 

千切屋治兵衛の鮮やかな朱色小紋を使って誂えた、女の子用産着・八千代掛け。反物に一切裁ちを入れずに誂えた八千代掛けは、三歳・七歳祝着や十三参りのキモノとして長く使い続ける。和裁士は、節目となる誂えの時々に、次の出番に備えたあしらいを品物の中に施す。子どもモノは、一人の職人が一枚のキモノに長く関り続ける品物の代表。

双子の女の子、桜子ちゃんと桃子ちゃんのために制作したオリジナル小紋の八千代掛けは、昨年三歳の祝着に生まれ変わった。小さな襦袢は、新モス(木綿生地)と袖布を駆使して作ったもの。4年後には、スムーズに七歳の祝着として誂えが出来るよう、肩や袖、身頃に生地を入れ込んでいる。

うちで子どもモノの誂えを一手に引き受けているのが、中村さん。彼女が学んだ和裁所の師匠は、子どもモノとまとめモノ(古い品物を工夫して誂え直すこと)が得意であった。現在、裁ちを入れない八千代掛けを誂えられる職人は、本当に限られており、この先その技がどこまで受け継がれるかわからない。子どもモノの技術を、師匠からしっかりと受け継いだ弟子がいるから、今もこうした形で、子どもキモノが提案できる。

一反の朝顔柄大人用浴衣から、二点の女の子用浴衣が、そして半反の白コーマ浴衣から、一点の男の子浴衣が誂えられた。これも中村さんの仕事だが、浴衣とは言えども、3年以上は使えるようにと中に上げを入れている。子どもはすぐに大きくなるので、毎年上げを下して寸法を大きくしながら、長く使いまわす。子どもモノでも大人モノでも、将来を見通して誂えを施すことが、和裁士には求められる。「その場限りの装い」が、当たり前のようになっている今の風潮では、こうした目に見えない職人の工夫は、残念ながら、ほとんど理解されることはない。

 

こうして、バイク呉服屋の片腕となっている和裁士、その三人各々の仕事ぶりを見ていくと、彼女たちの技は、和裁所の師匠を通して伝承されてきたものだと判る。師匠が得意なものは、やはり弟子も得意になる。それは、傍で仕事を見たり指導を受けたりするうちに、自然と身につくものなのだろう。

そして和裁所と学校の決定的な違いは、学びの過程から、仕事の厳しさを身をもって知ることだと、職人たちは口を揃える。それはどういうことかと言えば、和裁所での学びは、実際に誂えを依頼された「生きた品物」を使って、行われるということ。これは小松さんから聞いた話だが、ある程度運針が上達し、部分縫いが出来るようになると、先輩と二人一組で、一点の品物の誂えを任される。後輩は簡単な直線縫いのところだけを担当し、衿付けなど難しい箇所は先輩が行う。職人としては駆け出しだが、誂えの一部を担うことに変わりない。すでに売れている品物を、曲がりなりにも誂えをするのだから、失敗は許されない。この緊張感は、和裁所ならではであり、それは一人前になる前から、仕事の厳しさに直面していることに、他ならない。

中村さんが、専門学校から和裁所へ入り直したのも、やはりプロとしての意識を磨くためだったのだろう。もちろん、親方の優れた技術を習得する目的もあっただろうが、失敗は出来ないという緊張感は、やはり仕事の現場にいればこそであり、学校では無理である。中村さんが入った和裁所は、彼女が修業を終えると閉所した。師匠の技を受け継いだ最後の弟子が近くにいてくれるお陰で、今も昔と変わらない方法で、子どもモノの誂えを施すことが出来る。職人とその技の継承は、店の扱う品物にも大きく関り、ひいてはそれが店の専門性・個性にまで繋がっている。

 

すでに山梨県内では、開設されている和裁所は無いと聞くが、都内でも弟子を受け入れるところは、かなり少なくなっている。そして、和裁士を志す人たちも年々減り続けている。年に一度、1級~4級までの和裁士検定試験が行われているが、プロに近い力が必要とされる2級は、昨年の受検者が23名(合格者5名)で、プロと認定される1級は僅か8名(合格者2名)であった。

呉服需要の落ち込みに加えて、ベトナムなどへの海外縫製や国内一括縫製の急速な増加により、和裁所への依頼は少なくなる一方。仕事が減れば、弟子の教育で使う誂えの材料もなくなると同時に、和裁所の経営そのものも立ち行かなくなる。和裁所で弟子を教育・養成できたのも、沢山仕事を受けて、ある程度の収入があったからこそである。そして、年季を重ねて技を磨き、晴れて職人となったとしても、縫い工賃だけでは生計の見通しがつかない。そんな現状が、職人への道を閉ざす大きな要因にもなっている。

この先、和装がある限り、きちんとした誂えを求める方が消えることはない。自分の寸法を弁え、自分で装う人ほど、着やすい品物を求める。つまりキモノを知り尽くした方ほど、職人が必要になるのだ。ともあれ現状のままでは、いずれ職人はいなくなってしまう。何とか、技を残す方策は無いものだろうか。

 

「ただ縫うことが好き」とそれだけで、この道に飛び込んだ、バイク呉服屋の三人の和裁士。徒弟制度の名残を感じさせる、和裁所出身のこの世代は、純粋に好きな道を歩むことが出来た最後の職人たちかも知れない。小松さんは、「賃金云々ではなく、ただ縫うことが好きだから、ここまで続けて来られたと思います」と話す。そんな職人に支えられている私は、幸せ者である。

 

好きなこと、自分のやりたいこと、得意なことを、そのまま生業とすることは、かなり難しいと思います。好きなことがそのまま仕事になれば、それは理想でしょうが、世の中そう甘くはありません。好きな仕事であっても、それだけで思うような収入を上げられないことも、よくあります。

それでは、前向きに仕事に向かうには、どうすれば良いのか。それは、就いた仕事を好きになることしかありません。もちろん、仕事の中身が重要ですが、どのような向き合い方をするのかが、何より大切かと思います。私は若い時、自分の家の仕事・家業には絶対就かないと決めていました。呉服屋という仕事を、どうしても好きになれなかったのです。けれども、長く携わっているうちに、自分の理想とする仕事の進め方、ひいては店のあり方がはっきり見えてきました。こうなると、少しでも自分らしい商いをしようと努力をしますね。

人を雇わず、全て自分一人で完結する。そうでなければ、自分が納得出来る仕事は難しい。自分らしく生きる、そして楽しく仕事をするための、私の選択です。そしてこれが貫けるのも、多くの職人さんが傍にいてくれるからこそです。今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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