今、中学や高校で規則の無い学校など、ほとんど無いだろう。制服に始まり、鞄、靴、靴下に至るまでの服装、そして頭髪など身だしなみに関わることまで、それこそ学校で生活を送ること全てにおいて、細かく規定されている。
学校に所属する生徒は、規則を遵守することが求められ、外れると注意を受ける。規則の前提になっているのは、「中学生らしい服装」とか、「高校生らしい生活習慣」とかである。何をもって「~らしさ」と規定するのかは、全く曖昧であり、何を基準にしてこうした生活規範が設定されているのか、よくわからない。
バイク呉服屋が通った高校は、制服こそあったものの、後はほぼ自由だった。例えば、男子のズボンの色は黒と決まっていたが、素材に決りが無いため、黒いジーンズを着用する者がいた。また、靴も自由で、私は水虫予防のために、夏になると素足にサンダル履きで登校した。
頭髪も、さすがに派手な色に染めている者はいないが、長髪あり、坊主頭あり、パーマありで、実に個性的。特にバンカラさが売り物の応援団員などは、ほぼ全員がパンチパーマだった。
昼休みに外にメシを食べに行って、そのまま帰ってこない奴、前の授業まではいたのに、いつのまにか途中で消えている奴、休んだと思ったのに、放課後の部活になると姿を見せる奴など、授業の出欠確認も、怪しかった。それでも学校側が、生徒の生活態度に干渉することは、あまり無く、ほぼ全てが自主性に任されていた。
「自主自律」を校訓に掲げる学校は多いが、私の母校のように、学校生活そのものを、ほとんど生徒任せにするようなところは、今から40年前といえども、大変珍しかった。学校側は、「高校は義務教育ではないのだから、生徒が自分で考え、自分で行動し、自分で自分を律することは、当たり前」と考えていたし、生徒達も自覚していた。
こうして規則で縛らず、野放図にしたところで、問題行動を起こすような者はいなかった。一人一人が自分の規範に従って行動し、その責任は自分で負う。今考えれば、「すでに大人としての扱いを受けていた」と理解が出来る。
さて、規則で縛るということが、キモノに関してもよくある。規則というより、「しきたり」のようなものであろうか。例えば、季節ごとに着用するアイテムが変わること、またフォーマルとカジュアルでは使うモノが変わること、さらに着用する場のキモノに合わせて、帯のアイテムも変わることなどである。
このキモノの常識として、「やるべきこと」と「やってはいけないこと」を理解せず、間違った使い方をすると、咎められることがある。けれども、そんなTPOの中で、厳然として守らなければならない一部のことは別として、曖昧なことも多い。つまりルールが定まり難い部分が存在するということだ。そこで今日から二回に分けて、この曖昧な部分を、消費者はどのように考えたらよいのか、一軒の小さな呉服屋の立場から、お話することにしたい。まず今日は、季節ごとに区切られるアイテムについて考えてみる。
9月になって、薄物から単衣や袷用の品物に、店を模様替えした。けれどもまだ、薄物を求めて訪ねてこられる方も、多い。先週の日曜日などは、時間を置いて3人のお客様が見えられ、その都度、売り場から仕舞った品物を出さなければならなかった。
もちろんお客様は、来年着用するために、品物を求めに来られる。私も、商品を来年に持ち越すよりは、今売ってしまった方が良いので、当然価格をかなり下げる。そんな売り手の心理を見計らってやって来られる方は、賢い買い物が出来る方であろう。
左・薄水色 水玉飛柄 立絽小紋 右・空色 小唐花の丸飛柄 単衣向き小紋
9月、30℃を越える残暑厳しい日。皆様が着用されるとすれば、左の絽小紋だろうか、それとも右の単衣小紋だろうか。
お客様からよく質問されることは、それぞれの薄物の着用時期についてだ。例えば、麻の小千谷縮は、いつからいつまで着れるのかとか、絽や紗素材のモノは、7、8月の盛夏に限られるものなのかとか、絹紅梅と綿紬の浴衣では、季節の使い分けがあるのか、とかである。
これまでは、6・9月は単衣、7・8月は絽や紗、麻などの薄モノとすみ分けられるルール・しきたりが存在していた事実はある。けれどもこれは、近年少しずつ崩れてきたように思える。その理由は、夏が長くなっている気象の変化に伴い、着用される方の着心地が優先されるようになったからであろう。
単衣と言えども、暑ければ5月初めから着用する方もおられ、小千谷縮を6月中旬から着始める方もいる。また、9月になっても、残暑厳しい日には、盛夏用の絹紅梅や紋紗で、街歩きをする方もおられる。
要するに、何を使うかということは、着用する方が感じる「暑さ」に応じたものであり、明確なルールとして、着用するアイテムを決め付け難いことになる。つまり、「着用される方各々に応じた品物」ということだ。そしてそれは、その日の温度や湿度などの気象条件だけではなく、着用する場所によっても変わる。例えば、冷房が効いている室内に限って着用する方なら、9月ということを考えて単衣を使うだろうし、陽射しを受けて街歩きをする方は、9月と言っても、絽を着用したくなるだろう。
自分が身につけるモノを、気象的、環境的なことを考慮せずに、ルールとして決め付けられるというのは、ある意味で苦痛を伴う。だから、このすみ分けは、もっと自由であるべきと考える方が自然である。
もちろんこれまでのように、袷・単衣・薄物と、季節を区切って着用される方は、おられるだろう。また、伝統芸能や茶道に関わりのある方々にとっては、厳格に守らねばならぬ規範かとも思う。けれども一般的な消費者に対してならば、このしきたりは強制されるものではなく、また咎められるようなことがあってはならないと思う。着る方それぞれが、その時に応じて、着用するアイテムを考え、自由に着用する。それで良いのではないだろうか。
キモノ初心者では、季節に応じた品物を、どのように着用したら良いのか、思い悩むことも多い。今は、ネットでいくらでも情報を得ることが出来るが、どこかでこの「規則」に触れると、そういうものなのかと理解してしまう人もいる。また、この規則を教条的に守っている方から話を聞けば、「間違えると、恥をかくかも知れない」と考え込む人も、おられるだろう。
もちろん、呉服屋によっても、またキモノに関わる方それぞれによっても、考え方は異なるだろう。これはあくまで、バイク呉服屋個人の考え方だ。是とするか非とするかは、読まれた方が個々に判断されれば、と思う。
この狭義なしきたりが、個人の自由度を尊重して、変えられていくということは、実際にはすでに、かなり現実化している。特に夏のフォーマルの席で着用されるものは、この傾向が顕著であり、季節に応じた品物を使うことより、便宜的な品物を使うことの方が、優先されている。どのような状況になっているのか、お話してみよう。
左・虫籠模様 絽黒留袖 右・秋草模様 黒留袖
7~8月、盛夏の結婚式。皆様が、式へ出席しなければならなくなったと仮定してみよう。その時にもし、右のような袷の留袖しか持ち合わせていないとすれば、わざわざ、左のような夏用の絽の留袖を誂える、もしくは借りるだろうか。それとも手持ちの冬モノを代用として、着用してしまうだろうか。
以前、盛夏に結婚式を挙げるカップルは少なかったのだが、最近はかなり増えたように思える。式という儀礼が、家同士から、個人と個人を繋ぐことへ変容したこともあり、新郎・新婦の仕事の都合や、休暇を優先して、式の日取りを決めるからなのであろう。また、式場の方も、結婚式としてはオフシーズンにあたる夏は、価格を下げている。そんな事情もあるようだ。
さて、盛夏に式を挙げると決まった時、新郎・新婦の母親が着用する黒留袖は、何を使うのか。もちろん、今のことだから、式の形態によってはキモノそのものを着ないというケースもあり得る。ここでは、とりあえず留袖は着用するという仮定の下で、話を進める。
今の親世代は、留袖を持っていないという人の方が、多い。この場合、借りなければならないが、それは絽にするのか、それとも、袷で間に合わせてしまうのか、ということだ。留袖は、もっとも格の高い、第一礼装に使用するキモノである。これを踏まえると、やはり季節に適した絽の留袖を選択することが、常道かと思える。
けれども、式場の貸衣装部や身近なレンタル店には、絽の留袖を置いているところが少ない。借りる時になって、袷ならばあるが、絽は無いという事態に遭遇することの方が多いと思われる。そして、自分の留袖を持っているという方でも、絽の留袖を用意してある人は、稀だ。大概が、袷である。
さあ、このような時に、現実にはどのように対処されているのだろうか。結論を先に述べれば、ほとんどのケースで、袷が代用されていると言ってよいだろう。レンタルの場合では、袷を借り、すでに袷の留袖を持っている方は、それをそのまま使っている。
先ほど、袷、単衣、薄物の使い分けは、自由であって良いと述べたが、いくら何でも、盛夏に袷を使うことは、通常ではありえまい。7・8月に袷で街歩きをするなど、到底考えられないからだ。けれども、季節外れの袷を、薄物の時期に使っている現実が、ここにある。
きちんとしきたりを守らねばならない一部の業界人や、特別にこだわりを持つ人は別として、一般の人では、物理的に季節に応じた品物を着用することが、難しくなっている。無論、呉服屋としては、絽の留袖を使って欲しいという希望はあるが、それは現実的では無い。
留袖に限らず、友人として出席する方が着用する振袖も、絽はまず見られない。やはり袷だ。また、親戚周りの方が色留袖使ったとしても、それは袷であろう。薄物を使う季節は短く、作っても着用する機会が限られていると想像出来る。「いつ使うかわからないモノを購入することは、勿体無い」という意識が、否応無く働くのは当然であり、ましてフォーマルモノの価格は、ある程度高額になる。これでは、袷が着用されても、やむを得まい。
すでに一般では、第一礼装の場で袷を代用することが、失礼には当たらないと認識されている。これは、季節を区切るしきたりが、一部で形骸化している証であろう。呉服屋としては、薄物の需要を喚起したいのはヤマヤマだが、こんな厳しい現実があることも、理解していなければならない。
今日は、季節ごとに変化するアイテムをどう捉えるのか、呉服屋の視点で考えてきた。
袷と単衣、単衣と薄物の着用時期を、個人に任せて自由にすることと、盛夏のフォーマルでは、すでに便宜的に袷が着用されていることを考え合わせてみると、これまでのしきたりに従い、季節に応じた品物を着用することが、どれ程難しいかが、判って来る。
キモノや帯を着用する時、旬を意識することは、欠かせないこととは思うが、それはある意味「贅沢なこと」と認識すべきだろう。もちろん、呉服専門店として、季節ごとに存在する様々なアイテムを、お客様に提案していきたいのは当然である。
これからは、いかに手軽な品物で、多くの方にそれぞれの季節を感じ取ってもらえるようにするか、が課題になっていくように思う。それは、フォーマルモノではなく、むしろカジュアルモノの方が、提案しやすいのかも知れない。大変難しいことだが、努力するしかない。
次回は後編として、準フォーマルの席で着用できるものは何か、を考える。使える品物、ふさわしくない品物の境界は、どこにあるのか。その曖昧さを探ることにしよう。
勉強嫌いで、いい加減な性格のバイク呉服屋が、規則の無い自由な高校へ入学したというのは、まさに「虎を野に放ったようなもの」でした。
おかげで、麻雀、パチンコ、煙草、ピンク映画と、悪事のほとんどはこの高校時代に覚えてしまいました。当時、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」をもじって、「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿はアルバイト」などと言ったものです。
昭和の時代は、様々なことに今より寛容だったように思います。それは若者に限らず、社会全般においてもです。規則でがんじがらめにすればするほど、個性は育たち難いものです。私には、今の風潮が、多様化する社会とは逆行しているように思えて、仕方ありません。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。