昨年6月、ドーハで開かれたユネスコの国際会議により、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産として認定された。1872(明治5)年に開業した、日本初の本格的な製糸工場である富岡製糸場を始め、その周辺にのこる産業遺産に歴史的な価値があると認められたからである。
世界遺産の認定とは、1972(昭和47)年締結された、世界文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)に基づいたものである。1978(昭和53)年から遺産登録が始まり、昨年までに161ヵ国・1007件が認定を受けている。
日本で初めて世界遺産に登録されたのは、1993(平成5)年の法隆寺地域の仏教建造物である。内訳は、法隆寺建造物47棟と隣接する法起寺三重塔についてであった。
法隆寺が、日本における世界遺産第一号であったことは、この寺が日本においてもっとも文化的価値が高いと世界が認識していたからであろう。
世界遺産には到らないが、日本の中には、国の文化財として数多くのものが登録されている。特に重要なものは重要文化財の指定を受けており、そのほか実に多岐にわたるものが認定されている。
寺社や城址などの有形のものばかりではなく、伝統技術をもつ人間を認定した無形文化財保持者(人間国宝)や、土地に伝わる演劇や雅楽などの民俗文化財、自然分野の天然記念物、さらに町並みや景観までもが文化財とされ、その価値が保護される対象となっている。
文化財は、今から66年前の1949(昭和24)年に制定された文化財保護法に基づいている。この法律は、歴史や芸術的な価値の高いものを、国が関わり積極的に保護していく目的で作られたものである。
さて、文化財保護法が制定されたのは、ある事件が契機となっている。それは、この法律が制定された年の1月26日、法隆寺金堂が不審火により炎上し、中に描かれていた壁画を焼失したからである。
この壁画は、飛鳥時代(7世紀)の仏教絵画であり、その当時日本に残る数少ない仏教美術であった。この火災を受けて、国が文化財保護に対して責任を負うという気運が生まれ、法律の制定に至ったのである。
法隆寺金堂の壁画は、三ヶ所に分かれて描かれていた。すなわち「外陣」とよばれる堂の外側の土壁に二ヶ所、「内陣」と呼ばれる堂の最奥部に一ヶ所である。
外陣壁画と呼ばれるものは、12枚の大壁画と18枚の小壁画から構成されていた。大壁画には三尊仏(阿弥陀如来を真ん中として、左に観音菩薩、右に勢至菩薩を配したもの)の浄土図と菩薩像が描かれており、小壁画には、山中羅漢図が描かれていた。羅漢とは、釈迦が死に際して仏法を守ることを託した高僧の名前である。これらの、計30枚の壁画は、火災の時に全て焼失してしまった。
内陣壁画は、堂の奥の長押(なげし)の上に位置していた。長押とは、柱の側面に取り付けられた板のことで、柱同士を繋ぐ役割を果たしていたもの。この壁画は20枚あり、いずれも優雅に飛んでいる2体の天女が描かれていた。これが「飛天」と呼ばれる図である。
幸いなことに、この飛天図は、火災の時取り外されて他の場所に移されていたため、焼失を免れている。それは、飛鳥の仏教美術を今に伝えるものとして、貴重な20枚の壁画となり現在に至っている。
さて、前置きがまた長くなったが、今日ご覧いただくのは、この飛天をモチーフにした帯である。図案を起こしたのは、もちろん龍村美術織物である。これまでもブログの中で、正倉院や飛鳥・天平期の文様を再現した品物をご紹介してきたが、今日の飛天はとりわけ個性的なもの。
龍村という帯メーカーが、これまでどのくらいの数の図案を起こしてきたのかわからないが、この飛天図案は、めずらしいもので、ネットの中を探してもなかなか見当たらない。おそらく現在は織られていない柄であろう。
先日お客様から、手入れのために当店に戻ってきたので、ノスタルジアの稿として、取り上げてみることにした。
(敦煌飛舞錦・袋帯 龍村美術織物 1990年・甲府市 S様所有)
そもそも飛天とは何を表現したものなのか、まずここから話を始めて見よう。
帯の画像を見ると、優美な羽衣をまとって、天を回遊する姿が描かれているが、この天女が果たしている役割は、仏を讃えることである。そのため、ほとんどが仏像を回遊する姿として表現されている。
仏の礼賛者・天女の起源は、紀元前1世紀頃のインドにさか上る。この頃はまだ、確固とした天女の姿ではなく、人間のようにも鳥のようにも見える姿として描かれているものが、ガンダーラの遺跡から発掘されている。そしてその1世紀後には、天女の姿をインド・ベンガル地方寺院の建築物装飾の中に見ることができる。
仏教がシルクロードを通じて中国へ伝来したのは、紀元前1~2世紀頃。ペルシャに向かう西域の入り口・敦煌(とんこう)は、元々シルクロードのオアシスであった。前漢の時代(BC200年頃)には、関所にあたる玉門関や陽関が作られたこともあり、次第に国際都市の色合いを濃くしていった。
三人の天女が一体となって構成されている帯の図案。
龍村がこの柄を、「敦煌飛舞錦」と名づけたのは、敦煌にある仏教遺跡・莫高窟(ばっこうくつ)の壁画に数多くの飛天が描かれていたからである。
莫高窟は、敦煌の南にある鳴沙山(めいしゃさん)の断崖に掘られた洞窟で、その中には2400体もの仏塑像が置かれ、壁一面には壁画が描かれている。この洞窟を堀り始めたのは、AD336~366年頃とされ、その後チンギス=ハーンが支配した元の時代まで彫り続けられていた。
千年という長い期間を使って作られたものだけに、塑像にも壁画にも時代ごとの特徴が見られ、当然中に描かれている飛天の図案も変化を遂げている。例えば、壁画の中に配される天女の位置や、羽衣の描き方と衣装、また履物の有無などに違いが見られる。
飛天を拡大したところ。「隋」代の窟に見られる飛天を意識している図案。
初期の4世紀頃は、描かれている仏像の四隅に配置されることが多く、天女の体型もかなり折り曲がったような表現になっていた。また、靴を履かず、羽衣は両手に巻きつけられるような形になっていて、その姿はかなり単純なもの。
それが6世紀の隋代に入ると、この帯の図案のように、靴を履き、衣が手に通される表現に変わる。天女の形そのものも、流線型となり、流れるように舞う姿が印象的だ。また美しい女性の姿そのものを、リアルに描くようになり、羽衣は手首から肩に巻きつけられ、まるで輪のように表現されているのも、この時代頃からの特徴である。
最初の画像を見るとわかるが、三体の飛天がある方向に流れるような描き方をしている。この図案では「反時計回り」の方向に回っている。このように一つの方向に群れて飛ぶ姿も、隋の時代からの表現。
この隋代の飛天の姿こそが、後に法隆寺の内陣に描かれているものの原型になる。百済の聖明王から日本に仏教が伝わったのは、538あるいは552年である。そして遣隋使の派遣は推古天皇期の600(推古朝8)年。つまりは、隋の影響下で初めて仏教がもたらされたことにより、飛天の姿もそれに沿うものになっているということだ。
法隆寺の建立が607(推古朝15)年ということを考えれば、まさにこの時代にあてはまり、これ以後中国の王朝が変わるごとに、日本における飛天の姿も変わっていくことになる。
この図案には、隋代ばかりでなく、その次の唐の時代の特徴が見受けられる。ウエストを細く絞って描いている天女の体型や、手首に装飾品を巻きつけている所などは、唐代・莫高窟の飛天に共通している部分である。
帯のお太鼓には、上のような感じで柄が出てくる。
銀の帯地色に映る天女の羽衣の色は、鮮やかな緑青色。また天女そのものは阿仙茶色を基調としたもの。どちらも古代の寺院建築や装飾には欠かせない色であり、流麗に舞い上がる飛天の姿を強く印象付けている。
龍村の描く図案により、飛鳥から白鳳、天平・正倉院の時代の文様をリアルに知ることが出来る。そしてそれは、帯という道具を通して、実際に身につけることも出来る。古代の文様を、そのままデザインとして使えるものは、帯やキモノをおいて他にない。
呉服屋が扱う商品の一つ一つの柄には、文様の出自と歴史、そして時代ごとに変化する形がある。また、柄に施されている色にも、作り手の意図があり、一枚のキモノ・一本の帯それぞれの中に背景がある。
これほど奥が深い品物は、他に見当たらない。奥が深すぎて、覚えなければならないことが多すぎる。いつになっても大変難しく、かつ興味深いことばかりである。
仏教美術を現代に伝える遺跡として、敦煌・莫高窟は1987(昭和62)年、また同時代のインドにおける遺跡・アジャンダー石窟群は、1983(昭和58)年、世界遺産に登録されています。
インドから西域、シルクロードを通じて中国、さらに朝鮮半島から日本へと伝えられた仏教の道は、そのまま文様の道となり、現代に息づいているのです。
皆様も、お手持ちの帯やキモノの図案や文様を調べて、ぜひその奥深さに触れて頂きたいと思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。