家内と結婚したのは、1988年・昭和63年である。昭和最後の年(昭和64年は一週間しかなかった)ともいえる年にあたり、昨年銀婚式を越えた。
都会で生まれた彼女を、無理矢理騙して連れてきた「バイク呉服屋」としては、よくぞ今まで耐えてくれたと感謝するばかりである。「詐欺」にあったようなものとよく罵られるが、すでに25年以上経過しており、「時効」が成立しているように思う。
人は、自分にない面を持つ人に惹かれると言うが、全くその通りだ。家内は至って真面目な常識人である。バイク呉服屋はいい加減で適当で、「何も考えない」性格であり、だからこそ「ないものねだり」をした。彼女にとって、もう少しマトモな相手だったらよかっただろうが、あまりにも「不運」としか言いようがない。
今日は反省の意味も含めて、家内が結婚式で使った「振袖」を紹介しよう。
今から26年前、といえばまだ結婚式は「家同士」のものといえる時代である。うちのような「商売家の跡取り」の式は、「お披露目」の意味があり、盛大に挙げることを良しとしたのだ。
私も家内も「派手なこと」は大嫌いな性格である。本当を言えば「内輪でこじんまり」した今の式の方が好ましい。ただ、「後を継ぐ」はずのない息子が「後を継いだ」ことが、先代にとって何よりのことだったに違いない。
それで、「結婚式」に使う彼女の「衣装」を奮発したのだろう。「呉服屋の嫁さん」になる人には、「最高の仕事」のものを着せたかったのである。
(緋色地 立波青海波慶長文様 京友禅振袖 1987年 北秀 当店所有)
一口に「友禅」といえども、最近扱われている品物で「総手描き」のものはほとんどないだろう。良い仕事に思えても、「型友禅」であることが大半である。よく百貨店などで扱っている「千總」の友禅振袖なども「型」使いである。それでも価格は30~7,80万ほどする。
京友禅の仕事は「分業」だ。下絵、糊置き、染付け、箔置き、刺繍とそれぞれの作業ごとに職人が違う。以前にもお話したが、職人を束ねる親方が存在する。この親方を「染匠」とか「悉皆屋」などと呼ぶが、メーカー問屋の商品製作にあたり直接の窓口になるのがこの方達なのである。
問屋のモノ作りの担当者と親方の間で、どのような意匠にするか話合われる。図案や色、またどのような施しを使って一つの品物として仕上げるか、計画されるのだ。もちろんどのくらいの「価格」で作るのか、ということは重要であり、それにより柄の嵩や「施し方」が変わってくる。
メーカー問屋では、まず「どのくらいで売る品物か」ということを考えてモノ作りをしなければならない。すべてが手仕事で行う品物には、当然高い価格を設定しなければならず、そんな贅沢な施しのものが右から左へと売れていくはずがない。だから「思い切り手を掛けた品」というものが、大量に出回る訳はない。目いっぱいの仕事のものを作って、それが売れない時のリスクを考えれば当然であろう。
この振袖は、当時の北秀が「思い切り」手を掛けさせて作らせた品である。下絵と糊置きは全てが手仕事。当然他の施しの「箔」や「刺繍」も職人の手によるものだ。まさに「手描き友禅」の名にふさわしい逸品である。買い入れたその時、「北秀」に置いてあった品の中で一番高額だったそうである。何とも「無茶」な買い物をしたものだとつくづく思う。当時の呉服屋には、まだ余裕があったことが伺われる。とても今では、こんなものを「買い入れる」ことは出来るはずもない。
では、この「無茶」な手描き友禅の振袖の施しについて見ていこう。
まず、この振袖に付けられている模様を考えてみよう。「総模様」とも言える柄付けだ。「青海波」の連なりを基調とし、波の中に「大菊」や「小菊」が描かれている。「青海波文様」は、「四海波静か」という言葉があるように、「おめでたい文様」としての意味付けがある。また、この振袖の柄のように、「青海波」の上に「波頭」を付けた文様のことは、「立波青海波文様」と呼ばれているものである。
上の画像が「立波青海波」文様。ご覧の通り、「青海波」の上に「波頭」が付けられている。また、それぞれの「青海波」の中にも小さい「波頭」が見える。
この「総柄」とも呼べる文様は、通常の振袖などには付けられていない、「帯の下に入る部分」まで万遍なく柄が施されている。このことが、この品物に対する作り手の思い入れのほどがわかる。通常「隠れてしまう場所」には柄を付けないことが多い。そこに「柄」を置かなければ、その分だけコストが下がるのだ。だから、「無駄」なところにわざわざ柄を置いたりはしない。
この振袖は、そんなことにはお構いなく「目いっぱい」柄が置いてある。「余白」がまったくないことで、この品物の「豪華絢爛さ」がより以上のものとなる。これが「型友禅」ならまだしも、「総手描き友禅」であるため、「表に出てこないところに」施しをすることは、それだけ「手間」がかかり、それに伴い「価格」も上がるのだ。そして、「圧倒されるような」印象を受ける品物として仕上がっている。
このキモノの生地は、「紗綾(さや)型」を織り込んだ「紋綸子」である。後でお話するが、このような「慶長文様」とよばれるような施しをする場合、使われる生地目は、この品のような「綸子の紗綾型」なのである。地色は「緋色」あるいは、「朱色」と呼べるような、わずかに黄色がかったようなあざやかな赤。ただ、その地色の朱も、「圧倒的」な連続した「波」の模様の中に埋没している。地色の色を消すほどの迫力で、柄が置かれている。
では、具体的に「手描き」、「手仕事」の施しについて、個別に見て行こう。まず、「糸目」から。
上の二つの画像は、「青海波」部分とそれを拡大したところ。大菊の花弁や波頭、青海波それぞれが、手で糊が置かれ、微妙なブレが出ている。これだけ沢山の「青海波」や「波頭」を描きながら、一つとして「同じ」模様はない。「同じように見える」のだが、「違っている」。ここに、「人の手による仕事」を見ることが出来る。模様の輪郭に沿って「白く」見えている部分が「糸目」である。この「糸目」を下絵に合わせ、全ての柄に置いていく。それだけで大変な作業である。
次は、この品物に多用されている「箔」と「刺繍」についてである。振袖を「豪華絢爛」に見せている大きな要因が、この二つの贅沢で精緻なあしらいにある。このような「豪華な箔と刺繍」は、「慶長文様」とも呼べるもので、安土桃山時代末期から、江戸初期にかけて、「城」の内部に施された豪華な障壁画を思い起すものだ。
「慶長文様」とは、江戸初期の慶長年間に流行した「慶長小袖」にあしらわれた施しに基づく文様で、その特徴は、高い技術の箔や刺繍などが惜しみなく使われ、重々しい雰囲気になっている。
そもそも、この「慶長文様」に繋がる背景には、安土桃山期の雄大で壮麗な美意識に端を発している。戦国の世が終わり、天下統一を果たした織田信長と豊臣秀吉が好んだのは、「権力を誇示」するような美術だった。壮大な安土城や大阪城の築城はもちろん、その城の内部に装飾する「障壁画(壁や襖に描かれる絵)」も豪華絢爛なものを求めた。
それが、「狩野永徳」を始めとする、狩野派により描かれた「金碧画」である。この画法は、金箔の地に青や緑などで彩色していく方法であり、「濃絵(だみえ)」と呼ばれている。「唐獅子図屏風」や「洛中洛外図屏風」など、歴史の教科書にも載っているものも思い浮かばれるだろう。この贅沢に「金」を使うことで、それが一つの「権威の象徴」ともいうべきものになっていたのである。
この施しを見ることで、いかにこの品物に手を加えてあるか、また、いかに贅沢なものなのかがわかる。では、「金箔」から見てみよう。
波頭として施された金箔。「押し箔」という技法で、模様一つ一つに対し、箔箸を使い丁寧に貼り付けていく。また、右側の波頭のように、波の輪郭に合わせて、あしらわれるものもある。模様ごとに「箔」を付けるのは気の遠くなるような手間だ。
四角に切り取られた、「切金文様」。輪郭を金であしらった仕事は、「金線描き」と呼ばれる技法。「糊」の中に金粉を混ぜ、糸目を引くように輪郭を描く。通常の糸目では、白くなるところを、この技法を使うことで、「金」になる。また、「切金」一枚一枚も、その形にピタリと合う形で、「押し箔」が使われている。
この品物にあしらわれている、金箔による金加工の量は、膨大なものといえる。それを一つずつ丁寧に、人の手で行う。また、「金」そのものも「純度」の高いものが使われている。それは、この「金」の発色が極めて明るく、柔らかい光をかもし出しているからだ。純度の低い金は、すこし青みがかったような、鈍い色を呈する。
次に「刺繍」について見よう。
まず上の二つの「菊」に施された刺繍の違いから、その技法を考えてみよう。この二つの模様は、上が「袖」に付けられた菊。下が「上前のおくみ、いわゆる柄の中心部」に付けられた菊である。
上の菊に施された刺繍は、花弁の輪郭を縁取っている刺繍である。この技法は「駒縫い」というもので、「柄の形」を強調する役割を果たしている。但し花弁の中の「朱色」部分は「染めて」付けてある。なぜなら、生地の織り柄である「紗綾型」の模様が浮かび上がっているからだ。
では、下の菊の施しを見てみよう。上の菊と同様に、花弁の輪郭に「駒縫い」が施されている。だが、花弁の中に注目されたい。上のように「紗綾型」の模様は見えない。ここが、「染めて」付けられたものではないことがおわかりになろう。
この花弁の中の「朱色」は、全て刺繍で施されている。よく見ると、光が当たり、糸の色が変化している。このように、柄の面を縫いこんでいく技法を「刺し縫い」という。
上の画像、二つの菊にそれぞれ違った「刺繍」の技法が使われている。左の「白菊」は、輪郭と花芯を「駒縫い」で表現。右の「朱色の菊」は輪郭を付けず、花弁を「縫い切り」という技法で縫いつめられ、花弁の「白く点々とした」部分」は、「相良縫い」という「結び玉」をつける技法である。この「玉」があることで、より立体的に「花」が表現されている。
この品物の柄の輪郭に、相当の刺繍が使われている。通常は「糸目」により、輪郭がわかるのだが、このような「駒縫い」刺繍による柄をより強調したあしらいは、本当に贅沢なものであり、それに対する手間というものが、どれ程のものかを教えてくれる。
最後に「金箔」と「刺繍」の両方のあしらいが見れる部分をご覧頂こう。上の画像、大きい花弁は、「駒刺繍と刺し縫い」で、小さい花弁は「駒刺繍と押し箔」で付けられている。(しかも渦巻き状の花芯まで駒縫いである)
このような施しが、「柄全体」の見られる。上の画像のように拡大してみると、その施しにいかに「職人の手」が使われているのがわかる。この例にあげたところなど、ほんの一部にしか過ぎない。
前の合わせから見た全体像。
左前袖側から写したもの。「青海波」の模様が「袖」と「肩」と「胸」でピタリと合うように仕立てられている。このような柄が一体となり模様を描きだしているものは、どこか一つの部分でも、「柄が合わない」と、全体のバランスが崩れてしまう。仕立てを受け持つ職人も、「柄合わせ」にはかなりの神経を使う。
本格的な、「総手描き友禅」というものの全てが、この一枚に集約されている。当店がこれほど「人の手」を駆使し尽くした品物を扱うことは、これから先もないだろう。「本当に贅を尽くした」というべき振袖であり、このような品物が手元に残り、ご紹介できたことは、「呉服屋冥利」に尽きると言えよう。
さて、この振袖が再び「陽の目」を見るのは、いつのことでしょう。うちの娘達が自分の結婚式で使うかどうかはわかりません。今時のことなので、「披露宴」などごく内輪で簡単に済ませてしまうことでしょう。(派手になどしたくないと考えていることが、すでにわかる)。もっとも結婚するかどうかもわかりませんので、当てにならないことだと言えましょう。
出来れば、「写真にだけでも」この振袖を着た姿を残して欲しいと思いますが、それも、娘達自身が決めること。強制するつもりもありません。
この振袖を着て、「呉服屋のおかみさん」になった家内ですが、今になってどう思っているのか、神のみぞ知るところ。あまり聞かない方が身の為、といったところでしょうか。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。