現代では、ある事象について秀でた知見を持っている研究者や知識人のことを、有職者(ゆうしきしゃ)と呼んでいる。政府や省庁が重要な事案を検討する時には、この人々を招いて会議を開き、提言を求めることがよくある。感心するのは、どんな物事にも必ず「専門家」が存在することで、つくづく世間は広いと思う。
平安時代に存在した有識者(ゆうそくしゃ)は、知識に秀でた人物であることは、現代の知恵者・識者と同様だが、その内容は、朝廷や公家の儀式や行事作法、さらに各種の法令や細密な装束に至るまでのこと。であるから当然、有職者になり得るのは、古くから残る先例に精通した人で、それは公家や朝廷に連なる「高貴な人物」でしかない。
中でも儀礼に関わることは、平安中期頃には体系化され、幾つかの流儀も生まれた。そしてそれは後に、特定の公家一族が研究を担い、家の職業として世襲により受け継がれていった。公家の社会では、特殊の技能を有する特定の家によって、司る役所を管理する「官司請負制度」が確立され、中世から幕末まで一定の役割を果たした。
装束や調度品に用いられた有職文様は、形式を重んじた公家の有職者によって、研究継承してきたもの。特に天皇や公家の正装・束帯の上衣・袍(ほう)は、位階によって各家に特定の有職文があしらわれ、それは現代にまで伝承されている。例えば桐竹鳳凰文などは、今上天皇の束帯だけにあしらわれる文様で、染色も黄櫨染と決まっている。
前回の稿で述べたように、平安の有職文は全て織で表現されている。そしてこの繰り返して織る文様には、整然とした美しさの中に品格が備わっている。現代の染織品では、文様の繰り返しパターンをそのまま生かした白生地が、その姿をもっともよく表しているが、むしろ文様を切りとって図案にしたり、意匠として組み込んでいる品物の方が一般的である。
今日は、品物の意匠として、実際にどのように表現されているのか。数ある有職文の中の、ほんの一部を取り上げてみよう。千年以上受け継がれてきた文様とは、何か。皆様には少しでも、その様式美に触れて頂きたいと思う。
(桐竹鳳凰文 袋帯・龍村美術織物)
前述したように、有職文様の中で最も高貴な文様は、この桐竹鳳凰文。天皇の儀礼服である束帯の表着・袍だけにあしらわれていた特別な文様である。平安中期になると、袍は広袖で丈も長くなり、浮き上がる有職文様によって、束帯姿の特別な威厳と美しさが印象付けられた。
古代中国では、鳳凰は聖なる王が出現した時に飛来する霊鳥であり、この鳥の住処は桐の木で、竹の実を食すと云い伝えられてきた。この故事に基づいて出来たのが、桐竹鳳凰文である。鎌倉初期になって、霊獣の麒麟が文様の中に加わったことから、現在使われている天皇の袍は、桐竹鳳凰麒麟文様となっている。麒麟はやはり古代中国の霊獣で、顔は龍に似て、馬のような蹄と牛のような尾を持ち、体つきは鹿に近い姿。麒が雄で麟を雌とするこの獣は、王の徳が国中に行き渡った時に現れると伝えられた。
では順を追いながら、意匠として有職文を表現した品物について、個々に見ていこう。
(向かい鶴襷文様・袋帯 紫紘)
この帯のように、平行する三本の直線が交差している襷文を三重襷と呼ぶ。またこの文様を、区画された面と見れば菱文であり、中には向かい合った鶴の姿があることから、向鶴菱文とも呼べるだろう。
(入子菱花菱文様 袋帯・紫紘)
升の中に幾重にも菱を入れ込んだ「入子菱」と「花菱」を交互にあしらった、面白い文様。襷文でもあるが、特徴的な二種類の菱文を規則的に配置したことで、デザイン性を感じさせる意匠になっている。花菱だけにカラフルな色を使い、織姿にメリハリを付けている。古典なのに、新しさをも感じる図案。
(襷撫子文 型小紋・トキワ商事)
襷文ではあるが、中に四分割した撫子の花が入っている。扇形の花弁や斜線を生かした花芯の図案がモダンで、原型が有職文であることを忘れてしまうほど。優しいパステル配色が、こんな幾何学文様には相応しい。
(向かい菊菱文様 小紋・松寿苑)
放射状の菊花弁を向かい合わせに置き、図案の枠は菱格子・襷になっている。この小紋の場合、襷の線は、構成する向菊菱文の規則的な隙間によって形成される。筋を描くことなく襷文となるのが面白い。この小紋も、上の小紋と同様にパステル配色で現代的。
(三重菱向かい揚羽蝶文様 袋帯・紫紘)
三重の菱の中に、向かい合った揚羽蝶をあしらう。鶴や蝶の鳥類や菊や桐などの花を、前後左右に対称的に向き合わせて配置する。こうした「向かい文様」も有職文の特徴の一つ。この帯は振袖向きだが、こんな大胆な蝶の姿があれば、否応なく古典的で豪華な着姿が演出出来る。
(立湧菊文様 袋帯・紫紘)
相対する二本の線の真ん中が膨らみ、両端がすぼまった形。これを並列させると、立湧文様になる。この形は、水蒸気が立ち上る姿をヒントにしており、それを「運気が上がる縁起の良い文様」と考えて、用いたのである。多くの立湧文は、中間部の膨らみの中に様々なものを入れる。この帯は、図案化した菊文。
(立湧に楓、撫子、笹文様 型友禅振袖・菱一)
立湧の中に楓・撫子・笹を配した、大胆さが際立つ振袖。図案としてではなく、文様の区切りとしても使われる立湧は、使い方によって意匠がぐんと豪華になる。この振袖の立湧は、まさに湧き上がるように立ち上っている。余談だが、この振袖は数年前に扱った品物で、合わせた帯は前述した朱地に向かい揚羽蝶の帯。これは、究極の有職文コーディネートであった。
(立湧に桐文様 綿紬浴衣・竺仙)
袋帯や振袖などの豪華なフォーマルモノだけでなく、浴衣の図案としても使われている立湧文様。瓢箪型の縦曲線は、この文様以外ではほとんどお目に掛からない。有職文として一緒にあしらわれるのは、自然現象では雲や波、植物では笹、藤、松など。
(立湧文様 茜色絣紬羽織・お客様依頼品)
立湧だけであしらわれた、シンプルな絣の羽織。付随する模様が何も入らないだけに、逆に羽織としてインパクトがある。単純な形態だが、使用範囲は実に広い文様だ。
(青海波に花菱・亀甲重ね文様 袋帯 紫紘)
正六角形の幾何学文・亀甲は亀の甲羅に形が似ていることから、その名前が付いている。ご存じの通り、亀は長寿の象徴とされており、古来中国では、東西南北の四方向を守る四神聖獣の一つ・玄武に亀を描いている。当然亀甲文は、吉祥文様として古くから認識されており、平安末期以降に有職文として盛んに用いられた。
(亀甲花菱文 袋帯・川島織物)
亀甲文の場合、その多くは中に花菱を入れた形をとっている。最初の紫紘の袋帯は、青海波と花菱を入れた亀甲を重ねているが、このように亀甲を入れ越した文様を「子持ち亀甲」と呼ぶ。また上の色違いの川島帯は、花菱は入っているものの、どちらかと言えば唐花的な図案。亀甲文ではあるものの、有職文というより正倉院的な文様の気配。
(七宝花菱文 袋帯・紫紘)
同じ大きさの円を四分の一ずつ重ね、四方の連続模様としたものが、お馴染みの七宝文。別名で、「輪違(わちがい)」あるいは「四方襷(しほうたすき)」とも呼ばれるこの文様も、有職文として使われていた。またこの文様には、「十方(じっぽう)」という名前もあり、後に「じっぽう」は「しっぽう」に転化して、七宝の字が当てられたとも言われている。
(大七宝花菱文 袋帯・梅垣織物)
最初の袋帯よりも、もっと大胆な七宝文。有職文では小さな七宝文様の羅列だが、現代の帯では。図案を大きく切り取った七宝の姿をよく見かける。この梅垣の袋帯は、地の朱色も相まって、迫力のある帯姿になっている。
(七宝花菱文 袋帯・龍村美術織物)
これも上の二点と同様に七宝文であるが、中に入る花菱の図案が外来的。ほとんどの七宝文は、輪の中に四弁の花が入るが、この花の雰囲気によって、和様にも正倉院的模様にも変わる。ご覧頂いた三点の袋帯のうち、紫紘と梅垣の帯は有職文、龍村の帯は正倉院文の気配が感じられる。同じ文様を意匠としても、織屋によって目指す雰囲気が違っている。品物を見ていて、こうした比較も面白い。
(変わり七宝花菱文 蒔糊手描き友禅染帯・四ツ井健)
七宝の中に一枚の花弁を使うのではなく、四枚の花弁を入れ込んだ図案にしている。古典を基礎としながらも、豊かな発想でモダンにデザイン化する。蒔糊を使って円に変化を与えているところなど、作り手の多彩な技術が意匠からも伺える。袋帯の織七宝文には無い、柔らかみのある染の文様姿と言えよう。
(藤の丸文様 名古屋帯・北尾織物匠)
有職文における丸文は、この帯のようにモチーフを円形に意匠化したもので、藤の他に、鶴や蝶、波、唐花などがある。こうして見ると、襷文にしろ立湧文やこの丸文にしろ、文様の基礎題材になっているものはほぼ同じと理解出来る。その上モチーフの多くは、二つずつ向かい合わせの姿になっていて、一定の形にパターン化されている。
なおこの有職丸文は、緯糸を浮かせて文様を表す浮織・浮線綾(ふせんりょう)でほとんど織りなされていたために、後に大型の円形文(丸文)は、浮織でなくとも浮線綾文と称された。文物が多く残る天平の正倉院文様とは異なり、有職文をあしらった装束はほとんど現存していないが、僅かに、鶴岡八幡宮所蔵の鎌倉期の袿・紫地向かい鶴三盛丸文や、熊野速玉神社所蔵の室町期の唐衣・緯白小葵文にその姿が見えている。
今日は、現代のキモノや帯の意匠として使われている有職文様の姿を、品物を通して見てきた。ご紹介した文様の他に、牡丹のような花が規則的に並ぶ「小葵(こあおい)文」や、家紋にもなっている木瓜(もっか)の実を輪切りにした形の「窠(か)文」、また雲に舞い飛ぶ鶴を配した「雲鶴(うんかく)文」などがある。
先述したように、有職文には一定のパターンがあるため、そのあしらいは判りやすい。整然とした生地の地紋や、工夫された意匠の中に、今なおその文様姿は健在である。千年以上伝承されてきた有職文は、まさに古典の名に相応しい文様であり、その変わらぬ姿にこそ、貴族たる平安人の美意識が隠されていると言えるだろう。
外来文様・天平期の正倉院文様から、日本固有の文様・平安鎌倉期の有職文様へ。 そして室町期には、中国・明との貿易でもたらされた絹織物・名物裂(めいぶつきれ)のあしらいによって、再び文様姿は、外から大きく影響を受けることになる。時代を追って文様は、どのように変化していったのか。またいつかこのカテゴリーの稿として、話を続けることにしたい。
こうして文様が守られてきたのは、高貴な公家階級の一定の人々・有職者(ゆうそくしゃ)がいたからこそ、と思われます。それは、「変える」ことよりも、「守る」ことに意識を置いてきたからに他ならず、これまで維持されてきた日本の皇室制度、そして変わることなく為されてきた儀礼とも、大きな関りがあるでしょう。
大仰なことと思われるかも知れませんが、美術的なデザインや意匠も、時代ごとの社会情勢や対外関係から大きく影響を受けます。どの時代も、為政者が変わるごとに、その体制は大きく変化します。主権者は天皇から貴族、そして武家へと移り、明治には天皇に戻って、今や国民になっています。天皇は戦後、象徴という立ち位置に変わりましたが、制度そのものは維持されました。しかし、もしあの時連合国(アメリカ)が天皇制を廃止していたとしたら、今の日本人の意識、アイデンティティも、かなり違っていたものになっていたはずです。
困難な歴史の淵を辿りつつ、千数百年以上続いてきた皇室は、この先どのように守られていくのでしょうか。それは、日本らしさをどこまで維持できるか、ということと同義なのではないかと思います。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。