2005(平成17)年から始まった、夏の軽装・クールビズもすっかり定着したようだ。節電や環境対策を考慮した結果、ノーネクタイ・ノージャケットを基本とする「働きやすい服装」が提唱された。これは、28℃以上の室温でも、仕事の能率が落ちないための服装ということになる。
2012(平成24)年からは、スーパー・クールビズとして、ポロシャツやアロハシャツなども容認されるようになり、カジュアル化はより一層加速している。
クールビズは、5月1日から、9月30日までであるが、昨今の5月や9月の気温を考えれば、30℃を越える日も珍しくなく、極めて的を得た期間と言えよう。
和装でも、5月から9月の間には、目まぐるしく着るモノが変わる。常識として知られているのは、10月~5月が袷、6月と9月が単衣、7・8月が薄物という区分けである。
今は5月下旬なので、厳密に考えれば、まだ袷を着なければならず、あと数日で単衣に変わる時期。すなわち衣替えの季節に当たる。そこで今日は、和装の世界で「しきたり」として決められている、季節ごとの品物の区分について、少し考えてみよう。
果たして、現在の気候と使うモノがマッチしているのかどうか、衣替えの歴史や、今昔の気候の変化を見ながら、お話させて頂くことにする。うちの店でも、衣替えをしたばかりなので、その様子もご紹介しながら、稿を進めてみたい。
衣替えを済ませた店内。今年仕入れた浴衣が一通り入荷し、まるで竺仙のアンテナショップのようになっている。
この時期、お客様から「何を着たら良いか」という相談をよく受ける。カジュアルモノであれば、5月の初めから単衣を着ても良いだろうし、6月の暑い日であれば、小千谷縮や紅梅など薄物を着ても構わないだろう。もちろん絽や紗の帯を使うことに躊躇はいらない。つまりは、その日ごとに、自分の感じるままに着るモノを替え、調節すれば良いのだ。
私は、普段使いのモノに、堅苦しい季節ごとの区分けを厳密に守ることなど、あまり意味がないと思う。暑ければ暑いなりに、寒ければ寒いなりに、着る方が自分で考え、自由に使うモノを選んでいけばそれで良い。
けれども、フォーマルについては、自分勝手にという訳にはなかなかいかない。畏まった場所でキモノを着る場合、月ごとに使うものが決められている「しきたり」を無視できないのである。
6月ならば単衣か紗袷、絽や紗の薄物は、7月になってからということになる。合わせる帯も、単衣には夏帯を使って良いものなのか、また帯〆や帯揚げなどの小物類はどのように考えれば良いのか、着る方の悩みは尽きない。
では、月ごとに使うモノが決められている、キモノのしきたりは、いつどのような形で決められたのか。衣替えの歴史を振り返りながら、少し考えてみよう。
平安時代の貴族は、宮中行事として衣替えを行っていた。季節は、旧暦の4月1日と10月1日。現代の太陽暦で考えると、5月7日頃と、11月1日頃にあたるだろうか。
この時代の衣替えは、「更衣(こうい)」と呼ばれていたが、この名前は、宮中で天皇の寝所に仕える女官を指している。源氏物語の冒頭には、「いづれの御時(おほんとき)か、女御、更衣あまた侍(さぶら)ひ給ひける・・・」とある。訳すと、「いつの帝の時代であったか、使えておられた大勢の女御や更衣の中には・・・」。この公的地位の名称と区分けするために、更衣は衣替えという名前になった。
では、平安貴族の衣替えはどのようなものだったのか。袿(うちぎ)という高貴な女性の日常装束で見てみよう。平安女房達の褻(け)の衣装は、白い小袖の単(ひとえ)にこの袿を羽織って、朱色の長い袴を付けた姿。
袿の素材は、表地が綾絹で、裏が平絹。何枚も重ねて使う場合と、一枚だけを羽織る場合がある。女性達は、この袿の裏地を外したり、縫い方の工夫により、重ねたように見せかけたりして、温度調節を計っていた。
この使い分けは、単純なものではなく、複雑に決められていたようだ。まず、4月1日の衣替えになると、袷でも薄地のものを使い、5月になると、「捻り重ね(ひねりかさね)という、背中と袖だけを裏とじして単衣を重ねているように見せかけたものを使用する。
さらに6月の盛夏の頃になると、単重(ひとえかさね)として、単衣を重ねたものを用い、一番暑い時期には、袿そのものを使わず、中の白い単小袖だけで過ごすこともあった。この時の小袖の生地は、「生絹(すずし)」と名前のついた紗のように軽いものを使っていた。
生絹というのは、繭から引き上げたままの糸を使って織り上げられたもの。通常では、糸を精錬することで、付着しているセリシンというたんぱく質を落として、滑らかな材質にするのだが、それをしないがために、糸質は硬く張りのあるものになる。これが、シャリ感のある独特な肌触りとなり、涼やかな着心地を産む。
上質な生絹は透き通るように薄く、その着姿は、女性の素肌が透けて見える、まるで「シースルー」のような状態だったようだ。こんな姿を宮中で見かけたものなら、光源氏ならずとも、どんな平安男性でも、大変だったであろう。
取付け型のの飾り棚には、小千谷縮と紗献上の帯と博多半巾帯。
さて、時代は下がって江戸期を見てみよう。この時代の幕府に仕える者達の衣替えは、年4回とされている。これは、後に庶民の間にも定着していったようだ。
旧暦の4月1日(太陽暦・5月7日)~5月4日(太陽暦・6月8日)と旧暦9月1日(太陽暦・10月1日)~9月8日(太陽暦・10月8日)が袷。単衣、帷子(かたびら・麻生地の単衣)の使用は、旧暦の5月5日(太陽暦・6月9日)~8月31日(太陽暦・9月30日)。表と裏の間に綿を入れる、綿入れは、9月9日(太陽暦・10月9日)~3月31日(太陽暦・5月6日)まで。
あえて、旧暦と現代の太陽暦を併記したのは、今キモノのしきたりとして区分けされているものと、比較出来るようにするためである。
江戸期の袷の時期は、現代の単衣の時期にあたり、単衣・帷子の時期は、単衣、薄物の時期に重なる。綿入れの時期は、現代の袷の時期になるだろうか。もちろん、単純に現代と比較することは出来ないが、気候的にも江戸時代は寒かったと想像出来る。
気象学で見ると、14世紀からこの江戸期の19世紀にかけては、「小氷期」と呼ばれ、世界的に寒冷な気候であった。江戸の三大飢饉である、享保(1730年代)・天明(1780年代)・天保(1830年代)の大飢饉は、いずれも低温と日照不足が主な原因であり、そこに富士山や三原山・浅間山などの噴火に伴う降灰が重なったことにより、起こっている。
史料によれば、1780年代には、浅草や両国の川で氷が張り、1822(文政5)年には、大坂・淀川水系が結氷、さらに江戸・品川では2mを越える積雪があったことを伝えている。そして、古文書などの気候記録や、幕府、外国人などが持っていた気象のデータなどから、19世紀の江戸の年平均気温は、約24.7℃程度だったことが割り出されている。
夏の暑さをともかくとして、江戸の冬は長く、かなり寒いものだったことが判る。一年のうち半年もの間、綿入れを使っていたのは、こんな理由からであろう。
今日のウインド。絽付下げ・紗袋帯・夏八寸・紅花紗・竺仙絽浴衣・首里道屯半巾帯。品物は、完全に夏仕様に変わっている。
現在のような、衣替えの時期が定められたのは、明治に入ってから。当時の役人や警察官の制服が替わる日を、6月1日・10月1日と決めたことによるもの。おそらく、キモノのしきたりも、これを基本として、10月1日~5月31日が袷、6・9月が単衣、7・8月が薄物とされたのだろう。
当時の気候では、このような仕訳で良かったのかもしれないが、現代の気候から見て、それがマッチしているのかどうか、客観的な資料から考えてみたい。
気象庁が初めて気候を観測したのは、1872(明治5)年の4月。函館気候測量所(現在の函館海洋気象台)でのこと。東京の気象は、まだ内務省地理寮といっていた時代の、1875(明治8)年6月1日から始められている。当時の観測地点は、現在の虎ノ門辺りであった。
気象庁のHPには、この1875年から、現在に至るまでの月平均気温の記録が記されている。これを参照させて頂きながら、衣替えのしきたりが生まれた当時と、今とを比較しよう。
月別平均気温の比較は、5月~9月の衣が薄くなる暑い時期に絞る。観測地は東京。
5月・明治9年:17.0℃ 平成27年:21.1℃。6月・18.5℃:22.1℃。7月・24.5℃:26.2℃。8月・26.6℃:26.7℃。9月・22.6℃:22.6℃。
この資料からは、今の5・6月の気温が明治初頭より3~4度も高く、8・9月はほとんど同じような温度であることが判る。もちろん気温だけではなく、降雨量や、突発的に気温が高くなる日の数、さらにヒートアイランド現象などの環境的な要因なども勘案しなければ、気候の全体像は把握できないが、現代の5・6月というのは、かなり暑くなっていることだけは理解出来る。
つまりは、明治期にきめられた衣替えの日・6月1日というのは、当時の気候からすれば利に適った時期だったが、現代では遅く、ひと月前の5月1日がその時期に当たるように思われる。クールビズの実施がこの日からというのは、的を得た合理的な決め方であることが、資料からも読み取れる。
では、このことを踏まえて「キモノのしきたり」はどう考えれば良いのか。
バイク呉服屋には、単衣を使う時期は、少なくもひと月前倒しをするのことが、ごく自然なことと思える。さらに、6月の気候を見た時、単衣に限定するのではなく、薄物との共用期間として設定する方が、使う人の立場に適った考え方になるだろう。
つまりは、しきたりとして決め付けることよりも、使い勝手の良さや、着る人の自由度を高めてやることが、すでに必要な気候になっているということだ。
和装には、守らなくてはならない原則が数多く存在するが、この単衣や薄物を使う期間の垣根というものは、そろそろ考え直しても良いのではないかと、私には思える。
無論、使う方が、下に使う襦袢の素材を工夫したり、胴抜き(胴裏を付けず、八掛けだけを使う仕立て方)や、単衣に居敷当を付ける(くりこしから下に裏地を付けること)などの、キモノの裏地を工夫することで、自分なりの心地良い着姿を作ろうとする努力は、あってしかるべきであろう。
けれども、厳然として残っているこの「しきたり」を変えない限り、根本的な解決にはならないような気がする。
決められたこととして、守らなくてはならないことというのが、確かに和装の世界ではあると思いますが、着心地に関わるような、季節ごとの品物の区分というものは、見直されても良いと思います。
裏を付けるか否かとか、限られた素材のモノを使うということは、微妙な季節にキモノを使おうとする方を、悩ませることになっています。もちろん、全ての垣根を取り払うということではなく、それぞれの季節において、使えるモノの範囲を少し広げてやるくらいのことは、気候の変化から考えても、あってしかるべきではないでしょうか。
しきたりを変えないことで、キモノを使う本人が着苦しさを感じるようであれば、何にもなりませんから。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。