単純に貴族とは、特権的な地位や称号を持つ「選ばれし人々」のことを指す。日本でも、戦前まではこうした身分を持つ・華族が存在していたが、この人々は、一般人とは明確に区別された身分・階層にあって、その優位性は世襲により継続されていた。今風に言えば、「飛び抜けた上級国民」になるのだが、戦後になると法の下の平等の憲法原則から、華族制度は廃止される。名目上では今、日本に貴族はいないことになるが、天皇家に続く人々や旧華族の一部では、今も一定の権利を有し、独特の上流社会を築く。
では日本でいつ、貴族階級が生まれたのか。それは遥か遠く、紀元4~5世紀の古墳時代に成立したヤマト王権国家にまで遡らなければならない。この時期、畿内(山城や大和など近畿地方)を中心に成立したヤマト王権は、日本最初の中央集権的な国家であり、大王(おおきみ)を中心とし、幾つかの有力な豪族たちの手によって、政治を動かした。その豪族こそが、古代貴族と呼ぶべき存在であり、今に続く貴族の礎でもある。
豪族は、各々の出身地の地名により、大伴・蘇我・物部・中臣・平群などの氏と、担当する仕事により、臣(おみ)や連(むらじ)、造(みやつこ)などの姓を賜る。この地位は特権的なものであり、以降は世襲で受け継がれていくことになる。そしてこれが、文武天皇の701(大宝元)年に成立した「大宝律令」によって、国家として初めて体系化されたのである。
この制度では、中央集権体制の根幹として、二官(太政官・神祇官)八省(中務・式部・民部・治部・兵部・刑部・大蔵・宮内)を置き、それを司る役人も、四つの階級(長官・次官・判官・主典)に分けている。特にこの中で太政官は、八つの省を統括し、司法・立法・行政を司る国権の最高機関と位置付けられ、そのトップである太政大臣が、実質的に国を動かす権力者となったのである。
律令では、太政大臣の地位を「正一位」と定め、右大臣・左大臣が二位、大納言が三位というように、役職により序列化した。そして三位以上を公卿(くぎょう)と呼んで「貴(貴族)」と位置づけ、以下五位までが「通貴(貴族に通ずる者)」とされた。政治の中心である太政官の首脳組織・議政官には、大伴・藤原・安倍・紀などの有力氏族から各々一名ずつ代表者を選び、合議によって執り行われていたのだが、8世紀中頃になると、藤原氏から何人もの議政官を出すようになり、他の氏族の力は次第に削がれていった。そして自分の娘を次々に天皇に嫁がせ、外戚関係を築くようになると、藤原氏の力は天皇も凌ぐほど、絶大なものとなったのである。
さて、こうした社会情勢の中で生まれたのが源氏物語だが、今日は作者・紫式部の名前に冠せられた「紫色」に注目して話を進めてみたい。紫は、律令制度における位階区分・冠位十二階により、色分けされた最上位の冠の色であり、以来最も高貴な色として位置づけられてきた。けれども、単純に紫と言っても、その濃淡や色相により、意味するところは大きく違っている。
その辺りのことを踏まえつつ、この色について少し掘り下げることにしよう。源氏物語の登場人物を見れば、主人公・光源氏の母は桐壺の更衣で、愛した女性には、藤壺や紫の上の名前も見える。考えてみれば、桐も藤も紫系の色であり、紫の上などは色そのまま。これは、作者の紫に対する特別なこだわりの証であり、それはある種の「尊び」なのかも知れない。また前置きが長くなってしまったが、話を始めることにしよう。
色見本帳に見られる、様々な紫系統色の一部。濃淡も違えば、色相も違う。各々の色には、その色調の特徴に基づいた、日本固有の名称が付いている。これが「伝統色」であるが、その命名の裏側には必ず、色が辿ってきた歴史や経緯が含まれている。
603(推古天皇13)年、聖徳太子と蘇我馬子によって制定された「冠位十二階」は、朝廷に仕える者(役人)の地位を細かく区分し、それを冠の色で判りやすく仕訳けた官位制度である。先述した氏姓制度は、豪族の一族全体に授けられたもので、永続性があったが、冠位はあくまで個人に授けたもので、世襲はできない。ただそうは言っても、高位に任じられていたのは、臣や連などの姓を賜っていた豪族の代表者であった。
この位階制度の基本になっているのは、中国・隋の官吏制度と言われているが、位階の名前は、中国の五行思想に基づく、儒教的徳目・五常(仁・礼・信・義・智)と徳になっている。地位の最上位は徳で、六区分は大小に分けられて、全部で十二の階層となる。そして冠の色は、上から徳(紫)・仁(青)・礼(赤)・信(黄)・義(白)・智(黒)と決っていたが、これも、人間が自然界で生きるために最も大切なもの・五元素=五行(木・火・土・金・水)とする思想に基づいており、各々に色が決まっている行を、そのまま上から冠色として採用したのである。
色見本帳では、番号で区分けされている各種の紫色だが、伝統色名では、深紫(黒紫)・滅紫・薄色(浅紫)・半色(中紫)・紫紺・紫鈍・藤紫など、各々に名前が付いている。この色名は、それぞれ付けられた時代が異なり、室町期までに文献に表れる「古代色」と、江戸期以降に現れた「近世色」に区分けされる。冠位十二階の最上位に用いた紫や、紫式部が源氏物語の中で表現した様々な紫は、当然古代色である。
時代ごとに命名された各々の色には、その時々に主権者として君臨した者の美意識が、その色調に反映されている。大陸文化に影響を受けた飛鳥・天平期、貴族の雅な生活が色に反映された平安期、幽遠な姿を色に求めた室町期。ここまでの色は、本当にごく一部の限られた上流階級の者だけが持つ、彩の感覚であった。しかし江戸以降の色は、社会大衆の中から生まれた、いわば「庶民の流行色」である。つまりは、ネーミングの背景・意味合いが全く異なる、二つの伝統色があるということ。こうした背景から色の歴史を見ると、付いた色の名前には、なるほどと思えるものが多くあり、実に興味深い。
少し紫の色から話がそれてしまったが、冠位で大小に分けた六区分のうち、色の濃い方が上位で、薄い色が下位になる。つまり、最上位の徳の冠色・紫でも、大徳は濃く、小徳はそれより薄くなる。冠位十二階は、天皇の即位ごとに改訂・細分化され、それは元正天皇の757(天平宝字元)年に発令された、養老律令における衣服令まで続く。
この養老令の冠の色では、紫色の使用が三位以上からとなっていて、それはまさに、「貴と位置付けられた公卿」の地位にある者に、限られていたことになる。つまりは、紫の冠こそが、貴族の象徴だったのである。もちろん、この紫の冠にも濃淡があって、それにより地位が異なる。では、その色の「濃きと薄き」は、具体的にどのように違うのか、これから探っていこう。
深紫(こきむらさき)色。紫の中でも、最も高貴な色とされており、別名は黒紫。冠位十二階制定以後、常にこの色は最上位の者の色と決められていた。
紫を特別な色として地位を高めたのは、中国前漢時代の帝・武帝(在位紀元前141~87)。この帝は、殊のほか紫の色を好み、ひいてはそれを支配者だけの色として、他の者の使用を禁じた。いわゆる「禁色(きんじき)」となったのである。そして、自分の住まいにも、「紫宸(ししん)」とか「紫極(しごく)」などと、紫を入れた名前を付けて、この色の価値を高め、ついには誰もが最高の色として認めるようになった。
古代では、紫の色を抽出するために、ムラサキ科の多年草・紫草(むらさきぐさ)の根・紫根(しこん)を用いた。この根の外側の皮に色素があり、これを砕いて湯につけながら、色を取り出す。そして抽出した液を布や糸に染め、さらにこれを、椿の生木を燃やして灰汁に浸し、色を定着させるが、この木灰に含まれているアルミニウム塩が、色の仲立役・媒染剤の役割を果たしている。
現代のキモノに見る・深紫色。楓だけをモチーフにした友禅付下げの地色に、深い紫色が使われている。この地色は、秋の深まりを表現するために選んだと思われるが、楓の橙色が浮き立ち、重々しさと、そしてどことなく妖艶さを感じさせる意匠になっている。それもやはり、高貴な深い紫のなせる業であろうか。
このような深い深い紫色を染めるためには、先述した色素液に糸や布を手繰って染付ける作業と、媒染剤の灰汁の中に浸ける作業を繰り返し、二つの工程を交互に5日ほど続けなければならない。そしてこの染の様式は、綾絹一疋(約22m)に対して、紫草三十斤(約18kg)、酢二升、灰二石、薪三百六十斤を必要とすると、延喜式(律令の施行細則・927年に完成)の縫殿式(天皇や宮廷の衣服規則)の中で、細かく規定されている。
同じ紫でも、濃い色に染めようとすれば、それだけ手間もかかり、材料も必要となる。日本で高貴な色となったのは、もちろん中国からの影響もあるだろうが、紫の原料そのものが貴重であり、当時としても高価であったこと。そして、深く染めるためには、かなりの労力と時間を費やす必要があったことなど、その染の難しさが理解されていたことが、要因であったのだろう。
光のあたり方で、少し赤みを帯びてしまった地色だが、実際にはもっと暗い。飛鳥時代に始まった深紫色を尊ぶ思想は、後の世になっても変わることはなく、特に平安時代には紫を省略して、単に「こき」と呼ぶようになった。もちろん「こき」とは「濃き」という意味であるが、これは、この色が別格視されていた証拠である。
源氏物語において、紫の色がキーワードとなっているのも、こうした背景があったからこそ。清少納言は、枕草子の「めでたきもの」の段で、「すべて、なにもなにも、紫なるものは、めでたくこそあれ、花も、糸も、紙も」とこの色を絶賛して記しているが、平安の世の貴人たちは、おそらく皆このように、紫を特別な色として認識していたのだろう。それは、紫式部とて例外ではなく、清少納言にもまして、色への思い入れが強かったことに間違いはない。
浅紫(あさむらさき)色。「こき」と呼ばれた深紫の対極にある色で、別名・薄色。この色も紫を付けずに、「薄き(うすき)」という名前だけで呼ばれていた。「こき」は、冠位十二階の中でも、最上位・一位がまとう色で、臣下として最高の色。当然、限られた者だけが使える色・禁色になっているが、「うすき」の方は、紫といえども淡い色であることから、使用を許される・許色(聴色)になっている。
薄き色で染めた、唐草模様の綸子無地紋付キモノ。上は、同じ浅紫色を使い、一越生地を染めた画像だが、色の気配が少し違って見える。このように、同じ色でも染める生地の質によって変化する辺りが、一番誂染の難しいところ。
薄き色・浅紫の染レシピもまた、きちんと律令のなかで決められているが、こちらは綾一疋に対して、使う紫草は五斤(約3kg)。これは、深紫で使う量の六分の一に過ぎない。紫根の量は、そのまま色の濃淡の差になって表れ、それは即ち、色の重量感の違いとなる。この色の重さこそが、身分の軽量とも繋がっているのである。
半(はした)色。「濃き」と「薄き」の中間に位置する紫色。この色の名前は、二つの色の間・半分と、どっち付かずの色・半端という意味で、半色と名前が付いている。別名は、中紫(なかのむらさき)である。
この色の作り方は、延喜式に具体的な記載が無いものの、中紫の色調からすれば、使う紫草は深紫と浅紫の中間、十五斤(9kg)ほどと類推される。なおこの色は、平安初期に編纂された勅撰歴史書・日本後記の中に記載があり、809(大同4)年頃には冠位の色の一つとして、使われていたようだ。
以前依頼を受けて、半色(中紫色)で染めた塩瀬の無地帯。無地の帯合わせは、シンプルなだけに、潔く恰好の良い姿に映る。キモノは、無地に始まり、無地に終わると言われることがあるが、帯も同じかもしれない。模様を捨てて色だけで着姿を作る。このシンプルさは、究極のコーディネートと言えるだろう。中紫帯に合わせている小物の色は、浅紫に近い。こうして見ると、紫の濃淡コーデは独特の美しさがある。
今日は王朝色の代表であり、源氏物語の中でも特別な意味を持つ「紫」にスポットを当てて、話を進めてきた。濃きと薄き、そして半。紫と色の名を付けずに呼ばれた三つの色は、平安の貴族社会に生きる人々にとって、やはり特別な色であったと思われる。例として、現代のキモノや帯で使った染の色も一緒に見て頂いたが、やはり紫には、どこか人を吸い寄せる力がある気がする。
ぜひ皆様も、一度はどこかで「紫の装い」を試して頂きたい。きっと気分は、平安人になるはず。今日は少し、色の歴史的な背景に偏った稿になってしまったが、次回は、紫式部が源氏物語の中で記した衣装の色について、その文章と共にご紹介してみたい。
1884(明治17)年に制定された華族令では、その身分を、上から公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五つに区分して、序列化しました。最上位の公爵は、藤原氏の本家筋・嫡流にあたる旧摂関家で、近衛・一条・九条・鷹司・二条の五家と江戸幕府の徳川本家、二番目の侯爵は、公爵の五摂家に次ぐ公家・清華家(せいかけ)と徳川の御三家(尾張・紀伊・水戸)などと、厳密に基準が決められていました。
華族制度が廃止されて80年近く経ちますが、やはり特別な地位であることは変わらないようで、戦後になっても旧華族と縁のある幾人かが、首相の座に就いています。中でも最も地位の高かった華族の末裔は、細川護熙元首相。祖父は公爵・五摂家筆頭で、戦前に首相を務めた・近衛文麿でした。また最近でも、安倍晋三元首相は、長州藩出身の軍人だった大島義昌子爵の玄孫(やしゃご・孫の孫)で、麻生太郎元首相は、薩摩藩の政治家で大久保利通の子・牧野伸顕伯爵の曾孫です。
こう見てくると、明治維新の際に功を認められた長州藩や薩摩藩の末裔たちが、未だに国の中枢で支配的な役割を果たしている訳で、これはある意味で、ずっと「藩閥政治」が続いているようなものです。現代の政治において「世襲」が幅を利かせているのも、深い歴史的な経緯がある訳で、これを解消するのは容易なことではありません。こんな現状を前にしては、我々庶民は、ただため息をつくばかりですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。