今年のNHK大河ドラマは、源氏物語の作者・紫式部の生涯を描いた「光る君へ」。このドラマでは、政治や社会の流動期である戦国時代や幕末に題材を求めることが多く、主人公も、時代の中心的役割を果たしてきた「有名人」がほとんどなので、今回のような設定は、異例の展開とも言えそうだ。
今回が63作目というドラマの中で、そもそも、時代の設定が平安時代というのはかなり珍しい。これは、10世紀の初め、東国(関東)で反乱を起こした平将門を題材とした「風と雲と虹と(1976年)」以来だが、これとて大河ではよくある「戦乱モノ」の一つである。それが今回のように、派手な戦は抜きにして、平安貴族社会の内側・大内裏(だいたいり)を主舞台に話が進むような内容は、これまでには無かったこと。
無論、紫式部について、知らない人はいないだろう。けれども、源氏物語の内容を詳しく理解している人は少ないだろうし、摂関政治全盛の平安貴族社会の内幕などは、日本の歴史を通史的に振り返れば、それほど注目されてはいない。そしてこの時代に対して多くの人は、華やかな装束を身にまとい、毎日宴と遊びに明け暮れる、優雅な貴族の姿だけをイメージしているはずである。
このドラマでは、源氏物語の内容そのものを脚本化している訳ではなく、あくまで作者・紫式部の生き方そのものに、主眼が注がれている。そしてそこに、物語の中で描いた人物像や貴族社会のドロドロした権力闘争を織り交ぜ、ストーリー化している。また、源氏物語の主役・光源氏は、藤原道長をモデルとする説もあり、ドラマは、式部と道長の二人を恋に落とすという設定になっている。であるからして、今回の大河は、優美な貴族社会を背景とした恋愛フィクションとして視聴するのが、正しい見方ではなかろうか。
さて物語の背景は、これまでの作品ではほとんど経験のない平安時代。制作にあたっては、当然時代考証が必要であり、それに従って舞台装置や衣装を用意しなければならない。だが、この時代の宮中・公家装束の遺品はほとんど現存しておらず、情報を得る手段は、二次的な資料に頼るしか無いはず。それが、源氏物語絵巻や伴大納言絵詞、信貴山縁起などの絵巻物や、平家納経や扇面法華経冊子の見返し絵である。ここに描かれた生活様式や服装で、この時代の人々や社会の姿を知ることが出来るように思う。
この絵巻に描かれている人物の服装は、男子は天皇の礼服姿をはじめとして、宮中での正装・束帯や平常服の直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)の姿。女子は女房(女官)の正装・唐衣(からぎぬ)や、袿袴(うちきはかま)姿であるが、その描写はことの他に細かい。装束に用いられる有職織物の文様とか、衣装を重ねた女房装束・十二単の色の映り・襲(かさね)の色目などが、実に鮮明に描かれている。
このブログでも何度か紹介しているが、絵巻を織で再現した紫紘・山口伊太郎の「源氏物語錦織絵巻」では、こうした平安貴族の優美な日常が、鮮やかな衣装の色とともに蘇っている。そこで今日は、そんな公家装束には欠かすことが出来ない道具・檜扇に注目してみたい。これは、十二単をまとう宮中儀礼では、必ず手にしなくてはいけないものであり、その習慣は今もなお、皇室の儀礼の中で続いている。
この優美な王朝姿を象徴する檜扇は、その形やデザインの美しさから、すでに平安時代から文様化されている。ではそれが現代において、どのようにキモノや帯の意匠として描かれているのか。実際の品物をご覧頂きながら、探っていくことにしたい。
檜扇を三本つなげて、円形にした文様・三つ檜扇。この図案は、紋としても存在する。
檜扇は、細長い檜の薄い板を糸で繋いで、扇に形作ったもの。平安前期に作られたこの扇は、衣装や他の用度品同様に、男女や地位によって使う品物が違っていた。成人男子の扇には何も文様を付けず、元服前の子ども用や女子の扇には、胡粉や金銀を使った「金銀泥絵」で模様があしらわれていた。
天皇や皇太子が持つ檜扇は、蘇芳で染めた赤檜扇であり、朝廷への昇殿が許される上級公家人・堂上(どうじょう)は、檜の素材そのままの白檜扇、さらに威厳のある高僧・宿徳(しゅくとく)の場合には、丁子で染めた香色扇を使った。なお丁子(ちょうじ)とは、東南アジアを原産とするフトモモ科の常緑樹(別名・クローブ)のことで、この花の蕾を開く前に摘み取って乾燥させたものが、丁子香である。
その名前の通り、芳しい香りを放つ丁子は、正倉院の時代より輸入されており、香料の他に、医薬品や染料としても使われ、貴重品として扱われていた。それは丁子の図案を、宝尽し文を構成する道具の一つにしていることからも、いかに大切な品物だったかが判るだろう。少し話は逸れたが、平安の貴族社会では、このように道具一つを取っても、色や素材を分けることで、厳然としてその地位を明らかにしていたのである。
木製の檜扇は、扇の出発点であるが、平安後期になると、蝙蝠(かわほり)という紙を張った扇が現れる。蝙蝠とは「コウモリ」のことだが、この扇の形がコウモリが羽を広げた姿に似ているので、その名前がついた。この紙扇は、現代でも「末廣」と呼んで、儀礼の席で使用されているが、同時に、煽いで涼を取る実用的な道具・扇子としても、使われるようになった。
そしてこの紙製の扇も、檜扇文とは別に「扇文」として文様化されており、扇を閉じたり開いたりして形状を変えたり、数本を繋げて図案化したり、扇の骨を枝に見立てて、扇面を花で埋め尽くす「花扇文」を形成してみたりと、多様に意匠化されている。さらには、扇の骨を除いた紙・地紙(じかみ)を独立させ、「地紙文」としても文様化している。そもそも地紙は、絵や文字を入れて扇面にするものだが、この扇紙の形を模様の割付とすることで、多様な姿に図案を変えることが出来る。
扇文にしろ地紙文にしろ、現代のキモノや帯の中では、よく用いられている文様。今回は檜扇文に限るが、二つの文様については、近いうちに別の稿で取り上げたいと思う。では、檜扇文をあしらった品物を見ていくことにしよう。
(金引箔地 三つ檜扇散らし文様 袋帯・紫紘)
三本の扇の要を広げると、ご覧のように丸となって、独特の文様姿になる。これを帯一面に散りばめて、華麗な姿を印象付けている。また女子が使う扇は、特に衵(あこめ)扇という名前が付いており、この帯図案にも見えるように、色とりどりの綴り糸の余りを垂らしている。なお衵とは、貴族装束の中で、表着と肌着の間で着用する衣のこと。特に女子が正装する場合、この衵を重ね着することで、色目の配色の美しさを競った。こんなところにも、襲の色目が表現されている。
模様の三つ扇は、一枚ずつ配色を変えて、織り出されている。金箔の地色と模様の金銀色とで、僅かに色の差が付いていることから、扇が浮き立つような帯姿になっている。平安王朝の優美さを帯で表現することでは、紫紘の右に出る織屋は無いだろう。図案の切り取り方、色による表現力、精緻な織姿、どれをとっても秀逸だ。
合わせたキモノは、籠目に桐模様の京友禅黒留袖(菱一) 留袖も帯も、伝統的な古典図案を使っているのに、堅苦しくはならず、むしろモダンな姿に見える。桐文の恭しさと檜扇の優美さが加わることで、バランスの取れた優美なフォーマル姿に仕上がる。
(黒地 檜扇繋ぎ文様・袋帯 紫紘)
帯幅いっぱいに二本の檜扇を重ね繋いだ、華やかな礼装用の帯。未婚の第一礼装・振袖や訪問着に合わせて使われたもの。先述したように、女子用の衵扇には胡粉と金銀で模様が描かれるが、これを踏まえて、キモノや帯の図案として檜扇を用いる時には、色鮮やかな模様が扇面にあしらわれる。
一枚は菊と瑞鳥を、もう一枚には牡丹と蝶を描く。どちらにも雲の姿が見えるが、宮中の女房たちが用いた「大翳(おおかざし)・大きな檜扇」では、扇面に源氏雲の図案が描かれており、この帯意匠でも、そのことが意識されていると思われる。翳す(かざす)とは、覆うことを意味しているが、例の大河ドラマ・光る君への中でも、紫式部役の吉高由里子さんが、檜扇で度々顔を翳す仕草をしている。
合わせたキモノは、紅白牡丹模様の加賀友禅振袖(成竹登茂男) 柔らかい桜色の裾ぼかしで、紅白の牡丹を優しくも大胆に描いた振袖は、匂い立つような華やかさがある。そこに、檜扇帯を合わせることで、フォーマル感は否応なく高まる。ここでは、帯地が黒であることがポイントで、使うことにより、ぐっと着姿が引き締まっている。
(黄梔子色暈し 雲取檜扇に橘模様 京友禅訪問着・松寿苑)
暖かな春の陽ざしを思わせるような、黄色の梔子地色の訪問着。図案には、柑橘系植物の橘と鹿の子絞りであしらわれた雲取模様、そして扇面に四季花を描いた檜扇が見える。この意匠を考えると、御所の紫宸殿に植えられていた「右近の橘」と、宮中女房の必携品である檜扇、そして扇と縁が深い雲で構成されており、いずれも平安貴族の生活と関わりの深いモチーフになっている。
橘の花と檜扇のコラボ。扇の模様には、松と菊と桜。糸目をそのまま使って骨組みを表し、上部と下部には観世水と青海波の図案を箔押ししている。橘の花には、長寿や子孫繁栄の意味があるが、華やかな檜扇を近くで舞わすと、より雅やかになる。後発の扇文は、桃山期において琳派が主題としてよく使ったが、檜扇は平安期の大和絵に多く描かれており、やはりこれは、王朝美を象徴する道具と意識されていたことが判る。
合わせた帯は、白地の菊唐草菱取文(紫紘) 訪問着の優しい橙色を着姿で生かすために、配色に橙が目立つ帯を選んでいる。図案は菊唐草で、しかも規則性のある菱文。どちらかと言えば、天平的な模様だが、王朝的な意匠のキモノと合わせても、違和感はなく、格調あるフォーマルな姿として映っている。
袋帯2点と訪問着で、どのように檜扇が表現されているかを、ご覧頂いた。袋帯に合わせたキモノが、黒留袖と振袖であることを考えても、この模様はやはり、品物の優美さを際立たせる役割を果たしていることは間違いない。王朝美を象徴する道具は、フォーマルの度合いを深める道具にもなっている。
末に広がる扇の形は、それだけで吉祥性が強く、しかも道具の持つ貴族性が、否応なく格を高める。染織の文様は、唐風から和風へと変わり、漢詩や和歌にはかな文字が使われるようになる。そして宮中では装束を始めとして、生活様式が前代から大きく変化していく。国風文化が高揚したこの時代を象徴するモチーフの一つとして、檜扇は存在していたと言えそうである。
始まったばかりの「光る君へ」ですが、今のところ、思うほど視聴率は伸びていないようです。平安という時代設定に馴染みが無いのか、あるいは文学というジャンルにインパクトがないのか、その理由は判りませんが、男女の恋愛と狭い朝廷内での複雑な人間関係を主題としているところなど、これまでの大河ドラマとは一線を画しており、なかなか面白いと私は思います。
ドラマでは時代考証により、衣装や宮中の内部の様子が再現されていますが、染織を扱う者としては、筋書きよりも、どうしてもそちらへ視点が向かってしまいます。この時代の装束にあしらわれた文様や色は、今なお、和の装いの中で表現される意匠の基ともなっており、まさにそれが「にっぽんの文様」「にっぽんの色」なのですから。
せっかく源氏物語にスポットが当っているので、このブログでも、近いうちにこれに関わる特集を組みたいと考えています。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。