バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

昭和の加賀友禅(9) 能川光陽・四季花の丸に七宝文 訪問着

2023.11 19

一般に、実物を小さくした見本や模型のことを、雛形(ひながた)と呼ぶ。これが染織世界の語句になると、「ひいながた」という呼び名に変わる。意味は実物の手本なので、「ひながた」と変わりはない。だが違うのは、これが友禅模様の見本帳、あるいは図案帳を指すことである。

ひいながたは、現代で言うところのファッションブック、あるいはデザインブックにあたる。最初に出版されたのは、江戸初期の1666(寛文6)年。それから、1820(文政3)年までの約250年間に、120冊を超える見本帳・ひいながたが出版されている。この本は、木版刷や肉筆で描かれているが、友禅が勃興した江戸期の文様において、その経緯や加飾方法の知る上で、大変貴重な資料として位置付けられる。

 

友禅染の考案者は、京都東山・知恩院の門前に居を構えていた扇絵師・宮崎友禅斎とされるが、その人物に関する記述が、当時刊行されたひいながたの中にも見える。1688(元禄元)年刊行の「都今様友禅ひいながた」では、衣装デザインをした人物が宮崎という姓の絵師であったことが記され、さらに1692(元禄5)年には、宮崎自身の手による唯一のひいながた・余情雛形(よせいひながた)が発行され、その序文に「洛東知恩院門前、扶桑扇工友禅」と、自分の署名を入れている。

元禄期に始まった友禅染だが、その意匠の中で、最も人気の高かった模様は何だったのか。ひいながたは、当時の流行の最先端を教えてくれる資料でもあるが、それによると最もポピュラーな図案とは、「花の丸」だけをあしらった「丸尽し文様」であった。

 

先頃、あるお客様から手直しのために、一枚の加賀友禅を預かった。作品は、昭和の名匠・能川光陽の手による「花の丸に七宝文・訪問着」。この品物の意匠は、まさに友禅の黎明期に流行した「丸尽し文」を踏襲したものである。そこで今日は、久しぶりに昭和に創作された加賀友禅の逸品をご紹介し、友禅の源流に触れてみたいと思う。

 

(空色地 四季花の丸に七宝文様 訪問着・能川光陽 神奈川県 T様所有)

先に紹介した「都今様友禅ひいながた」は、全四巻で構成されているが、そのうち1・2巻が小袖、3巻が帷子や浴衣などの夜具、そして4巻には、帯や風呂敷、袱紗、手拭に加えて、畳紙から扇、掛け軸、書物の表紙に至るまで、あらゆる器物のデザインを載せている。これは、単に衣装に止まらない、江戸の総合的なデザインブック。こうした体裁は、他の刊行本に例を見ない、大規模で特異なものであった。

またこの本の巻頭には、「宮崎友禅といふ人有て、絵にたくみなることいふに斗なく、古風の賤しからぬをふくみて、今様の香車なる物数奇にかなひ・・・」とあり、宮崎友禅斎の描く意匠を、伝統的な良さを残しつつも、斬新な気風と受け止めている。

 

都今様友禅ひいながた・巻一 花の丸

このひいながたに掲載された小袖のデザインを見ると、円や菱の区画の中に、草花を配したものが数多く見受けられる。その数は、1・2巻の81図中17図で、類するもの5図を含めれば、全体の四分の一が、この手の意匠構成であった。上記の「花の丸」は、その中の代表的なデザイン。

この当時、女性の日常生活に役立つ教養書として出版された「女重宝記(おんなちょうほうき)1692・元禄5年 苗村丈伯(なむらじょうはく)著」には、「都の町風も時世にうつりかはりて、時々のはやりそめも五年か八年に皆すたり(中略)友禅ぞめの丸づくし、下京染のうちだしかのこ、今見れば古めかしく初心なり。」とあり、丸尽しは、友禅を代表する文様と認識されていたことが判る。

 

考えてみれば、「花の丸」という図案は、平安・有職文様の中にも見られ、決して目新しいものではない。それが何故、「友禅の代表文様」に成り得たのか。そのヒントは、先に紹介した巻頭に記されていたように、「従来からあるものの良さを、時代の好みに合わせてアレンジしたり、構成を変えて意匠化する」ことが、友禅の本質として意識されていたことにあるのだろう。

その中で特に花の丸文は、格調高い円文様と認識され、多くの人に受け入れられる意匠であった。これを定型化した小袖のパターンの中で、どのように組合せ、また配置するかにより、友禅という技法の特色を生かしつつ、新たな意匠が考案する。つまり当時は、花の丸こそ「古くて新しいデザイン」だったのである。

さてそこで改めて、今日ご紹介する能川光陽の加賀友禅訪問着と、都今様友禅ひいながたの図案を見比べて頂こう。その図案と言い、配置と言い、かなり似通っているように見て取れる。これは「花の丸」をモチーフにした、まさに元禄時代の初期友禅を再現した意匠のようだ。それでは、こうしたことを踏まえながら、これから作品の仔細を見て行くことにしよう。

 

花の丸の図案は、着姿の中心・上前衽から身頃にかけて一つと、後身頃に二つ。さらに左前と右後袖に一つずつの計五模様。上前身頃の丸文が若干大きく、袖の丸は少し小さいあしらいになっている。また、丸文のバランスをとるように、所々に七宝文を並べている。このアクセント的な図案があることで、意匠の単純さがかなり消されている。

左前袖の花の丸文。袖付と肩付の間にまたがって、図案を描いている。また、ここにも横並びの七宝文が入っており、意匠全体の統一が図られている。丸文ごとにあしらう植物を変えているのは、江戸のひいながた図案とほぼ同じ。ここに何の花を入れ込むかで、キモノの雰囲気が違ってくる。格調の高さや季節感を表現するのも、モチーフ次第。こうしたところが、花の丸文様の汎用性と言うか、使い勝手の良さになっている。  それでは、丸文の中のあしらいを詳しく見てみよう。

 

上前身頃は、牡丹の花の丸。花の豪華さにおいては、右に出るものはない牡丹。写実表現を主とする加賀友禅では、最も良く使われる花の一つで、この作品でもメイン図案に選ばれている。

花を拡大すると、暈しの巧みさが目を惹く。大きな牡丹の花弁は、濃いピンクの牡丹色と紫系の菖蒲色とに染め分けられているが、双方ともに繊細な暈しが入り、鮮やかな中にも深みのある花姿になっている。加賀友禅の挿し色の基本・加賀五彩を忠実に使った色合い。決して挿す色の種類は多くないが、これだけインパクトのある姿になるのは、色の濃淡を上手く使っているからかと思う。

花の上に舞う蝶の色は、葉の一部に挿した色と同じ黄土色。このように、模様間で色をリンクさせると、スムーズな仕上がりになる。

 

後身頃の一つは、菊の花の丸。春秋花を揃えて作る意匠の中では、秋の代表花として用いられることが多い。丸文の中には、枝を絡めた小菊がきちんと収まり、その優しい色合いから可愛い図案になっている。

赤や薄ピンクの花と並んで、少し抑えた水色の花弁が見える。この色が入ることで、図案はかなり引き締まる。そして、葉の挿し色や暈し方が一枚ずつ異なり、模様に奥行きが生まれている。美しい友禅の条件として、模様の中で、どの位置の花にどの色を挿すか、その配色センスとバランスの良さが求められる。

 

もう一つの後身頃丸文は、笹の花の丸。笹(竹)の枝はしなうので、丸く描くにはうってつけ。吉祥文の代表格・松竹梅文を構成する一員であり、フォーマルモノの意匠に使われることも多い。枝に当たる竹、葉に当たる笹は、各々揃って、あるいは時に単独でと、多彩に表現される。

笹の挿し色の中でポイントになるのは、紅色と黄色。この紅葉した葉があることで、図案は明るくなり、華やかさが生まれる。寒色の中に、ほんの僅かでも明度のある暖色が挿し入れてあると、意匠全体の印象が変わってくる。このキモノの地色が優しい空色だけに、こうしたメリハリのある色の変化は、なお効果的。

 

身頃に五か所、袖に二か所あしらわれている七宝文。文様は、横長に羅列されている。こうした有職文が、写実的な加賀友禅の中で、間仕切りのように描かれるのは珍しい。だが、もしこの訪問着に、七宝文のあしらいが無かったとすれば、地が空きすぎて、バランスのとれない意匠になったかも知れない。そこを見極めたからこそ、作者は間に、この文様を挟んだのだろう。元をただせば、花の丸も七宝も有職文であるから、何となく合点がいく。但し能川氏が、そこを考えられたのかは判らないが。

 

花の丸加賀友禅の前姿。この訪問着の意匠からも判るように、作者の能川光陽は、模様における空間の使い方に秀でた作家として、高く評価されていた。

能川光陽氏は、1900(明治33)年の生まれ。そして没したのが96歳、1996(平成8)年である。明治・大正・昭和・平成と四つの時代を生き、加賀友禅作家として、最も長く活躍した人物である。

師事した人物は、日本画家の岡本光谿だが、岡本の師匠は、江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子に当たる山本泰堂の長男・山本光一である。山本は、明治初年に設立された日本の美術品を海外へ輸出する会社・起立工商会社の中心人物で、後に金沢へ居を移して、多くの日本画家を育てたが、岡本もその一人であった。能川は岡本の下で実力を磨き、1940(昭和15)年に執り行われた紀元2600年の奉祝美術展で、初入選を果たす。すでに戦前に才能が認められていた能川は、1978(昭和53)年に加賀染振興会が設立されると、談議所栄二・成竹登茂男・毎田仁郎・梶山伸・初代由水十久・水野博・矢田博と共に、技術保存会会員となった。

明治・大正生まれの加賀友禅作家は、能川に限らず、日本画家に師事する人物が多かった。中でも毎田仁郎は、木村雨山の弟子であるが、同時に山本光一の弟子・下村光鳳にも学んでいる。能川の師匠・岡本光谿と下村光鳳は同じ山本光一の門下生。どちらも名前に「光」が入っているのは、師の山本光一から「光」の一字を頂いたもので、その関係で、孫弟子に当たる能川の名前に「光」が入っている。

そして話は少し逸れるが、酒井抱一の師匠は、あの琳派の総帥・尾形光琳。光の系譜は、尾形から酒井、山本、岡本、下村、そして能川光陽へと繋がっている。こうして作家の系譜を辿ると、次々に興味深いことが現れて、実に面白い。

 

今日は、友禅が生まれた元禄期に流行した「花の丸文様」を、そのまま意匠とした加賀友禅をご紹介した。空間使いの名手・能川光陽氏の作品には、他の作家には真似のできない、絶妙な模様配置が見られ、そこに加賀友禅のお手本ともいえるような、色挿し、糸目引きの技を施す。

能川光陽の落款は、光の字をデザインしたもの。やはり自分の名前の中で、光の字は特別な存在と意識されているのだろう。ここにも、「光の系譜」が伺える。

あくまで私の推測だが、おそらく能川氏には、友禅初期に流行した「花の丸」への意識があり、この意匠を考えたのではないか。それほどこの訪問着の図案は、「ひいながた」に似ている。過去の模様を研究し、それを基にしてオリジナルの図案を描く。巨匠と呼ばれた作家たちの特徴は、「温故知新」を作品の中で具現していることだ。江戸の花の丸の流行は、8年ほどで終わり、人々の関心は新たなデザインに移っていく。元禄という時代に、丸文がもてはやされた理由は、そもそも友禅の発端が扇絵のあしらいであったから。描く範囲の狭い扇だからこそ、「区画の中に文様を入れること」を考えたのだ。そしてこの図案が小袖だけではなく、様々な器物のデザインとして使ったことで、市中の流行が始まったのであろう。

最後は、訳の判らぬバイク呉服屋の考察になってしまったが、皆様には単純に、巨匠の描く加賀友禅の作品を楽しんで頂けたのならば、それで十分である。またいつか機会があれば、昭和の作品をご紹介したい。

 

現代の染織品・キモノや帯にあしらわれる意匠には、かなりデザイン化されているものも、少なくありません。しかしその図案のほとんどに、基礎となる古典図案やモチーフが潜んでいます。オリジナルではあるが、その内実は、従来からあるものを、作り手の感性に従い、そして時代のニーズに合わせて、アレンジしたり構成を変えたものと言えましょう。

こうした意匠や文様が生み出される背景は、友禅が生まれた江戸・元禄期と現代とで、ほとんど変わることがありません。衣装におけるデザインや色は、今も昔もめまぐるしく流行が変化しますが、結局は、作り手やデザイナーの立ち位置は同じなのです。だからこそ、和装フォーマルに特別感や重厚さが生まれる訳ですね。時代を築いた友禅作家の品物からは、そんな意匠の深淵を覗くことが出来るように思います。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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