バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

無常といふこと(前編)  丘の上の残滓  尺別炭鉱アパート 

2022.12 13

本当に悲しいことだが、突発的な災害や事件、事故によって、生活の場を奪われたり、故郷を追われたりする人々の姿を目にすることが、多々ある。最近では、東日本大震災の津波によって引き起こされた福島第一原発の事故により、政府から居住地を、立ち入り禁止区域として指定された自治体の住民がそれに当たる。

憲法第22条には、何人も公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有すると定められている。この中の居住移転の自由とは、自分の欲する所を住所や居所と定められ、自由に移転出来ることを示している。それは裏を返せば、自己の意思に反して、居住地を移されることが無いことを意味する。

しかしながら現実には、「住めなくなってしまった場所」がこの国には存在する。もちろん居住地を離れることは、自己の意思ではない。こうした理不尽なことが起こる原因を遥かに辿ると、政府・国家が描いてきた政策に起因していることが多い。元を正せば原発事故も、戦後に始まった政府の原子力推進政策が原点であり、自然災害に対する想定の甘さが事故を招いた。結果として、安全神話はあっけなく崩壊し、原発立地自治体の住民に「塗炭の苦しみ」を与えることになってしまったのである。

 

国のエネルギー政策によって、無辜の人々の暮らしを根こそぎ奪ってしまう事例は、原発事故以前にもあった。それは、石炭から石油へとエネルギー源が転換された60年代~70年代にかけて、日本の産炭地全てにおいて見られた悲劇。突然閉山が告げられると、人々は生活の糧を失うだけでなく、居住している土地からも出て行かざるを得ない。それは、炭鉱マンとその家族にとっては、炭鉱(ヤマ)の盛衰こそが、自分たちの生活すべての命運を握っていることを、意味していたからである。

北海道には、閉山から短期間で人口が流失し、瞬く間に地域社会が崩壊してしまった場所が、あちこちにある。そのほとんどは、半世紀余りが過ぎて人の痕跡は完全に消え、自然に還っている。だがその中にほんの微かだが、営みの残滓を見せる場所がある。

ライフワークとして、私が毎年歩く北海道。今秋に訪ねたのは、産業の喪失、あるいは公共事業(ダム建設等)に伴い、人々が転出を余儀なくされ、放棄された場所。どのような経緯で、地域が崩壊したのか。その背景を探りつつ、訪ね歩いてきた。そこで今日は、毎年12月の稿として恒例になっている旅ブログとして、ある炭鉱のことを書く。タイトルは、世の中の一切のことが流転し永遠では無いという意味で、「無常といふこと」としてみた。これは、難解な論説作家として知られる小林秀雄の評論本と同じ表題。我々が受験生だった頃、大学入試問題として頻繁に取り上げられ、その難解さに大変苦労させられた記憶があり、思わず同じタイトルを付けてしまった。

今日の内容は、本業の呉服に関わることでは無い。勝手をして申し訳なく思うが、関心の無い方はどうか読み飛ばして頂きたい。では、始めることにしよう。

 

半世紀の時を超え、朽ちながらもまだ、丘の上に屹立する二棟の尺別炭鉱アパート。

今回訪ねた尺別炭鉱は、旧音別町(現在は釧路市)にある。町の南部は太平洋に面し、東西に根室本線と国道38号が通っている。釧路から45K西で、帯広からは75K東に位置する。以前は釧路支庁白糠郡に属していたが、2005(平成17)年に釧路市と合併。間には白糠町を挟んでいるので、釧路市の飛び地になっている。

尺別は、旧町役場があった音別から4Kほど西で、炭鉱があった場所は海沿いの旧尺別駅から、11Kほど北。白糠丘陵を流れる尺別川の上流に、1918(大正7)年に開坑され、三年後に採炭を開始した。なお尺別(しゃくべつ)という地名は、蝦夷語地名解によれば、アイヌ語のシャクベツ(夏の川)か、サッぺッ(涸れた川)に由来しているとされている。地名は江戸期から見えるが、入植が本格化したのは、尺別原野の払い下げが始まった明治30年代からで、炭鉱が開かれると同時に数多くの坑夫が流入して、市街地が形成された。

 

周辺の略地図と国鉄路線図に見る尺別の位置。路線図は40年も前のものなので、尺別と隣の直別に駅の標示があるが、現在この両駅は廃止されて信号場になっている。炭鉱は、旧尺別駅を出発点とする道道361号の先にある。そこでまずは、起点となる旧尺別駅に向かい、駅の現状や付近の様子を探ることにした。

 

現在の旧尺別駅。2019(平成31)年の3月に営業を終え、乗降出来なくなった。開業は1919(大正8)年で、当初は尺別炭鉱の運炭線貨物駅として設置され、後に旅客扱いも始まった。尺別炭鉱は当初、北日本鉱業という会社が経営していたが、昭和に入って雄別炭鉱鉄道に買収された。炭鉱鉄道の駅は、尺別駅に隣接していたが、客扱いは数百メートル離れた社尺別という別名駅で、乗り換えは不自由だった。

たった3年で、すっかり草生してしまったホーム。駅舎は残っているが、線路もホームも草に占領されつつある。尺別駅は上り・下り双方にホームがあったので、現在信号場として列車の行き違いに使われている。炭鉱が健在だった頃は、石炭運搬用の貨物線や貨車の引き込み線があり、転車台も設置されていた。閉山前、尺別駅の一日の利用客は二千人を越えていたが、この駅の様子からは、半世紀前の賑わいがにわかに信じ難い。

これは、4年前に尺別を訪ねた時の画像。まだ駅として存在していたものの、調査によれば、この時の利用客は一日一人以下で、すでに駅の役割を果たしていなかった。駅には上下ホームを繋ぐ跨線橋があり、この画像も橋の上から写した。この時はまだ、駅舎もホームもきちんと整備されているが、現在と比較するとその変貌ぶりがよく判る。

 

尺別の駅前通り。数軒の家が建っているが、ほとんどが廃屋で後は原野が広がるばかり。現在尺別地区の住民は17世帯59人だが、駅周辺の居住者は数えるほどで、少し離れたところにある牧場を経営する人たちが、この地区の主な住人と思われる。

住人が出て行ってから、かなり時間が経過したと思われる廃屋。トタン屋根の色は剥げ、柱は傷んで、今にも崩れてしまいそうな状態。炭鉱の最盛期には、この辺りに国鉄の官舎や簡易郵便局があり、旅館や食料品店、パチンコ店なども軒を並べて賑わっていた。鉄道は石炭の運搬だけでなく、炭鉱で働く人々にとって欠かせない生活の足。ヤマが活況を呈すれば住民は増え、自ずと生活に関わる様々な商売が成り立ってくる。しかしヤマが無くなれば住民はいなくなり、付随してそこに関わる人々も消えてしまう。尺別駅周辺の荒廃は、そのことを教えてくれる。

駅や何軒かの廃屋を見ただけで、すでにかなり気が重くなっているが、これから道道361号を北上して、炭鉱跡へ向かうことにする。炭鉱鉄道の線路は、おおよそこの道に沿っていたので、道なりに行けば自然と炭鉱に辿り着く。

 

駅から炭鉱まで10Kあまり。道沿いに数軒の牧場を見ながら、山へと向かって進んでいく。すると突然、道の両脇に不思議なコンクリートの建造物が現れる。これは、炭鉱鉄道のアンダーパスの名残で、この道の上には線路が敷かれていた。しかも左右には歩道があり、線路の下を通り抜けられるように作られている。いかに大勢の人が、ここを通っていたのかが判る。

歩道には階段が付いていて、人々はここを登って鉄路下のトンネルを通った。この辺りから、二軒長屋の炭鉱住宅が並び始め、当時はこの道が炭鉱街のメインストリートになっていた。

さらに百メートルほど歩くと、道の右手に大きな建物が現れる。これは炭鉱の厚生施設で、尺別生活館という名前で使われていた。窓ガラスは割れて、屋根もかなり傷んでいるが、まだきちんと建っている。この建物の裏に、沿線で一番賑わいを見せていた新尺別の駅があった。閉山前、4000人もの人々がここで暮らしていた。

建物の裏側に回り、駅跡と思われるところへ行ってみる。すると何かの残骸のようなコンクリートが見える。これは、機関車の給水施設の跡。確かに、ここに駅が存在していた証だが、ホームらしきものは何も残っておらず、ただ雑草が繁るばかり。半世紀も経っていれば、当然であろう。

そして道の左側にも、何やら建物が見える。画像で原野になっているところも、かつて炭鉱住宅がずらりと並んでいた。この先の坑口近くには平地が無いので、3Kほど手前にあるこの新尺別駅周辺に、住宅が集中していた。なお、閉山当時の新尺別地区における正確な戸数は1019戸で、人口は3456人。人々は狭い場所で、寄り添うように暮らしていたことが、この数字から見えてくる。

建物に近づいて見ると、危険物給油取扱所の銘板が柱に掲げられている。ここは、「尺別給油所」という名前のガソリンスタンドだったのだ。この辺りは緑町という町名で、このスタンド近辺が一区、先ほど通ったアンダーパス周辺が二区であった。

 

かつての炭住街・新尺別を過ぎると、急に山が深くなる。この先3Kのところに抗口があり、数多くの炭鉱施設があった。木々は紅葉で美しいが、ヒグマが頻繁に出没している場所。ここからは心して、歩かねばならない。

かつてこの辺りに、旭町と言う駅があった。道の傍らには尺別川が蛇行して流れていて、この先幾つもの橋を渡り、坑口へとたどり着く。鉄道終点の尺別炭山駅までは、あと1.4K。

道の左側には、鉄道の橋の遺構が見える。残っているのは、築堤とコンクリート製の橋台だけ。ここまで来ると、尺別川の川幅はかなり狭くなっている。

道はダートとなり、かなりぬかるんできた。川は、森の中を縫うように流れている。

この先には、炭山駅や炭鉱施設の遺構があり、山を越えて浦幌炭鉱へと続いていた「尺浦通洞」の入口もあるのだが、ヒグマの恐怖もあって、今回は一人で歩いて確かめに行く勇気が出ない。そのため、ここで引き返すことにする。もとより尺別を訪ねた理由は、炭鉱廃墟をくまなく探索するのが目的ではない。ここに暮らした人々の生きた証を探り、突然の閉山にどのように向き合ったのか、その心情を慮るのが目的である。そんな思いを巡らすことに、相応しい遺構が他にあるので、そちらに移動することにする。

 

来た道を引き返し、新尺別の集落の入口にあったアンダーパスのところまで戻る。そこには、原野の中を通って森へと向かう、一筋の道がある。その昔緑町二区と呼ばれたこの地区にも、炭住長屋がずらりと並んでいたが、この道の先には丘があって、栄町と呼ばれた地区があった。そこには炭住と共に、何棟かの炭鉱アパートが建っていたのだが、そのうちの二棟が往時の姿を今に留めている。それは、建物の痕跡をほとんど残さないこの地にあって、唯一の歴史の証人である。

上の画像の、丘へ登る道に掛かる橋から見た、尺別川。尺別で暮らした人々は、この川のことを黒川と呼んでいた。何故かと言えば、上流にあった選炭場では、採掘された石炭を常時洗っており、その石炭の黒い粉が川に流れ込んで、川の水を黒くしていたからである。川は、閉山とともに澄んだ水の色に変わり、今はその影も見えない。

車一台がようやく通れそうなでこぼこ道は、途中から勾配がきつい急坂になる。住宅街を結ぶ道として、毎日多くの人が行き交ったと思われるが、今それは全て幻となった。

坂を上り終わると、急に前が開けて、そこには緑鮮やかな牧草地が広がっている。これまで、何処を歩いても澱んだ空気に支配されていた炭鉱街とは思えない、清々しさ。この丘の一帯も住宅が立ち並んでいたはずだが、全て撤去され、その後は牧草地として跡地利用されている。

牧草地を進んでいくと、草地に埋もれるように立ち尽くす、二棟のアパートが見えてくる。手前の棟の壁は白で、向こう側は茶色。どちらも樹木に覆われて、自然と同化している。

 

手前の白壁アパート。二階建ての一階部分は、半分ほど草に浸食され、屋上は背の高い樹木が何本も生えて、空に向かって枝を伸ばしている。そしてその一部が窓辺を覆うが、草地の緑とは対照的に、黄色く色づいている姿が印象的。

奥に見える壁が茶色のアパートは、モルタルが剥がれて、下に積み上げたレンガが露わになっている。こちらの屋上の方が、凄いことになっていて、端に見える二本のエゾマツの木は、天に向かて高くそびえ立つ。

尺別炭鉱が閉山したのは、1970(昭和45)年2月27日。操業停止後、ひと月ほどで人々の転出が始まる。それまでは、生活に欠かせない水道や電気は会社が負担し、街にあった浴場も石炭蒸気で沸かした湯がふんだんに使えた。しかし操業が止まったことで、ライフラインの維持が覚束なくなり、生活の基盤は日ごとに失われていく。仕事を失った人々は、否応なくこの地域を捨てて出ていく他は、なくなってしまったのだ。

4月に鉄道が廃止となり、5月末には炭鉱病院が閉鎖、さらには郵便局や派出所も無くなった。そして炭鉱施設や住宅の取り壊しが始まる。施設に残る鉄材や電線、高圧線などは解体撤収され、木造炭住は廃材に変わり果てて、運ばれていった。

尺別炭鉱には幼稚園と小・中学校があったが、そのうち中学校の在籍人数を見ると、閉山が決まった最終年度・昭和45年4月には、新入生を含めて6学級230人だったものが、5月1日には64人、そして閉校した7月20日には、僅か26人を残すのみ。当時勤務していた教頭先生は、「戦争でもないのに、これほど急速に変貌、崩壊する地域社会があるだろうか」と呻くような声を上げた。尺別という地域が、炭鉱集落以外に何もないという「集落の地勢的な特殊性」を持っていたために、このような激変を招いたのである。

 

素通しになった窓の向こうに、反対側の山の樹木が映る。外から見える内部の白壁は、所々ひび割れているが、あまり欠落してはいない。私はいくら廃墟でも、内部に足を踏み込んで生活の現場を直接見ることは、あまり好まない。中には、取るものも取らず、逃げ出すように出て行ったために、様々な生活用品を残すこともあるが、そんな事情が判るだけに、なおのこと土足で室内に足を踏み入れることは、したくない。

黄色い実をつけた枝が、煙突のある屋上から、壁を伝って地面にまで広がる。このように建物と樹木が、自然な姿で一体化する光景は、なかなか見られるものでは無い。人工的に手を付けず、自然のあるがままに放置されたことで、こんな特異な姿が生まれた。

半世紀もの間、誰も訪れないままに、静かに時を過ごしてきた。この朽ちた二棟のアパートだけが、黒ダイヤと共に生きた尺別のことを、まだ覚えている。じっと佇んでいると、そんな声が私の耳に、ふと聞こえてくるような気がした。

日本における戦後のエネルギー革命は急速に進み、石炭産業の凋落は目を覆うばかりであった。1955年~2002年まで、日本国内で大小928もの炭鉱が閉山し、20万人もの炭鉱労働者が失職する。現在、国内における石炭採掘会社は、釧路市にある釧路コールマイン(旧太平洋炭鉱)一社のみ。

政府は、50年代後半から石炭産業の合理化に着手する。それは、立坑開発を促進し重装備化を進めることで産業を合理化する「ビルド」と、生産能率の上がらない炭鉱を政府が買い上げて整理する「スクラップ」を合わせた、「スクラップアンドビルド政策」の実施であった。これにより、規模の小さな炭鉱はかなり閉山に追い込まれたが、後に海外から安価な石炭が入ってきたことで、ビルド鉱として生き残った炭鉱の経営も、その後悪化の一途を辿った。

そこで政府は、1969(昭和44)年に政策を転換し、企業ぐるみで閉山する会社に「閉山特別交付金」を用意することを決める。これはヤマを所有している企業の財産権を保障するもので、閉山することに対する金銭補償であった。苦境にあえいでいた企業にとって、これはまさに「渡りに舟」の政策であり、これで命脈が尽きた炭鉱が多かった。尺別もその一つで、経営会社の雄別炭鉱は、釧路地区で採掘していた雄別・尺別・上茶路の三つのヤマを同時に閉山する「企業ぐるみ閉山」を実施したのだった。尺別炭鉱が幕を閉じた背景には、こうした理由があったのである。

 

なだらかな丘の斜面に、埋もれるように並んで残る二棟の尺別炭鉱アパート。秋の澄んだ空と、背後に迫る山々、そしてなだらかな緑の丘が、朽ちていく姿を美しく彩る。「滅びの美」というものがあるとすれば、こんな姿なのだろうか。

この丘に来るまでは、雲に覆われていた空なのに、一気に晴れ上がった。アパートの影が、緑の丘に映る。遅い秋の午後の長い時間を、尺別の静かな空の下で過ごした。雪の季節に、もう一度会いに来ようと思っている。

 

突然仕事を失い、住むところも無くなる。これは、普通に生活を送っている人からすれば、想像も付かないこと。先の見えない中で、どのように苦難を乗り越えれば良いのか。誰にも判らない。けれども、ここに止まることが出来ないとすれば、新しい仕事、新たな土地での生活に、向かう以外には無い。

半世紀前、人の息遣いで溢れていた尺別。全ては消え去ったが、人々は閉山の苦しみの中から立ち上がった。世は万物流転、とどまることは決してない。そんな無常観を抱きつつも、前向きな生き方を失うことは、なかったのではないだろうか。アパートの傍らで、そんな思いにかられながら、丘を後にした。

 

人々の営みが消えることは、突発的な事故や事象に限ったことではありません。いきなり全てが消失するようなことはないでしょうが、いつか知らぬ間に、人や店がなくなることはよくあります。限界集落やシャッター商店街など、ミニ廃墟と化している場所は、日本のどこにでも見られる風景で、これからも増え続けることでしょう。

そして、少子化とか都市一極集中など、かなり前から問題視されてきたことは、もう何をどのように模索したところで、解決出来ないと思います。世の中の流れは、一度傾いたら戻らない。朽ち傾き始めたら、復活はまずありません。唐突にはなりますが、和装の形骸化だって同じことで、呉服屋の商いも、この先何を講じようが難しいですね。

 

(尺別炭鉱アパートへの行き方)

JR尺別駅は乗降出来ないので、最寄り駅は根室本線・音別駅になります。但しこの駅から、尺別方面に向かう公共交通は何もありません。

音別駅ー旧尺別駅は3.8K 旧尺別駅ー旧新尺別駅は8.1K 音別から約12K、徒歩約2時間半(往復24K・5時間) 炭鉱アパートは、新尺別駅から歩いて1Kほどです。普通の方は、釧路か帯広から、レンタカーを借りて訪ねるのが良いでしょう。

 

尺別の丘に屹立する、二棟の炭鉱アパート。半世紀後、この国のそこここに、こんな遺構が出来ていないことを祈りつつ、今回の長い旅ブログの稿を、終えることにします。次回、この稿の後編では、ダム建設で水底に沈んだ開拓地のことを書く予定です。今日ここまで読んで頂いた方、長い話にお付き合いを頂き、心から感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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