夏の呉服屋の店先には、様々な素材の品物が揃っている。浴衣の木綿、小千谷縮の麻を始めとするカジュアルモノには、綿麻、綿絹、麻絹など、異なる素材が混じり合う・混紡の品物も多い。そして木綿と一口に言っても、綿絽や綿紬、コーマなどに分れ、各々織り方や使用する糸の番手を違えている。中にはアイスコットンのように、特殊な撚糸技術で生まれた綿糸と麻糸を組み合せて、涼感溢れる着心地を醸し出すものもある。
さらに、絹素材の絽・紗・羅は何れも、捩った経糸を緯糸に打ち込んで織ることで、生地表面に独特の隙間を生み出している。しかもそれは、各々で異なる織技法が生地姿にも反映され、質感も風の通り方も違っている。夏モノは「薄物」と一括りにされるが、生地の面白さ・多彩さは冬モノの比ではなく、価格もバラエティに富んでいる。
まず最初に浴衣、次に小千谷縮や紅梅などを誂えて、夏のキモノ姿を堪能する。それが本格的な和装の嗜みに繋がったという方は、案外多い。気軽に装える薄物は、和装への出発点にもなりやすいのであろう。だから専門店とすれば、夏に訪れるお客様の興味を惹くことが大切で、そのためには、様々な品物を揃えておく必要がある。私は、夏の商いにこそ、その店の専門性が如実に表れるのではないかと思っている。
さてそこで今日は、そんな夏の品物の中から、希少な綿絣をご紹介してみよう。かつて木綿のキモノは、庶民にとって一番身近な素材であり、誰もが毎日のように手を通していたもの。後染の綿キモノには浴衣や小紋中形があり、先染めの綿キモノは、縞や格子の他に、多彩な図案を表現した絣モノがある。この綿絣は、製織されている場所ごとに素材や染料に違いがあり、描き出される図案にも各々特徴がある。
今回取りあげる琉球綿絣と薩摩絣は、綿絣としては一番古く、絣模様のルーツと位置付けられる品物。元々は琉球で織られていた絣が、薩摩藩の琉球侵略によって、貢租として藩に献上されるようになり、その技術も薩摩に伝播した。ということなので、二つの絣は「ほぼ同じ」と考えても良さそうである。では双方の絣が、今も当時と同じ織姿を見せているのか。それとも変容した織物となっているのか。先頃あるお客様から、双方の綿絣を同時に預かる機会を得たので、その品物を画像でご覧頂きながら、違いを説明することにしたい。
(左 トゥイグァー模様・琉球綿絣 右 梅花連ね模様・薩摩絣)
平安時代初期の歴史書・日本後記には、8世紀末の799(延暦18)年に、崑崙(こんろん・インド)人の青年が三河(愛知県)の海岸に漂着し、綿の種が持ち込んだと記述されている。これを契機に日本の綿栽培が始まり、弘仁年間(820年頃)には一定の収穫があったとされるが、鎌倉期に入る頃には、消滅してしまう。当時の公卿で歌人の衣笠家良(きぬがさいえよし)は、「敷島の やまとにはあらぬ唐人の 植えてし綿の種は絶えにき」と、根付かない綿栽培のことを歌に詠んでいる。
その後、16世紀中期に始まった南蛮貿易で、更紗や縞の綿織物がもたらされ、秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)の際には、兵士が綿種を持ち帰った。これにより再び綿栽培が始まり、17世紀終わり頃には、綿織物の産地化も進んだ。初期の生産地は、三河(愛知)・大和(奈良)・河内(大阪)・真岡(栃木)などで、18世紀になると、播州(兵庫)や松阪(三重)で縞木綿を織り始めた。
本土の綿絣は、琉球絣を模した薩摩絣が、元文年間(1736~41)に織り始められたのが最初で、久留米絣が18世紀末の寛政年間に、伊予絣が19世紀初頭の享和年間に、そして備後絣は中期の文久年間にと、それぞれ製織が始まった。糸の染原料は総じて藍で、それを紺絣や白絣、縞、格子などにあしらう。それは日常着だけでなく、働く時の野良着や夜具にも使われ、庶民の日常生活には欠かせないものになった。
それまで普段着の素材は麻が中心だったが、気候の影響を受けやすく、多くの肥料も必要とする難しい綿栽培が、農業技術の進歩によって全国各地に普及したことで、庶民の衣料そのものが大きく変わった。綿は麻に比べて糸に紡ぎやすく、染料にも染まりやすい。その上、軽くて肌触りも良いとなれば、もてはやされても当然で、それまでゴワゴワした布しか身に付けられなかった庶民にとっては、木綿は夢のような布であり、綿織物の誕生が「衣服革命」をもたらしたと言っても、決して大げさではない。
そして綿の生産が高まると時を同じくして、藍染めも普及する。江戸中期の18世紀頃までには、日本の至る所に藍染めを業とする紺屋が出現し、時には近隣の農家の主婦が、自分で織る布の糸を染めるためにやってくることもあった。藍で染めると布は丈夫になって、防虫効果もある。まさに野良で着る服としては最適だったのだ。
こうして素材の木綿、染料の藍が普及したことで、絣の道が広がっていくが、そのルーツとなったのが琉球絣であり、そこから波及したのが薩摩絣であった。ではどのような絣なのか、品物各々を見て行くことにしよう。
木綿 手織琉球紺絣 トゥィグァー(鳥) カー・ヌ・ティカー(井戸枠)模様
最近では、琉球絣と言えば絹モノがほとんどだが、原点は木綿。綿の織数が極端に少ないだけに、こうした手織絣は貴重品。琉球に絣が伝来したのは14世紀とされるが、その起源については不明確で、シャム国からの贈答品の中に絣布があったとか、ジャワやスマトラなど南方諸島と行き来する船員が、現地で絣の技術を習得して持ち込んだなどと言われている。ただ、1372(明の太祖・洪武5)年、芭蕉布に絣模様を織り込んだ記録が残っており、ほぼこの時代から、琉球で絣を織っていたとみて間違いない。
かつての琉球絣は、通常の藍染めに使う蓼藍(たであい)ではなく、泥藍(どろあい)を使って糸染めをしていた。蓼藍は、莚を被せた藍葉に水を注ぎ、これを混ぜ合わせて発酵させる「蒅(すくも)」が原料だが、泥藍は、古来から琉球の山野に生育する藍(山藍・琉球藍)を水槽に入れて発酵させた液に、藍の残滓を除いて石灰を加え、泥状になった藍の沈殿物を原料とする。この泥藍で糸染めして、紺地に白い絣模様(紺絣)と白地に紺の絣模様(白絣)が織られた。だが最近は、手間のかかる本藍染に依らず、化学染料を使うことも多くなった。
この綿絣の図案はどれも、お馴染みのものばかり。ツバメのような鳥・トゥィグァーや、四角に口を開けた井戸の枠・カー・ヌ・ティカー、小さな丸を四つ十字に並べた・銭玉・ジンダマなどが見える。
南方諸島や明などから伝播した絣だが、琉球で考案された図案は、生活の中に溶け込んだ道具や気象に関わる事象からヒントを得たものばかりで、そこからは、琉球の人々の美的感覚に溢れた独創性を伺うことが出来る。目に映る文物をデザイン化して、絣として織り込む。この絣柄は後に、日本全国の織物産地に広がることになる。
琉球絣は、貢納布(こうのうふ)の役割を担っていたために、首里王府の御用絵師が作ったデザイン帳・御絵図帳の中の600種の図案から織り出す絣模様が選ばれ、各々の織場に発注されていた。これは琉球本島で織る絣だけでなく、久米島や八重山諸島の絣も同様だった。
以前扱った久米島紬の絣模様 トゥイグァー(鳥)やミディ・フム(水雲)、カー・ヌ・ティカー(井戸枠)など、この琉球綿絣とほぼ共通の図案。現在織られている沖縄の絣は、どれも基本的には、御絵図帳の中にある図案をモチーフにしている。そのため織姿はほぼ変わらず、図案も技法も忠実に受け継がれていると理解出来る。
誂え終わった木綿の琉球絣。絣は小絣の部類に入り、四つの図案の連続柄。少し遠目からも、ユニークな絣の姿がキモノの表情となって、浮き上がっている。琉球の風土に根付いた綿絣は、やはり絣のルーツに相応しい織姿を、今に留めている。素朴で美しく、着用すると体に馴染んで動きやすい。これは、「用の美」を体現した衣装と言えよう。
木綿 薩摩十字絣 本藍染 梅花連ね模様・都城 東郷織物
琉球の絣が本土に伝播する契機は、1609(慶長14)年に始まった、薩摩藩の琉球侵略。結果として琉球は薩摩の支配下に置かれ、厳しい税を課せられることになる。年貢米7千石を始めとして、布類は、芭蕉布3千反、琉球上布6千反、その他の下布は(木綿類)1万反に及ぶ。この重税・貢納布を納めるために、15歳から50歳までのほとんどの沖縄の女性が、機織仕事を強制されたと言われている。
そして納められた琉球絣は、薩摩絣と名前を変えて、薩摩藩の特産品として江戸や大阪で流通することになる。それは藩の財政を豊かにする、有力な製品となったのだ。そして品物とともに絣の技術も伝わるところとなり、江戸の元文年間(1740年頃)には、薩摩でも製織が始まる。この綿絣は、藍染紺地に白い絣模様を「紺薩摩」、白地に紺絣を「白薩摩」と名付けて、各地へ売り出されていった。
なお蛇足になるが、特に上布は琉球の貢納布の中で価値が高く、江戸では高く取引されていた。江戸後期の代表的な類書(百科事典)・守貞謾稿(もりさだまんこう)には、上布一反を3~7両で売っていた記述がある。天保小判の金の含有量は約6グラムなので、今の金相場・グラム8000円余りと考えると、一両で約5万円。つまり上布一反は、今の貨幣に換算して、15~35万になる。現在、八重山や宮古で僅かに織られている上布は、この10倍もの値段が付いているが、江戸の頃でも、上布は十分に高価な織物だったことが判る。
一見すると、本場大島紬と見間違うような織姿。それもそのはずで、現在の薩摩絣は、大島の絣技術を木綿生地に応用したものである。この木綿版・大島紬は、終戦後の1947(昭和22)年、宮崎県都城市で工房を開設した、東郷治秋と永江明夫によって生み出された。これは、琉球由来の木綿薩摩絣とは、生地の質感やあしらわれる図案で全く異なる。
使う綿糸は80番手と細いために、織り上がった品物はしなやか。その昔、この薩摩絣を着用した白樺派の作家・武者小路実篤が、絣の出来を「誠実無比」と称したが、それほど精緻な姿に仕上がっており、また着心地も飛び抜けて良かったと思われる。綿糸は絹よりすべりが悪く、その上細番手の糸を使うことから、切れやすく縮みやすい。綿糸特有の難点を特殊な織技術で克服し、繊細で質の良い着心地をもたらす「薩摩絣」が生まれたのである。
図案を拡大すると、あしらわれている十字絣の姿が浮かび上がる。下の画像は、この薩摩絣と構図が良く似ている本場大島紬の絣姿。生地に触れないと木綿か絹かわからないが、大島の方に若干光沢がある。
白泥染め大島 カタス絣 梅連ね模様・恵織物(廣田紬扱い)
泥染め多色大島 一元絣 光琳椿連ね模様・恵織物(菱一止め柄)
梅や椿を生地全体に連ねた類似図案と比較すれば、現在薩摩絣として流通している品物のルーツが、大島紬だとはっきり理解出来る。それは琉球絣をルーツに持つ以前の薩摩絣よりも、施された絣の技術は高く、大変上質で洗練された品物と言えるだろう。
上の画像は、みじん格子模様の「綿さつま」。もちろんこれも東郷織物で製織されているが、絣作り、絣合わせの必要がない動力の機械織なので、手織の薩摩絣に比べれば廉価。ただ、細い木綿糸を使用していることは変わらないので、綿の風合は同じように楽しめる。質の良い木綿キモノの着心地を試すには、最適かと思う。
解いて洗張りをした後、誂え直されて仕上がった木綿の薩摩絣。こうした十字絣や亀甲絣を用いた木綿版大島・薩摩絣の製織数は、大変手の掛かる品物だけに極端に少ない。価格は、絹糸を使う本場大島紬より高い。だがその希少性もあって、キモノマニア垂涎の品物になっている。
今日は、普段あまり見かけることのない綿絣・琉球絣と薩摩絣について、お話してみた。木綿は広くカジュアル着として普及し、誰もが気軽に手を通すことが出来る素材である。だが、あしらわれている絣模様には、そのルーツとなる土地の風土や芸術的センスが隠されており、興味は尽きない。最後にもう一度、二つの木綿絣の画像をご覧頂いて、稿を終えることにしよう。
かつてどこの町にも、一軒や二軒は「紺屋」がありました。紺屋・こうやは、始め藍を使って布を染めることを業としていましたが、後に染物ばかりでなく、洗張りや補正などの手直し全般を請け負う悉皆屋となり、キモノや帯に関わるこまごまとした仕事を、一手に引き受けるようになりました。
「紺屋の明後日」とは、紺屋に頼んだ品物を督促すると、必ず明後日には仕上がると返答されるが、出来たためしは無い。つまり、約束をすっぽかす、当てにならないという意味の喩えです。また「紺屋の白袴」とは、他人のことばかり仕事が先行して、自分のことには手が回らないことを指します。どちらの諺からも、紺屋の多忙さが伺えますが、昔はそれだけ悉皆の仕事が多かったということになりましょう。
時は移り、染物屋も悉皆屋もすっかり姿を消しました。今はほんの一部の呉服専門店が、紺屋の仕事を代用して引き受けています。バイク呉服屋もその中の一軒ですが、仕事を請け負ってくれる職人も限られており、年齢も高いので、将来の見通しはほとんど立っていません。いくら良質な品物があっても、それをきちんと誂え、丁寧に手直しする職人の存在が無ければ、お客様に品物を求めて頂くことが難しくなります。一体、どうしたら良いのでしょうか。このことが解決されない限り、和装に未来は無いと私は思うのですが。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。