バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

幻の道へ(海岸編) 国境への助走路  アラハマワンド・野付崎先端

2022.08 10

言い方に語弊があるかも知れないが、戦争は、昔も今も「陣取り合戦」の域を出ないように思う。戦争を仕掛ける侵略国の為政者に対し、「力による現状変更は許さない」と多くの国が叫んでみても、まるで意に介さない。今回のロシアによるウクライナ侵攻を見ていると、戦争を止められない無力さを感じる。先の大戦の反省に立って組織された国連など、その存在感はもうほとんど無きに等しい。

戦いに勝てば領地は広がるが、負ければ、たとえ父祖の代から持っていた土地でも失ってしまう。日本も太平洋戦争の敗戦に伴って、それまで領有していた多くの土地を放棄した。朝鮮半島や台湾、南樺太、そして千島列島。1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約の締結に伴い、日本は本土以外の領地を正式に失った。

しかしこの領有放棄地の中には、納得できない場所が含まれている。それが、北方領土だ。国後・択捉・色丹・歯舞群島の四島は、日本が侵略して支配した朝鮮や、戦争に勝利したことで領有した台湾などと異なり、そもそも元から日本の領土として認識されていたところ。だから、領有地としての意味が前者とは異なり、放棄は認め難いのだ。

 

では何故、北方四島を「日本固有の領土」と認識するのか。それは、歴史的経緯を探ると理解出来る。日本とロシアの間で、千島列島の領海線が正式に引かれたのは、1855(安政元)年の日露和親条約(下田条約)に遡る。この時、択捉島と得撫(うるっぷ)島の間を境界とし、択捉島以南の国後、色丹、歯舞群島は日本領、得撫島以北がロシア領と規定された。四島を固有とする根拠は、この安政の条約締結時に、日本は択捉島以南、ロシアは得撫島以北を自国領土の限界点と、お互いが認識していた点にある。そしてここに至る境界設定の経緯は、安政以前のもっと古い日露関係や、日本の千島探検の歴史を振り返ると判ってくる。

 

1754(宝暦4)年、松前藩が国後島にアイヌとの交易場所を設置したことで、日本が千島へ進出する足掛かりを得る。1783(天明3)年に著された仙台藩医・工藤平助の「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」によれば、「蝦夷の東北の東の海上に、千島と名付く島の大小あり。この島つづきより、折々交易する事、昔より有之由」と記され、古くから千島と交易があったことを裏付ける。交易品は、千島からはラッコなどの毛皮やカラ鮭(干した鮭)、日本からは松前から運んだ漆器や綿布類であった。

交易が進むと、千島のアイヌと共にロシア人も北方から南下。択捉島や国後島へも顔を出すようになり、時には海峡を渡って蝦夷地に交易を求める者も現れる。そして1792(寛政4)年、ロシア皇帝・エカチュリーナ2世の国書を携え、アダム・ラクスマンが根室へ来航する。この時の名目は漂流民・大黒屋光太夫の送還だが、目的は交易だ。

幕府は鎖国を理由に、申し出を拒否。しかし、度重なるロシア人の蝦夷地来航に危機感を覚えた幕府は、千島の重要性を鑑みて調査を命じ、1798(寛政10)年には、探検家・近藤重蔵が択捉島の南端・タンネモイに「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を立てた。そして翌年、幕府は千島を直轄領とし、高田屋嘉兵衛が国後・択捉間の航路を開く。こうして二島は、日本の領有地としての体裁が整えられた。

 

1799(寛永11)年、蝦夷を直轄地とした幕府は、それまで国後島への渡海地となっていた野付崎に会所・野付通行屋を設けて、渡航の拠点とする。半島の先端には、番屋の他に宿屋や蔵が立ち並び、場所を取り仕切る支配人やアイヌの通辞(通訳)など、常時50人ほどが住むようになる。また野付湾一帯では鰊漁が盛んで、春になると根室の各番屋から人が集まり、居小屋も数多く建ち並んだ。後には「キラク」という街が出来て、遊郭があったとも伝えられている。

国後、そして択捉へと続く国境の島々。220年も前の江戸時代、出先となって賑わっていた野付崎の先端は今、何の痕跡も無い。波の音が静かに響き、海鳥が群れ飛ぶだけ。そして、半島先端へはひと筋の道が残されるが、それも途中で消える。今、この細道を辿る者は誰もいない。もちろん野付通行屋の存在を知る者も、ほとんどいない。前回の旅ブログでは、建設途中で放棄された「幻の山道・日高横断道路」を探る記録を書いたが、今日は後編として、歴史の淵に忽然と消えた「幻の海道・野付崎アラハマワンド」を目指して歩いた記録をご紹介してみよう。

バックパッカー・バイク呉服屋の長々しい旅の話を、お盆休みの暇つぶしにでもお読み頂ければ、嬉しい。

 

野付崎先端 アラハマワンドへ向かう道  砂嘴を挟んで左・野付湾 右・根室海峡

一般には野付半島と呼ばれる野付崎は、知床半島と根室半島のほぼ中間に位置する。湾内で採れる北海シマエビのように、半島は湾曲している。野付とは、アイヌ語の「ノッケウ・顎(がく)」に由来する。北海道蝦夷語地名解によれば、半島先端部の形状が、あごの形をしていることからとされる。

国土地理院・二万五千分の一地形図で、野付半島全体を俯瞰する。

半島の先端部は西側に湾曲し、砂嘴の延長は28キロにも及ぶ。九つに分かれた砂嘴は内側に伸びて湾を形成し、これが尾岱沼(おだいとう)とも言われる野付湾になる。この中で、最も外海側に位置する砂嘴の先端に、国後への渡海場所が置かれたが、ここがアラハマワンド(別名ノテット岬・荒浜岬)と呼ばれている場所。今回辿ったのは、野付水道に面し、砂嘴の先端まで続いている海の道である。

 

野付半島と国後島の位置関係。野付水道を挟んで、僅か16kmしか離れていない。日本の領土だった終戦までは、野付から国後へ渡る船が数多く出ており、距離が短く運賃も安かったことから、利用客も多かった。ただ、野付水道は15キロと幅が狭く、水深が浅い上に浅瀬も多かったことから、通航に注意が必要だった。

野付水道を隔てて見える国後島。画像をクリックして拡大して頂くと、島影がよく判ると思う。左に島南端の泊山、右には標高888mの羅臼山の姿が見えている。

いつもながら前置きが長く、なかなか出発しない私の旅話だが、これから200年の時を遡り、国境の島々への渡海地・アラハマワンドへの道、いわば国境への助走路を辿ることにしよう。そこにはどのような美しい風景が展開するのか、読者の皆様も画像と地図を見ながら、一緒に歩いて頂きたい。

 

野付半島の観光基地になっているネイチャーセンター。ここに半島の情報が集約されており、ガイド付きのツアーも数多く開催されている。また、野付に飛来する鳥や季節ごとに咲く植物も詳しく紹介しているので、来訪者はそれぞれの目的に合わせて散策することが出来る。センターからトドワラまで木道が整備されており、そこから湾内の遊歩道を歩けば、野付の自然を満喫できるように設えてある。また、センター内には半島の歴史が判る資料の展示室があり、二階には野付湾を見渡す展望台もある。

野付を訪れる観光客は年間30万人ほどであるが、ほぼ全ての人は、ネイチャーセンターが整備した道歩きと施設内の見学で終わる。砂嘴の様子やここで生きる動植物も簡単に目にすることが出来るので、ここが観光の目的地となっている。私も3年前の秋にここを歩いたが、静かな野付の風景に触れることが出来て、ある程度満足できた。ただ今回歩くアラハマワンドは、野付の観光ルートから全く外れた場所にある。

 

ネイチャーセンターから1Kほど先へ進んだところで、野付半島を貫く一本道・道道950号(野付風連公園線)が終わる。車が入れるのはここまでで、幅の広い舗装道もここで終わる。

道道の尽きた先で、ダート道が始まる。入口には、漁業関係者以外の一般車両は通行禁止との看板が掲げてある。ここが今回、野付崎の先端へ向かう道の基点となる。車が入らなければ、観光客は足が遠のく。そして自然の姿はそのまま残る。歩くことを厭わないバックパッカーは、こうしたところで本領を発揮する。さあ、車を降りて歩き始めよう。目的地のアラハマワンドまで片道6Kほど、3時間くらいで往復出来るだろう。

この日の根室地方は午前中は晴れて、午後から曇る予想。朝7時半に定宿にしている浜中のワタナベ民宿を出て、ここには10時少し前に着いた。いつものように、小さなザックを背負っただけで、地形図を片手に歩き始める。今日の道は、ヒグマ出没の心配がまず無い。だから日高横断道の時のように、熊除けの鈴を鳴らしたり歌を放吟しないで済む。北海道の一人歩きでは、クマのプレッシャーが強烈なので、それが無いだけでかなり気分は解放される。

地形図で、出発点を確認する。途中で途切れている太い二本線が、道道950号の終点。そこから続く細い線が、ダート道。これがアラハマワンドへと向かう道で、200年以上前には多くの渡航者がここを歩いたと考えられる。

 

ダート道を入ってすぐ海側に立つ白い灯台が、竜神崎(野付崎)灯台。初点灯は1953(昭和28)年で、その光は海上16キロ先の国後島にまで届く。この根室海峡に面した砂嘴の湾曲部は、江戸時代「キマキ」という地名で、国後との連絡に使う烽火(のろし)を上げる場所になっていた。

灯台周辺は、ハマナスやエゾカンゾーの群落地で、初夏には一斉に花が咲き誇る原生花園だが、秋は枯野が広がるばかり。その間を、悠々とエゾシカたちが歩いている。

灯台近くの道の脇に、小さな野鳥観察舎・ハイドがある。灯台の画像の左側に見える小屋が、これ。ここでは、雨風を凌ぎながらバードウオッチングを楽しむことが出来る。この日も舎の前の湿原には、オオハクチョウや秋に到来するハクガンやコクガンの姿があり、しばし立ち止まって飛来する姿を眺める。白鳥や体の白黒で判別できる雁は判るが、カモ類は種類が多すぎて名前が判らない。

 

カーブの手前で、ダート道の先を写してみた。左の海は根室海峡、右は湿原。道沿いに整然と並ぶ電柱が、果てまで続いている。電柱は、所々にある番屋へ電気を送るために建てられている。空の水色、雲の白、枯草の黄土色、海の蒼。とりとめのない美しい風景が、どこまでも広がっている。歩くからこそ、こんな色に出会える。

外海が秋の柔らかな陽ざしを受けて、輝いている。この海と空の色を見るだけでも、ここを歩いた価値がある。

道の所々には放置された船と、使わなくなって時間が経過した番屋がある。広く明るい空の下では、こんな朽ちた姿も絵になる。歩き始めて2キロほどだが、ここまで誰にも会わず、人の気配は全くない。

やがて道の右にある湿原は川に変わり始め、隣の砂嘴と次第に距離が出来る。この画像の右に見える砂嘴の先端に、野付通行屋の跡がある。ここには江戸時代の建物跡や当時建てられた墓石があり、陶器の欠片や古銭も見つかっている。別海町では、この通行屋遺跡の発掘調査を毎年続けているが、まだ半分ほどが未発掘のままになっている。この遺跡がある砂嘴には道が無く、今歩いている道からは、水の少ない湿地を選んで渡らなければ辿り着かない。今日時間が許せば、ここも行ってみたい。

 

歩き始めて1時間ほど、約4Kで最後の番屋が見えてくる。電柱も、ここで途切れているので、どうやらこのダート道も終わりに近づいたようだ。右側の湿原は水が引いて、広大な湿地になっている。野付湾を挟んで対岸の尾岱沼の集落が、はっきりと確認出来、遠くに阿寒の山並みも望める。

道の終わりには、ドラム缶の柵が人の通行を阻むように作られている。傍らの看板には注意書きがあるが、これは密漁者に注意を喚起するもので、この先の立ち入りを禁ずるものではない。画像で判るように、まだずっと先に砂嘴が続いている。右側から内海・野付湾が、左側から外海・根室海峡が迫っている。その間にある砂嘴の幅は、約40mくらいだろうか。稀に冒険心のある旅行者がここまで来ることはあるが、この柵を越える者はほとんどいない。アラハマワンドへの道は、ここからが本番だ。

地形図で、現在地を確認しておこう。地図中には突き出た砂嘴が二つあるが、真ん中の細長い砂嘴の先端に、野付通行屋の遺跡が残る。今歩いているのは、下の砂嘴で、地図の右下に行き止まりになった道路が記されている。これから、この砂嘴の先端・アラハマワンドを目指して歩く。

 

うっすらと枯草が生えて、小石や流木が散らばる以外に何もない。砂地なので、足元が柔らかくて歩き難い。200年以上前、国はここに出先機関・通行屋を置き、役人が常駐して、出入りを管理していた。そして島へ渡る人たちは、この砂嘴の道を通り、船に乗り込んだのである。今のこの風景からは、にわかに信じがたいことだ。

今まで晴れていた空が、急に雲に覆われてきた。砂嘴は先へ進むに従い、左右から海に浸食されてどんどん狭くなる。暗くなってくると、本当に「地の果て」を歩いているように思えてくる。この光景も、なかなか見られるものではない。

しばらく歩いて振り返ってみると、こんな絶景が。番屋やネイチャーセンターが、米粒のように遥か遠くに見える。アラハマワンドまで、もう少し。

 

茫漠とした野付崎先端・アラハマワンドに辿り着いた。前に歩いた春国岱も、同じように砂嘴の両側から海が迫っている場所だが、エゾシカや鳥類など「生きモノ」の姿が見られるので、ここより「果て感」が強くない。ここには、かつて漁で使用した土塁が残されているはずだが、見つからない。下の画像は、野付湾を隔てた対岸のトドワラ方向を写したもの。左端には国後の島影が見えている。

この世の果て、道の果てまで来たものの、日高横断道を歩いた時のような達成感がまるでない。周りを見渡して、ただただ茫然としているだけ。それほど、何もないのだ。江戸の昔、人々はどのような思いで、この地から国後へ渡ったのであろうか。でもその姿を今は、とても想像出来ない。国境への助走路は、すべて幻となって消えてしまった。僅かこの、220年の間に。

ここにいると、海と空の中に取り込まれそうな気がして、すぐに引き返したくなる。これまでに経験したことのない、不思議な感覚。それでも、穏やかに吹く海風を頬に感じながら、しばしの間佇む。ここは湾の出口なので、風が強い時には立っていることも難しいだろう。改めて、この日天候に恵まれたことに感謝する。

 

引き返して、番屋が近づいてきたところで、小休止。野付通行屋の記録は、長くこの地で番屋守をしながら、幕府のアイヌ語通辞を務めていた加賀伝蔵(かがでんぞう)が書き残した「加賀家文書」によるところが大きい。別海町には郷土資料館の別館として、この加賀文書の資料館があり、江戸後期の野付半島の様子を詳しく知ることが出来る。伝蔵が、この不毛の砂嘴の地に畑を作ろうとした記録もあり、町の発掘調査で畝の存在が確認されている。

私が学生の時に持っていた研究テーマは、江戸末期の蝦夷探検家で、北海道の名付け親・松浦武四郎について。卒論を書く過程で読んだ松浦の著書・初航蝦夷日誌に、野付に立ち寄った記述があり、そこで武四郎と伝蔵の交流があったことは、その時から理解していた。この時代、野付がどのような場所だったか判ってはいたものの、幻となった道を現実に歩いて見ると、改めて感慨を覚える。

そんなことをあれこれ巡らせながら、流木の上で遅い昼飯を摂る。北海道にいる間、昼間はほぼ毎日歩いているので、いつもパンかおにぎりで軽く食事は済ませる。滞在5日間で、歩く距離は70キロを越える。ここまで戻ってきて、ようやく達成感を覚える。休んでいるうちに雲行きがかなり怪しくなってきたので、隣の砂嘴にある通行屋の跡は、次の機会に歩くことにする。宿題を残しておけば、また訪れる動機になるので、ここで無理をすることもない。

 

最後の画像は、国後への渡海地・アラハマワンドから見た根室海峡。200年前、多くの人が様々な思いを抱いて、ここから島へ渡った。今は、何事も無かったように、波だけが静かに打ち寄せている。

 

建設途中で棄てられた山の道・日高横断道路。江戸の旅人が歩いた海の道・国後への助走路。どちらも「幻の道」なのは同じですが、歩いている時の印象が全く異なります。日高は確かに、ヒグマの恐怖と背中合わせですが、色づく山並みや札内川の清流を眺めていると、それだけで心が和みます。しかし野付では、生きモノの営みというものが全く感じられず、一人で歩く寂寥感を強く感じます。

歩く場所や時間によって、自分の心の動きが変わること。もしかしたら、これを実感したくて、毎年歩き続けているのかも知れません。この二つの幻の道、まだやり残したことがあります。日高は、崩れた道の先の最終地点に到達しておらず、野付は、通行屋遺跡が残る砂嘴に足を踏み入れていません。今年は、このやり残した宿題を片付けるために、再訪する予定を立てています。もうこれは、ある意味で中毒ですね。

 

(国後への助走路・アラハマワンドへのアプローチ)

中標津空港から約40キロ・車で1時間ほどで、ネイチャーセンター。そこから道道950号の終点、ダート道の入口まで数分。ダート道は、漁業関係者以外は車での通行が不可だが、ネイチャーセンターで通行許可証を貰うと、ドラム缶の車止めまで走ることが出来るようだ。だが車で通り過ぎるのは勿体ない景色なので、是非歩いて欲しい。

ダート入口から、最後の番屋・ドラム缶車止めまで4K・1時間。そこから先端のアラハマワンドまで2K・30分ほど。3~4時間ほどで、歩いて往復出来る。ただ、遮るものが何もない場所なので、風の穏やかな日を選んで歩くことをお勧めする。

 

今年もお盆休み前に、長々とした旅ブログを書いてしまったことを、お許し下さい。そして、ここまで飽きずに読んで下さった読者の方に、深く感謝申し上げます。次回は呉服屋に戻りますので、またお付き合い下さい。

なお、11日(木)~18日(木)まで、お休みを頂きます。頂いたメールのお返事も遅れてしまいますが、ご了承下さい。次回の更新は、20日頃を予定しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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