バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

昭和の加賀友禅(7) 浅野富治男・春秋花に鳥模様 色留袖

2019.06 02

うちの店の入り口には、小さなショーケースが設えてある。普段ここは、丈の短い撞木(品物を掛けて見せる道具)を一本置き、反物や帯を掛けている。店はアーケード街の中にあるのだが、入り口に近いために、夕方になると西日が射し込んで来て、光はケースを直撃する。だから注意していないと、ガラス越しの陽射しで、品物の色がヤケを起こしてしまう。以前、飾っておいた紫の帯地が変色してしまい、売り物にならなくなったことがある。

そして、陽射しだけでなく、店内の照明でもヤケは起きる。同じ品物を長い間飾り続けていると、模様を見せるために表に出して飾ったところと、中に巻き込んであるところでは、色の齟齬をきたす怖れがある。これを防ぐためには、一週間に一度は品物を掛け替え、時には照明の光度を抑える工夫をする。実際に正面ウインドのLED蛍光灯は、半分しか取り付けていない。

自分で丁寧に見極めて仕入れをした大切な品物を、飾っただけで「お釈迦」にしてしまえば、一体何のために仕事をしているのか、わからなくなってしまう。「色がいのち」であるキモノや帯。その扱いには、日頃から十分な注意を払わなければならない。

 

キモノや帯の糸に使う染料には、それぞれ違いがある。それは、性質や堅牢度が異なるため、紫外線等の外的要因を受けた時の耐久性にも、違いが出てくる。例えば、一口に化学染料といっても、酸性染料、反応性染料、建て染め染料などがあり、その質は様々。そして、植物染料にも直接染料と、媒染剤を用いて発色させた染料があり、これもまた多様である。

異なる環境下で育った植物を原料にしている染料は、やはり繊細と思われ、天然材質を使う品物の扱いには特に注意を払っているが、だからと言って、化学染料ならば安心ということは無い。実際に、照明下で不具合を起こしたものもあり、その性質により、変化が生じかねない。結局は、一点一点に、目を配るより対処の方法が無い。

 

品物には、地染めや模様染めに、どのような染料を使っているかの記載が無い。せめて堅牢度でも記してあれば、判断の材料になるのだが、それも無い。そして、堅牢度が高ければそれで良いとも、一概には言い難い面もある。例えば、色無地に堅牢度の高い染料を使うと、紋入れの際に地色が抜け難くなることがある。つまり色が残ってしまうということだ。

店側としては、お客様には品物を、出来る限り長く着用して頂きたい。そのためには、外的要因で品物が劣化することを防ぐ手立てを、作り手には求めたい。これを考えると、どのような染料を使うかということは、極めて重要である。

 

バイク呉服屋は、手直しのために様々な品物を預る。その状態もまちまちで、中には色ヤケを起したものもある。しかし不具合の原因が、使っている染料に問題があったと決め付けることは出来ず、保管場所の環境等の影響も、無視できない。要するに、本当の所は判らないのだ。

けれども、「ノスタルジア」の稿でご紹介している上質な品物の状態は、良いものが多い。無論、質を弁えたお客様が大切にされていることもあろうが、それは作り手が、使っている染料の質を精査しているとも思える。

以前、友禅作家の四ツ井健さんから、自分の品物に使う染料の堅牢度には、特に留意を払っていると伺った。彼は、もともと加賀友禅の作家で、落款登録もある。師匠は藤村建雄氏だが、おそらく修行時代に、作品の上ではどのような染料を使うべきかを、学んだのではないだろうか。

今日は、時代を超えても色褪せることのない、そんな加賀友禅の品物がまた里帰りしてきたので、これを御紹介することにしよう。

 

(藤袴色 春秋花に鳥模様 色留袖・浅野富治男 1980年頃 甲府市 O様所有)

友禅の作家にとって、最も嬉しいことは何か。それはおそらく、自分が手掛けた作品の着用姿を見た時ではないか。下絵、配色、色挿しを考案し、一枚のキモノを作品として仕上げる。それぞれの工程では、思考を繰り返しつつも、自分の感性に従って意匠を描いていく。作家にしてみれば、それぞれの作品は自分の分身とも言えよう。

加賀友禅の図案は写実性が高く、「絵画的」と言われる。絵画ならば、鑑賞するためには、飾ってある場所へ行かねばならないが、キモノならば、着姿を見た人は誰でも、自ずとその美しさを堪能することが出来る。これはまさしく、動く絵画である。しかも着用場所により、その姿の麗しさや優美さは高まっていく。

図案は、四季折々に姿を変える自然の中から生まれる。花鳥風月をモチーフとし、これを写し取るところから始まる。咲き誇る花、舞い飛ぶ鳥、草木の繁り、そしてその時々の空の色、雲の形。スケッチは、図案の基礎となり、そこにそれぞれの作家の感性が吹き込まれ、意匠となる。

日本という国の風土を、衣装の上で具現する。こんな繊細な絵心を持った民族衣装は、他には見当たらない。前置きが長くなったが、今日の品物をご覧頂くことにしよう。

 

裾だけに模様のある黒・色留袖は、この品物のように、上前おくみから前身頃そして後へと、流れるように図案を置くことが多い。加賀友禅では、描き方や構図に違いはあれど、四季を彩る様々な花模様や、そこに集う鳥達の姿をあしらう意匠は、最もポピュラーなもの。その意味からすれば、この作品は、いかにも加賀らしいオーソドックスな模様と言えよう。

地色に使っている藤袴色は、秋の七草の一つ「藤袴(ふじばかま)」の花の色で、少し赤みのある薄い紫色。柔らかく優しい地色使いが、加賀友禅特有の上品さを、より際立たせる役割を果たしている。

 

主模様となる上前のおくみ・身頃には、大ぶりな菊を中心に、梅枝と芙蓉を描き、裾近くには沢潟(おもだか)も見える。そして、菊を挟んで一対の鳥の姿がある。この図案からは、具体的に鳥の種類はわからない。

着姿から最も目立つ菊には、橙や茜など華やかな色を配して、模様を印象付けている。上に伸びる小枝に付いた紅白梅花が、菊花を引き立て、図案に広がりを持たせている。

菊花の図案は二種類。主模様として置いた菊は、花弁に丸みを付けた暖色。脇から後へ廻る菊は少し図案化させ、色は寒色。同じ花でも、意識して対照的に描くことで、アクセントが付き、模様の均衡が保たれる。

菊花にあしらわれた「暈し」と「虫喰い」。花弁一枚ずつに、暈し方を変えながら、丁寧に色を挿す。そして葉には、暈しとともに付いた黒い点・加賀特有の虫喰いが見える。葉の色が変化し、次第に朽ちていく姿を「写生的」に表現した技法で、ここに、絵画的とされる加賀友禅の姿が、最も良く表れている。

沢潟の花と葉。花弁が鋭角でヤジリのようになっているので、沢潟に見えたのだが、よく見ると花弁は5枚。沢潟は3枚なので、これは水仙かもしれないが、それにしては葉の形状が違う。写実的に描いていても、何をモチーフとしているのか、特定出来ないことも多い。

これは芙蓉(ふよう)の花だろうか。この花は夏から秋にかけて、白や薄ピンクの大ぶりの花を付ける。暈しの柔らかな濃淡が、そのまま花の表情となる。

梅枝に止まる一対の鳥。梅に集う春鳥ならば、ホトトギスやメジロ、ツグミなどが思い浮かぶが、この鮮やかな挿し色では、何の鳥なのか判らない。配色は、対照的な二羽。

後身頃の意匠。花のモチーフや配色は、模様中心の上前とほぼ同じ。着姿として、全体のバランスを考えれば、前身頃と後身頃の意匠を統一させておく方が良いのだろう。

 

この品物の作者・浅野富治男は、名前の一字「富」を落款に使っている。

浅野富治男氏は、1949(昭和24)年、金沢から40kほど北、能登半島の付け根に位置する羽咋市に生まれた。18歳で、百貫俊夫(華峰)氏の工房に入ると同時に、日展作家である日本画家・中町進氏から指導を受けている。

中町進は、1930(昭和5)年に能登・輪島市で生まれた。1954(昭和29)年、25歳の若さで日展に初入選する。初期は、街の風景を荒いタッチで黒く描いたような作品が多かったが、次第に、静謐な森の姿を青を基調として描く「叙情的な作風」に変わる。浅野氏が師事したのも、丁度この頃であった。

百貫華峰は、人間国宝・木村雨山の直弟子6人の一人・毎田仁郎の弟子なので、浅野富治男は、雨山の曾孫弟子に当たる。百貫華峰からは、友禅の技術を学び、中町進からは、詩的な色彩表現を学ぶ。優れた二人の作家から得たものを基礎とし、そこに自分らしいエッセンスを加える。この色留袖の地色や配色の優しさは、いかにも加賀らしく、そして詩情豊かな作品に仕上がっており、浅野富治男という作家の個性が垣間見える。

なお、浅野富治男氏の落款登録は早く、加賀染振興会が発行した最初の名簿(1978・昭和53年)には、すでにその名前が見える。また、この6年前の昭和47年には、早くも工房を開いて独立しており、後に7人の弟子(杉浦伸・濱田泰史・北出朝之・北市秀樹・辻宏美・林郁子・早川美智子)を育てている。

 

この品物は、今から40年ほど前に作られたもので、おそらく作者・浅野富治男氏はまだ、二十代だったと思われる。里帰りしてきた品物は、お客様の話や、店に残る仕立伝票(昭和46年~)から、いつ頃求めて頂いたのかが判る。それは、作者の製作年齢を知ることにも繋がり、作品としてより興味深くなる。

今、代を受け継いだ私が、優れた作家が描いた作品に直接触れ、手直し出来ることは、父や祖父が品物の質を重視して商いをしてきた証。それは、何より幸せなことである。私に出来ることは、せめてこのブログの中で、画像だけでも多くの方々に見て頂けるようにすること。これからも、折を見て、先人の素晴らしい品々を御紹介していきたい。最後に、ご紹介した加賀友禅の色留袖を、もう一度ご覧頂こう。

 

この品物を扱った昭和40年~50年頃は、呉服屋が一番輝いていた時代だったと、今になって思います。それは、丁度加賀友禅が「伝統工芸品」として国から認定を受け、「作家モノ」としての価値が高まりつつあった頃と重なります。

消費者の和装需要そのものが、今と比較にならないほど旺盛で、質にこだわるお客様も数多く存在した時代。優れた作家を育てる環境は、整っていました。おそらくその頃は、作り手も売り手も苦境に陥るような現在の状況を、想像することも出来なかったでしょう。

「時代を見通すことが出来なかったことが全て」なのかも知れません。けれども、このままではいつか必ず廃れてしまいます。国が、令和という時代を、日本文化を育む時代と位置付けるのであれば、加賀友禅に限らず、早急に染織技術保全の方策を考えるべきと思いますが。

 

最後に、この色留袖を扱った時代の呉服屋を象徴するものを、ご覧にいれましょう。

これは、今日ご紹介した加賀色留袖に付いていた胴裏。店のロゴと松木の名前が裏地に浮きあがって見えています。店オリジナルの胴裏生地を別織させて作るほど、需要があったのですね。いやはや、凄い時代です。ネーム入り胴裏を作ることなど、今はどうあっても無理でしょうね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。なお今月から、ブログの更新回数が、月によって4回に減ることもありますので、ご了承下さい。バイク呉服屋の書く力が、徐々に落ちてきているので、どうにも仕方ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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