京都駅から西陣へ行くには、市営地下鉄・烏丸線の国際会館行に乗り、五つ目の駅・今出川で降りる。そこから、今出川通を西に向かって歩き、堀川通を越えて、大宮通を北へ上がる。京都の地名には、上ル、下ル、入ルが並ぶが、これは東西南北に真っ直ぐな道を取り付け、碁盤の目のように土地を区画した、平安京・条里制の名残である。
その今出川通と大宮通が交差する場所の北側に、歴史を感じさせる洋館が建っている。現在は、京都市考古博物館として、京都で発掘された埋蔵文化財を展示しているが、ここは以前、「西陣織物館」として使われていた。
この建物は、京都高等工芸学校(現在の京都工藝繊維大学)教授で、大正モダニズム建築の先駆者である本野精吾(もとのせいご)氏の設計により、1914(大正3)年に完成した。縦長の格子窓が印象的な極めてシンプルなデザインだが、実に風格のある佇まい。開館当時は、1階を西陣織の陳列と展示販売に使い、2階には織物や機を置いて西陣の歴史資料館とし、3階に貴賓室を設けていた。
京都では、通りが交差する角を「辻」と呼ぶことがあるが、この今出川と大宮の角は、その昔「千両ヶ辻」と呼ばれていた。この辺りは、江戸の頃から西陣織の問屋が立ち並び、人と荷物が行き交う、いわば西陣の中心地。この角は、一日に千両分の品物が通る場所ということで、千両ヶ辻と名前が付いた。ここに、西陣織を象徴する建物を作ったのは、そんな理由からである。
現在は、この西陣織物館の後継として建てられた西陣織会館に設置されているが、以前はこの織物館の前に、二つの記念碑が立っていた。
一つは、「ジャガード記念碑」で、明治初年にフランスから画期的な織機・ジャガードをもたらした佐倉常七・井上伊兵衛・吉田忠七の三人を顕彰するもの。金属製に屏風のような紋紙を模った、独特の形をしている。もう一つは、「西陣碑」で、西陣の由来と歴史が刻まれている。
ここ数年、海外からの観光客が目立つ京都の街。西陣も例外ではなく、スマホを片手にそぞろ歩く外国人の姿をよく目にする。だがここは、寺社仏閣とは違い、今も日本の民族衣装を支える産業の町である。ベンガラ格子の窓を付けた、ウナギの寝床のような奥行きのある町家を一歩入れば、伝統の技術を受け継ぎ、織物を紡ぎ続ける多くの職人達の姿がある。
先日、そんな西陣を代表する織屋の一つ・帯の紫紘へ、一人のお客さまを案内した。消費者に、実際の仕事場を見て頂くことはなかなか難しいが、タイミングよくお客様の京都旅行と、バイク呉服屋の京都出張が重なり、今回ご案内することが出来た。今日は、その時の様子をご紹介しよう。以前取引先散歩の稿で、紫紘本社の仕事場をご紹介したことがあったので、重複する点もあると思うが、どうかお許しいただきたい。
紫紘の仕事場で働く、若い女性の織職人。
良質な品物とは、どのようなものなのか。それを理解するには、一つ一つの作業工程を辿って見て行くことが、最善の方法であろう。使っている織糸は、どのように作られているのか。また図案や配色は、どのように決められていくのか。そして、精緻な模様はどのように織り進められていくのか。
それぞれの工程には、その仕事だけに精通した職人の存在がある。西陣の織工程は、細密に分化されていて、この紫紘の仕事場で見ることができるのは、一部に過ぎない。けれども、実際に仕事に取り組む職人の姿を目にし、そこでモノ作りに携る心構えや、技術的な話を聞くことが出来れば、一本の帯として完成するまでの困難さを知ることが出来る。そして、手を尽くした品物とは、どのようにして出来上がっていくのかが判る。
バイク呉服屋は、度々ブログの中で、モノ作りの過程について書いているのだが、読者の方に理解を頂けるような説明には、全くなっていないだろう。これは、私の力不足以外何物でもない。しかし、仕事場をご覧頂くことができれば、こんな判りやすいことはない。やはり、「百聞は一見に如かず」なのである。ただ、そんな機会を持つことは稀であり、そこが歯がゆい。
前置きが長くなってしまったが、早速仕事場にご案内しよう。
これまで織った帯の切れ見本が、設計室の横のラックに吊されている。
西陣・東千本町にある紫紘本社の建物は三階建で、一階が事務所、二階が設計と検品、三階が織場になっている。広い上がりまちのある玄関を入り、急な階段を上って、仕事場に入る。傾斜がきついため、キモノをお召しになっていたお客様は、スリッパを履いて昇ることに苦労する。亡き山口伊太郎翁は、百歳近くになっても、こんな階段を毎日使っていたのかと思うと、それだけで驚きである。
まずご覧頂いたのは、図案の製作工程。機屋の多くが、社外の図案師に依頼して模様を起こしているのに対し、紫紘では専門の職人を置き、社内で意匠を起こしている。分業化されている西陣では、図案さえも外注に頼っていることが多いが、こうして独自に図案製作をすることが背景となり、独創的な紫紘らしい帯が生まれる。
帯図案の製作は、まず原図を描き、それにそった設計図「紋意匠図」を起こす。以前は、方眼紙上に図案を拡大して写し取り、そこに決められた配色を塗り分け、さらにどのような組織で織るのかを決めていくという作業がなされていた。
そして、この設計図が固まったところで、紋紙=パンチカードに穴を開けて紋彫をする。縦33cm・横4.5cmの短冊形紋紙には、ピアノ式紋彫機という機械を用いて、穴を開ける。この穴の位置を読み取ることで、ジャガード機が経糸を上げ下げする。一本の帯に使う紋紙は、8千枚程度だが、図案によっては2万枚をも必要とするものもあり、いずれにせよこの紙の保管場所には、かなりのスペースを必要とした。帯を織るためにはどうしても必要な紋図だけに、どこの織屋でも、この紙の扱いには苦慮していた。
けれども、コンピューターが普及した現在は、紋意匠図起こしから、紋彫りまでの作業を、すべてパソコン上で出来るようになり、膨大な紋紙は不要になった。上の画像は、実際の現場を写したものだが、コンピューターグラフィックスを使い、図案の構成や配色を自由に変えながら、意匠起こしの作業を進めている。そして、厄介な紋彫の作業を、情報としてPCに読み取らせることが出来るようになり、仕事の効率は飛躍的に進歩した。
数年前までは、この製紋情報を、一度フロッピーディスクに落とし、それをジャガード機に読み取らる「ダイレクトジャガード方式」が主流だったが、フロッピーディスクの製造が終わったため、現在はPCと直接繋がる「電子ジャガード方式」に移行している。
設計室のある二階には、膨大な帯の見本=メザシが置いてあるが、その数は一万以上。その全ての設計情報が、フロッピーディスクやUSBメモリ、さらにPC本体に残っているので、いつでも製織出来るという。膨大な紋紙の保存に苦慮していた時代とは、隔世の感がある。
検品台の上に置いた織り上がったばかりの帯の前で、説明を受ける。小さな織りキズが一つあっただけでも、正しい製品とはならない。厳格な検査をすることは、帯そのものの信用、つまりは暖簾に関わることなので、決して手は抜けない。
図案と製紋製作を行う二階の見学を一通り済ませたので、三階の織場に向かう。
ジャガードを取り付けた手機が並ぶ一角に、畳が敷いてある。そこには、ケースに入った色とりどりの糸が置いてある。
帯の原料となる糸は、長年信頼関係を築いてきた「糸屋」に依頼する。西陣の帯に使う糸は、まず細い原糸を何本か撚り合わせて、一本の糸につくる「撚糸(ねんし)」という作業から始める。そして仕上がった糸は、注文を受けた色見本に合わせて染色した後、色ごとに仕分けして糸枠に巻き取る。この時使う道具が、五光という竹製の糸車。上の画像では切れてしまったが、中央下にその模型が見える。
引き箔帯の原料となる、プラチナ箔の糸。
原料に使う糸は単純な色糸だけではなく、金や銀、プラチナの箔糸を使うこともある。引箔糸は、手機でしか織ることが出来ないため、これを使う帯は織り手の手間と技術を必要とする大変高価なものとなる。
箔糸作りは、圧延した箔を寸法に合わせて四角に切り取るところから始まる。これが箔屋の手に渡って、漆を使って丁寧に箔押しされる。特に純金はよく延びるもので、一匁(約3.75g)で畳一枚以上にも広がる。これが平箔(ひらはく)である。
平箔を糸にするためには、糸状に裁断する必要がある。これもまた別の職人が担当する。箔は、約3cmの巾を100ほどに裁断する。そして和紙を巻いた芯糸と一緒に撚り上げ、そこで初めて箔糸として完成する。
現在、金銀糸を使った帯は沢山出回っているものの、本当の箔糸を使用した品物は、少ない。大概、テトロンフィルムにアルミニュウムを蒸着させ、これに金や銀の色を着色し、機械で裁断した「蒸着糸」を使っている。これはある意味で、「金や銀の色に見せかけた糸」とも言えるだろう。
プラチナ箔糸を拡大してみた。精密に裁断された、美しい箔のシルエット。西陣でも、裁断を専門とする職人の家は、もう二軒しかない。
ジャガードを付けた手機の織台には、三人の職人が座って仕事を進めている。お客様は、箔糸を一本ずつ竹の箆で引いては、打ち込んでいくその姿を見て、何と根気のいる仕事かと、ため息をもらす。「引き箔帯」とは、箔糸を引きこんで織り込んでいるこの姿に、由来する。
少し判り難いが、上の画像の右下に「杼(ひ)」が見えている。平行に張りつめた経糸の間に、緯糸を通すための道具。木製の舟形で、中央がくりぬかれ、そこには緯糸を巻いた木管が入る。杼は、模様に使う色の数だけ、必要となる。
来年に夏に向けて、紗袋帯の製織準備をすすめている女性職人。どこの帯メーカーでも、秋から冬にかけては、一年先の夏モノを製作している。これが、年始から春先にかけて、新作として発表される。
絽や紗の夏帯に使う糸は、上の画像のように水に浸し、水分をたっぷり含ませた「濡れ緯き(ぬれぬき)糸」を使う。この湿気のある糸を使って、織り込むと、帯生地がよく締まり、しっとりとした風合いになる。夏帯に限らず、織糸にはある程度の湿気が必要で、空気が乾燥すると糸に張りがなくなり、上手く織ることが難しくなる。
紫紘で一番熟練したベテランの織職人さんに、原図をみながら、「ヴォン・ボヤージュ」の製作について、話を伺う。
この帯は、構想から20年以上を経て、ようやく完成した。バイク呉服屋でも、一昨年この帯を扱わせて頂き、このブログでもご紹介した。詳しくは、2016.9.21の「至高の技で、モダニズムを極める」の稿をお読み頂きたいが、これは、イタリア・フィレンツェのアルノ川に掛かる橋・ポンテべッオと、飛行船を題材にし、モダンな配色で精緻に織り上げた至高の品。
見せて頂いた「ヴォン・ボヤージュ」の原図。
こちらが、実際に帯として完成した姿。上の原画と配色が明らかに違っている。
帯として出来上がるまでに、糸の配色を変えて、何十回も試し織りをしたという。太鼓の模様を織るだけでも、一ヶ月を費やすというのだから、その根気たるや並大抵のものではない。織っては考え、考えては織る。これを20年以上繰り返し、ようやく一本の帯として世に出る。図案を考える職人、配色を任される職人、そして織り職人。これは、仕事に携るそれぞれの職人が、心を一つにして作り上げた珠玉の逸品と言えよう。
この帯に使う色糸は、90色以上。地にプラチナ箔を使い、一本を織り上げるのに、三ヶ月近くを要する。帯の垂れにあしらわれている、飛行船を見送る人々の姿を織り出すだけでも、大変な作業である。実際に織りを請け負った職人さんに話を伺うと、その苦労に共感出来、改めて「手を尽くすこと」の貴さが感じられる。モノ作りの仕事場を訪ねる意義が、ここにある。
今回、お相手をして頂いたのは、紫紘の大奥方と職人の清水さん。大奥方は、老舗帯屋の奥さまであるにも関わらず、大変気さくな方で、「営業の社員が外に出てしまうと、私がお客様のお相手に駆り出されますが、本当にお役に立っているのかどうか」などと話される。けれども、跡を継いだ娘さんや息子さんの話をする時は、本当に嬉しそうだ。また、話の節々には、一人一人の職人さんへの心遣いも感じられ、そこには、西陣の重鎮・山口伊太郎翁に長い間仕えた片鱗がかいま見える。
実際に仕事場を案内して頂いた清水さんは、入社して30年近くが経つベテランの職人さん。主に図案の配色を担当しているそうだ。図案の構想から、色の配置、糸の種類と織りの技法など、多岐にわたる仕事の内容を、噛み砕いて判りやすく教えて頂いた。職人さんの視点から話を伺えたことは、お客さまにとって何よりだったように思う。
一本の帯が生まれるまでに、どれほどの時間を積み重ねてきたのでしょうか。今回の訪問で、改めて職人さん達のモノ作りにかける情熱に、触れることが出来ました。そして、仕事に向き合うその真摯な姿勢を学ばせて頂く、よい機会にもなったように思います。またいつか、お客さまとともに、仕事場を覗かせて頂く機会を持ちたいですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。