近頃、ほとんどテレビを付けない。以前ならば、ニュース情報番組くらいは見ていたのだが、それもしない。日々報道される世間のことなど、聞いても面白くないことばかりで、いっそ何も知らない方が良い。
「知らぬが仏」を決め込めば、社会の出来事に腹を立てることも無くなり、自分の日常だけに集中できる。生きていれば、社会に広く関わりを持つことは、ある程度必要と思うが、湯水のように入ってくる毎日の情報の中で、大切と思えることは本当に少ない。だから、断ってしまう方が、自分の精神衛生上、まだ良いように思える。
地下鉄車内での乗客のスマホ率は、約8~9割だろうか。ほとんどの人が、画面をじっと見ている。サイトを見ているのか、メールを見ているのか、ゲームをしているのか、それぞれ違うだろう。けれども、何らかの情報に身を委ねていることに変わりはない。
バイク呉服屋のような、スマホも持たずに、車内でただ呆然としているような人はほとんどおらず、自分は、何だか異星人のような気がする。そして、普段でも、これだけ情報を避けているというのに、時折もっと静かなところへ行きたくなる。
今日は、日常の仕事・呉服屋であることを私に忘れさせてくれる、そんな場所を皆様にもご覧頂くことにしよう。気ままな旅の話なので、関心の無い方には、大変申し訳ないと思っている。
(十勝 浦幌町・昆布刈石断崖 道道1038号)
娘達がそれぞれ大学を卒業し、一応親としての責任を果たせたことで、少し心にゆとりが生まれた。夫婦二人の小さな店ながら、まとめて休みを取ることは難しいが、50歳も半ばを過ぎた今となっては、自分に費やす時間を惜しむ必要は無いように思える。ということで昨年から、晩秋のこの季節に、一週間ほど北海道を歩いている。
若い頃、あれほど時間をかけて道内を歩いたというのに、まだ知らない土地や、行きたい場所が沢山残っている。多くは、当時交通手段が何も無く、歩くにはあまりに遠いことで、訪ねることを断念したところだ。
もちろん今も、鉄道やバスの便は無い。そのためどうしても車を使わざるを得ないが、不便な分だけ、ありのままの姿を今に留めている。観光地として、人を呼び込む意識は全く無く、無論、見せるための「作りモノ」は何も無い。
昨年このブログで御紹介した幌加温泉へは、「毎年必ず一度は訪ねる」と決めている。86歳になる「鹿の谷」のおばあちゃんの様子は、いつも気になっている。そこで今回は、その幌加温泉に比較的近い、知られざる十勝の美しい場所を訪ねることにした。海岸沿いに隠れるように佇む、小さな湖沼を巡る旅の話を、始めてみよう。
(JR北海道 根室本線・厚内駅)
根室本線の厚内駅が、今回の旅の起点。ここは、帯広から釧路方面に向かって、東へ70キロほど。普通列車だと、帯広から1時間10分ほどかかる。行政区域は、浦幌町に属する。駅名版には、隣駅の浦幌の文字が修正された跡が見えるが、今年の春まで、厚内と浦幌の間には、上厚内という駅があった。だが、集落が無住化したために、駅も廃止となった。現在、停車する列車は普通列車のみで、上下合わせて一日14本。
厚内の駅前には、小さな商店が一軒あるだけで、レンタカーなど手配できる訳も無く、車は帯広空港で借りる。空港から帯広市内には入らず、幕別町・豊頃町を抜けて、十勝国道(38号)を通り、厚内に着く。空港からは、約1時間半。
厚内から、太平洋沿いの道・道道1038号にはすぐ出られる。今回の最初の目的地、昆布刈石海岸を海沿いに目指すには、最適な場所である。
厚内の駅から5分ほどで、海沿いの道に出る。左に太平洋、右は段丘が連なる。海と崖の間を道が貫く。帯広と釧路を繋ぐ道には、国道38号があるため、この道を走る車はほとんど無い。道路の真ん中に立ち、しばらく海を眺める。幸い風も無く、この季節にしては暖かい。
前方に連なる岩の断崖。これから、この先の断崖を登ると、絶景に辿り着く。
先ほどの道は、上の画像で見えている岩をくり抜いたトンネルに繋がり、抜けてから左折すると、砂利道に入る。道はカーブを繰り返しながら、上へ上へと続き、やがて断崖の上に出る。
断崖の頂上から東(釧路方向)を見た、昆布刈石(こんぶかりいし)の海。弧を描きながら続く海岸線。岩礁には、晩秋には珍しく、穏やかな波が打ち寄せている。
すぐ下は断崖絶壁。砂利道から足を踏み外したら、終わりだ。丁度昼時なので、太平洋を見ながら、豊頃のセイコーマートで買った筋子おにぎりとオレンジソーダで、昼飯にする。
セイコーマートは、北海道のローカルコンビ二だが、この店には「ホットシェフ」と名前が付いた、店の厨房で作ったおにぎりや弁当がある。おにぎりは、通常の1.5倍はある大きさで、一つ食べるだけで腹にズシンと来る。だが、うまいの何の、粘り気がある米の美味さは、他のコンビ二おにぎりなど足元にも及ぶまい。具は、サケや松前漬などで、地元の食材を惜しげもなく大量に入れている。バイク呉服屋は、筋子とおかかベーコンがお気に入りだ。オレンジソーダも、「セイコマオリジナル」で、チープだがクセになる味。価格は90円と格安。
久しぶりのセイコマ飯の美味さに、断崖にいることを思わず忘れてしまう。だが、油断は禁物で、こんなところから転がり落ちたら、しばらくは見つかるまい。それにしても、気持ちが洗われるような、清々しい海の風景。晴れて良かった。
今回訪ねた地域の地図(昭和57年10月・時刻表 北海道路線図)
厚内とか浦幌と言っても、ほとんどの方はどのあたりなのかさっぱり判らないと思うので、地図を用意してみた。今日御紹介する場所は、起点の厚内と、広尾線(廃線)の終着駅・広尾との間、太平洋に沿ったところにある。地図上では、何の記載も無く白く抜けている。これで当時からこの地域に、交通機関が何も無かったことが判ると思う。
今は人口も少なく、交通不便な場所だが、この浦幌町や豊頃町の十勝川河口流域は、もっとも古くから開拓が始まったところである。特に、豊頃町の大津は、19世紀始めにはすでに和人(本州人)が住んでおり、鉄道が出来る以前は、大津の港が内地からやってくる開拓者の玄関口であった。
開拓者は、ここから十勝川を遡り、さらに奥へと開拓の鍬を下ろしていった。そして広大な十勝平野は開墾され、やがて農業や酪農が始まった。現在、十勝地方の中心は帯広市であり、その賑わいに比べて、大津は往時を偲ぶべくも無い。だが、十勝発祥の地であり、全てはここから始まった。
現在の大津海岸。大津の町外れ、十勝川河口に近いトイトッキの砂浜は、コケモモやハマエンドウ、クロユリなど、高山植物の群生地。夏の初めには、競うように花が咲き誇る。交通不便な地だけに、一般観光客の姿はまず無い。そのため、手付かずの自然をそのまま残している。
昆布刈石から、この大津を通って、さらに海沿いの道を南へと進む。そこには、小さな湖沼がいくつも点在している。それはトイトッキ浜同様に、訪れる人も少なく、ひっそりと佇んでいる。これからご紹介するのは、そんな場所である。
太平洋を左に見ながら、どこまでも続く道(道道912号)。車と行き交うことはまず無い。そして人家は、全く無い。
やがて海の反対側には、長節(ちょうぶし)湖が現われる。この湖は、海の水と交わる汽水湖で、細長く先端は海と繋がっているようにも見えるが、ほんの僅かな砂丘が、海と湖を隔てている。この砂丘にも、ハマナス、ムシャリンドウ、エゾカンゾーなど、多くの高山植物が人知れず咲き乱れる。
湖の先端方向を写す。夏の僅かな間だけは、キャンプをする人で少し賑うものの、後は訪れる人もなく、静かな湖面に水鳥が跳ねる音だけが響く。今日は、晩秋の穏やかな光が、水面を映している。
長節湖からは、一端海沿いの道を離れ、内陸の国道336号・通称ナウマン国道を走る。この道は、浦幌町と広尾町を繋ぐ幹線道路。ナウマン国道という名前は、沿道の忠類(ちゅうるい)村で、ナウマン象の化石が発見されたから。
ナウマン国道を少し走り、左折して再び海沿いの道・道道1051号に入る。この道は、次に目指す湧洞(ゆうどう)沼へ一直線に続く行き止まりの道。
手前の高台から、湧洞沼へ続く道を写したみた。左が太平洋、右が沼。海と沼を隔てる僅かな砂州の間、なだらかに起伏の付いた道がどこまでも続く。本州では、なかなか見られない風景。道の両側に広がる湿原には、時折丹頂鶴も姿を見せる。残念ながら、この日出会うことは無かったが。
海と湿原と森に面して、静かに佇む。先ほどの長節湖は周囲5kと小さいが、湧洞沼は19k。十勝海岸の湖沼群の中では、もっとも大きい。やはりここも水鳥の飛来地で、環境省が指定した「日本の重要湿地500」の一つ。
十勝海岸・湖沼群の位置関係。北から、十勝川河口・長節湖・湧洞沼と巡ってきた。そして、この日最後の探索地・生花苗(おいかまない)沼へ向かう。再び336号・ナウマン国道へ戻って南進する。行政区域は、豊頃町から大樹町へと変わる。
生花(せいか)集落を左折して、国道から道道881号へ入る。この道は、晩成(ばんせい)という海沿いの集落へと続いている。ここに、この日宿泊する予定の晩成温泉がある。生花苗沼へは、881号の途中から林道に入る。
生花苗沼へと続く依田林道。この林道は、十勝開拓の祖・依田勉三(よだべんぞう)の名前にちなんだもの。林道沿いには、1886(明治19)年、この生花苗の地で営んだ牧場跡地があり、そこには当時の住居が復元されている。先ほどの「晩成」という地名も、勉三が率いた開拓集団・晩成社から取ったものである。
勉三が、北海道開拓使から開墾許可を得て、十勝へ入植したのが、1883(明治16)年。数年後、この地に当縁(とうぶい)牧場を開設し、バターやチーズ作りに着手する。それは、時代を先取りした酪農経営であり、現在の十勝農業の先鞭を付けたものであった。
やがて林道脇の林越しに、沼が見えてくる。周囲は12k、森と湿原と海に囲まれた小さな沼だ。ここも、先の湖沼群同様に、海の水が流れ込む汽水湖。もともとは海だったところだが、海面が後退して海と切り離され、沼が出来た。このような湖沼を、海跡(かいせき)湖と呼ぶ。
林道を抜けると、湖が広がる。恐ろしいほど静かで、何の物音もしない。夕暮れが迫っているので、寂寞感がいっそう強い。湖岸にあるのは、B&G財団のカヌー艇庫だけで、それも扉が固く閉まっている。夏の一時期に、ここでカヌー教室を開いているらしい。それ以外は建物が何も無く、人の気配は全く無い。
地元では、この沼で採れるシジミが、かなり大きくて良質なことで知られている。そのため、密漁者が後を絶たない。シジミは、ヤマトシジミで、大きさは5cmにもなる。底の泥に、沢山の養分を含むこの沼の環境の良さが、巨大なシジミを産み出す。大樹漁協が生花苗沼でシジミ漁を行うのは、毎年7月中旬の一日だけ。それほど、この沼のシジミを大切に守っているのだ。湖の入り口に大看板を立てているのは、そんな理由からである。
林道脇に車を置いて、沼の周囲を歩くことにする。周囲の森は野鳥の宝庫で、シジュウカラやエゾアカゲラを始めとして、160種もの鳥が生息している。森から沼までは250mほどだが、何となく恐ろしい雰囲気がする。ヒグマの出没だ。出発前には、大樹町のHPに掲載されている「クマ出没情報」で、この沼周辺にクマが現れていないことを確認してきたが、やはりこの静けさは不気味である。今日は、クマ除けの鈴も持っていない。
クマザサをかき分けながら、恐る恐る進むと、水面が見えてくる。途中には、野鳥の観察小屋がある。沼を取り巻く湿原では、ツガイの丹頂が羽を休める姿も、よく見られる。また、秋から冬にかけては、オオハクチョウの群れもやってくる。
ようやく沼岸に辿り着き、大木の下でしばし佇む。周囲に道は無く、巡るには枯れ草をかきわけて進むしかない。先に訪れた長節湖や湧洞沼では、海と湖面が近いために少し開放感があり、それほどの寂しさは感じないが、ここは格段に、ひとりであることを感じる。こんな静けさを求めて、私はいつも旅に出ている。
沼の先端は、海との間にほんの僅かな砂州があるだけ。画像の左が海で、右が沼。陽が落ち始めると、さすがに寒くなる。体が冷えて、湯が恋しくなってきた。暗くならないうちに、今夜の宿・晩成温泉に向かうことにしよう。
生花苗沼から10分ほどで、晩成温泉に到着。眼下に太平洋を見下ろす高台に建つ。ここは、大樹町営の日帰り温泉だが、宿泊施設・晩成の宿が目の前にある。この宿も町営で、別名は大樹町学童農業研修センター。画像には無いが、研修センターの別名の通り、宿というより研修所・寮のような佇まい。建物はそう新しくないが、中は清潔で、私のように簡素な宿を好む旅行者には、十分である。
1泊2食付で5600円。素泊まり4000円。自炊施設、洗濯機も完備。部屋の鍵は、温泉のフロントで受け取り、勝手に入る。寝具も、自分で整えるセルフサービス。宿に常駐する職員は無く、温泉職員が兼務しているようだ。もちろんバイク呉服屋は、素泊まり。今日は晩飯を作るのが面倒なので、温泉内の食堂で、十勝名物の豚丼を食べて済ませる。
晩成温泉の湯の色は、茶褐色。成分は、多量のヨウ素を含有する「ヨード泉」。色といい、成分といい、うがい薬の「イソジン」に浸っているような感じだが、体の芯から温まる湯である。浴室からは、茫洋と広がる太平洋が見える。温泉と宿以外は何も無く、建物がポツンと建っている。朝は早起きして、宿のすぐそばに広がる海跡湖・ホロカヤントーを歩いてみよう。
明日からは海を離れて、十勝らしい牧草地の広がる風景を訪ねることにする。そして、幌加温泉へ行く。今年も、鹿の谷・梅沢のおばあちゃんが、ネコのミーコと一緒に、私の到着を待っていてくれる。
今年も、長々と下手な旅行記を書いてしまいました。こんな旅に出ることは、私の「ライフワーク」であり、自分らしさを取り戻す貴重な時間でもあります。この時間が持てるからこそ、日常の仕事も頑張れるのだと思っています。この続きの「内陸編」を、そのうちに御紹介したいと考えています。
皆様には、自分勝手な私の趣味的記事にお付き合いさせてしまい、本当に申し訳ありません。それでも読まれた方が、「日本にも、まだこんな場所が残されているのか」と、感じて頂ければ嬉しいですね。次回からは、日常の呉服屋の話に戻りますので、またよろしくお付き合い下さい。
(昆布刈石・長節湖・湧洞沼・生花苗沼・晩成温泉の行き方)
公共交通は、ほとんどありません。帯広空港から、今日御紹介した順路を車で走ると、まる一日かかります。生花苗沼と晩成温泉だけなら、広尾国道(236号)経由で約1時間と、空港からは割と近い距離にあります。