相続の手続きとは、何と厄介なものか。母親が遺した財産など、たかが知れているというのに、本人や相続人の戸籍謄本や印鑑証明、銀行の証明等々、様々な書類を準備しなければならない。
父や妹は、最初から手続きを面倒がっていたので、仕方なく長男たる私が、その役割を引き受けた。中でも厄介だったのは、亡くなった母の出生から現在までの戸籍謄本(原戸籍・除籍謄本・現在の戸籍)を用意しなければならなかったこと。母が父と結婚する前の戸籍など、出身地の役所に出向いて取ってこなければならず、面倒である。
母が結婚前に暮らしていたのは、桃の産地として知られている旧一宮町。ここは、甲府から車で東に40分ほどの距離にある。現在は町村合併により、笛吹市に属しているため、原戸籍謄本も、この役所に保管されている。
母の原戸籍を受け取って、その記載事項を見ると、今まで私が全く知らなかったことがわかってきて、実に興味深い。母の出生地は、台湾・台南市。出生届を出した場所は、台南警察署で、届け出人は母の父、つまり私の祖父であった。
祖父は、内務省から台湾総督府に出向していて、母が生まれた1930(昭和5)年当時、台南州高等警察課の警部補であった。戦前まであった内務省は、地方行政から警察を始めとして、内政一般の行政に対し、強大な権力をもっており、役所の中の役所と言われていた。
高等警察とは、一般の警察とは異なり、国家の根本を危うくする勢力を排除するための組織。つまりは、政治警察であり、1925(大正14)年の治安維持法成立以後は、秘密警察的な役割を強めていった。戦前の国家主義に反する勢力と位置付けられていた、社会主義や共産主義者の動向を注視、摘発するだけでなく、次第に、思想・信条・信教の自由を、国民から奪い取る最前線の組織となっていった。
であるから、戦前の高等警察は国家を維持するための、最重要機関であり、それを管轄していたのが内務省・警保局保安課だった。内務省に入省したキャリア警察官僚は、まず警部補として地方に着任後、3~5年で警部、さらに課長となって10年ほどで本庁に戻ってくる。地方に出るということは、戦前ならば、植民地である台湾や朝鮮、そして樺太の行政府も含まれていた。
祖父は、大学卒業後すぐに官僚になった訳ではなく、最初「みやこ新聞」という新聞社に勤めた。この新聞は東京の地方紙で、現在の東京新聞の前身にあたる。
何故、新聞社から官僚への転進を図ったのか、わからない。だが、難関の高等文官試験に挑んだのは、それなりの目的と意思があったのだろう。母の弟・叔父の話だと、合格して内務省へ入ったものの、回り道をしていたので他の入省者より年齢が高く、スタートで出世競争からは外れていると考えたそうだ。だから、最初の任地は、自ら進んで外地・植民地の台湾を選んだらしい。
驚くことに、戦前の台湾総督府の全容を知る資料を、今ネットで見ることが出来る。「台湾総督府職員録系統」と呼ばれるもので、これで探すと確かに祖父の名前がある。台湾へ赴任したのは、母が生まれた年の昭和5年。亡くなる前の年、昭和13年には、高雄州高等警察課の課長で警部。住んでいたところも、高雄市入船町の官舎と記載がある。祖父は台湾で、戦前の悪名高き「特別高等警察=特高」の幹部だった。
祖父は昭和14年に亡くなり、祖母は母を含めた4人の子どもを連れて、故郷山梨に戻ってきた。官僚である夫を早くに亡くし、幼い子どもばかりが残された時の心境は、如何ばかりだっただろう。小学校4年だった母には、父の記憶は断片的にしか残っていなかった。もし祖父が早逝していなければ、母の人生は大きく変わっていただろう。私の父と結婚することは無かっただろうし、もちろん私も生まれていない。
今日は、そんな運命のいたずらで呉服屋の女房となった、母が遺した品物を御紹介しよう。前回は、フォーマルの黒留袖だったが、今回は普段の仕事着として、毎日のように着用していた結城紬である。
藍染糸 青海波総亀甲絣模様 地機・本結城紬
母が、普段仕事着として使っていたのは、ほとんどが紬類であり、小紋のように柔らかく、生地が垂れるものは少ない。よって、遺された品物の多くが織物である。しかも、地色は単色で模様に色目のついていない、シンプルなものが多い。これは、組み合わせる帯次第で、自由に雰囲気を変えられるようにする意図が伺える。
好んだ地色は三系統で、藍と紺、白地とベージュ、濃茶と泥。単純に言えば、青・白・茶の三色になる。だが、図案は古典的なものより、どちらかと言えばモダンで斬新な模様を好んだ。ありきたりではなく、単純な中にも一工夫あるような個性的な品物だ。
これから御紹介する三点の結城紬にも、そんな母らしい好みが、見えている。
波か山を連ねたような総模様の珍しい結城紬。前身頃の模様は上向き、後身頃は下向き。総柄の場合、模様の向きをどちらか一方に統一して仕立てるのが普通だが、このキモノは違う。おそらく、前姿と後姿の見え方に変化を付けようとしたのだろう。
結城紬の絣と言えば、もちろん亀甲だが、この品物の小さな山型に区切られた中の亀甲絣は、画像でご覧の通り、多様である。織り糸は、藍ひと色だが、それぞれの絣文様に変化があるために、自然に全体の色の表情にも濃淡が出来る。これだけ、様々な亀甲絣を組み込んで連ねてある品物には、なかなかお目にかからない。
それぞれの絣を拡大してみた。区切られた図案の中の絣には、ポピュラーな亀甲十字絣をめいっぱいに並べたものと、亀甲の中に十字絣を入れない蜂の巣状の模様、さらには、4つの亀甲十字絣を十文字に組み合わせて、少し地を空けた図案が見られる。この三種類の模様が、交互に並んでいる。
結城紬の絣作りは、大変手間がかかり、考えられないほど根気の必要な仕事だ。まず最初に行うのが、墨付け。これは、模様の設計図案を、整経が終わった絣糸の経緯双方の糸に押し当てながら、括る位置には墨で印を付ける。
まず前段階として、緯糸は、反物巾・おおよそ9寸5分~1尺ごとに綿糸で括り、印を付ける。これは、織る際、絣を合わせるための目印になるもの。緯糸の墨付けは、予め図案を筒に巻いておき、その上に束ねた緯糸を当て、先ほど付けた反巾限界を示す耳の目印を、図案の耳に合わせながら、絣模様を緯糸に写し取って行く。経糸では、図案を筒状にせずに、二つに折った状態で糸に当てて写す。
この墨付けした箇所が、綿糸で括る部分となる。これが、「絣くびり」と呼ぶ工程。綿糸で括る力が弱いと、染料が模様の中に滲み出てしまう。だから、絣くびりの作業は男性の仕事だ。括りは、綿糸を二回巻き、糸の片方を歯で噛みつつ、もう一方を手で引いて縛り上げる。この作業は、70・100・120と、一反巾の中に絣の数が増えるほど、括る回数も増える。一反分の括りは、数万箇所にも及ぶため、この仕事に費やされる日数は、月単位となる。
上の品物のような凝った図案だと、極めて正確に墨付けをする必要がある。一箇所でも狂いがあると、全ての模様のバランスを崩してしまう。また、設計段階で、どこにどんな種類の絣模様を置くのか、予め決めておかなければならない。それは、キモノとして仕上げた時に、どのような表情に映るのかを、すでに想像出来ていなければならない、ということなのである。
図案作成、墨付け、絣くびりは、一点の結城紬を織り出す時の、まさに肝に当たる工程であるが、その前には、原料である真綿をつくしに引っ掛け、手で引き出すという、気の遠くなるような糸紡ぎの作業や、細かい絣模様を針の先で合わせながら、人の手で織り進めるという製織の作業もある。17、8にも及ぶ結城紬の工程全てが、人から人へと受け継がれた、技術と智恵の賜物と言えよう。
藍染糸 唐草総亀甲絣模様 地機・本結城紬
二枚目のキモノは、全体を唐草であしらった品物。縦横に繋がる蔓が、模様に一体感を与えている。唐草は、図案のモチーフとしては珍しくないが、結城紬の全体柄として表現されることは稀だと思う。
私がまだ小学生だった頃、このキモノを母が着ていた記憶がある。なぜ、印象に残っているかと言えば、唐草模様の大風呂敷が、母の桐箪笥に掛けられていたからだと思われる。おそらく、風呂敷と、母が着用していたキモノの模様が、子どもの私には同じものと感じられたのだろう。そんな訳で、私にとってはこのキモノは、今日御紹介している三枚の結城紬の中で一番馴染み深い。
ご覧のように、一列に亀甲十字絣が並んでいる。絣の大きさは、前の品物より幾分大きい70亀甲。
三点の結城紬はいずれも、昭和40年前後に織られたもので、すでに半世紀が経っている。母は、何回か洗張りをしたので、糊が落ちて、生地はかなり軟らかくなり、良い風合いとなっている。結城紬は、「最初は単衣で着用して生地をほぐし、後で袷に仕立て直せ」と言われる。また、本当かどうかわからないが、その昔の旧家などでは、「新しい結城はまず女中に着せ、奥さんが使うのは、一度洗張りした後で」という話もある。
洗張りをするごとに着やすくなるというのは、糊が落ちるからだ。撚りをかけない結城の手紡ぎ真綿糸は、切れやすい。これを防ぐために、工程の途中で小麦粉で作った糊を糸に付ける。綛上げの前に下糊付けをして、ほぐして乾燥させ、一度綛上げを終えた後で糸車に巻いた後、また糊付けをする。さらに、ボビンに巻いて再度綛上げしたら、もう一度糊を付ける。糸の強度を増すためには、糊付けを十分行う必要があるからだ。そして、糸括りを終えた絣糸を染色後、括りを解いた時にも糊を付け、乾燥させる。これを本糊付けと呼ぶ。
裾から、後身頃の模様を写したところ。
反物として織り上がった後には、水にさらして小麦粉糊を抜く作業も行われるが、完全には除去できない。もちろん、仕立てをする前には、湯通しもするが、それでも糊のゴワツキが少し残る。これが、最初の着心地に影響するのである。だから、くりかえし着用して生地を軟らかくし、その上で洗張りをして残っている糊を抜けば、軽くて軟らかくて優しい、真綿糸が持つ風合いが出てくる。
そして、洗張りをするごとに、さらに着心地は良くなる。使えば使うほど、結城紬本来の良さを感じることが出来るのだ。だから、30年50年と時を経て、代を繋いで着用することこそが、この紬には必要なのである。
藍染糸 市松総亀甲絣模様 高機・本結城紬
上の二点と同様、キモノ全体を一つの図案と考える、いわば総模様の品物。これは、絣部分と地空き部分を交互に市松模様で組み込んでいる。
市松の絣部分を見ると、微妙に色が違う。藍の色に深く染まった絣と、白く抜けたように感じる絣とがある。作り手は、この色を目色(地の絣目の色)として、模様に映る色を最初に決めておく。この構想に従い、糸染めをする。この品物の糸は本藍染めなので、色を指定して紺屋に染を依頼したものであろう。
市松模様に配された絣部分を拡大してみた。整然と並ぶ模様には、染モノにあしらわれている時の市松文様とは異なった、独特の美しさがある。藍の濃淡だけで表情を作っているが、その単純さが、シンプルな古典模様をモダンな姿に変えている。
最後は少し駆け足になってしまったが、今日は母が呉服屋の女房として、毎日のように着ていた、三点の結城紬を御紹介してきた。遺された貴重な品物は、家内と妹で分け合って、大切に着用することとなった。妹は、母より少し背が高く、華奢で身巾がかなり違う。家内は、10cm以上背が高い。いずれにせよ三枚とも、一度洗張りしてから、仕立て直さなければならない。これでまた、一段と着心地は良くなることだろう。
では、今日御紹介した品物を、画像でもう一度どうぞ。なお、角度を変えて写したので、上の画像とは、色目がかなり違って見えることをお許し願いたい。
中島みゆきさんが歌う「糸」。なぜめぐり合うのか、いつめぐり合うのか、人は誰も知らない。遠い空の下で生きてきた、違う二つの人生は、ある時偶然に重なり合う。そして、経と緯、二本の紡いだ糸は、家族という名前の布を織りなす。
私が生まれる遥か100年ほど前、祖父と祖母が出会い、結ばれました。志半ば、若くして異国の地で亡くなった祖父は、私の母を残します。祖母は、切れ掛かった糸を懸命に紡いで、大切な布を守りました。そして母は、父と出会い、新たな布を織りなして、私が生まれます。
「糸」の最後の歌詞に、「逢うべき糸に、出逢えることを、人は仕合わせと、呼びます」とあります。「仕合わせ」とは、偶然の良い出会いという意味です。一つの家族には、それこそ数え切れないほどの「仕合わせ」があって、今があると思うのです。
私が今、ここで生きているのは、多くの「仕合わせ」があるからこそ。だから、生まれてきたことだけでも、奇跡であり、それはとても「幸せなこと」と思います。
今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。