バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

8月のコーディネート  麻織物と捨松のしゃれ帯で、夏を惜しむ

2017.08 28

奥会津にはまだ、日本の原風景とも言うべき、懐かしい姿が残っている。四季折々の美しい風景の中で、自然の恵みを受けながら生きる素朴な暮らしが、そこにはある。

会津若松と新潟の小出を結ぶ只見(ただみ)線は、越後山地の間を流れる破間(はぶるま)川や只見川に沿って走る。この沿線には、戦後逼迫していた電力需要を解消するため、全部で10のダム(片門・柳津・宮下・上田・本名・滝・只見・奥只見・大鳥・田子倉)が建設された。列車は、川とダム湖を鉄橋で何回も渡るために、車窓からは眼下に水面が見える。

初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色。季節ごとに水面に映す色を変える。この車窓の美しさは、数ある鉄道路線の中でも、一、二を競うものであろう。

 

バイク呉服屋も、度々この奥会津を訪ねている。季節は、紅葉が終わる晩秋や、雪に埋もれる2月頃。カサカサと落葉を踏み、あるいは雪をかき分けながら、静かな村々を歩く。南会津の木賊(以前、このブログの「むかしたび」でご紹介した)や湯の花・小豆、奥会津の玉梨・八町・大塩など、各所に残るひなびた共同湯に浸り、独り悦に入った記憶が、今も鮮明に残っている。

そんな中で、苧麻(ちょま)の産地・昭和村を訪ねたのは、もう30年以上も前の冬のことだ。この時はまず、玉梨と八町の共同湯へ向かった。只見線の会津川口駅で降りて、国道400号を6キロほど歩くと、この二つの湯が野尻川の両岸に見えてくる。どちらも、トタン吹きで何の飾り気もない、地元の人たちの湯。料金に決めがなく、置いてある箱の中に百円ずつ入れたことを思い出す。

雪道で凍えた体を、ふたっ風呂浴びて温めた後、さらに国道を10キロほど歩いて着いたところが、昭和村だった。この日は、当時出来たばかりの町営温泉・しらかば荘に泊まったが、その施設内には、「からむし織」という、不思議な織物が置かれていた。だがこの時は、家業を継ぐことを露ほどにも考えていなかったので、それが何なのか、特別関心を寄せることは無かった。

 

からむしを、麻織物の原料・苧麻と知ったのは、もちろん呉服屋になってからのことだ。イラクサ科の多年草で、別名青苧(あおそ)と呼ぶ。昭和村のからむし生産は、室町中期と古く、長く越後の麻織物原料として供給されてきた。だが、輸入ラミー糸が原料の主流になったことや、麻織物そのものの需要の不振に伴い、危機を迎える。特にからむし栽培農家の減少と、糸作り技術者の後継者不足は、深刻であった。

そこで村では、1994(平成4)年から、「織姫体験生制度」という後継者育成制度を設ける。これは全国から、「からむし織」に関心のある若者を迎えて、苧麻作りから、糸績み、さらに製織までを学んでもらおうという試みである。原料から、製品化、そして販売までの一貫した仕事を若い人が担うことで、人とモノの双方を次代に繋ごうとしたのだ。

制度実施から20年が過ぎ、この制度を利用して、技術を習得し、村に定住した人は、現在16名を数える。原料地だった昭和村は、からむし織物の生産地としての役割も果たしつつある。これを見ると、難しい伝統産業品継承の、一つのモデルケースになりそうである。

 

8月も終わりに近づいてしまったが、今日は、今夏のコーディネートの最後として、麻織物と、それに合わせる夏のおしゃれ帯を、取り上げることにしよう。三つの産地の麻キモノを使い、それぞれの雰囲気に合わせて帯合わせを考えてみた。ご覧を頂き、来年の薄物揃えの参考にして頂ければ、と思う。

 

(白・ベージュ縞 小千谷縮  芥子色 椰子の実模様 櫛織八寸帯)

現存する繊維の中で、麻はもっとも古い。古代エジプトでは、紀元前8000年前には、すでに繊維として使用されていたことが判っている。日本でも、縄文草創期には、すでに存在が確認されており、縄文人が様々なモノに、この植物を利用していたことが想像出来る。

縄文時代の遺物と言えば、まず土器が挙げられるが、縄文=縄の目と名前が付いたのは、土製の器の表面に、縄のような模様が見えたからである。この模様は、糸を撚った縄を器に巻きつけ、押し付けたり、転がしたりすることで生まれる。縄の形状も、糸の撚り方一つで変わるため、それが土器の様々な文様となって表れてくる。

 

若狭湾に面した美方湖の畔に広がる福井県・鳥浜貝塚は、今から、5000~12000年前の縄文遺跡である。ここからは、縄文人の生活が類推出来るような、貴重な遺物が沢山発見されている。その数は、1300点以上あり、保存状態も良かったことから、この貝塚の遺物は「縄文のタイムカプセル」と呼ばれることもある。

遺物は、原型をとどめたままの丸木舟や、赤いうるしを塗った装飾品など、他には見られない貴重なモノも沢山あるが、その中に6本の縄も含まれている。この縄の中で、2本が麻素材であった。もちろん、はっきり何に使われたものかは、判っていない。しかし、土器の縄目文様を表す時に使ったモノ、とも十分想像がつく。とすれば、すでに5000年以上も前から、麻という素材が繊維として役割を果たしていたことになる。

 

麻は、弥生期になると、布として姿を現わし、その後神代に続く時代では、欠かせない特別な繊維となっていく。

皆様は、神社の賽銭箱の上に、大きな縄が吊るされているのを、お気付きかと思う。この注連縄(しめなわ)は、神の領域である寝殿と、現世とを分ける結界に置かれる目印の役割を果たしている。この縄の素材が、麻なのだ。また、御祓いの時に、神主が左右に振る白木の棒があるが、これが大幣(おおぬさ)で、やはり麻と紙で出来ている。このように、麻は神事には欠かせない素材であり、使われる紙や布などを総称して、大麻(おおぬさ)と呼ばれている。

麻の歴史を顧みてると、いつまでも終わらないので、コーディネートに稿を進めよう。

 

(濃藍無地 小千谷縮・杉山織物  白地 縞に井桁模様 夏八寸帯・帯屋捨松)

呉服屋が扱う最もポピュラーな麻織物といえば、この小千谷縮であろう。価格的にも、4万~6万円台と廉価であり、一番気軽に「麻」という素材の心地よさを感じて頂ける品物かと思う。

小千谷縮のルーツは、越後上布にある。雪深い越後地方は、古くから麻の栽培が盛んで、各農家では自家用として、麻織物を生産していた。越後上布は、10世紀後半にはすでに織り始めてられ、流通していたことが、平安期の律令細則・延喜式の中にも見える。小千谷縮は、1670(寛文10)年に来訪した、播州赤穂の浪士・堀次郎将俊が、越後上布の技法を応用して作り上げたものとされる。

堀が改良した縮は、緯糸に強撚糸を使って織ることで、布面に細かいシボを生みだした。この生地面のシャリ感が、麻繊維の持つ冷たい肌触りと相まって、独特の涼やかな着心地となったのである。

江戸中期の明和年間(1770年頃)には、江戸城の本丸御召御用縮となり、諸大名は、夏に江戸城へ登城する時には、小千谷縮の裃を着用することが義務付けられたのである。この頃の生産反数は、実に20万反を越えていたというから、大変な需要があったものである。

現在原料は、苧麻の国内生産が限られ、(本州では、最初にご紹介した会津の昭和村のみ、あとは沖縄・宮古島で僅かに生産されている)、しかも高価なことから、フィリピンやインドネシアなどから輸入されたラミーの紡績糸に頼っている。

 

小千谷の無地モノの中でも、もっともオーソドックスな濃藍色に、白地の幾何学的な帯を合わせてみた。薄物の着姿として、藍や濃紺と白の組み合わせは鉄板で、どんな方が着用しても、涼やかな着姿を演出出来るように思う。

この無地モノは、男女兼用で、どちらでも使うことが出来る。「はじめての麻キモノ」を試してみる方には、まずこんな品物をお奨めしたい。帯模様は、少し大きめな絣のような井桁模様を交互に配して、そこに細い縞を五本付けている。無地だけに、帯の工夫一つで、様々な着姿が楽しめ、バリエーションが広がる。

 

(白と黄色縞 小千谷縮・杉山織物  芥子色椰子模様 櫛織夏八寸帯・帯屋捨松)

こちらは、黄色と白の縞縮。縞というよりは、ストライプと言ったほうが良いような、モダンな配色。鰹縞の場合は、鰹の背中のように、藍で段々にぼかされた縞だが、こちらは、白と黄色、そしてその中間色のクリーム色を使い、段々ぼかしになっている。

帯は、夏帯には珍しい濃い目の芥子色。捨松では、この不思議な植物文様のモチーフを、椰子の木としているが、図案化されすぎてよくわからない。ただ、南方系の植物のイメージは確かにある。夏の帯模様には、熱帯植物もありということだろうか。

このコーディネートは、キモノの縞模様の黄色がポイント。この色に合わせて、帯を考えてみた。黄系の色は、どちらかと言えば暑苦しく感じられるが、合わせてみると、意外にすっきりとしている。これは、すっと伸びている椰子の木のせいだろうか。

 

(水色横段暈し 近江麻縮・滋賀麻工業  濃紫地大葡萄模様 夏八寸帯・帯屋捨松)

近江地方の麻織物の歴史も、古い。中心地は、琵琶湖東岸の能登川や野洲である。すでに室町期の天正年間(1580年頃)には、愛知(えち)や神崎で生産が始まっていたが、江戸期になると、織り上げた麻を天日に晒して漂白する天然の麻布・「高宮布(野洲晒)」の生産を始める。

この麻布は上質で、越後縮・奈良晒・越中布と並んで、江戸期の四大麻布の一つ。彦根藩では、これを幕府への献上品として重要視し、麻布を検査する役所を特別に設けて、質の保全に万全を期していた。その後生産は拡大し、明治中期には、年間三十万反を織り出していたが、戦後麻織物の急速な衰退に伴い、生産量は激減してしまった。

近江縮は、小千谷縮と同様、経糸にラミー糸を、緯糸には、強撚糸を使う。また、経糸の一本一本を、コンニャク芋を粉にして糊にした「蒟蒻糊」で覆う。これにより織生地に光沢が出て、麻織特有の、肌を刺すようなチクチクとした感触を防ぐことが出来る。麻のシボ感を出しながら、滑らかな着心地も感じることが出来る、優れた工夫である。

上の品物は、縮には珍しい横段縞。大概麻キモノは、どんな縞でもほとんど縦なのだが、これは横で、霞のような色のぼかしが付いている。色は夏らしく、白と空色、薄い群青が基調となっている。近江縮のふるさと・琵琶湖の水面を思わせるような配色。

優しい雰囲気のキモノに対して、帯は大胆な葡萄模様を使ってみる。ただし、葡萄とは言っても実は申し訳程度で、ほとんどが葉。しかも葉脈をきっちり織り出した、クセのある図案である。帯で個性を出すコーディネートの、最たるものと言えようか。

 

(黒地細縞 能登上布・山崎織工場  白地市松蝶模様 夏八寸帯・帯屋捨松)

能登の麻織は、小千谷や近江よりも古く、遠く大和王権時代まで遡ることが出来るが、それはこの地方が、かなり以前から原料の苧麻の栽培地だったことを示している。

701(大宝元)年に制定された大宝律令は、日本で初めて体系化された法令。ここで、租・庸・調などの租税制度も初めて整えられ、律令国家の根幹を成すものとなっていった。

この中の「調」は、17~20歳の男子に課せられた税で、納めるものは布。この時代の布素材は、絹と麻だが、やはり絹は特別のモノで、「調絹」として特別に扱われていた。だから、一般の人が普通に納めていたものは、「麻」だったのである。このことを考えれば、すでにこの時代には、いかに麻布がポピュラーな織物だったかが、理解出来る。そしてまた、麻原料の苧麻の栽培が、各地に広がっていたことも、証明される。

蛇足にはなるが、この時代、人々がどのくらいの調布を納めるか、調べてみた。絹だと、巾が1尺9寸で長さが6丈。現在の一疋分(二反分)になるが、これだけで六人分の調となる。麻の場合だと、巾が2尺4寸で、長さは4丈2尺。現在ならば八掛付きの着尺の長さだが、これを一反納めると、一人分の調になる。このように、絹と麻の布の価値には、大きな差があり、いかに絹が貴重な繊維だったかが、判る。

804(延暦23)年の、日本書紀・桓武天皇条には、能登の国で麻が不作だったために、今年の調は例年の10分の7に減免する旨の記載が見える。麻栽培は、各地に広がっていたものの、とりわけ能登の不作は、調全体の徴収にも大きな影響があったと考えられ、それは、ここを重要な産地として、国が認めていたことに他ならない。

藍と茶、濃グレーに配色された、細いみじん縞の品物。反物を広げてかざすと、ほとんど素通しになるような透け感が、画像からも見て取れる。

 

かように、能登の麻というものは、古来より国にとっても重要な産物であったが、織物生産自体は自家用に限られ、あくまでも原料の供給地としての、役割を担っていたにすぎない。

ここで、商品として織物生産を始めたのは、江戸の文化年間(1800年頃)である。それまで、能登産の麻の大部分は、近江に送られ、近江上布の原料となっていた。だが、買い付けに来る近江の商人とは、何度となく価格を巡ってトラブルを起こす。それが自ら製品を作って販売しようと考えるきっかけである。

そうして、製織技術を磨くために、職人を近江から呼び寄せ、独自の織物生産が始まった。能登藩では、麻織物のライバル・越後縮の輸入を禁止するような、保護奨励政策を取ったため、なお生産に拍車が掛かった。そして世間からは、麻織の中でも上質なモノと捉えられるようになり、最盛期の昭和初期には、生産数が40万反を越えた。名実共に、日本一の麻織物産地となったのである。

だが、他の麻織物と同様に、戦後急速な需要の減退により、一気に織場が閉鎖され、1988(昭和63)年には組合も解散。ついには、山崎織工場一軒だけとなってしまった。今なお、呉服屋で能登上布を扱うことが出来るのは、この織屋に、技術を繋ぐ若い織手が育っているからだ。

この上布の縞は細く、色も地味な配色のため、遠目からは黒一色のように見える。能登上布独特の、櫛押捺染やロール捺染を使う絣モノではないが、十分「蝉の羽」の軽やかさは感じられる。

帯は、市松格子に区切られた蝶模様を合わせてみる。キモノが単調であるだけに、着姿は帯で決まる。渋いみじん縞だからこそ、モダンな図案が面白いように思う。蝶のデザインや配色も個性的で、捨松らしい。市松に模様を切り取る構図は、帯を立体的に見せる効果がある。また白地だけに、爽やかさも感じられるだろう。

小物は、蝶の配色の中のピンクや藤色を使ってみた。こうすると、若い方にも着用出来そうだ。キモノだけを見ると、とても地味だが、帯や小物使いで年齢はかなり広がる。和装コーディネートの楽しさは、こんなところにある。

 

さすがに、三つの産地の麻織物をご紹介すると、話が長くなり、まとまりが付かない。画像では、生地の質感までお伝えすることは出来ないが、同じ麻織物でも、触れてみるとかなり違いがある。着用すれば、なお判るだろう。

今年ももうすぐ夏が終わるが、皆様にはぜひ来年、麻を試して頂きたい。風が通り、軽やかな着心地は、この国が形作られた頃から、誰もが認めてきた。もちろん、現代人にも、同じように感じられるに違いない。

 

麻には二十種類もあり、原料となる植物によって性質も特徴も異なり、従って用途も変わります。繊維材料となるのは、今日お話した苧麻・からむし(ラミー・Ramie)と、亜麻(リネン・Rinen)。黄麻(ジュート・Jyte)は麻袋などの資材製品に、大麻(ヘンプ・Hemp)は、今日の話の中でも少し触れたように、神社のしめなわなど、神事に使われています。

天然繊維の中では、最も強度があり、吸水や吸湿に優れ、発散も早いとなれば、多様に使われるのも理解できますね。

中でも大麻は、日本固有の宗教・神道で、重要な役割を果たしてきた、尊重すべき由緒正しいもの。それを吸引して快楽を得る道具にするとは、「もってのほか」です。その不埒な行為は、誰も見てなくても、天上からは、天照大神が見てますよ。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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