バイク呉服屋は時折、ひとりでふらりと旅に出る。大抵、人知れぬ山奥の温泉や、誰も来ない小さな沼や湖の畔で、数日を過ごす。一応携帯は持っては行くが、掛かってきた電話に出ることはほぼない。家内には、居場所を告げて出掛けるが、よほど緊急のことでも起きない限り、連絡をしてはこない。
私が使っているのは、スマホではなくガラケーであり、普段でも携帯からメールを打たない。だから、仕事の上で私と関わりのある人たちには、不便をかけることも多いが、それでも自分のスタイルを変えることは出来ない。
プライベートの時間の中では、他人と頻繁にやり取りすることが、実に煩わしい。仕事をしている間は、致し方ないが、それでも世間から見れば最低限の関わり方であろう。
今の社会では、情報を得ようとすれば、いつどんな場所にいても可能だが、耳をふさぐ事も簡単に出来る。それは、「便利な道具」を持たなければ良いだけだ。自分にとって、必要最低限のことだけが判れば、生きていく不便さは何も感じない。
中国・南北朝時代の詩人・陶淵明の「桃花源記」は、世俗を離れた理想郷・桃源郷のことを記しているが、ここに住む者は皆、社会から受ける全ての束縛から離れ、自由に楽しんで生きている。晴れた日は、少しの土地を耕して自給自足をし、雨が降れば家の中で書に親しむ。社会から隔絶し、晴耕雨読の生活をすること、すなわち「隠逸(いんいつ)生活」こそが、人間らしく生きる理想と説く。
桃源郷は、桃の花が咲く水の豊かな土地。古来より中国では、桃は「不老長寿」をもたらす植物として、認識されていた。そして、これを食べると仙人になれるとの言い伝えもある。そんな桃の花が咲き誇る場所は、やはり人らしく生きる理想郷なのである。
今、甲府盆地は、桃の花が盛りで、扇状地の山際から見ると、ピンクの絨毯を敷き詰めたように見える。今年は春先の気温が低かったことで、鮮やかな桃のピンクの花と、淡い桜のピンクの花、そしてスモモの白い花が時を同じくして咲き誇り、なお美しい。
まさに風景は、桃源郷そのものだが、桃園を見下ろす山の斜面には、新しい大きな穴が幾つも開いている。これは、10年後に開業する、リニア中央新幹線のトンネル。東京と名古屋の間をわずか40分で結ぶ、時速500キロの「夢の鉄道」をいにしえの仙人が見れば、思わず腰を抜かしてしまうだろう。
つまらない話が長くなってしまったが、前回書き終わらなかったので、今日も、京都・一人仕入れの続きを書く。読まれる方は、飽きてしまったかもしれないが、お許しを頂きたい。
紫紘と米沢の買継ぎ問屋・粟野商事の合同展示会の看板。
今河織物さんで、つい長居をしてしまったので、時刻はすでに午後3時を廻っている。最後に訪ねる予定の紫紘の展示会は、確か5時までのはず。まだ時間に余裕はあるが、真剣に品物を選ぶとなれば少し慌しい。取り急ぎ、山田さんの車で、西陣から室町まで戻り、会場の入り口で降ろしてもらう。そこで彼女に、丸一日お付き合い頂いたことに対するお礼を述べ、別れる。
会場は、三条通りを西へ入り、室町通りを少し越えたところ。呉服問屋がひしめく室町の、ほぼ真ん中あたりのビルの5階。今回は、紫紘単独ではなく、米沢の買継問屋である粟野(あわの)商事との、合同展示会。粟野の扱う品物は、やはり会社に近い、紅花紬や長井、白鷹紬など、いわゆる置賜地方の織物が中心である。
呉服問屋の展示会では、今回のように何社かが集まって品物を持ち寄り、共同開催することもよくある。但しその時には、なるべくアイテムが重ならないよう、相手を選ぶ。例えば、4社で展示会を開くとすれば、染・紬・帯・小物から1社ずつという具合だ。
西陣を代表する高級帯メーカー・紫紘と、米沢の紬問屋・粟野商事では、扱う品物がぶつかりあうことはない。だから、訪ねていく小売屋も、気兼ねなく双方の品物を見ることが出来る。紫紘と粟野は、年に2,3度合同で展示会を開く。私も、3年ほど前の共催展示会をきっかけにして、粟野商事から、山形の草木染紬などを仕入れている。
会場は、5階のワンフロアを全て使っているので、かなり広い。手前には、紫紘の帯が並び、奥には、粟野商事が扱う山形の紬類が飾られている。
まず、紫紘の品物を見る。私の相手をしてくれたのは、山口伊太郎翁のお孫さん・野中兄弟のお兄ちゃんの方である。今日の目的は、振袖や30代までの訪問着・付下げに使える、若向きの白地の帯。ピタリとキモノを押さえ込むような、紫紘らしい古典模様を選びたい。
先ほどやまくまさんのところで、梅垣織物の派手な黒地を選んだが、模様が帯地全体に広がっている重厚な意匠だったので、今度は地の白さが生きるすっきりした図案を考える。価格は、先の梅垣の帯とほぼ同じくらいで、40万円台で売れるものが理想。
30本ほどあった派手モノの中で、大七宝の中に花菱が組み込まれている図案と、松だけを連ねた図案が、目に付いた。双方とも白地である。七宝花菱文は、以前黒地のものを扱ったことがあったが、松重ね文は、これまで扱いがない。
松重ねは、極めて単純な図案であるが、その分キリリと見える。松を縁取る配色も、緑・紫・橙の三色だけのシンプルなもの。清潔な白地の良さを存分に生かしている。ということで、この松の帯に決める。同じ図案で、地色に濃朱を使ったものも見せてもらったが、こちらはかわいい印象。いつかこれも扱ってみたい。
ウイリアム・モリスのデザインを題材にとった、新しい感覚の帯が並ぶ。
一方では、山口伊太郎の描いた図案を復元した、いかにも紫紘らしい日本的な帯。
上の画像で、衣桁の右側に掛けてある帯の文様を拡大してみた。道長取の敷紙の上に、源氏物語・若紫の巻を織り連ねている。山口伊太郎氏が名付けた紫紘という社名は、「紫を紡ぐ」という意味があり、会社のシンボルマークも、源氏香の図の若紫を使っている。
伊太郎氏が精魂を込めて織り出した「源氏物語絵巻」を彷彿とさせるような、帯姿。これほど、紫紘らしい図案もあまりないだろう。
こちらは、平安王朝の高貴な方の愛馬のような、白馬を織り出した個性的な引箔帯。
馬の背に置かれた緑色の鞍を見ると、一部分だけは下の模様が透けている。紗のようにも見える布を通して、馬の白い体が映る。こんなところにも、紫紘の高い織技術がうかがえる。
精緻な織を眺めているうちに、もう一本帯を求めたくなってきた。今度は、30代から50代までの方が、フォーマルの席で幅広く使えるような、使い勝手の良いものを探そう。そこで見つけたのが、「太子御守袋文」と命名された文様の帯。野中くんによれば、この図案も伊太郎翁が考案したもので、改めて復刻して織り出したと言う。
図案は、七宝文様を連ねたオーソドックスなものだが、帯に付けてある名前から考えると、この文様は、聖徳太子が身につけていた「お守り袋」に由来するのだろう。
バイク呉服屋が大好きな七宝文。そういえば今日選んできた帯の中には、この文様が一本も無いはずだ。最後の最後で、この帯に出会ったのが運の尽きであり、思わず仕入れてしまった。これでまた、支払いに苦慮しなければならない。
衣桁に掛かっているキモノは、野々花工房の手による、藍染紬の訪問着。他に、サクラやサフラン、茜など草木染100%の紬が並ぶ。
今回、二社の合同展示会に来る目的の一つが、野々花工房の品物を見ること。粟野商事は米沢の地場問屋なので、紅花紬をはじめとして、山形県の織物を数多く扱う。また、季織苑工房というブランド名で、オリジナル品も数多く生産している。
野々花工房の創業は、1851(安政5)年と古いが、現在のような、天然染料にこだわるモノ作りを始めたのが、5代目の諏訪好風氏。「野々花」という工房の名前に相応しく、何気なく咲く野花の色を、自然な姿として織物の上で表現することに、精魂を傾けている。
これまで私が扱った野々花工房の作品は、それほど多くは無い。紅花・サクラ・サクランボ・梔子・藍などだが、どれを見ても、染料を作る人の息遣いが聞こえるような、優しい色合いだった。植物染料は、使う媒染剤により、色が変わる。けれども、色調はあくまで控えめで主張しすぎず、自然の色そのものを感じ取ることが出来る。
この日会場には、好風氏の後を継いでいる、6代目の豪一氏が来られているので、話を伺いながら、品物を探すことが出来る。これも、今回の仕入れの楽しみの一つだった。
野々花工房の6代目、諏訪豪一さん。私より20歳くらい若いが、落ち着いた物腰。
野々花工房では、30年ほど前から藍染を始め、今では8つもの藍甕を持って藍建て(藍の染料作り)を行っている。藍の原料となるものは、蒅(すくも)という藍葉を発酵させたもの。
蒅作りは大変手の掛かる作業だ。まず、寝床と呼ばれる土間に、藍葉を積んで水を撒き、上に布団と呼ぶ、莚を掛ける。5日ほど経って水気が無くなると、積まれた藍葉を崩して、再度水を注いで混ぜ合わせ、元のように積んでおく。これを20回ほどくり返して、葉藍を発酵させたものが、蒅となる。この仕事で最も難しいのは、注ぐ水の分量。多すぎると発酵が止まり、少なすぎると遅れる。原料の出来が、染料の出来を左右する。蒅農家の長年の勘が、大きな頼りとなる。
藍甕にこの蒅を入れ、そこに灰汁液を合わせて発酵させ、藍を建てる。約一週間ほどで、染料が出来上がるが、その時の気温や湿度で色は変化する。同じような工程を踏んでも、決して同じ色にならない。時には、発酵を促進させるために酒を入れてやる。発酵が進むと、藍甕の中が泡立ってくる。これが「藍華」だ。
豪一さんは、今回出品している藍染料の出来は、非常に良いものだったと話す。毎年同じように繰り返す藍建ては、蒅の出来や、甕で発酵する時の気候に大きく左右され、なかなか思うようにはならない。
こんな話を聞くうちに、藍と五倍子を使った真綿紬に目が止まる。濃淡三色の鰹縞の中に、雪の結晶のような絣が規則的に飛んでいる。雪深い米沢の織物らしい模様で、それでいてモダンさも感じられる。これまでは、単純な縞や格子柄ばかり仕入れていたが、思い切って絣を扱ってみよう。この藍絣のほかにもう一反、サクラ染の紬も買い入れることにした。
こうして、今回予定していた仕入の全てを終えた。すでに、日は西に傾き、夕闇が迫っている。8時間かけて、2つの展示会場(松寿苑・紫紘・粟野商事)と2軒の織屋(捨松・今河織物)、そして案内をしてくれたやまくまさんの仕事場を廻った。さすがに、疲労困憊である。
さあ、仕事が終わった。地下鉄に乗るため、烏丸通りに出た途端、「腹が、減った」。突然の、井の頭五郎状態である。新幹線に乗る前に、何か腹に収めたい。そうしなければ、腹が暴動を起こしかねず、東京まで持たない。
孤独のグルメでは、「よし、店を探そう」ということになるが、バイク呉服屋は、どこに行けば良いのか、すでに目途が付いている。
烏丸通りから、蛸薬師通りを西に入ってすぐのところにある「マエダコーヒー本店」
京都には、伝統ある個性的な喫茶店が少なくない。マエダコーヒーもその一軒だ。ここは室町の問屋街に近く、地下鉄・四条駅にも近い。しかも、煙草を心置きなく味わえる席もちゃんと用意されていて、バイク呉服屋のような愛煙家にとっては、まさにオアシスである。
「丸に三つ柏紋」が染め抜かれた幕や、店の構えだけを見れば、とても喫茶店には見えない。それもそのはずで、以前ここで商いをしていたのは呉服屋だった。1981(昭和56)年、マエダコーヒーが建物を改装し、店を開いた。いかにも、呉服商いのメッカ・室町らしい話である。
一通り仕入れが終わって、疲れを癒したい時や、泊まりで仕事に来たときの朝食スポットとして、よくここにやって来る。私にとっては、お馴染みの店である。
ホットミックスサンド・970円とオリジナルブレンドコーヒー・龍之介
パンの両側をカリっと焼き、中に厚焼き玉子・ハム・トマト・レタス・キュウリを挟み込んだ、ボリュームたっぷりのサンドウィッチ。創業した当時からあるメニューの一つ。京都の人に、長く愛され続けてきた味だ。
龍之介と名付けられたコーヒーの味は、少し酸味があり、濃く感じられる。このマエダコーヒーもそうだが、もう一軒の老舗・イノダコーヒーもしっかりとした、いかにもコーヒーらしい一杯を出す。京都人は、濃いめがお好きなのだろうか。
サンドウィッチを拡大してみた。一切れの大きなこと。その食べ応えは十分。千切りキャベツとポテトサラダも添えてある。食べ終えて煙をゆっくりくゆらしているうちに、疲労感が増してきた。さあ、急いで東京に帰ろう。明日は、東京の仕入先を4軒ほど廻らなくてはならない。
京都駅で、家内と妹に頼まれた抹茶スイーツ・「茶の菓」と、家内の父とその家に厄介になっている娘達に、「柿の葉すし」と「赤福」を買う。出張土産は、いつも同じである。自由席が混んでいそうな新幹線を一本見送り、新大阪始発の「のぞみ」で帰る。座った途端に眠ってしまい、気が付いたら品川だった。時計の針は、もう10時近くを指していた。
読者の皆様には、三回にわたって、私の仕入れに同行して頂きました。弾丸仕入れの様子で、私がどんな濃密な一日を京都で過ごしているか、わかって頂けたと思います。
仕入れというのは、呉服屋の暖簾を掛けていれば、絶対に欠かすことの出来ない大切な仕事です。けれども、呉服屋の品物は、決してすぐに売れるものではありません。仕入れをして、1年以内に売れていけば上出来で、3年くらいは平気で掛かります。中には、10年以上棚の中に居座ることもあります。
しかし、実際に自分の目で確かめ、気に入って買い入れた品物には、どれも思い入れがあります。そして、リスクを背負って仕入れをしない限り、呉服屋としての成長もありません。品物を選ぶ力を付け、探す努力をする。そして、モノを作った職人の思いを消費者に伝える。これは、きちんと仕入れをしなければ、身に付かないことです。
呉服屋としての矜持は、「自分で品物を買い入れることから始まる」と言っても過言ではないでしょう。
今日も、長い話に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。