バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

原生林の中で、静かにひそむ「昭和」の孤湯  幌加温泉 

2016.12 14

便利なモノを使い始めると、もうそれ無しには生活出来なくなる。そして、それが無かった時代のことなど、思い出すこともなくなる。人は、不便なことが解消されてしまうと、傲慢になる。「当たり前」のことが出来なくなることに、我慢がならないからだ。

携帯電話やPCを持たずに生活するのは、もはや不可能と言っても良い。人と人、あるいは人と情報を繋ぐ手段として、欠かすことは出来ない道具である。だが、この「魔法の杖」のような機械が普及したのは、ほんの十数年前からであり、スマートフォンに至っては、ここ5、6年の間である。

 

では、もし関わる相手が、携帯やPCを持っていなかったら、どのように対応するのか。もちろん、家に電話があれば、連絡は付けられるし、手紙という手段もある。だが、携帯のように「いつでも、すぐに」という訳には、いかない。

すでに社会の通念として、当たり前になっていることでも、相手がそれを拒否していれば、相手に合わせるほかはない。もし、それが嫌ならば、関わりを諦めざるを得ない。

「他人や社会と、どのような繋がり方をしていくか」というのは、人それぞれに違う。もちろん、今の社会で普通に生きようとすれば、相手に合わせる他は無い。だが、それを拒むことも自由である。少しの孤立を恐れなければ、むしろ、人との繋がり方は、心地よいものになるだろう。なぜなら、不便さを乗り越えて接しくれる人は、心からの繋がりを求めている人でもあるからだ。

 

昔ほどではないが、やはり師走はせわしない。追われていると、ふと仕事から離れたくなる時間が欲しくなる。ということで、今日は「むかしたび」の稿を書くことにした。呉服に関わる話が出来ないのは申し訳ないが、勝手をお許し頂きたい。

ご紹介する場所は、不便さを乗り越えなければ辿り着くことはない、僻遠の地にひっそりと佇む温泉。もちろん、携帯電話は圏外で、ある理由から電話そのものが使い難い。

 

(北海道 河東郡上士幌町 幌加温泉・鹿の谷)

初めて、幌加温泉を訪ねたのは、1982(昭和57)年・秋のこと。もう、34年も前になる。働きながら、北海道をさまよっていた若い頃のことだ。ここは、私が愛してやまない静寂の地・十勝三股に近い。だから、三股に来るたび、ここに泊まった。

三股は、「作りモノ」が何も無く、ありのままの自然を残す場所だが、幌加温泉も同じである。原生林に囲まれた山峡の地に、湯だけがこんこんと湧き出している。ここには、一般的な温泉地のような、客をもてなす施設やサービスは何も無いし、出来はしない。おそらく、不便なことに我慢がならない者は、近づくことさえ難しいだろう。この宿はそもそも、大勢の客が集まることを拒んでいる。「来る客に媚を売る」ようなことは、一つも無いのだ。

もちろん、周囲に家はなく、宿一軒だけ。今ここを守っているのは、86歳になるおばあちゃんと一匹の猫、そしてエゾシカの群れ。「静寂だけが支配する孤高の湯」、それが幌加温泉である。

今年の10月末、23年ぶりに訪ねたが、まるで、「時を止めたか」のように、何もかもが昔のままであった。隔絶した土地で、静かに、そしてひそかに守られているこの湯のことを、これからお話することにしよう。

 

まず、幌加温泉の位置から、話を始める。上の鉄道地図は、1981(昭和56)年9月の交通公社発行・国鉄時刻表に記載されているもの。

帯広から、大雪山系に向かって北に伸びていた士幌線。終着駅だった十勝三股は、最盛期には1200人以上が住んでいた林業の村。産業の衰退と同時に人が流出。この昭和50年代半ばには、二家族6人にまで減っていた。(三股については、「風が聞こえる静寂」の稿をお読み頂きたい)

幌加温泉のある幌加地区は、地図でわかるように、三股の一つ手前の駅。距離で言えば、7キロほど手前になる。ここも、三股同様に林業従事者が多く住んだところで、1962(昭和37)年頃には、300人以上の住民がいた。駅前には商店や飲食店もあり、建物も80軒以上あった。

 

当時の時刻表。1978(昭和53)年12月から、人口減少が著しい糠平と十勝三股の間は、鉄路の維持経費を節約するために、国鉄は代行バスを運行した。(このバスの運転手が、三股に在住していた田中康夫さんだった)

代行バスは、時刻表の記載通りに運行され、すでに誰も住人がいなくなった幌加駅にも立ち寄った。駅のそばには、踏み切りがあり、そこには「当分の間、列車はここを通りません」と書かれた看板が立っていた。にも関わらず、バスは、必ず一旦停車し、踏み切りを渡った。時刻表の時間よりも、早く着くことが多く、無人の幌加駅前で、時間調節のために長く停車することが多かった。

士幌線が廃止されたのは、1987(昭和62)年3月。国鉄がJRへと生まれ変わったのが、同年4月なので、国鉄とともに、その使命を果たし終えた鉄路であった。当時、一日4本の普通列車が運行されていたが、三股から帯広方面への最終列車は、午後の3時。これを逃すと、翌朝まで三股からは出られない。訪ねる者の利便性など全く考慮されない、変則的なダイヤであった。

 

幌加温泉は、幌加駅からは3キロほどの距離。鉄路と並行して走っている国道273号(糠平国道)から、わき道に入る。温泉までの道に、どんな風景が広がっているのか、代行バスの起点だった糠平から辿っていくことにする。

旧・国鉄糠平駅前にある十勝バスの営業所。隣接して、東大雪自然博物館がある。ここには、士幌線に関わる資料が多く残っていて、往時を振り返ることが出来る。

糠平から、幌加、十勝三股を経由し、三国峠を抜けて旭川へと向かうバスは、一日一便。ノースライナー・みくにと名前は付いているが、どれくらい乗客がいるのだろう。

糠平は、こじんまりとした温泉街で、国道の両側には、10軒ほどの宿が並んでいる。すっかり色付いた並木が美しいが、通る車も少なく、閑散としている。

旧駅から500mほど進み、温泉街のはずれまでくると、左にスキー場、右に糠平小学校がある。三股の田中さんの娘さん達も、代行バスでここまで通っていた。現在の児童数は7人。学校を通り過ぎると、国道は高度を上げる。ここから、この先の上川・層雲峡までの70Kの間、ほとんど人家は無い。幌加温泉一軒と、十勝三股に二軒あるだけ。

 

国道273号は、ほぼ旧士幌線に寄り添うため、道の上からは、随所に鉄道遺構を見ることが出来る。糠平湖に入る沢伝いには、何本ものアーチ式のコンクリート橋が残る。上の画像は、三の沢橋梁。

崖を下って、湖岸に降りてみた。下から見上げると、橋の姿が、なお美しい。誰一人いない湖のほとりは、何の物音もせず、静寂に包まれている。十勝地方を襲った夏の豪雨の影響がまだ残り、湖水は赤茶色に濁っている。

すでに紅葉は終わりに近づき、周囲の山々の色は、くすみ始めている。糠平湖は、糠平ダムによって生まれた人造湖だが、自然湖のような美しさだ。もちろん、観光用の作りモノは何も無く、訪れる人はほとんどいない。

 

原生林の間を縫うようにして、大雪の山懐に深く分け入る。以前は、この道もダートで、砂埃を上げて木材運搬のトラックが走っていたことを思い出す。厳冬期になると、三股より先は通行止めとなり、行き止まりの国道であった。

 

旧幌加駅近くに残る小径。白樺の林に残る路盤の跡。この道を辿っていくと、幌加駅のプラットホームが現れる。

そぼ降る冷たい霰混じりの雨の中に佇む、旧幌加駅のホーム。地元のNPO・東大雪アーチ橋保存会の手により、駅跡が整備されている。昔、代行バスの中から見た駅前の建物は、何も残っておらず、林の中に消えている。

雨のあと、鉄路の上に虹が掛かった。この日は、気象が激しく変わり、ほんの数分の間に激しく雨が降ったかと思うと、すぐにカラリと晴れた。そして虹は、何度も繰り返し、目の前に現れた。贅沢な時間を、独り占めにしたような気がした。

 

幌加駅から少し戻って国道を歩くと、幌加温泉の入り口を示す標識が見えてくる。ここから、わき道へ入って2キロほど進めば、宿に着く。

林の中の道を30分ほど辿り、最後の急坂を上ると、山を背にした宿が見えてくる。懐かしい佇まいは、何も変わっていないように見える。

玄関脇にある、鹿の角のような「鹿の谷」の文字も、壁から突き出た煙突も、昔のままだ。民家と見間違うような木造の宿だが、奥行きはかなり広い。糠平から、およそ13キロ。ようやく、幌加温泉・鹿の谷(かのや)に着いた。

 

今秋、ここを訪ねる前に、三股の田中さんの奥さんから、この宿の状況を聞いていた。最後に訪れてから、20年以上経つので、宿の今の様子がどうなっているのか、わからなかったからである。田中さんからの話は、大変貴重な情報で、これを知らなければ、今回泊まることは、難しかったかもしれない。

宿を守っているのは、86歳のおばあちゃん一人ということ。食事は自炊であること。寝具の用意はあるが、寝袋持参でも構わないこと。そして、電話はあるが、おばあちゃんが耳が不自由になって、音がほとんど聞こえないこと。などである。

昭和の頃には、ご主人やお手伝いの方も居て、食事の用意もあり、特に予約などしなくとも泊まることが出来たのだが、この30年の間に、宿を取り巻く状況もかなり変わった。しかし、この状況の中で、宿と湯が存在出来ているのは、奇跡のようなものだ。

 

田中さんの勧めで、「往復はがき」に泊まる期間を書き入れ、鹿の谷に送ると、一週間後におばあちゃんから返事が戻ってきた。とりあえず、寝具だけは用意してもらえることになり、宿泊費は1泊4000円である。ホテル予約など、PCで簡単に出来てしまう時代に、往復はがきでなければコンタクト出来ないとは、それだけでも嬉しくなる。

客の利便さよりも、宿の事情を優先することで、守られていることがある。それは、本当にこの湯と宿を好む者だけが、ここにやって来るということだ。裏を返せば、この湯に来て、他の宿泊施設と同じようなサービスを求める者はいない、ということになる。「予約手段」に制約があるだけで、俗化はかなり免れていると言えるだろう。

 

通された部屋は、二階の四畳半の角部屋。この部屋には、30年以上前に泊まった記憶がある。窓の外には、眼下にユウンナイ川が見える。この宿は、崖のすぐ上に建てられている。建物の外観も変わっていないが、中の様子も昔とまったく同じだ。部屋はすでに、年季の入ったヒーターで暖められ、寝具も用意されている。おばあちゃんの、有難い心遣いである。

二階は全部で5部屋。一番広い部屋が8畳で、あとは6畳と4畳半。どれも同じような作りである。古いが、きちんと廊下も掃除されている。そういえば、壁にかけられている植物の絵も、昔からあった。テレビを見るための部屋が一つあるが、BS放送しか入らない。奥に、自炊用のキッチンがあり、電子レンジやトースターもある。ただし、使い方に注意しないと、ブレーカーが落ちてしまうようで、その旨を記した張り紙がある。

 

さあ、早速、風呂へ行ってみることにしよう。場所は、一階の一番奥。

突き当たりの暖簾をくぐると、脱衣場。外から光が入って、明るい。籠がきちんと置かれ、ここもきれいに掃除してある。宿は古く、傷んでいるところも沢山あるが、それでも丁寧に使おうという心くばりが、あちこちに見える。

武骨なコンクリート製の浴槽が、三つ並ぶ内湯。それぞれ成分が違い、温度も違う。

右側に大きな窓が取られていて、昼間は明るい。外には、ユウンナイ川の狭い谷が見える。コンクリートの洗い場は、湯が流れっぱなし。

脱衣場は、男女別だが、中は一緒。つまりは、混浴ということになる。女子専用の風呂は、女子脱衣場の脇にあるが、かなり小さい。日中、特に週末などは、日帰り湯の客もいるようなので、女子が入るのには躊躇されるが、泊まりであれば、客の数は知れているから、大丈夫だろう。ここへ来て、この湯に入らないのは、何とももったいない。少し大きめのタオルを持参して、ぜひ入って欲しい。

手前から、ナトリウム泉・鉄鉱泉・カルシューム泉。全て源泉そのまま。青緑色のナトリウム泉は、滑らかな肌触りで、41℃ほど。他の二つに比べて低いので、ぬるく感じる。真ん中の鉄鉱泉は、少し赤みが掛かった褐色。カルシューム泉は、白濁色でかなり熱い。画像でも、湯の色の違いが見て取れる。パイプからタライに流れている湯を使い、石鹸で体を洗う。

湧出成分の異なる湯、しかも源泉に、一度に入ることが出来る。何と贅沢なことか。おばあちゃんは、その日の天候や気温により、湯の温度を微妙に変えているという。

 

浴室の奥のドアを開けて、外の露天風呂に行ってみよう。

崖の上に作られた露天風呂は、浴室を出た先の石の道を十歩ほど歩く。この湯が、山から駆け下りた、狭い谷筋の際にあることがわかる。

石とコンクリートで固めた、素朴な作り。巾は、2m×3mの長方形。この湯の成分は、内湯とまた異なり、硫黄泉である。そのせいか、湯の色が少しだけ黄色みを帯びている。昭和の頃には、露天風呂がなく内湯だけだったのだが、平成5年に訪ねた時には、出来ていた。

すでに10月末のことで、かなり寒くなっているが、風呂は熱い。短時間に、何度も出たり入ったりする。枯れ行く山の姿を見ながら、ひとり静かに湯に浸る。忙しい毎日のことなど、全く忘れている。

湯船の中から、エゾシカの姿が見える。画像では、少し判り難いが、木の枝の下に栗毛の動物がいる。宿の屋号「鹿の谷」の名にふさわしく、湯の周りには頻繁に鹿が現れる。この夜も、宿の玄関を出てみると、いきなり目の前に3頭の大鹿がいて、かなり驚いた。冬になると、暖かい湯に惹かれるように、風呂の周りまでやってくる。猿が風呂に浸かる姿は知られているが、鹿と向き合って湯に入るのは、幌加温泉だけだ。

夜が明けたばかりの、露天。月がまだ残っている。湯の上に、落葉が沢山浮いている。

 

幌加温泉は、戦前の1928(昭和3)年、製材業を営んでいた高谷隆蔵氏が、この地に造林宿舎を建設したことに始まる。温泉宿を創業したのは、1946(昭和21)年のことで、一度焼失した後、1964(昭和39)年に、建物を建て替えている。以前は、創業者の名前を取って、「高谷温泉」と称していた。

今は休業しているが、5年前までは、この鹿の谷の他にもう一軒、「ホロカ温泉旅館」という名前の宿があった。ここは、高谷氏から温泉管理を委託された、東清一氏が1954(昭和29)年に建てたもの。

かつての、幌加温泉旅館。2011(平成23)年、宿の主人が急逝されたために、休業となった。宿の裏からは、まだ源泉があふれ出ていて、煙を上げている。

 

1973(昭和48)年になって、梅沢泰雄氏が宿を引き継ぎ、名前を「鹿の谷」と変えて、現在に至っている。今、宿を守っているおばあちゃんは、泰雄氏の夫人である。

おばあちゃんは毎朝、コーヒーを入れてくれる。この日は、上士幌の銘菓「雪鶴」と、柿が付いている。耳が不自由なので、私の話はほとんどわからない。ただ、「何も出来なくて、本当にごめんなさいね」と言うばかり。感謝したいのは、私の方。「本当に良く、この宿を守って来られたましたね」と伝えられないのが、何とももどかしい。

自炊宿とは言え、これだけの湯を一人で守ることは、難しい。おばあちゃんの縁続きの方や、宿の事情を知る客達が、仕事を助けている。この日も、帯広近郊・音更在住の縁戚の方が、手伝いに来ていた。

左が、音更から来ている手伝いのおじいちゃん。右が、宿を守るおばあちゃん。

おばあちゃんと話せないので、じいちゃんが話し相手になってくれる。不定期だが、宿と町を行き来して、仕事を手伝っているらしい。宿に必要なモノや、おばあちゃんの食料も届けているようだ。

この日は、札幌から北大の地質調査研究員が来るらしく、朝から部屋の掃除をしたり、布団の準備をしていた。ここには、地震計が設置されているが、不具合を起こして、記録が取れないらしい。それを見に来るのだそうだ。

今夏の台風豪雨の時には、おばあちゃん一人が宿にいたので、かなり心配したらしい。ただ、ここの地盤は硬いので、崩れることは無いという。また、川も幅が狭く、傾斜がきついために、あふれることも無いらしい。それでも、今まで経験したことのないような豪雨であり、連絡も付かず、大変だったようだ。

 

宿を出る朝、玄関からは、「オッパイ山」が見えた。この日の夜から、雪になり、それが今冬の根雪になった。おばあちゃんは、私の姿が見えなくなるまで、玄関先で見送っていた。だから、何度も何度も、振り返らなくてはならなかった。冬になったら、必ずまた来ると、約束したからだろうか。

 

家内によれば、幌加温泉から戻ってきてしばらくは、私が「浮世離れ」していたように見えたそうです。どんな話をしても、「心ここにあらず」という感じだったのかも知れません。

めまぐるしく移りゆく社会の中で、まだ、こんな場所が残されていることが、驚きです。梅沢のおばあちゃんが、いつまでも元気でいられるように、願わずにはいられません。冬に訪ねた時には、せめて雪下ろしのお手伝いくらいはしたい、と思っています。

 

下手くそな紀行作文を、最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。また、次回からは、浮世に(呉服屋)に戻って、稿を進めていきますので。

(幌加温泉の行き方)

帯広駅より、糠平温泉行バス(十勝バス・一日4本)で終点下車 1時間40分   さらに十勝三股方面に向かい、国道273号を歩く。約13K 所用時間は3~4時間

車の場合:旭川空港から三国峠経由で3時間ほど 帯広空港から糠平経由で2時間ほど

なお、宿の予約は、ファックスで希望日を知らせることも出来るようです。もちろん、往復はがきでも大丈夫。

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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