バイク呉服屋の忙しい日々

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バイク呉服屋女房の仕事着(6) 嫁ぐ前に作った村山大島と古い染帯

2016.11 25

11月22日は、いい夫婦の日。縁起の良い語呂合わせから、この日を選んで入籍するカップルも増えているらしい。どんな夫婦でも、新しい生活を始める前には、末永く仲良く幸せな家庭を築こうと、心に決めていると思うのだが、夫婦生活を続けるうちに、様々な歪みも生じてくる。

明治安田生命では、この日にちなんで、夫婦がお互いをどのように感じているのかアンケート調査をしているが、その結果はなかなか興味深い。

まず、現在の夫婦の関係が円満か否かを聞いたところ、75%以上が円満、まあ円満と答えている。4分の3の家庭が平穏というのは、少し意外な感じも受けるが、上手に付き合うことが出来なければ、家庭生活も維持出来ない、ということなのだろう。

 

面白いのは、生まれ変わって結婚するとすれば、今の相手を選ぶか否かである。男性の半分以上は、同じ相手と結婚したいと考えているのに対し、女性は3分の1に止まっている。つまり、三人に二人は、相手を変えたいと思っているのだ。円満な関係を保ってはいるが、夫は自分の理想には遠いと感じている。

このアンケートでは、現在の生活を漢字一字に例えると、何になるかとも聞いているが、結婚5年未満の夫婦は「愛」、10年未満は「楽」が多かったのに対し、10年以上経った夫婦は「忍」である。

時間の経過とともに、お互いの嫌なところがはっきり見えてきて、上手に付き合うには、「我慢」することが大切になる。やはり、男性よりも、女性の方に「耐え忍ぶ」ことが多いのではないだろうか。

 

バイク呉服屋夫婦は、結婚して28年目。あと2年で、節目の30年を迎える。30年目の結婚記念日を、「真珠婚式」として祝う習慣があるようだが、とても私には、そんな高価な贈り物をする余裕はない。もし、どうしてもと言うのなら、志摩の海で「すもぐり」を敢行し、「あこや貝」を密漁する以外に、方法が無い。ほたて貝や赤貝なら、何とかなりそうだが、中にヒカリモノが入っているこの貝は、難しい。

家内に、私との結婚生活はどんなモノか聞いたところ、「玉音放送」と同じだと言う。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」という有名な一節を指しており、毎日艱難辛苦に耐え忍んでいる、と言いたいようだ。

 

そんな彼女の気分を少しでも紛らわせようと、仕事着用のキモノや帯を時々付与しているが、ほとんどが、倉庫の隅に転がっているモノや、店の棚で永眠しているモノである。これでは、生まれ変わっても今の相手と結婚したいと思うはずがない。

久しぶりにご紹介する女房の仕事着は、結婚する前に、自分の母親に作ってもらったキモノに、私がプレゼントした「店晒し品の染帯」を合わせたもの。このキモノは、現在あまり織られていない紬であり、こんなところにも30年という時の流れを感じる。

今日は、今となっては珍しいこの家内のキモノをご紹介しながら、合わせて、20代で作ったモノでも十分使えるという、その着姿もご覧頂くことにしよう。

 

(変わり花菱絣模様・村山大島紬  芥子色 紐に花束模様・塩瀬染名古屋帯)

昭和の頃には、年の暮れが近づくと、中学生くらいの女の子が使うキモノの注文をよく受けた。まだ、一般家庭にも、正月にはキモノを着る習慣が残っていた時代で、新年のお屠蘇の時や初詣、親戚などへの挨拶回りなどには、一家揃ってキモノを着用していた。

今、女の子が使うキモノと言えば、七歳祝着の後は、二十歳の振袖になってしまっている。その間に使うとすれば、十三参りをする子や習い事で着用している子は別にしても、せいぜい浴衣くらいであろう。つまり、初めて本格的に着用するキモノが、一番難しい振袖ということになり、より和装を馴染み難いものと感じさせている。

 

この、「中学生向きの正月キモノ」としてよく利用されたものが、ウールであった。当時の価格は、一反1万円以下とかなり求めやすく、その上裏地を付けずに仕立てるので、その分も安かった。もちろん毛織物なので暖かく、寒い季節で使うには真向きであり、後の手入れもドライクリーニングで簡単に済んだ。

ウールには、反物だけでなく、アンサンブル(キモノと羽織が作れるだけの要尺がある品物)も多かった。子どもたちは、同じ柄で対になったキモノと羽織を着て、新しい年を迎えたのである。

店の棚に一反だけ残っている、中学生に向きそうなウールの反物。こんな若々しい色の品物が、当時は好まれていた。ウールは、子どもモノばかりでなく、男性の普段着としてもよく使われており、やはり、共布でキモノと羽織が取れるアンサンブルが主で、紺や茶の無地モノが多い。

ウールの中でも、京都の「しょうざん」という会社が作ったものは、高級品として知られていた。絹と毛を混紡させた「シルクウール」は、毛特有のごわごわした着心地を解消し、そこに織り出される絣模様も、他では見られないような洗練されたデザインであった。

しょうざんという会社名は、松山さんという創業者の姓を音読みしたものだが、今はウールの生産から離れ、御召や紬などを少しだけ織っている。だが現在、この会社の主事業は織メーカーというより、リゾート業になっている。

しょうざんが初めてウールを作ったのが、1951(昭和26)年のこと。普段着として、どこの家庭でも重宝していた品物だけに、「しょうざんウール」は、売れに売れた。しょうざんでは、その利益を基にして、京都北部・鷹ヶ峰に広大な土地を購入し、豪勢な日本庭園を造った。

現在は、その庭園の中に料亭やホテルを設け、ブライダル事業や観光事業を展開している。いち早くキモノ需要の変化を察知して、業態転換に成功した、稀有なメーカーと言えようか。

 

話がすこし逸れてしまうが、古くからのウールの生産地として、よく知られていたのが、東京・八王子。最近の駅周辺の賑わいは、ルミネや高島屋が進出した立川と比べると、すこし寂しく感じられるが、以前は織物の町として栄えた、大変歴史のある土地である。

すでに平安末期には、豪族・小野義隆により横山(現在の八王子駅周辺)に庄が設置され、織物生産が奨励されていたという記録が残されているが、室町期に入って守護・大石定久が滝山城を築城し、城下町として発展するに従い、紬織物の生産が本格的に行われるようになった。

この紬は、「滝山紬」とか「横山紬」、あるいは「紬島」という名前で、売りに出され、各地に広まっていった。八王子は甲州街道の宿場町であり、交通の要所でもあったことから、近県から様々な織技術が伝わった。桐生や足利、信州の上田などから移住してきた職人により、袴地や縞モノなどの技法が次々ともたらされ、一大織物生産地として発展していったのである。

 

昭和30年代から織り始められたウールは、普段着としてのキモノ需要の流れに乗り、爆発的なヒット商品となった。この後、昭和40年代の終わり頃にかけての20年間が、八王子織物の最盛期である。当時の織屋は、「ガチャ万」と呼ばれ、花形業種(今で言うところの成長産業)であった。ガチャ万というのは、「ガチャっと織機を動かせば、万単位の儲けになる」という意味だ。

その後八王子の織物は、1980(昭和55)年、「多摩織」の名前で通産省から伝統工芸品に指定される。多摩織とは、多摩結城・多摩紬・風通織・変わり綴れ・捩織の五品目を指すが、現在ほとんど見ることが出来ない。わずかに、多摩紬が「沢井織物工場」という所で生産されているようだが、マフラーやショールといった雑貨類が主で、着尺反物は織られていない。

 

かなり余計な話が長くなってしまったが、今日ご紹介する「村山大島紬」も、ウール全盛時代の、昭和30~40年代に大変人気を得ていた品物である。生産地も、八王子にほど近い、東京西部の武蔵村山市や昭島市、瑞穂町など。

キモノを日常着としていた時代、多くの色と模様が揃い、価格も求めやすい品物。村山大島やウールには、同じ時代背景の中でに多くの人から支持された経緯がある。だから、ついぞウールの話を長々としてしまった。

 

家内の実家は、商家などではなく、ごく普通の一般的な家庭である。ただ、家内の母が、踊りや書道を嗜んでいた人なので、キモノも少しは持っていた。だから、自分の娘にも普段着の1,2枚は作ってやりたいと考えたのだろう。

この村山大島紬も、そんな中の一枚である。家内は、持ってきたこのキモノが、自分でもかなり地味に思えた(母親が勝手に用意したモノなので)ために、若い頃はほとんど着ていなかった。だが最近になって、箪笥から取り出したところ、今度は今の年齢で着用するには、すでに派手になっているような気がすると言う。つまりは、着用の機会を逸してしまったと考えたらしい。

バイク呉服屋からの、「ともあれ、とりあえず一度着てみたら」と言う、半分なげやりなアドバイスを聞いたために、今回の着用となった。それが、この画像である。

 

後姿から、絣模様を見たところ。様々な菱文を組み合わせて図案化したような、デザイン性の豊かな品物。

村山大島は、その名前の通り、奄美大島紬の技法を学び取った上で、作られた品物である。だが、それより以前に、もともとこの土地に根付いていた織物の二つの技術が、品物の中に生かされている。

一つは、この地域で江戸期から織り出されている、独特な絣である。どのような経緯で、この技法が根付いたかということには、幾つかの説があるようだ。

そのうちの一つを、お話してみよう。江戸の文化年間、当時の村山郷芋窪石川(現在の村山貯水池あたり)に在があった、荒川五郎兵衛の妻・シモが、自家用の盲縞・めくらじま(無地にしか見えないほどの細縞を指す)木綿を織っていた。その時、所々を括って染めて織ったところ、偶然面白い絣模様が出来た。これを聞き知った近在の僧侶が、自分が持っていた大和絣の見本をシモに渡して、様々な絣作りに向かわせたのである。

そうして出来上がったのが、「村山紺絣」。この絣は主に所沢あたりで売られたために、別名「所沢飛白(かすり)」とも呼ばれる。白く飛んだように見える絣を見て、「飛白」と書いたのが何とも面白い。

 

もう一つの裏づけとなっているのが、江戸初期からこの村山近在で織られていた、「砂川太織(すながわふとおり)」。砂川とは、現在の立川市砂川町のことで、自衛隊の駐屯地があることで知られている。昨年の憲法論議で取りざたされた「砂川裁判」とは、この土地を指している。

砂川は、立川市の北部で、武蔵村山市とは境を接する。ここで織られていたのが、農家の自家用として使われていた玉繭の繰糸=玉糸を使った絹織物。玉繭とは、二頭(二匹)以上の蚕によって作られた繭のことだが、その形はいびつで、糸が複雑に重なり合うため、通常の繭のように引きだすことが出来ない。要するに、規格外のモノ=くず繭なのである。

玉繭から繰り出される糸を、玉糸というが、やはり通常の糸と違い、硬くて節が多い。しかも、その太さがまちまちである。「太織」と名付けられたのは、この太い玉糸を使った織物だからであろう。

 

菱模様を拡大してみた。「村山紺絣」と「砂川太織」の技術を基礎とし、そこに奄美大島紬の良さを取り入れた。この村山大島が出来上がったのが、1919(大正8)年のこと。わざわざ「大島」の名前を入れたところに、本家・奄美を意識したことが伺える。

上の画像で判るように、この絣は緯総絣である。奄美と大きく異なるのは、絣が手括りによるものでなく、板締めで作られるということ。この技法は、まず、板にデザインを彫って糸を巻き、その板と板を挟んだところに染料を注ぐ。こうすると、板の凸面と凹面に染料が入らず、白く抜けて絣糸が出来る。後から白い部分には、色がすりこまれ、それが鮮やかな色絣となって表れる。

板締技法は、絣の模様を自由にデザインすることがたやすく、手括りに比べれば、手間がかからない。模様の多様性こそが、村山大島最大の特徴とも言えるだろう。そして、この簡略化した技法を用いることは、価格を抑えることにも繋がる。村山大島の値段は、奄美の数分の一であり、だからこそ、ウールと並び立つ庶民の普段着として、一般大衆に普及したのだ。

 

所々に配された菊花菱の臙脂色が、アクセントになっている。赤系ではあるが、着姿全体からは、それほど派手な印象を受けない。むしろこの色が付いていなければ、このキモノにはかなり地味な印象を持つだろう。

二十歳前後で着用するならば、かなり地味な紬だが、五十代で着用しても違和感は無い。もともと普段着なので、どんな色・模様を着用しようとも使う人の自由である。使っている帯〆、帯揚げも、絣の赤紫系を意識して合わせた色。

 

帯の後姿。この芥子色の染帯は、長いこと店の棚で眠り続け、冬眠ならぬ永眠しかかっていた品物。模様は、牡丹を意識したような花を、紐で束ねたもので、取り立てて特徴のある図案ではない。地色の芥子色も、キモノ合わせを考えれば、そう難しい色とも思えない。

型モノなので、価格も安く、ここまで売れ残る理由が見当たらない。要するに、平凡すぎてツマラナイということになろうか。ただ、こうした泥系の暗い地色のキモノに使うと、帯地の芥子色は生きてくるように思える。家内の年齢からすれば、すこしお太鼓の柄が華やか過ぎるようだが、もともと地味なモノが似合わない人なので、これで良いのだろう。

 

20代で作った品物を、50代で使う。こんな芸当が出来るのは、キモノだけである。少し派手に思えるモノでも、着用すると、案外大丈夫なものだ。帯や小物を一工夫することでも、随分印象が変わる。

皆様も、若い頃着ていたお気に入りの品物があれば、ぜひもう一度お試しあれ。

 

ウールや村山大島の話をしていたら、かなり長くなってしまいました。うちの奥さんは、あまりに長すぎる稿だと、途中で読むのが嫌になるそうです。ほとんどが「斜め読み」のような状態ですね。

私としても、特段、彼女の読後感想を期待するようなことは無いので、これはこれで良いと思います。うちの夫婦円満の秘訣のひとつが、毎日の生活の中で、お互いのことを干渉しないということでしょう。

おそらく、家内の方は、干渉しないのではなく、理解不能ということかも知れません。どうせ私は、玉繭のような「規格外」の夫なので。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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