1904(明治37)年生まれの、私の祖母(母方)は、東京の大妻高等女学校(現在の大妻女子大学)に通っていた。この当時、高等小学校から、女学校に進学する女子は、全体でも5%ほどである。まして、山梨の田舎(一宮町)から、東京の女学校へ行くことなど稀なことで、祖母の両親が「教育」というものに、相当な理解があったと思われる。
祖母は、神楽坂の上にある「矢来町」というところに下宿していた。当時「麹町」にあった大妻まで、神楽坂をくだり飯田橋へ出て、歩いて通っていた。今から8年前の2006(平成18)年、102歳の天寿を全うしたのだが、生前若き日に暮らした東京の思い出をよく話してくれた。
当時流行した、「矢絣お召のキモノ」と「袴」姿で通学したこと。学校へ行く途中で、「与謝野鉄幹・晶子」夫妻とよく出会ったことなどが、話の印象として残っている。調べてみると「与謝野夫妻」は、大正4~12年頃まで、麹町の隣町「富士見町」(現在の東京逓信病院の辺り)に居を構えていて、おそらく、祖母は「飯田橋」辺りでその姿を見掛けたと想像がつく。
時は、「大正デモクラシー」が叫ばれ、「個人の解放」や「民主主義」に人々が目覚め始めた、「新しい時代」の幕開けとも呼べる頃。前回のブログは「祖父の使った道具・反箱」についてお話したが、今日は、「祖母が青春時代に着ていた・矢絣」についてお話をしてみたい。
(茜色・矢絣(矢羽)文様 西陣お召)
矢羽のモチーフは、もちろん「和弓の矢の羽」から取られたものである。「狩猟用」などで使う時の「羽」の数は三枚。矢の先に取り付けた鏃の回転力が増すことと、飛ぶ方向が安定するからである。文様として使われている「二枚羽の矢」は、どちらかといえば、儀礼的なものに用いられたとされる。
神社で売られている「破魔矢」を見ればよくわかるが、これは「家内安全」を祈願する祭具の一つと考えられ、「厄除け」の縁起物という扱いになっている。
「矢羽」の「羽」は、鷹や鷲など「獰猛」な鳥の羽ほど、「武士」の間で人気が高く、「最上の贈り物」とされてきた。ということで、最初この文様は、どちらかと言えば、「男性的」なものであったような気がする。
これが、江戸期に入ると、「矢」というものが持つ「特徴」がクローズアップされ、「矢は戻らない」=「出戻らない」として、嫁ぐ時に娘に持たせるキモノの「文様」として、人気を呼ぶ。もちろん、「厄除け」として縁起の良い文様だったせいもあろう。そして、その頃から「未婚女性」を象徴する文様の一つともなっていく。
(「矢」の方向は、二列ずつ互い違いに付けられていることが多い)
画像をご覧いただければわかるように、「矢の先端」の部分がずれたようにかすれている。これが「絣」の特徴で、所々くくられて防染された糸が織られた時、文様が少しずれることによって生じるのがこの「かすれ」である。
「矢絣」は経糸を均等な間隔で染めた後、織る時に規則的にずらすことによって、「縞」のような「矢文様」にすることが出来る。「絣」は江戸時代の半ば以降から広まった技法なのだが、古くは「太子間道」や「広東錦」のような渡来による「絣」が見られた。(参考・昨年11・6「太子間道と七曜太子」の稿)
絣技術の源流は、インドにあり、東南アジアでは「イカット」と呼ばれているものが、琉球経由で日本に伝わったものである。(参考・昨年8・2「ティジマ琉球絣」の稿)
さて、この生地に使われている「お召」というものについても、少し触れておこう。
「お召」の正式名称は「御召縮緬(ちりめん)」。通常の「ちりめん」と同じように、独特の「シボ」感と風合いのある平織生地である。
但し、「ちりめん」と違う「工程」と「糸」が使われている。それは、御召というものが、「先練り」の織物であることだ。一般のちりめん生地の場合、織り上げた後に「セリシン」を落とすのだが、御召は、糸の段階で糸練り(精錬)される。
「セリシン」というのは、繭が絹になる時の「フィブロイン」という物質を取り囲む「たんぱく質」の一種で、繭の天然成分である。「絹」の滑らかさの原因は、この「セリシン」によるところが大きい。
御召の場合、この「セリシン」が糸の段階で落とされてしまうために、ちりめんよりも硬い織上がりとなり、しっかりとしたコシの強い生地となる。
もう一つの違い、「糸」に関することであるが、「御召」では、緯糸に3000回転以上の「撚り」をかけた「御召緯」という「強撚糸」が使われている。そして、均等に織り上げるために、「右撚り」と「左撚り」の二種類の撚糸が、交互に緯糸に織り込まれる。
生地になった後、最後に、糸の段階で付けられた「糊」が湯の中で「手もみ」しながら落とされると、生地の幅が狭まり、独特の「シボ」が生み出される。そして、「御召独特」のしっとりとした風合いとなる。
「御召」は、「ちりめん」のように「垂れる」ことがなく、生地がしっかりしてコシが強いことから、裾がさばきやすく、着崩れにくい特徴があり、武家の者に大変重宝にされた。江戸期になり、11代将軍家斉がこの生地を愛用したことで、「将軍の御召物」=「お召」の名が付いたのである。
(矢絣お召と茄子紺色のウール無地行灯女袴)
「大和和紀」さんの漫画、「はいからさんが通る」の中で描かれた、「大正時代の女学生の通学スタイル」。髪型は、束ね髪かお下げ髪にリボン、そして「編み上げブーツ」で自転車を漕いでいるという姿である。
この「大正女学生スタイル」というものが、一体いつごろから流行りだしたのだろうか。すこし考えてみよう。
「女学校」というものが初めて作られたのが、1870(明治3)年のこと。築地の六番女学校(現在の女子学院)と横浜のフェリス女学校が創立されたのだが、いずれも「外国人居留地」の「キリスト教宣教師」が建てた学校であった。翌1871(明治4)年には、竹橋に最初の官立女学校が作られるが、この頃の授業の中心となっていたのは、「洋学」が中心であり、西洋の言語や文化を学ぶことに重きがおかれていた。
当時の女学生は、「着流し」では、椅子に座る時にキモノの裾が乱れるという理由から、「男袴」が着用されていた。だが、「男袴」の構造が「馬乗り」になっているため、「用をたす時(トイレ)」などには、非常に不便で扱いにくいものだったと考えられる。
1883(明治16)年になると、当時の文部省から、「女子の男袴着用」を禁じる通達が出される。時は、「鹿鳴館時代」華やかなりし頃、世間は「欧化主義」の名の下、様々な西欧文化が取り入れられた時代であった。そして文部大臣の森有礼により、「洋装」が提唱され、華族女学校(今の学習院女子高等科)などの女学生には、「洋服」が義務づけられたのである。
1890(明治23)年に、「教育勅語」が発布される頃になると、「欧化主義」はすっかり影をひそめ、「洋服」から再び「和装」へと女学生の服装が戻る。そんな時に、袴姿が普及する契機となる、「女袴」が生み出された。それは、先年「洋服着用」が義務付けられていた「華族女学校」からである。
1886(明治19)年、華族女学校の「学監」として校務を司っていた下田歌子により考案された「海老茶色の行灯袴」は、「襠(まち)」のない「行灯(あんどん)袴」で、「スカート」のようになっているため、「トイレの不自由さ」を感ずることもなく、また「腰板」がなかったので、大変動きやすいものだった。
下田歌子が、以前は「宮中の女官」だったことから、この袴が、「宮中で使われていたもの」を参考にして、作られたと思われる。「袴の色」を「海老茶色」としたのも、宮中内独身女性が身に付けている色が、この色だったからである。
この袴は、以後、他の女学校にも急速に普及し、「海老茶色」の袴をはいた女学生達が、「海老茶式部」と呼ばれるようになった。「華族女学校」が使っていた袴の素材は、「ウール」ではなく、「カシミヤ」だったようで、今考えても、大変贅沢なものだったことがわかる。
この袴が「通学服」として使われることが、「矢羽」のキモノの流行へと繋がった。当時すでに「矢絣」は「未婚女性」にふさわしい文様として認識されており、「海老茶袴と矢絣」の組み合わせは、いかにも「女学生」らしく、清新で、若々しい姿と映ったのである。また、「髪型」も、それまでの「島田髪」などの「結髪」から、西洋風の「束髪」に変わり、「髪をリボンで結んだ姿」などが見受けられるようになっていった。
こうして、「女学生の通学服」として定着した「袴姿」だったが、1920(大正9)年、京都の平安女学院や山脇女学校などで初めて採用された「セーラー服」の出現により、急速に消えていくことになる。特に1923(大正12)年に起こった関東大震災以降、「昭和」の時代になるとほとんど見られなくなった。
「大正女学生スタイル」は、明治40年あたりから、大正10年あたりまでの、わずか15年の間に使われたものである。考えてみれば、日露戦争が終わり、関東大震災が起こるまでのこの時代は、「つかの間の平和」とも呼べる時代であった。「昭和」以後は、「日本帝国主義」の急激な伸長により、「暗い時代」へと流れてゆく。
「大正」という時代が、新しい文化や人の生き方(特に女性の地位向上に目が向けられたこと)が社会に息づき始めたことや、西洋の「浪漫主義」の影響を受けた「モダニズム」が浸透したことなどがあいまって、この時代に対する「ノスタルジー」を100年たった今も感じるのであろう。
この「スタイル」が、「大学の卒業式」の定番として、「現代の女学生」に受けつながれているのは、「大正モダニズム」が息づいている証とも言えよう。
最後に、「矢絣」を「リフォーム」したものをお目にかけよう。
先日、依頼された古い「矢絣お召」の再生。最初の「茜色」の反物と比べ、大胆な「矢絣」が付いている。「紫地」は「矢絣お召」の「定番」とも言う色であり、「時代劇」などで御殿女中の衣装として使われるのをよく見かける。
キモノにするには「丈」が足りなかったので、「へちま衿」の長い道行コートに作り直してみた。「大胆な矢絣」は「コート」にすればまたキモノと違った表情を見せる。
今日は、「大正の女学生」の衣装ということで、話を進めてみた。この時代の女性の「袴姿」は、「学生」ばかりではなく、「職業婦人」にも多く見られた。特に、当時の教師の服装として定着しており、現代でも「卒業式」に女性教師が「袴姿」で参列するのは、この頃の名残りである。
また、「袴の名残」は、現代の制服の「構造」にも見ることが出来、特に「スカート」につけられている「ひだ」は、「袴に付いているひだ」を連想させてくれる。
ともあれ、「女学校」に通えるような「女性」が本当に少なかったこの時代、「矢絣お召と行灯袴」でさっそうと通学していた彼女らのことが、人々からは輝いて見えたに違いない。
私の祖母は、大妻女学校を卒業後、「内務省の官僚」だった祖父と結婚します。どこでどのように知り合ったのか、わかりませんが、「大正浪漫主義」が台頭したこの時代は、「自由恋愛」が始まった頃ともされています。
どんな「ロマンス」があったのか、聞いておけばよかったと、今になって思います。おそらく、現代では予想も付かないような「ドラマ」があって、「結ばれた」のではないか、それこそ「大正時代の浪漫」を感じさせてくれる出会いだったのではないかと、想像させられます。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。