バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

大正女学生浪漫 矢絣お召と行灯袴

2014.10 15

1904(明治37)年生まれの、私の祖母(母方)は、東京の大妻高等女学校(現在の大妻女子大学)に通っていた。この当時、高等小学校から、女学校に進学する女子は、全体でも5%ほどである。まして、山梨の田舎(一宮町)から、東京の女学校へ行くことなど稀なことで、祖母の両親が「教育」というものに、相当な理解があったと思われる。

祖母は、神楽坂の上にある「矢来町」というところに下宿していた。当時「麹町」にあった大妻まで、神楽坂をくだり飯田橋へ出て、歩いて通っていた。今から8年前の2006(平成18)年、102歳の天寿を全うしたのだが、生前若き日に暮らした東京の思い出をよく話してくれた。

当時流行した、「矢絣お召のキモノ」と「袴」姿で通学したこと。学校へ行く途中で、「与謝野鉄幹・晶子」夫妻とよく出会ったことなどが、話の印象として残っている。調べてみると「与謝野夫妻」は、大正4~12年頃まで、麹町の隣町「富士見町」(現在の東京逓信病院の辺り)に居を構えていて、おそらく、祖母は「飯田橋」辺りでその姿を見掛けたと想像がつく。

時は、「大正デモクラシー」が叫ばれ、「個人の解放」や「民主主義」に人々が目覚め始めた、「新しい時代」の幕開けとも呼べる頃。前回のブログは「祖父の使った道具・反箱」についてお話したが、今日は、「祖母が青春時代に着ていた・矢絣」についてお話をしてみたい。

 

(茜色・矢絣(矢羽)文様 西陣お召)

矢羽のモチーフは、もちろん「和弓の矢の羽」から取られたものである。「狩猟用」などで使う時の「羽」の数は三枚。矢の先に取り付けた鏃の回転力が増すことと、飛ぶ方向が安定するからである。文様として使われている「二枚羽の矢」は、どちらかといえば、儀礼的なものに用いられたとされる。

神社で売られている「破魔矢」を見ればよくわかるが、これは「家内安全」を祈願する祭具の一つと考えられ、「厄除け」の縁起物という扱いになっている。

「矢羽」の「羽」は、鷹や鷲など「獰猛」な鳥の羽ほど、「武士」の間で人気が高く、「最上の贈り物」とされてきた。ということで、最初この文様は、どちらかと言えば、「男性的」なものであったような気がする。

これが、江戸期に入ると、「矢」というものが持つ「特徴」がクローズアップされ、「矢は戻らない」=「出戻らない」として、嫁ぐ時に娘に持たせるキモノの「文様」として、人気を呼ぶ。もちろん、「厄除け」として縁起の良い文様だったせいもあろう。そして、その頃から「未婚女性」を象徴する文様の一つともなっていく。

 

(「矢」の方向は、二列ずつ互い違いに付けられていることが多い)

画像をご覧いただければわかるように、「矢の先端」の部分がずれたようにかすれている。これが「絣」の特徴で、所々くくられて防染された糸が織られた時、文様が少しずれることによって生じるのがこの「かすれ」である。

「矢絣」は経糸を均等な間隔で染めた後、織る時に規則的にずらすことによって、「縞」のような「矢文様」にすることが出来る。「絣」は江戸時代の半ば以降から広まった技法なのだが、古くは「太子間道」や「広東錦」のような渡来による「絣」が見られた。(参考・昨年11・6「太子間道と七曜太子」の稿)

絣技術の源流は、インドにあり、東南アジアでは「イカット」と呼ばれているものが、琉球経由で日本に伝わったものである。(参考・昨年8・2「ティジマ琉球絣」の稿)

 

さて、この生地に使われている「お召」というものについても、少し触れておこう。

「お召」の正式名称は「御召縮緬(ちりめん)」。通常の「ちりめん」と同じように、独特の「シボ」感と風合いのある平織生地である。

但し、「ちりめん」と違う「工程」と「糸」が使われている。それは、御召というものが、「先練り」の織物であることだ。一般のちりめん生地の場合、織り上げた後に「セリシン」を落とすのだが、御召は、糸の段階で糸練り(精錬)される。

「セリシン」というのは、繭が絹になる時の「フィブロイン」という物質を取り囲む「たんぱく質」の一種で、繭の天然成分である。「絹」の滑らかさの原因は、この「セリシン」によるところが大きい。

御召の場合、この「セリシン」が糸の段階で落とされてしまうために、ちりめんよりも硬い織上がりとなり、しっかりとしたコシの強い生地となる。

もう一つの違い、「糸」に関することであるが、「御召」では、緯糸に3000回転以上の「撚り」をかけた「御召緯」という「強撚糸」が使われている。そして、均等に織り上げるために、「右撚り」と「左撚り」の二種類の撚糸が、交互に緯糸に織り込まれる。

生地になった後、最後に、糸の段階で付けられた「糊」が湯の中で「手もみ」しながら落とされると、生地の幅が狭まり、独特の「シボ」が生み出される。そして、「御召独特」のしっとりとした風合いとなる。

「御召」は、「ちりめん」のように「垂れる」ことがなく、生地がしっかりしてコシが強いことから、裾がさばきやすく、着崩れにくい特徴があり、武家の者に大変重宝にされた。江戸期になり、11代将軍家斉がこの生地を愛用したことで、「将軍の御召物」=「お召」の名が付いたのである。

 

(矢絣お召と茄子紺色のウール無地行灯女袴)

「大和和紀」さんの漫画、「はいからさんが通る」の中で描かれた、「大正時代の女学生の通学スタイル」。髪型は、束ね髪かお下げ髪にリボン、そして「編み上げブーツ」で自転車を漕いでいるという姿である。

この「大正女学生スタイル」というものが、一体いつごろから流行りだしたのだろうか。すこし考えてみよう。

「女学校」というものが初めて作られたのが、1870(明治3)年のこと。築地の六番女学校(現在の女子学院)と横浜のフェリス女学校が創立されたのだが、いずれも「外国人居留地」の「キリスト教宣教師」が建てた学校であった。翌1871(明治4)年には、竹橋に最初の官立女学校が作られるが、この頃の授業の中心となっていたのは、「洋学」が中心であり、西洋の言語や文化を学ぶことに重きがおかれていた。

当時の女学生は、「着流し」では、椅子に座る時にキモノの裾が乱れるという理由から、「男袴」が着用されていた。だが、「男袴」の構造が「馬乗り」になっているため、「用をたす時(トイレ)」などには、非常に不便で扱いにくいものだったと考えられる。

 

1883(明治16)年になると、当時の文部省から、「女子の男袴着用」を禁じる通達が出される。時は、「鹿鳴館時代」華やかなりし頃、世間は「欧化主義」の名の下、様々な西欧文化が取り入れられた時代であった。そして文部大臣の森有礼により、「洋装」が提唱され、華族女学校(今の学習院女子高等科)などの女学生には、「洋服」が義務づけられたのである。

1890(明治23)年に、「教育勅語」が発布される頃になると、「欧化主義」はすっかり影をひそめ、「洋服」から再び「和装」へと女学生の服装が戻る。そんな時に、袴姿が普及する契機となる、「女袴」が生み出された。それは、先年「洋服着用」が義務付けられていた「華族女学校」からである。

 

1886(明治19)年、華族女学校の「学監」として校務を司っていた下田歌子により考案された「海老茶色の行灯袴」は、「襠(まち)」のない「行灯(あんどん)袴」で、「スカート」のようになっているため、「トイレの不自由さ」を感ずることもなく、また「腰板」がなかったので、大変動きやすいものだった。

下田歌子が、以前は「宮中の女官」だったことから、この袴が、「宮中で使われていたもの」を参考にして、作られたと思われる。「袴の色」を「海老茶色」としたのも、宮中内独身女性が身に付けている色が、この色だったからである。

この袴は、以後、他の女学校にも急速に普及し、「海老茶色」の袴をはいた女学生達が、「海老茶式部」と呼ばれるようになった。「華族女学校」が使っていた袴の素材は、「ウール」ではなく、「カシミヤ」だったようで、今考えても、大変贅沢なものだったことがわかる。

この袴が「通学服」として使われることが、「矢羽」のキモノの流行へと繋がった。当時すでに「矢絣」は「未婚女性」にふさわしい文様として認識されており、「海老茶袴と矢絣」の組み合わせは、いかにも「女学生」らしく、清新で、若々しい姿と映ったのである。また、「髪型」も、それまでの「島田髪」などの「結髪」から、西洋風の「束髪」に変わり、「髪をリボンで結んだ姿」などが見受けられるようになっていった。

こうして、「女学生の通学服」として定着した「袴姿」だったが、1920(大正9)年、京都の平安女学院や山脇女学校などで初めて採用された「セーラー服」の出現により、急速に消えていくことになる。特に1923(大正12)年に起こった関東大震災以降、「昭和」の時代になるとほとんど見られなくなった。

 

「大正女学生スタイル」は、明治40年あたりから、大正10年あたりまでの、わずか15年の間に使われたものである。考えてみれば、日露戦争が終わり、関東大震災が起こるまでのこの時代は、「つかの間の平和」とも呼べる時代であった。「昭和」以後は、「日本帝国主義」の急激な伸長により、「暗い時代」へと流れてゆく。

「大正」という時代が、新しい文化や人の生き方(特に女性の地位向上に目が向けられたこと)が社会に息づき始めたことや、西洋の「浪漫主義」の影響を受けた「モダニズム」が浸透したことなどがあいまって、この時代に対する「ノスタルジー」を100年たった今も感じるのであろう。

この「スタイル」が、「大学の卒業式」の定番として、「現代の女学生」に受けつながれているのは、「大正モダニズム」が息づいている証とも言えよう。

 

最後に、「矢絣」を「リフォーム」したものをお目にかけよう。

先日、依頼された古い「矢絣お召」の再生。最初の「茜色」の反物と比べ、大胆な「矢絣」が付いている。「紫地」は「矢絣お召」の「定番」とも言う色であり、「時代劇」などで御殿女中の衣装として使われるのをよく見かける。

キモノにするには「丈」が足りなかったので、「へちま衿」の長い道行コートに作り直してみた。「大胆な矢絣」は「コート」にすればまたキモノと違った表情を見せる。

 

今日は、「大正の女学生」の衣装ということで、話を進めてみた。この時代の女性の「袴姿」は、「学生」ばかりではなく、「職業婦人」にも多く見られた。特に、当時の教師の服装として定着しており、現代でも「卒業式」に女性教師が「袴姿」で参列するのは、この頃の名残りである。

また、「袴の名残」は、現代の制服の「構造」にも見ることが出来、特に「スカート」につけられている「ひだ」は、「袴に付いているひだ」を連想させてくれる。

ともあれ、「女学校」に通えるような「女性」が本当に少なかったこの時代、「矢絣お召と行灯袴」でさっそうと通学していた彼女らのことが、人々からは輝いて見えたに違いない。

 

私の祖母は、大妻女学校を卒業後、「内務省の官僚」だった祖父と結婚します。どこでどのように知り合ったのか、わかりませんが、「大正浪漫主義」が台頭したこの時代は、「自由恋愛」が始まった頃ともされています。

どんな「ロマンス」があったのか、聞いておけばよかったと、今になって思います。おそらく、現代では予想も付かないような「ドラマ」があって、「結ばれた」のではないか、それこそ「大正時代の浪漫」を感じさせてくれる出会いだったのではないかと、想像させられます。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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